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心を殺せ

 邸内に入ると、フリーデ妃の寝室へと案内され、マリエットはそこで数曲歌った。その歌をフリーデはとても喜んでくれた。


「歌なんて、もう何年も聴いていなかったわ」


 ベッドの天蓋から掛けられた薄手の絹の覆いを片側に寄せて、フリーデはマリエットに顔を見せてくれた。

 その肌は病的に白く、首筋は骨が浮き出るほどに痩せていて、マリエットは一瞬言葉を失った。

 けれどマリエットに微笑みかけるフリーデの表情は、病に蝕まれているとは思えぬほど、温かく穏やかだった。


「母はもう長いこと伏せっていて、この邸から何年も出ていないんだ。客人を迎えるのも久しぶりだった。来てくれてありがとう」


 ノイッシュの言葉に、マリエットの胸が痛んだ。


 自分は善意で歌いに来たわけではない。任務の下調べを兼ねて来ただけなのに。


 ここでそのような感情を顔に出してはならないと、そう自分を戒めながらも、顔がこわばってしまう。

 わきあがる罪悪感に圧し潰されそうになる。


 思わずマリエットは、お守りのように常に胸元に下げている片羽のペンダントをいつもの癖で握った。


 それにフリーデが気づいて、やさしく微笑んだ。


「素敵なペンダントね」


 そう言われて、マリエットはペンダントを握りしめた手を開いた。


「……あ、これは」


「あなたによく似合っているわ。片羽?」


「ええ。お守りのようなものなんです。

 名前も知らない男の子にもらったもので、ずっと肌身離さずつけていて……。

 あたしが生きていくための支えになるような言葉をくれたから」


 マリエットは、黄金の羽に薄紅色の半球の宝石がはめ込まれたそのペンダントを、目の高さに持ち上げた。


「この石の色を見ていると、そのときのことを思い出すんです。

 何のために歌っているのかわからなくなったり、何もかも諦めて逃げ出したいと思った時に、この石を透かして周りを見ると、景色が少しやさしい色に変わって……。

 この石が何という石なのか、それさえもわからないんです、……って、あたし、何を」


 ひとりで語りすぎたと思い、口をつぐんだマリエットに、唐突にフリーデが言った。


「薔薇色水晶」


「……え?」


「その石は、薔薇色水晶というのよ。

 穏やかでやさしい力を持つ、愛の石」


「薔薇色水晶……」


 はじめて聞いた石の名だった。

 けれど、やわらかな響きを持つその名前は、自分の心を温めてくれる薄淡い幸福の石に、ぴったりだと思った。


「その石を持っている人は、いつか愛する人に巡り会い、しあわせを手に入れるのですって。

 だからあなたにもきっと」


 そう言われて、マリエットは少し悲しくなった。

 リアンドールである自分に、いつか誰かと愛し合うような、そんな穏やかな未来は来ない。


 だからマリエットは首を振った。


「いいえ。きっと私は、恋を知ることなく終わるのだと思っています」


 自分を捕らえようとする淋しさを振り切ろうとしてそう言うと、ノイッシュが少し驚いたような顔をした。




 




「まさか本当に、離宮にオルゴールを呼ぶなんて」


 フリーデが笑った。

 いつもより表情が明るく顔色もよさそうで、ノイッシュはそれだけでオルゴールを自邸に呼ぶというこの思いつきには価値があったと思えた。


「それにしても、驚いたわ」


 やさしげに瞳を細めて、フリーデが言う。


「母上も、気がつかれましたか」


「ええ」


 ノイッシュはカーテンを開けた窓の外を見た。

 マリエットが歌いながら座っていた木の、折れてしまった枝の根元は、真新しい生木の裂け目を見せていた。


「ノイッシュ」


 母に呼ばれ、ノイッシュは視線をベッドに戻した。


「私はあなたに、ずっと私の言うことを聞かせてきてしまった。

 イングリット妃に怯えて、ヨルン王子に遠慮し。

 王位争いや陰謀といった宮廷を巡る面倒事に巻き込まれないようにと、あなたの持つ権利を放棄させ、あらゆる競争から身を退かせ、ただ宮廷の端で静かに控えめに生きてゆくことを強いた。

 けれど本当にそれでよかったのかと、今になって思っているの……」


「母上」


「私はもともと病弱の身、そう長くはそばにいられない、あなたを守ることが出来ないと思っていた。

 だからあなたを守りたい一心で、こうしてきたけれど」


 フリーデの若草色の瞳が、まっすぐにノイッシュを見ていた。


「……ノイッシュ、今まであなたを縛ってきた、私が言えることではないかも知れない。

 けれどあなたがもしもこの先、本当に何かを望んだなら、そのときはあなたの思うようにしなさい。

 そのために何を捨ててもいい。

 あなたには、それだけの意志の強さがある」


「母上……」


 窓の外で、折れた木の枝が、さあっと吹いた風に、ゆらゆらとゆれた。








「……行かなきゃよかったわ」


 離宮の内部の見取り図に燭台の位置を書き込みながら、マリエットは言った。


 確かに邸内の下見は出来た。マリエットの得てきた情報で任務の成功率もかなり上がるだろうと思われた。

 けれど単にターゲットでしかなかったはずの第一王子ノイッシュは木から落ちたマリエットを助けてくれて、その母フリーデはマリエットの歌を心から喜び、やさしい声を掛けてくれた。


 彼らの顔を思い浮かべると、マリエットの心が軋む。


 自分はリアンドールなのだから、このようなことはこれからいくらでもあるだろう。

 若い女が請け負う任務の中には、ターゲットに近づき、恋愛感情を持っているかのように振る舞い、親しくなって油断を誘い寝首を掻くような任務もあるのだ。


 先が思いやられる。ほんの少し縁を得ただけの相手にさえ、いちいちこのような感情を持ってしまうようでは。


「初めてだからよ、今だけ。仕方がないじゃない」


 口に出してつぶやかなければ、罪悪感に負けてしまいそうだった。


 マリエットは余計な感情を振り払おうと、強く頭を振った。そして普段は結わない髪をきゅっと纏め、ピンで留める。

 着ていた上品な訪問着を脱いで、ぴたりと無駄なく身を包む黒い服に着替えた。

 短めのスカート。爪先まで覆うタイツに、バレリーナが履くようなシューズ。


 そしていつも肌身離さずつけているペンダントを外して、引き出しの中に入れた。


 これをつけたまま、誰かに危害を加えるようなことをしたくなかった。

 そのようなことをしたら、あのたいせつな思い出までもが現実に汚されてしまう気がして。


 そのとき、扉をノックする音が聞こえた。


「準備は出来たか」


「ええ」


 マリエットが答えると、グレイが扉を開けて入ってくる。


「作戦を確認する」


 そう言いながらグレイは、マリエットが先刻細かく書き込みを加えた邸内の見取り図を、もう一度じっくりと見た。

 それからその紙を灰皿に落として燃やす。万が一の際に、証拠になるようなものを残さないように。


「見張りは外の入り口に二人。使用人はこの時間にはもういない。

 邸内にはノイッシュとフリーデの二人だけだ。

 見張りは私が麻酔銃で眠らせる。おまえはノイッシュがどの部屋にいるのかを外から探り、明かりを消して侵入、ターゲットを拘束しろ」


 マリエットは頷いた。それからわずかな逡巡の後、口を開く。


「……ねえグレイ。あたしが彼を攫って、ギルドに引き渡したあと、あの王子はどうなるの?」


「そこまでは知らん。それに知る必要もない。

 おまえはただ、与えられた任務をこなせばいい。

 ――情が湧いたか」


 図星を突かれ、思わずどきりとして顔を上げる。


「違うわ、そんなこと」


「歌い続けたいんだろう」


 グレイのつめたい指が、マリエットの喉をすっと撫でた。


「…………っ」


 その感触に背筋がぞくりとして、マリエットは微かに身をふるわせた。


「今更ただの少女の顔が出来るなどと思うな。

 必要とあらば親でも恋人でも即座に殺す。それがリアンドールだ。

 おまえは何のためにリアンドールになりたいと言った?」


「……薬がほしかったから」


「そうだ。おまえはそのエゴに満ちた選択を既に終えている。

 今まではまだ見習いとして扱われていたが、十六の年を迎えた今後は、一人前のリアンドールとしてギルドの任務を果たさなければ報酬は与えられない。

 忘れるな。おまえが望んだのだ。自分が命と歌とを失わぬために、それと同等のものを、他人から奪うことを」


「――わかってるわ!」


 喉元を滑る指を払い、マリエットはグレイを睨んだ。そんなマリエットに、グレイが刃のような視線を向ける。


「心を殺せ。おまえが生き延びたいのなら」









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