失敗
グレイとマリエットは、闇の中、人に出くわさぬよう気配に耳を澄ませながら離宮へと向かった。
もとより離宮の周辺には他の建物はなく、そこへ向かう道で人に会う可能性は殆どなかったが、念には念を入れる。
やがて離宮にたどり着いたふたりは、外から様子を覗った。グレイが問う。
「どうだ」
マリエットは目を閉じて集中し、耳を澄ませた。
事前に調査したとおり、警備は門にいるだけで、邸内に他の足音はない。
明かりがついた部屋の中で、人の気配があるのはフリーデの寝室のみ。
おそらくノイッシュはそこにいる。
「予測通りよ。警備はあの門番だけ。ターゲットは二階の寝室に」
マリエットが言うと、グレイが頷いた。
「時間を掛けるな。おまえは暗闇に弱い」
「緊張してるから、平気」
「ならいいが」
グレイが立ち上がり、右手に持った麻酔銃に装填した矢状のアンプルを確認する。
「では行け」
グレイが麻酔銃を構え、撃つ。
その腕の確かさを知っているマリエットは、グレイの仕事の成否の確認はしない。
彼が仕損じるはずがない。
小柄なマリエットは、敏捷さと身軽さには自信があった。
なのでそれを活かした方法で計画を立てた。
建物の裏へと回り込み、邸内に侵入しやすいようにと昼に目星をつけておいた木に登った。極力不自然な音を立てないように。
明るい室内からは外の景色はなかなか見えないだろうが、逆はよく見える。
マリエットが予測したとおり、ノイッシュは寝室の明かりのそばに座り、本を捲っていた。
マリエットはギルドの道具を右手に持った。銃に似た小型機械で、人を殺傷するほどの威力はないが、照準を合わせるのが容易で、狙った物を簡単に破壊出来る。
マリエットは二発の鉛玉を銃に似た機械に詰めた。そして狙いを定めて発射する。
一発目でノイッシュのそばの燭台を打ち抜き、二発目で部屋全体を明るく照らしていた、天井から下がっていたランプを破壊した。
木の枝から弾みをつけて跳躍し、寝室の窓を破りながらその部屋に侵入を果たす。
相手の目が暗闇に慣れる前に決着をつけなければ。
ノイッシュの気配を耳で感じ、その動きを計算して捕らえる。
何も見えない暗闇に、底冷えするような恐怖を憶えた。その怯懦を却け、マリエットは一瞬で、ノイッシュの腕を特殊なワイヤーで縛り上げ拘束する。
「何を……!」
がたんと大きな音がした。ノイッシュの身体が燭台を置いていた家具にぶつかったのだろう。マリエットは手首のブレスレット状の道具に仕込んだ麻酔針を、ノイッシュの首元に打ち込もうとした。そのとき。
「ノイッシュを放しなさい!」
フリーデの声が響き、マリエットはびくりとした。
昼間見た限りでは、彼女はベッドから起き上がることすら出来ない様子だった。
けれど凄まじい勢いで、叫び声を上げながら、彼女はまっすぐにマリエットに向かってくる。
それは先刻穏やかにマリエットと会話を交わした、あのときのフリーデの様子とはあまりに違っていて、息子を何としても守ろうとするその気迫に、マリエットは圧された。
それが隙になった。
マリエットの胸元に、熱が走る。
「……っ!」
刃物で切られたのだと理解するまでに、一瞬の間があった。
咄嗟に身を引き、振り下ろされた刃の二発目は何とか避けたが、そのときにノイッシュを拘束していたワイヤーから手が離れた。
失敗だ。即座にそう判断し、マリエットは二階の窓から躊躇せず飛び降りた。
多少バランスを崩してはいたが、何とか着地に成功する。
地についた足に軽く衝撃が走った。
「誰か、……誰か!」
ノイッシュの助けを求める声を聞きながら、マリエットは足の痺れに耐えて立ち上がり、新月の月明かりすらない夜の森を必死に走った。
闇が連れてくるのは、意識の底に蓋をするように押し込めている記憶。
手触り、匂い、耐えがたい閉塞感。呼吸が浅くなる。
マリエットは息が切れるほどに全力で走り、その記憶を振り払おうとした。
森の道を走り抜ける。漸くグレイと事前に打ち合わせておいた、待ち合わせ場所の湖畔の茂みが見えてきた。
そこに飛び込むようにしてマリエットは木の根元に倒れ込む。
「マリエット」
グレイの声がする。
けれど暗くて何も見えない。あの時のように。
「グレイ、あかり」
地面に倒れ込んだ身体を丸めて、マリエットは言った。
「明かりつけて、こわい」
声だけではわからない。グレイがそこにいるのか。それともこれは幻聴なのか。混乱する。
「ここで明かりをつけたら目立つ。迎賓館まで耐えろ」
「いや」
マリエットはふるえる自分の身体をきつく抱いた。
怖いのは暗闇だけではなかった。
グレイに失敗したことを告げれば、今すぐ不要な駒だとして処分されるかもしれない。
そうでなくとも不要だと言われ放り出され捨てられて、薬ももらえず歌えなくなって死ぬのか。
それよりも。グレイのそばにいられなければ、マリエットはまたひとりになってしまう。
グレイがひとつ、ためいきを落とした。
それをマリエットは確かに聞いた。
呆れられた。捨てられる。マリエットは息を詰めてぎゅっと目を閉じた。
そのとき。唐突に、ふわりとマリエットの身体が浮いた。
「え……」
驚いて、おそるおそる目を開けると、暗い夜闇の中目に入ったのは、相変わらず無表情のグレイの顔だった。
「……グ、レイ……」
グレイの腕に抱き上げられ運ばれているのだと、理解するのに少しの時間が必要だった。
このまま湖の中にでも投げ込まれるのかと、そうぼんやり考えたマリエットの耳に、グレイのいつも通りの温度のない声が聞こえる。
「首に腕を回してつかまっていろ。迎賓館まで運んでやる」
思いも寄らぬ言葉に、マリエットは呆然としてただグレイの顔を見あげた。そんなマリエットの様子に、グレイが苛立ちを見せ、声を荒げた。
「私につかまれと言っている、運びにくい」
そう言ってグレイは、乱暴にマリエットの手首を掴むと、自分の首にその腕を回した。
「同じように、反対もだ。いくら肉付きが悪いとは言っても重くてかなわん。自分の体重くらい自分で支えろ」
マリエットは慌てて、反対の腕をグレイの肩から首に回し、ぎゅっとしがみついた。
「こ、こう?」
その体勢だと、グレイの胸に顔を埋める形になる。
「そうだ」
グレイの鼓動の音が聞こえる。
四年もの間彼の近くに置かれて、リアンドールになるべく、ギルドの技をたたき込まれた。
その間一度たりとも、グレイは自分にこんなことをしてはくれなかった。
「グレイ」
ちいさな声でマリエットが呼ぶと、グレイは歩みを止めずに、マリエットを見下ろした。
マリエットは深く息を吸い、ちいさな声で報告した。
「……失敗したわ」
それはまるで、自分自身に死刑宣告を下しているような気分だった。
役に立たぬ駒はいらない。ずっと、そう言われてきていたのに。
間違いなく捨てられる、そう思い、マリエットは涙が滲む目を閉じた。
けれどグレイは、ひとこと言っただけだった。
「わかった」
「……え……」
そうしている間に、迎賓館にたどり着いた。
迎賓館の中は煌々と明かりが灯っていて、漸く暗闇から逃れたマリエットは、グレイの腕の中から下りようとした。
けれどグレイはそのような動きには構わず、そのまま居間までマリエットを抱いて歩いて行き、やわらかなソファの上にマリエットを下ろした。
「……これは」
グレイが、マリエットの胸元の傷に気づいて言う。
「あ、これ、ノイッシュ王子を拘束した時に、フリーデ妃が襲いかかってきて、不意を突かれて刃物のような何かで切りつけられて……っ、え?」
唐突にグレイが、刃物で切りつけられ破れた服の破れ目に手を入れ、裂いて広げた。
「やっ、何するの、グレイ!」
思わず悲鳴のような声をあげたマリエットに構わず、グレイはいつになく真剣な目を向けてきた。手鏡を渡される。
「見ろ」
そう言われて、破れた服の下から覗く傷口を鏡に映し出した。そして気づく。
「……なに、これ」
薄く切られただけだと思っていた傷口は、周辺が紫に変色していた。その傷口から、血のにおいに混じって、薔薇にも似た、独特の香りがする。
「荊の毒薬だ。刃に塗ってあったんだろう」
そう言われて、一瞬頭の中が真っ白になる。
先日グレイに聞いた、遅効性だが非常に効き目が強いという、あの毒薬が。
「あ、たし、どうなるの……?」
唇がふるえて、舌がもつれる。上手く言葉が出ない。
今までも、リアンドールとして認められず、ギルドから薬がもらえなくなれば、そのとき自分は死ぬのだという覚悟はしていた。
だから必死だった。けれどまさか、こんな。
「作戦を変える」
グレイが言った。
「王子に近づき、解毒剤を手に入れろ」
「……え?」
頭の中が飽和して、グレイが言っていることが理解出来ない。
けれどそんなマリエットに、グレイは言った。
「ギルドに頼んでみたところで、解毒剤の用意などしてもらえん。
ただ役立たずだと思われ捨てられる、それだけだ。
そして新たなリアンドールが、おまえの果たせなかった任務を継ぐために来る」
「グレイ」
思わず縋るようにその名を呼ぶと、今まで、こんな時に一度も、自分の呼びかけに応えてくれたことなどなかったグレイが、マリエットをじっと見て、言った。
「死にたくないなら、解毒剤を手に入れろ。
それから速やかに任務を果たせ。いいな、マリエット」




