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Regina  作者: 甲斐桂
夜話1 月の少年 月の少女
1/10

前編

お断り: 扱う題材と一部描写の関係で、念のためR15に指定しています。ほとんど描写はありませんので、そちらに期待される方はご注意ください。

 淡い紫色の衣と銀の装飾品に身を包み、重力を無視しているかのように舞う少女が、今日こんにちのアン=リエ舞踊団一番の花にして、彼らが数ある舞踊団の中でも最人気を誇る理由であった。

 この日は、メーヴェ帝国帝都エトルリアにある、エトルリア中央広場で公演を開いていた。公演が始まると、まず群舞があり、次に単独で舞うことを許された踊子たちが登場する。それらが終わったあとで、一番人気の踊子――クラウディナという名の十七歳の少女が登場するのである。

 彼女が現れたとたんに、観客は沸き、立ちあがってその名を叫ぶ。声援に応えることなく、クラウディナは沈黙して伴奏の開始を待つ。そして、笛や琵琶の音が観客を静めたころ、彼女は足を踏みだし、軽やかに舞いあがる。淡い紫色の薄絹の衣が、まるで羽のようである。

 飛びあがりつつ、少女はかすかな笑みを浮かべた。彼女がまとう衣より深い紫の瞳で微笑むとき、魅了される観客は少なくない。

 しかし、その舞台の袖で、クラウディナに魅了されたわけでもなしに、彼女を凝視している少女がいた。

 ――狂ってる。メーヴェは狂ってる。

 こんなのって、狂ってる。あたしは認めない。メーヴェの法になんか従わない。従いたくない。クラウディナもそう思ってるはずよ、なのに、なんであんなに美しいの? とても「男」だなんて思えないほどに。

 おかしいわよ、絶対おかしい。あたしは絶対認めないわ、クラウディナが《女》だなんて。……

 少女は、考えているうちに目頭が熱くなるのを感じた。

 いつものことだ。クラウディナの、本物の「女」以上に美しい舞を見るたび、こんなふうに頭のなかだけでメーヴェの法を批判し、どうせどうにもならないと気づいて、悔しさや怒りで泣けてくるのは。

 少女はその場でしゃがみこんだ。伴奏がやみ、観客の興奮じみた拍手と歓声とが響く。淡い紫の衣の美しい人は、もういちど微笑んで頭を下げると、鳴りやまぬ拍手にも興味のない様子で、さっさと舞台袖に引っこんだ。

 その人の目に最初に止まったのは、そこで伏している少女であった。あわてて、少女に駆け寄っていく。少女も、拍手が急に収まったことで、舞台の主役が帰ったのを知り、泣いた顔をあげた。

「リュン=リエ! また泣いてるの?」

 その女らしい容姿にあるまじき低い声で、美貌の踊子は少女に話しかけてくる。泣いている少女のぼやけた視界でも、その人の美しさはわかった。長く柔らかい銀の髪、深い紫の――すみれ色の――瞳、白磁の肌。

「きれいよ、クラウディナ」

 かけられた言葉を無視し、思ったことを率直に口にする少女――リュン=リエ――であった。「スラムで育ったとは思えないわ、その肌の色。昔、お母さんが話してくれた、お伽話に出てくるお姫様の肌に、きっと似てる」

「ありがとう、リュン=リエ。……うれしくはないけどね」

 舞台上の微笑みとはちがう、苦笑めいた笑顔をつくって、クラウディナは答えた。リュン=リエははっとして、

「! ごめんなさい」

 と、謝る。リュン=リエは公演のたび、クラウディナの美しさを目の当たりにするたびに、自分が泣いた回数と同じだけクラウディナに皮肉をいってしまっている。いや、クラウディナにとっては皮肉でも、リュン=リエは讃辞を述べただけなのであるが。クラウディナが《女》としての美しさを讃えられることを嫌悪しているのを知りながら、彼を見ると口が勝手に動く。

「いいよ」

 そう言ってクラウディナはリュン=リエの頭をなで、

「着替えてくる」

 とりすました顔になり、行ってしまった。

 リュン=リエに残ったのは罪悪感だ。そう、彼だって望んでこんな身になったわけでは、望んであのような容貌に生まれてきたわけではないのだから。リュン=リエも、それがわかっていないでもない。焦茶の髪を指先でもてあそび、少女は立ち尽くす。

 このメーヴェ帝国のあるパンドロソス大陸には、いつ何時から存在したのか、いったい誰が取り決めたのか知れないが、異常と言い切っても過言ではない「狂った」法が存在した。それは、端的にいってしまえば「男」が《女》に、「女」が《男》に、法的になりうることである。

 当時、社会的に《男》《女》という性を認められるためには、ある儀式を受けなければならなかった。《男》になるためのそれを、《元服の儀》といった。一般的に十二歳前後でその儀式を受ける場合が多く、それを経て初めて《男》と認められる。儀式といっても、足に太陽の焼き印を押す、それだけのことである。それ以外に厳密な作法はない。また、《女》になるためのそれを、《成人の儀》といった。《男》の場合と同様に、十二歳前後で儀式を受けることが多く、こちらは手の甲もしくは腕に月の焼き印を押す。

 いずれかの儀式を受けるまでは、社会的な性別が定まらない。よって、儀式を受ける前の幼児の社会的性別は《中性》である。性別が社会的に明瞭でないと結婚も成立しないし、もっぱら《男性》にしか許されない職業や、《女性》しか就けない職業もあるので、その齢に達すれば儀式を受けねばならないことは常識であった。

 さて、件の「狂った」法は、これら《元服の儀》《成人の儀》に関係する。

 たとえば、《男性》だけに許された職業の筆頭に軍人がある。ある軍人の家庭に、後継となる子息が生まれず、代わりに娘がいた場合、娘は本来なら《成人の儀》を受けて軍人や官僚に嫁すのが一般的であるが、後継がいないとなれば話は変わってくる。娘は強制的に《元服の儀》を受けさせられ、法的《男》として軍務につき、その家の後継に据えられることとなる。

 さらに逆の例えとして、スラムに貧しい少年がいたとする。彼の両親はとうの昔に他界し、彼が日々の糧を得るにも苦心するほど困窮した境遇にあって、彼が容姿に恵まれていた場合、彼は迷わず、てっとりばやく収入の見込める娼婦の職を選ぶため、《成人の儀》を受けて法的《女》となることであろう。男色は法で罪とされたため、娼婦という職はあっても、男娼という職はなかった。

 このように、「狂った」法とは、焼き印ひとつで生来の性別とは逆の性別を得られることであった。

 もちろん問題はある。それは、焼き印は一生消えないものであることだ。いずれかの儀式をすませて性別を明瞭にしたあと、戸籍を更新する必要があるのだが、それはひとり一度のみと定められている。つまり、一度これと決めた性別は変更できない。もっとも、戸籍係の役人を抱きこんで秘密裏に焼き印を重ね、再び戸籍を更新する場合も皆無ではないが、それはごく一部の特権階級に許された例外である。

 そのころ、そんな混乱を招く逆《元服の儀》《成人の儀》はかなり頻繁に行われていた。前述した二つの例がもっとも多く、その他にも人の数だけ事情がある。そうして、生来の性別とは逆の性別になってしまった者の数は、メーヴェ内だけでも万に達するといわれている。

 数の多さゆえに、人々は徐々にその異常さに疎くなっていく。それこそが正しい法であると思うようになる。そして、《女》である「男」も《男》である「女」も、すでに社会になじんでいた。当人たちには少なからず葛藤もあるのだろうが、それは通常どおりの儀式を受けた「ふつうの」人々にとって不可触の問題であった。

 クラウディナは後者の例である。貧民街に生まれ落ち、幼いころ両親を亡くして親なし子となった。その美しさから、アン=リエ舞踊団に拾われる。一般に、舞踊団の踊子というのは踊りも踊るが同時に娼婦も兼ねており、舞踊団というものは、踊子達が娼婦として客に買われた際の収入と、公演時の収入で成り立っている。男娼は禁じられているため、踊子という職業は《女》でなければならない。

 そこで、クラウディナは十三歳のとき、アン=リエ舞踊団の団長にしてリュン=リエの母であるアン=リエに勧められ、その腕に月の焼き印を押した。

 自分を拾ってくれた恩人に逆らうわけにはいかなかったし、そうして娼婦になれば、いやな思いはしても生きるに困ることはないだろうと思った、とクラウディナはリュン=リエに語ったことがある。

 彼は好きで《女》になり、美しい《女》としてもてはやされているのではないのだ。いわば、生きる術。

 そして現在、彼は自分の腕の月を呪っていた。なぜなら彼は今、生まれて初めて生物学的に「男」に生まれた証ともいえる感情のなかにあったからである。

 彼は舞台に立つべく分厚く塗りたくった化粧を洗い落としてから、鏡の前に立って自分の姿を見た。

 女々しい顔だ。

 ……リュン=リエよりも。

 自分で見ても、女にしか見えない――と、彼はいらだちつつ思う。それから衣を脱ぎ捨てて、楽屋を出た。少年らしい軽装で、豊かな銀髪を紐で縛って。

 外には、彼に魅了された人々が集っている。彼らはクラウディナが少年であることを知っており、紫眼と銀髪が彼の何よりの特徴だったので、ひと目で彼と気づいて寄ってきた。そして花やら何やら贈り物を渡して去っていった。

 ひとり、集団に入り損ねたのか、ぽつんと花を持ってやってくる少女がいる。焦茶の髪を頭の上の方で二つに結わえている少女。近づいてみると、まさにリュン=リエであった。さっき泣いた顔には見えない、晴れやかな顔。

 笑みを浮かべて、クラウディナに花を差しだす。名前を呼びかけようとしたクラウディナを遮り、目を細めて、

「クラウディナ、さっきはごめんね。八つ当たりして」

 と言い、ひと呼吸ついてから、

「女として嫉妬したんだわ。あんまり、……きれいだから」

 と、花を彼に押しつけて走り去った。

 少女の皮肉にしばし傷つき、呆然と立っていたクラウディナだったが、すぐに傷ついた思いは腹立たしさに変わり、今日こそはひと言いってやろうと思いたって、花を手に持ったまま、彼女の行く方向に駆けていった。

 重力を無視しているかのように舞うことからもわかるが、彼の運動神経は並の人のそれとは比べものにならないほど優れている。一方のリュン=リエは、舞踊団団長の娘として生まれたにもかかわらず、その方面の才能にはまったく恵まれなかったらしい。足は遅く、跳躍力もやや足りず、音感やリズム感にしても潜在能力は皆無。おまけに、致命的なまでに不器用である。容姿は不器量とはいわないが、とくに器量よしともいえない十人並。彼女の母親にしてアン=リエ舞踊団団長、設立者でもあるアン=リエは、娘を踊子にすることをとうの昔にあきらめていた。

 つまりリュン=リエは、からだを動かすことには不得手なのである。よって、その鈍足の走りは、クラウディナの俊足の走りを前にすぐ追いつかれてしまった。クラウディナは追いつくと、彼女の手渡した花を片手に、空いているもう一方の手で、逃さじとばかり彼女の手首をつかんでおく。

「なに? クラウディナ」

 踊子に不向きなリュン=リエの舞踊団内での役割は、接客と案内役である。常識をわきまえぬ客を、感情的にならずに言い包めてやるのは得意技だ。よって、冷静さを装うのは慣れていた。何ごともなかったかのような素振りで、彼女はクラウディナに話しかける。ただし、全速力で走ったあとなので、息が切れてはいるが。

「リュン=リエは、僕がいっつも公演の後に八つ当たりされるのを黙って受け止めていられると思ってるの?」

「だから謝ってんじゃない!」

 とたんに感情があらわれる。「そうね、謝り足りなかった? ごめんねクラウディナ、本当に」

「謝ってもらうとか謝りかたが足りないとか、そういう問題じゃない。何度、不愉快だって僕が言って、リュン=リエが謝っても、次の公演にはまた同じ。それのくりかえしだろ? もうやめてほしいんだよ」

「次の公演のときは八つ当たりしないようにする」

「だから、前も同じこと言ってただろ」

「ま、ね」

 リュン=リエはそう言ってその場から逃れようとしたが、彼の手はしっかりと彼女の手首をつかんだままだった。

「……放さない?」

 リュン=リエは自分の手首に目をやった。「痛い」

 彼は彼女の手首を放そうとはしなかったものの、少しだけ力を緩めた。

「本当にやめてほしいんだ」

「わかったってば」

 クラウディナは視線の位置を下げ、リュン=リエの顔を見た。

「本当に」

 君にだけは言われたくない――と告げようとした言葉は、彼の理性がかき消してしまった。今、この場で自分の気持ちを告げたところでこの少女に受けいれてもらえるはずがない。なにせ自分は《女》で、リュン=リエもまた《女》なのだから。

 少女は、ふいに顔をみつめられて、動揺した。

「なんでそんなに本気になるわけ? いいじゃないの、クラウディナだって《女》の子なんだから、きれいだから嫉妬されるなんて、女冥利に尽きるってもんよ」

 が、動揺ついでに開き直るリュン=リエだった。さっきまでは謝罪していたというのに、また同じ皮肉を繰り返す。

 ――こんな自分はいやだ。

 だけど、《女》のクラウディナなんてもっと嫌だ。望まなかった成人とはいえ、あたしの感情が許せない。

 クラウディナは何も悪くない、それはそうだ。悪いのは法。それはそうだけど、あたしの気持ちはどうすればいいの? どうしようもないじゃない。だってクラウディナは《女》で、あたしも《女》なんだ。あたしが《男》だったら、この気持ちに突破口ができていたかもしれないけど、やっぱりあたしは女の子だもん。何のためであっても、そう簡単に性別は変えられないよ。

 きれいなクラウディナ。きれいな踊子クラウディナ、彼女に《女》として嫉妬してる。だって、そこらの貴族娘なんかよりずっときれいで、肌も白いからドレスが似合って、あたしみたいなのが一緒にいたら引きたてることになるんだろうなって。

 なんかあたし、浅ましい。愚痴っぽくて、悲観的で、いやらしい。クラウディナは、あたしとしゃべってるときにそんなこと考えたりしないんでしょうね。

 だけど一緒にいたいって思うのに、なんでこんな浅ましい考えが先だっちゃうの。今だって彼があたしに触れている。そのことで動揺するよりも、触れてる彼の手の白さとか爪のかたちがきれいだとか、そんなことに気がまわってる。

 クラウディナが好きだ。一緒にいたい。そんな気持ちをも妨げるあたしの下らない劣等感。

 ……馬鹿? あたしって。

「僕がリュン=リエ相手にこのことで本気になるのって、ちゃんと理由があるんだよ」

「何それ」

 ――どうせ、リュン=リエはわかっていない。こいつが鈍いのは運動神経だけじゃないって、踊子仲間はみんな言ってる。団長さえも僕の気持ちにうすうす感づいてきたみたいなのに、どうして彼女は気づかない?

「リュン=リエに教える必要ないから、いい」

 あくまで穏やかにつぶやき、彼はリュン=リエの手首を放した。それと同時にリュン=リエは、客のいなくなったテントのほうに早足で去り、クラウディナは楽屋に向かった。

 彼が楽屋に入ると、中ではさっそく公演後の打ちあげが行われていた。踊子連中と団長が輪になって床に座りこみ、酒を酌み交わしたり葉巻を吸ったりして、みなすっかり気分が高揚している。どうやら今日は、客の入りがよかったらしい。

「おやクラウディナ、来たね」

 声をかけたのは、葉巻に火をつけたばかりのアン=リエ団長――リュン=リエの母親――である。「座りな」

 言われて、アン=リエのかたわらに目をやると、すっかり酔いのまわった踊子仲間のなか、ひとりだけ浮いた、いかにも表の世界で何の問題もなく生きてきた名家の御令嬢といった雰囲気の少女が、縮こまっているのが目に入った。クラウディナは少女の横に腰を下ろす。

「団長、この子は?」

 アン=リエは、彼にひと口ばかりの酒が入った杯を渡す。

「ヘイゼルグラント将軍家御令嬢の、月佳ゲッカ様だよ」

 ヘイゼルグラント将軍は、メーヴェ帝国内のみならず大陸中でその名を知られる、メーヴェの「英雄」だ。将軍は軍の事実上の元帥であり、帝国の頂点であるとともに軍の名目上の元帥でもある皇帝に次いで高い位になる。将軍は皇帝によってそのつど任命されるものだが、ヘイゼルグラント将軍の家系は、まるで将軍職が世襲制であるかのように代々嫡男が将軍職に就いている。いわば、軍人の超エリート家系である、との噂だ。

 現ヘイゼルグラント将軍も、戦のたびの高名は測り知れない。指揮を執る役職にありながら、最前線に出向いては、敵国の軍幹部達の首級を自らの手であげているとか。おそらく現在の戦争相手――隣国ツィリマハイラ王国にとって、彼は脅威であろう。

 剣技に優れ、指揮力もあるヘイゼルグラント将軍。いくつもの戦いを勝利に導く彼は、メーヴェ帝国内ではまさに英雄扱いだった。

 クラウディナも、彼に憧れをもっていた。強く賢く、「男」として生まれたからにはかくありたかったと思う。メーヴェという国家だけでなく、クラウディナにとっても英雄の、ヘイゼルグラント将軍――その人の娘が、目の前に座っている。

月姫ツキノヒメさん? そうだよね?」

 そのことを鼻にかけるふうもなく、月佳嬢は気さくに話しかけてきた。ちなみに彼女のいう《月姫》とは、麗しきクラウディナに魅了された人々が「月に棲まうという姫君のごとく美しい人」という意味で彼に与えた仇名である。

「ええ。こんにちは」

「あ、敬語はいいからね。わたし……、ちがうから。ヘイゼルグラント家のお嬢様とはちがうから。月佳って呼んで」

 彼女のいうことは理解しがたかったが、クラウディナはうなずいた。

「本名はクラウディナだよ。よろしくね」

「うれしい! 月姫と直接お話ができるなんて。ふうん、意外と声低いのね。何年か前までは歌もうたってたって、他のお客さんいってたけど。もう歌わないの?」

「そりゃね」

《中性》だった十二歳くらいまでは高い声も出たが、今の声ではどうしようもない。

「いくつ?」

「もう、その訊きかた、わたしを子供扱いしてるでしょう。わたしはね、もうすぐ……十三」

「学校は行ってる? どこの学校?」

 クラウディナは皿の上の果物をむいてやって差しだした。

「ありがとう。うん、エトルリア士官学院」

「え?」

 少女の答えに、クラウディナは耳を疑った。

 その学校は、軍人の家に生まれた少年たちが集う、士官養成の名門である。そこで規定分の授業を受けて卒業試験に合格すれば、晴れてメーヴェ帝国軍に加入できるうえ、卒業後まもなくして下士官になれるという特典つきだった。

 それにしても、この子はふつうの女の子じゃないか。こんな子が軍人になるなど、信じられない。

 少女はクラウディナの困惑をよそに、大口を開けて果物にかぶりついている。

「兄弟は?」

「お姉さま。棕櫚シュロ姉さまっていってね、美人でおくゆかしくて控えめで、皇室にお嫁入りするの」

「他に兄弟はいないわけだ」

「そうなの」

「……元服は」

「今度の誕生日に。わたしの誕生日、今度のパリリア(建国記念日)祭の一週間あとなの。その翌日にやるんだけど、……痛いのかな? あれって、やっぱり」

「大丈夫だよ。すぐ済むから」

 クラウディナは淡々という。すぐ済むというのは嘘ではないが、大丈夫というのは彼女を安心させるための方便だった。すぐ済むとはいっても、痛いわ熱いわ自分の皮肉が焦げる臭いがするわで、決して楽な儀式ではない。しかも、とうぜん火傷が残るので、しばらくは疼く痛みに悩まされることになる。

 それにしても、この子は、僕と同じだ。声変わりを知らないくらいだから、まだ男女の差なんて意識していない。単に痛い目に遭って――足に一生消えない火傷を負って、軍人になるだけのこととしか思ってないにちがいない。僕だって成人したばかりのころは、これで踊子として暮らしていける、これでもう死ぬほど飢えることはない、と思っただけだったから。

 それだけで、不安要素なんてなかった。

 ――新しい感情を知るまでは。

 その感情を知ったとき、自分で選んだはずの月の焼き印を呪った。皮と肉を剥いでしまえたら、どんなにいいだろうと考えた。しかし、皮も肉も貴重な生活の糧であり、焼き印以外の傷をつけることは許されなかった。ただ、呪うことしかできなかった。

 この子も、きっとそうなる。忠告はしてやらない。彼女の事情に首を突っこむほどの義理はないからだ。ついでに、飢えずに育った恵まれた人間に親切心を振りまく気も起こらない。

 クラウディナたちの横で、アン=リエが意味ありげな微笑を浮かべている。クラウディナが彼女の顔をちらりと見ると、いっそう笑みを強調したようだった。

 やはり、この人は僕のリュン=リエへの気持ちを知っている。

 僕はリュン=リエが好きだ。舞踊団なんて、言い換えれば娼館。そんな裏の世界のさなかに生まれながら、少しも損なわれていないその純粋さ。それから、彼女の声。ふだん公演の司会を務めていることもあってか、ちょうどいい高さの、澄んだメゾソプラノ。自分の感情に素直なところ。他にも――。

 理屈はともあれ、僕はリュン=リエといたい。

 自分よりも女々した容姿のやつと一緒にいるのは彼女にとって苦痛だろうか。苦痛にちがいない、だけどこういう感情を容姿だけで左右されてしまうのはまちがっている。彼女はどうなんだろう。僕のことをどう思ってるんだろう。月の焼き印を押した僕のこと――。

 考えこんでいたクラウディナの肩を、月佳が軽く叩いた。

「やっぱり……痛いのね?」

「そんなことないよ。大丈夫、大丈夫」

「そっかあ、よかった。あ、パリリアにもここで公演やるよね、例年どおり」

「ああ」

「わたし、また観にくるからね。今度は花束でも持ってこようかな。実はわたし、毎年パリリアの公演はぜったい観にきてるんだ」

「うん、待ってるよ」

 月佳は、クラウディナもひと口どう、と言って、先ほどの果物を手渡してきた。クラウディナは遠慮なく、月佳がすでに口をつけた果物をかじる。それを月佳が、うれしそうに眺めていた。

「なに?」

「おいしいでしょ? こういう気持ちはみんなで共有したいよね」

「ああ、うん……とってもおいしいよ」

 常識はずれともいえる、少女の純粋さ。クラウディナは面食らい、とってつけたような返事しかできなかった。

 そのとき、入口のカーテンを勢いよく開け、幼児が楽屋に入ってきた。

「兄ちゃんはー?」

 そう言いながら、宴会場と化した楽屋を見まわす幼児。そして、幼児の問いに応えたのはクラウディナであった。

「エルテナ」

 幼児は彼の弟エルテナである。彼こそは、クラウディナが月の焼き印を押した最大の理由であった。

「うわあ、かわいい……。クラウディナの弟さんなの?」

 エルテナの容貌をひと目みるなり、月佳が感嘆の声をもらす。

 なるほどエルテナは、クラウディナによく似て女らしい容姿をしている。ただし、クラウディナの銀の髪に対して、エルテナは金の髪を持っていた。また、兄の深い紫――いわばすみれ色――の瞳に対して、弟は藤色の瞳をもっていた。しかし、あらかたのつくりは酷似していて、どう見ても血縁者である。

「エルテナ、あいさつして。ヘイゼルグラント将軍家の御令嬢、月佳様だ」

 エルテナもまた、ヘイゼルグラント将軍に少年らしい憧れを抱いているらしく、ただでさえ大きい眼をさらにみひらいた。

「ヘイゼルグラント将軍のお嬢さまっ?」

 明らかに高揚した声を出して、エルテナは月佳に向きなおる。

 月佳はつくり笑いの不自然さで、

「一応ね」

 と返した。

「スゴイ! スゴイ! 月佳さま!」

「『様』はいいよ、エルテナ……あ、クラウディナもね」

「月佳、あのね僕ね、将軍がいくさで勝つたんびにうれしいんだよ。将軍は強くってかっこよくて……スゴイんだよね!」

「うん、確かに父上はお強いわ。まこと、すばらしい将軍でいらっしゃるわ。威厳、知性、人望……、どこをとっても」

 まだ七歳になったばかりで、《中性》である弟エルテナ。自分は性を偽り生き恥をさらしても、弟にはずっとこのままでいてほしい。それはクラウディナが月を押印しようと決心したころからの――このまま舞踊団にいては叶わない――願いだった。

 弟もまた、非常に女らしい容貌の持ち主だ。このまま自分が舞踊団で稼いでいけば、いずれエルテナも月を押印し、舞台にあがる日がくるだろう。それでも、生きていくために最適な居場所なのだ、舞踊団は。弟とともに、生きていくために。

 以前、アン=リエは言った。クラウディナは誘わなくとも人々に求められる、ならば当分は客をとらずに、彼らを焦らせて値段を上乗せしていくのが得策だ、と。それで僕は、ここにいながらも、いまだに客と寝ていない。

 あれからもう一年は過ぎている。客がつける値段も上がった。そろそろ潮時だ、とアン=リエが言いだしそうなころか。恋を知ったいま、買われることにはかなり抵抗がある、が……ここらで自分を高く売って、弟がこの世界に足を踏み入れる前に、その金を持って舞踊団から去りたい。……できれば、リュン=リエも一緒に来てほしい。とにかく、この娼館から抜けだすんだ。そして、弟には太陽の焼き印を。

 この、心密かに願ってきたことが、きっともうすぐ実行できよう。自分が、男のくせにまぬけにも舞い踊り、いちど春を売ることに耐えるだけで、弟を飢えさせずにすみ、彼には偽らない《性》を与えることができる。

 願わくば弟が、僕のような悩み――《同性》を好きになってしまったこと――などに、囚われないように。

 ふいに、葉巻の火を踏み消し、アン=リエが立ちあがった。クラウディナは顔をあげる。

「今日の公演は大成功だったね。みんな、ご苦労さま。さて、もうすぐ一年で最大の公演、パリリア祭があることはみんなも知ってのとおりだが……、今年もその前夜に皇城にて舞を献上せよとのお達しがあった。皇帝陛下は、ひと足早くパリリアを内々で祝いたいとおっしゃっているそうだ。ついては、舞を献上する踊子も、皇帝陛下御みずから指名されている」

 一同は、団長の言葉にざわめく。これまでは舞を献上せよとの通達のみで、踊子の指名まではされなかったからである。そのようなおりには、無難に群舞をこなす踊子を遣わすにとどめ、クラウディナのような主要メンバーは派遣しない。

 クラウディナは、うぬぼれだとも思いつつ、まちがいなく自分は指名されたメンバーの中に入っているだろうと思った。

「まずは、ラケル。それにプリムロゼ、サリア、シエナ。そしてクラウディナ、以上五名」

 アン=リエはゆっくりと踊子の名をあげていく。月佳とエルテナは、クラウディナすごい、としきりに感動していたが、クラウディナにとっては案の定であった。

 ちなみに指名された踊子たちは、常にソロをまかされる人気の踊子ばかりで、みな容姿端麗である。特にプリムロゼという二十歳の女性は、クラウディナに次ぐ人気の踊子だった。

 選ばれた五人の中で、「男」にして《女》である踊子はクラウディナのみ。それもそのはずで、たいがいの「男」だが《女》の踊子は、歳を経るごとに男臭さが出てしまい、どうしてもむさ苦しくなる。クラウディナも、声変わりがしたり骨が突出してきたりと例外ではなかったが、彼にはそれ以上の魅力がたたえられているといえよう。

 一方、リュン=リエは、母親の言葉を外で立ち聞きしていた。クラウディナが指名されたのを知って、めまいを覚える。

 好色で知られるメーヴェ帝国皇帝イフィーズ八世。噂では、皇帝のまわりには正妃を筆頭に数多の側室、側女、宦官、女官が侍っているという。それらのうちの正妃、側室、側女はともかく、宦官や女官の過半数が皇帝の手つきだというから怖気がはしる。齢五十を超えてなお、まったく元気のいい好色両刀爺だ。

 正妃、側室は法的にも生物学的にも「女」でなければならない。側女は法的《女》ならば納まることのできる地位である。宦官は去勢させられた法的・生物学的「男」であり、したがって彼らに皇帝の手がついていることは公然の秘密だった――男色は法で禁じられている。女官も法的・生物学的「女」であり、良家の子女の花嫁修行の一環という名目で皇城入りし、皇帝に見初められて側室となる場合が多い。

 それはともあれ、クラウディナだ。彼は法的《女》で生物学的「男」、たぐいまれな女性的美貌をもつ。それから、女性的とも断定しがたい彼独特の魅力もある――どこか中性的で、儚い感じがするとあたしは思う――「天使」なんてありきたりな表現は彼にふさわしくない。「妖精」「風の精霊」、あるいは彼の仇名でもある「月」――、そうだ、彼は月のイメージだ。時に大きく輝いてみせて人々を魅了し、けれどきまぐれに姿を隠して、魅了された人々を悶々とさせる。

 皇帝は、直接クラウディナの舞を観たことはないはずだ。おそらく、誰か周囲にいる人間が噂を耳に入れたのだろう。それで興味本位に指名したにちがいない。

 だけど、きっと皇帝も「月」に魅了された者の一人になる。クラウディナにそのつもりがなくとも。だって、今までだってそうだったんだ。クラウディナは望まなくして舞踊団に勧誘され、大した努力も野心もなしにアン=リエ舞踊団の人気踊子になった。彼は食いつないでいければよかっただけで、人々を魅了しようなんて思っていやしない。

 そりゃあ、魅了しようと思って魅了するなんて器用な真似は、彼には無理でしょうけど。そういうとこ、あんがい不器用みたいだし。

 ――皇帝が、クラウディナに魅了されたら。メーヴェを統べる皇帝だもの、好色・わがまま・ばかの三重苦で知られる皇帝だもの、手に入れたいと思うのは目に見えている。そして、皇帝の望みは否応なしに叶えられる。クラウディナはイフィーズ八世の「側女」になる。糞爺のものに。好色爺の居城に、……城の奥深く、後宮に。

 皇帝の女は死ぬまでその地位から逃れられない。まず、皇帝の許可なしに後宮から外出してはいけない。それから、これはあらゆる国民にとってもそうだけれど、皇帝の命令に逆らってはならない。逆らえば、正妃以外の女はたいてい即斬首だ。現に、ここ何年かで二、三人が公開処刑されている。

 何といっても、死ぬまで皇帝に仕えなければならないこと。皇帝が死んだときには、殉死しなければならないこと。

 つまり、クラウディナが皇帝に見初められ、後宮に召されることにでもなったら、もう二度と会えなくなる。抗えば、殺される。皇帝は従順な女を欲するものだから、クラウディナがどんなに美しかろうと同じ。

 でも、あたしが勝手に考えあぐねいてみたところで、重要なのは彼自身の意志で、他人が口だしすることじゃない。そりゃあ、あたしは行かないでほしいけど、彼はエルテナへの金品の支給を要求したうえで後宮に入ることを選ぶと思う。

 彼……好きな人とかいないみたいだし、《女》だもんね、《同性》は好きにはならないようにしてるだろうし、《異性》にしても、皇帝みたいな性癖はなさそうだ。エルテナの生活さえ保証されれば、彼には心残りなんてない。だけど、あたしはいやだ。クラウディナは、ここにいてほしい。これはあたしの身勝手なのかな……?

 あたし……何を悲観的になってるんだろう、まだ何も起こってないっていうのに。まだクラウディナは皇帝に舞を献上しにいってないし。ひょっとしたら召されることだって、ないかもしれないし。

 ――楽観的思考で行かないと。あたし、どんどん暗い底なし沼に沈んでっちゃうわ。

「すごいわ、五人とも!」

 リュン=リエは努めて晴れやかな表情で楽屋に入った。

「おやリュン=リエ、立ち聞きしてたのかい」

「兄ちゃん、スッゲーっ! なー、リュン=リエ」

「ねえ?」

 楽しげに談話するエルテナとリュン=リエだったが、その場で楽しげにしているのは二人と月佳だけであった。残りの踊子たちの表情は暗い。ことにクラウディナが、そのことを聞いてなお晴れやかにしているリュン=リエを見て落胆した。

「確か、三年位前の群舞担当だった……アリィシア、だったかしら……。とってもきれいな子だったけど、そのときまだ新人だった子」

 指名された一人であるラケルが、いらだちながら言った。「彼女、お達しをいただいて群舞の一人として舞を献上しにいって、イフィーズ八世に見初められて……側女にと望まれたんだよね。

 だけど、あの子若かったから、五十過ぎのオッサンの相手なんか退屈だったんでしょ。城を抜けだして、舞踊団に帰ってきた。そして、皇帝の使いに見つかって、彼女、この楽屋で、そこの柱の辺りで……殺された。メッタ刺しよ、メーヴェの紋入りの剣で。……リュン=リエ、あんたも見たわよね、アリィシアの血。柱にべったりついた血。……それから」

 そこでラケルは目を伏せ、もはや言葉を継ぐことはしなかった。

 踊子の言葉に、月佳は顔色を失った。彼女は、仮にも将軍家に育ちながら、現皇帝についてはまだ何も知らない。

 皇帝が好色家であることくらいは、その手の話に疎い月佳でも知っている話。

 でも、エトルリア士官学院では、皇帝が自分が見初めた女の人を簡単に殺してしまうなんて習わなかったし、同級生がそんな話をしているのも耳にしたことはなかった。だいたいにして、いくら皇帝という尊き身とはいえ、殺人が罪にならないことなどあるはずがない。ラケルの言ったことが事実ならば、同級生たちの沈黙は皇帝への畏怖ゆえか、それとも己が身のかわいさゆえか? あるいは、軍を目指す若者に汚れた主の姿を知られまいと、隠したてる大人たちもいるのかもしれない。

 エルテナは、踊子アリィシアについては、知らされていなかった。そのとき彼は若干四歳。彼の耳と目は、クラウディナによって塞がれていた。

 リュン=リエは、すっかり忘れていた。その記憶が抜け落ちていたのである。その理由も明白である――恐怖。眼前で人――生活をともにしていた踊子の一人――が殺された、恐怖。しかし、ラケルのひと言は、彼女の記憶を揺り起こす。

 ふいに、蘇る感覚。



 その日は晴れていた。

 そのため、リュン=リエは舞台衣装の洗濯に追われていた。忙しなく働く少女、彼女の前に突然、剣を帯びた四人の男が立ちはだかった。その肩と剣には、皇帝の紋章。

「アン=リエ舞踊団の者だな。アリィシア殿は、ここにおいでか?」

「アリィシアをお探しですか……? 彼女なら、ひと月ほど前に皇帝に召され、今は皇城にいるはずです。あなたがた、皇帝の御使者と見受けられますが、どうしてそのことをご存じないんでしょう」

 リュン=リエはとぼけたつもりは毛頭なかったのだが、歳のわりに大人びた口調で、男たちの期待に反した返答をしたので、結果、彼らの怒りを買うことになった。

「娘、隠しだてするとは、命が惜しくはないのか!」

 男の一人が怒鳴る。それを耳にして、団員が続々と集まってきた。

「隠しだてしようにも、それ以前に何のお話をしていらっしゃるのか、私には見当もつきませんが!」

 負けじとリュン=リエは叫ぶ。実際、アリィシアが何かしたらしいことはわかるものの、舞踊団を出た者のその後など、リュン=リエが知るはずもない。彼女は舞踊団の外で暮らしたことがないのだから。

「そこを退け! テント内を捜させてもらう!」

「あなたがたは、何の権利があってそんなことができるんですかっ! いくら皇帝だからって、舞台裏に踏みこませるわけにはまいりません」

 少女はテントの入口に張りついて立つ。

「皇帝の命ぞ。逃亡した元側女、アリィシアを殺せと」

「アリィシアが……逃げた?」

 驚きのあまり力が抜けた彼女は、男に乱暴に退かされ、ふらりと倒れそうになった。そこに、少女の様子を見守っていたクラウディナが駆け寄る。彼は、当時十二歳のその少女の名を呼んだ。少女はそれに応え、少年の名を呼び返した。

「アリィシアが逃げたなんて、そんなばかな。信じられない。彼女、これでもう、ちがう男の相手しないでいいとか言って喜んでたのに、なんてことを。よりによって、皇帝から逃げるなんて……信じらんないよ、クラウディナ」

 クラウディナに抱き起こされて、リュン=リエはぼやく。

 少年は答える。

「アリィシアが求めていたものは、皇城にはなかったんだよ……きっと」

 ようやく彼女は立ちあがり、使者を追った。アリィシアには本当に会っていないし、もちろんテント内に匿ってなどいない。いくら捜そうとも彼女はいないのに、不毛な捜索でテントを荒らされるのはいやだった。

「お待ちください! 御使者様!」

「やめろリュン=リエ! 好きにさせよう」

 リュン=リエはクラウディナに諭されて足を止めた。「じゃなきゃ、殺される」

 命は惜しい、それはそうだ。だけど、なんだかとっても悔しい。力に屈服しなきゃ殺されるなんて。

 ――悔しい!

 そう思ったとたんにリュン=リエは踏みだしていた。楽屋に入っていった男を追い、入口を潜る。クラウディナの制する声も届いていない。そこで少年は、彼女が楽屋に入るのを見届けるより先に、団長アン=リエに知らせに走った。

「御使者さま、本当にアリィシアは来てないんです。勝手に決めつけてうちを荒らして、あんまりじゃないですか。それでアリィシアがいなかったらどうしてくれるんです? もうすぐ公演だってあるんですよ」

 使者は彼女の言葉を聞き入れず、黙々と楽屋のあちらこちらを探る。

 並べてかけてある衣装を、一枚一枚、床に投げ捨て、化粧道具の入った鏡台を倒し、そこに誰かが潜んでいないかを確認する。衣装は床の埃に塗られ、白粉や紅があたりに散乱した。

 やがて使者は、中央の柱にかかっているカーテンを開けた。カーテンのむこうには、人気踊子用の高価な衣装がかけられている。それをも使者は床に投げ捨てていき、一枚を残して他のすべての衣装を床に放ったそのとき、最後の一枚の、もっとも豪奢な衣装の陰に女が身を隠しているのが見えた。

 リュン=リエは絶句した。女はまさしくアリィシアだったのである。

「アリィシア殿ですね」

 使者は冷淡に言った。アリィシアはひどく怯え、応えようとしなかった。だが、まだ助かる余地があるとも考えたのかもしれない。しばらくのあいだ怯えきっていた彼女が、思いたったように顔をあげて答えた。

「私がアリィシアです」

 そう名のったときの彼女は凛として、以前にまして美しかった。

 行方不明の元側女をついに舞踊団で捕捉した使者は、やはりと言わんばかりに視線を投げた。その視線を受け止めてから、リュン=リエはきまり悪くアリィシアのほうに目を逸らし、おそるおそる口を開いた。

「アリィ」

 かつての――舞踊団時代の愛称で呼びかけた少女に対して、皇帝の元側女はうれしそうに目を細める。変わらない彼女の笑顔を見て、リュン=リエは少し安心し、座りこんだままのアリィシアに駆け寄ろうとした。そんな少女を、新たに入口から入ってきた使者の一人が羽交い締めにする。

「リュン=リエを放してください! その子は関係ないんです。私が勝手にここに入りこんだんです、舞踊団は何も知らないんです!」

 アリィシアは叫んだ。しかし使者はあがくリュン=リエを捕らえて放さない。

 もう一人が、アリィシアの前に進む。

「アリィシア殿、あなたにはもはや何の権限もない。私たちに命ずることができるのは、皇帝と御一族、そして寵を受けているかたがたのみ。一度は皇帝の寵を受けておきながら、あの方の御顔に泥を塗り、寵を失ったあなたに、従うことはできない」

 いったんは凛としたアリィシアの表情が、みるみる歪んでいく。皇帝を裏切った者の運命が、いよいよ現実味を帯びだしたのを感じたか、床についた手が震えている。

(好きにさせよう。じゃないと、殺される)

(皇帝の命ぞ。逃亡した元側女、アリィシアを殺せと)

 リュン=リエは、とっさに目を閉じた。

 それでも、彼女はいまだに思う。皇室の人だって自分と同じ生き物だ。あたしはクラウディナがどこかに行ってしまっても、生きててほしいと思うもの。きっと、そう思うのは同じなんじゃないかなあ? 好きな人はとにかく生きててほしいって、思わないのかなあ? 思うよね。御使者やクラウディナが言ったことは、あたしを怖がらせるための冗談でしょ。きっと、これからアリィシアをお城に連れて帰って皇帝に謝らせるんだ。黙って出ていってごめんねって。

 心の底では理解しながらも、目の前で起ころうとしている出来事を現実のものとは信じる気になれず、続く瞬間に目の前にあるのは捕われただけのアリィシアなのだと強いて思い、彼女はゆっくり目をひらいた。

 しかし、現実に起こったのは、やはり予想どおりのことであった。

 目を開くと、使者が剣を鞘から抜いたところだった。使者は剣を振りあげ、下ろす――アリィシアの露出した肩へ。彼女の白い首と腕の付根のあいだに、残酷な光を放つ刃が通る。

 時間はゆっくり動いていた。剣が振り下ろされてから、アリィシアのからだに刃が通り、剣先の軌道に彼女の鮮血がともなうまでの経過が、はっきりと見てとれた。

 鮮血が地に舞い落ち、時間が元の早さに戻ったとき、アリィシアは地に臥した。一閃のもとに彼女を倒した使者は、ガーゼを取りだしてその血を拭っている。リュン=リエを押えていた使者は、ようやく少女を解放した。

 もはや自由だというのに、少女は動けなかった。足も手も動かない、全身が硬直している。声も出ない。叫びたいのに力が入らない、顔の筋肉さえ動かせなかった。目は見開いて――見たくない、目を覆いたいのに、否が応にもアリィシアを見る。

 倒れた彼女のからだから、とめどなく血があふれていた。心臓の脈打つ音さえ聞こえそうだ。それでもなお、彼女の指や目や口は、力なく動いていた。

 リュン=リエはアリィシアの最後の言葉を聞いた。

「団長、リュン=リエ、みんな……ごめんなさいね、……許してくださいね。だってあのエロジジイ、お金もらって服買ってもらって宝石もらっても、好きになれなかった……あんなのと一生過ごすなんて、死んでもいや……」

 もう一人の使者が彼女の背に剣を突き刺したので、それで彼女は動かなくなった。

 その後、リュン=リエは使者によってアン=リエのもとに連れられる。アン=リエは呆然とする娘を抱いたあと、地に伏して皇帝の使者に謝罪した。クラウディナを含む踊子たちもそれに倣った。そして、謝罪の証として、美しく賢い人気の踊子を皇帝の側女に献上し、アン=リエ舞踊団への咎めはなしとされた。



 それから、リュン=リエが恐ろしい記憶を覆い隠すまでの経過は定かではないが、そうして彼女は立ちなおっていったのだ。

 しかし、封の解かれた記憶が彼女を揺るがす。

 突然、リュン=リエは顔を覆った。

「やめて! 殺さなくてもいいじゃない! なんでそんな簡単に殺せるの? 好きな人を殺せるの? あたしはそんなことできないよ! お母さんが動かなくなるのなんて考えたくない! クラウディナがそうなるのもみんながそうなるのも、アリィがそうなるのもいやだ!」

 あのとき叫べなかった言葉をいま叫び、あのとき覆えなかった目をいま覆っているのだった。

 驚いたラケルがリュン=リエを見やる。その場にいた全員がリュン=リエに注目し、三年前の事件に居合わせた者はみな、彼女がもっとも恐ろしい目に遭ったことを思いだした。月佳とエルテナは、リュン=リエのあまりの剣幕に唖然としている。クラウディナは、自分が「好きな人」の名前にあがったので心底うれしかった。そういう場合ではないのだろうが、ちょうどいつものけんかをしたばかりだったから仕方がない。

「お願いだからやめて……殺さないで。剣抜いたらいやだ、アリィが動かなくなるのはいやだ、やめてよ……やめて」

 ついには叫び声が泣き声に変わり、とうとうリュン=リエは本格的に泣きだしてしまった。ラケルが罪悪感と自己嫌悪に襲われているので、気にしないほうがいいよ、と声をかけ、クラウディナは席を立った。小さい子供のようにしゃくりあげるリュン=リエの手を引き、テントの外に出た。

 外は夕暮れだった。クラウディナは橙色に染まるテントの裏で、彼女の髪をなでた。

「アリィは確かに死んでしまったけど、アン=リエ団長は世渡りうまいから大丈夫だよ。僕も、そんなに器用じゃないけど当分は平気だ。皇城での踊りも、ラケルたちには悪いけどうまいこと目立たないやつ選ぶつもりだし、それに、宦官に手をつけても、まさかほんとの男を側女にしようなんて思わないはずだよね。変態じゃないんだからさ。みんなもアリィのことで学んだんだ、もう逃げようなんてしないよ。そのうちここからはいなくなってしまうかもしれないけど、みんな生きてるよ、きっと。理屈こねるのは苦手なんだけど……元気だして。しっかりして、リュン=リエ」

 クラウディナは、うまくいえない自分が情けなくなった。落ちつきを取り戻してきたリュン=リエは、涙は止めることができないまま、顔をあげた。

「もうアリィみたいに、あたしの目の前で死んじゃったりしないかな」

「病気とか歳とかならわからないけど、殺されることはないよ。いやな言いかただけどね、……ちょっと利口になったから」

「そうだよね、ばかでまずいのはいつだってあたしだよね。……うわあ、なんかあたし、急に泣き叫んで取り乱して、恥ずかしい! もう月佳嬢とエルテナに顔合わせできないよー」

 大急ぎで涙を拭う。

 いきなり普段のリュン=リエに戻ったので、クラウディナは微笑んだ。

「宴会ほとんど顔出さなくってごめん! 顔洗ってもう休むね、あたし。クラウディナ、ありがとう。あと、今日はごめんね。あれ、嘘だから、忘れてね。あ、ラケルたちにも謝らなきゃ」

 そう言って彼女は、生活用のテントへ帰っていった。

 クラウディナは、「嘘だから」と言われたことが何を指すのか、彼女と仲直りできたこと、彼女がいち早く自分を取り戻してくれたこと、彼女が自分に何であれ好意をもっていることがわかったうれしさで、その場ではあまり考えなかった。

 あとで考えてみれば、ラケルの名が出たことから、皇帝の招待を喜んでいたことを指し、あの言葉は彼女自身がそう思いこもうとしてたからだということがわかるのだが、ひとまずクラウディナは、彼女に通じるよいことばかりが自分の機嫌に作用して、自分の人生に関わる嫌悪すべきことが作用していない、楽観的な自分がおかしくもあり、愛おしくもあるのだった。

 パリリアまで一週間、皇城行きまで五日。

 ――なんでだろう、なんとなく、パリリア公演も皇城公演も、エルテナのこともリュン=リエのことも、全部うまくいくような気がする。……

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