第六話 社会人たるものこうあるべき
はたまたところ変わって一階エントランスのソファー。
広く人の往来がぼちぼちのエントランスホールである。
そこで僕は慣れないスーツを着てちびっ子上司の江ノ島先輩を待っていた。
引きこもりという就職に圧倒的不利な肩書きを背負いながらも何故か採用され、新入社員としてここにいるのが不思議だった。
慣れない空気に肩を縮めて待つこと5分。遅れて我が直属のちびっ子上司、江ノ島先輩が急ぎぎみでやってきた。
「待たせたわね。はいこれ。」
荒い息の江ノ島先輩からかなり量のプリントが綴じられたファイルを受け取る。
「なんですかこれ。」ファイルをぺらぺらとめくる。どのページも文字がぎっしりと書いてあって目が文字列の波を泳いでいく。
「研修マニュアル。表紙捲った所に目次があるから後で確認しといて。そんな事より、受付であんたの社員証とタイムカード貰ったら、あんた連れて回らないといけないところがあるから。」と先輩は何も言わずに受け付けの元へと歩み始めた。
「わかりましたけど…。」と言った言葉がどうにも頼りなかったようで、先輩は振り向いた。
「何? 時間無いんだけど、何かあるなら早く言ってくれない?」
江ノ島先輩は肩に掛けたバッグから取り出したピンクの可愛いハンカチで汗を拭きながら、早口で僕に言った。
「すいません、鞄を机に置いてきたので取ってきても良いですか?」と言うと先輩はまたもや表情を一変させた。
「はぁ!? あんたばかじゃ無いの! 私、下で待っとけって言ったわよね。それだったら普通は『この後、外に出るのかな?』ぐらい思うでしょうが! 何!? 私が学校の先生みたいにそんなに細かいところまで言わないと分かんないの? あんた今まで何してきたのよ!」
次から次に滝の様な罵声を浴び続け、心が折れそうになった。
今怒っているのが江ノ島先輩じゃなくて、鎌倉人事部長みたいな男の人だったら確実に心がポッキリ折れていたはずだ。
「ああもう! 分かったから早く取ってきなさいよ、時間無いんだから!」
「はい!」と返事だけは元気よく答え、階段で2階まで駆け上がり、走って自分の机に戻って、鞄を取って再びエントランスへ戻った。
「すいません、お待たせしました。」と申し訳なさそうに先輩に言った。
そう言って、江ノ島先輩の方を見ると何やらまだ思うところがあるらしくお怒りのようだった。
「先輩?」
「ねぇ、柳小路? 私、その左手に持ってるのはなに?」
先輩はその細い指で、僕がバッグを持っていないほうの手で持っているプリントをツンツンとした。
「なんか机の上にあって、何かわかんなかったので持ってきました。」
「あのね、それは社内規則とかだから今はいらないの。 なんでそんなものを持ってくるわけ? 今は荷物になるでしょうが!」と先輩はここで一息。そしてまだ説教を続けた。
「それに! もしそれが、誰かの報告書とかだったらどうするのよ! 迷惑するのはあんたじゃなくてほかのだれかなのよ? あんた責任とれるの?」
先輩の言っている事は確かにと思えた。
すると僕すこし怖くなってきた、そんな僕の様子をみて先輩は深いため息をついて呆れ返った様子だった。
「もういい! とにかくそのファイルは鞄の中に入れときなさいよ! 今から外回りしてあんたの顔見せに行くんだから。」
「顔見せ……ですか?」なんか学校の新入生歓迎会かなんかだろうか。
「そうよ。契約して貰ってる会社を廻ってくの。あんたも失礼が無いようにしなさい、分かった?」
なるほど。そんな大切なことが行われるのか。
入社初日にそんなことがあるなんて驚きである。
「それと、身だしなみは整えること。ほら、これで汗でも拭きなさい」
先輩は制汗シートをバッグから取り出す。一枚を先輩の手から受け取る。
4月だというのに、走ったせいでじんわりと汗をかいていたから涼しくて気持ちがいい。
「すいません。ありがとうございます。」
「次からはあんたが持参すること、分かった?」
「分かりました。」
「なら、良いけど。それじゃあ、本当に時間無いからもう行くわよ」
「はい。」
そう言うと、先輩は受付へと行き。僕の社員証とタイムカードを貰ってきた。
「詳しい説明は電車の中でするから」
そう言うと先輩は本当に急いでいるのだろうか、手首を裏返して時計を確認すると、一瞬苦い顔をした。
そして早足でエントランスから出て行った。
僕はボサッとしてしまって少し遅れてエントランスから出た。勿論、先輩はご立腹でいらっしゃった。