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王子と姫と歌姫と

 窓から差し込む午後の光が、寝室を金色に満たしていた。


 ファレーナ王国の第一王子ノイッシュは、母フリーデの眠るベッドのカーテンをそっと開けた。

 その顔を見ようと身を屈めると、母譲りの明るい金色の髪がはらりと落ちて視界にかかる。


 今年ノイッシュは十八歳になったが、それでも未だに他人には、母との印象の類似をまず言われる。

 髪の色だけではなく、春の若草を思い起こさせる碧の瞳も、生き写しのように似ていると。


 ノイッシュの気配を感じたのか、眠っていたフリーデがうっすらと目を開けた。


 母に請われるまま長めに伸ばした髪を片手で除けて、ノイッシュは訊ねた。


「起こしてしまいましたか」


 フリーデが微笑んだ。


「いいえ、先刻から半分は起きていたの。

 今日は暖かくて、とても気持ちがいいわ」


 そう言う母のベッドのそばの椅子に、ノイッシュは座った。


「母上、今日は異国のオルゴールが、城にやってきました」


 長いこと病床にある母に、日々の出来事を語って聞かせるのが、ノイッシュの日課だった。


 朝から夕方前までの宮殿での執務を終えて離宮に戻ってくると、まずはこうして寝ている母の元へ直行する。


「三ヶ月後の建国百周年の式典のために呼ばれたオルゴールです。

 式典が終わるまでずっとここにいて、舞踏会や晩餐会など、式典までひっきりなしに続くパーティで歌ってくれるそうです」


「まあ、私も聴いてみたいわ」


 そう無邪気に母が言うのを聞いて、ノイッシュはわずかに、形のいい眉をくもらせた。


 彼女が宮廷でオルゴールの歌を聴けることはないだろう。

 母の病はもう回復は見込めず、既に医師からは身を起こして室内を歩くことすら止められており、もって数週間の命と言われていた。


 母が何かを望むなら、どれほどつまらないこともひとつ残らず叶えてあげたかった。しかし母は滅多に、自分の希望を口にすることはない。


 時々思う。母はあの華やかな王宮で暮らしたいとは思わなかったのだろうか。

 国王の第二妃という身分にそぐわぬ、中央から離れたこんな小さな離宮ではなく。


 父であるファレーナ王の正妃イングリットは女ながらに権力欲が高く、自分の子であるヨルンを次期ファレーナ王にさせようと躍起になっていた。


 現国王がなした子はそのヨルンと、第二妃フリーデが生んだノイッシュの二人であったが、イングリットの権力への執着を見たフリーデは息子の身に危険が迫るのを感じ、早いうちからノイッシュを連れて宮殿を出て、王位争いから身を退かせた。


 それ以降、ノイッシュとフリーデは、城の敷地内でもかなり外れに位置する離宮で、王妃を刺激せぬよう最低限の警備兵をつけただけの慎ましい生活を送っている。


 幼い頃から、ずっとノイッシュは母に言われてきた。

 多くを望まず、目立たず、才気顕すことなく、弟王子の影に隠れて生きるようにと。


 ノイッシュはそれに逆らうことはしなかった。愛する母の数少ない願いなら、と。








「ノイッシュ」


 声をかけられて振り返ると、見慣れたダークブロンドの髪が目に入った。


 夜会が行われている大広間の隅にいたノイッシュを目敏く見つけて声をかけてきたのは、ノイッシュの幼なじみで、この国の貴族の中で最も力を持つ、セレスタン公爵家の若き当主エーベルだった。


「珍しいな、ノイッシュが夜会に顔を出すなんて」


 エーベルが給仕のトレイからカクテルグラスを取り、ノイッシュに渡す。


「ありがとう。母がオルゴールの歌を聴きたがってね」


「フリーデ様が? 

 だが聴きたいといっても、外出もままならぬ御身体だろうに」


「ああ。だからせめて土産話でも持って帰ろうと思って、オルゴールの歌を聴きに来たんだ。

 歌だけ聴いたら、人目につく前に帰ろうと思っている」


 そんなノイッシュを、まるで実の弟に向けるようなまなざしで見て、エーベルが言う。


「そう言わず、ゆっくりしていけばいい。

 夜会に顔を出すのも久しぶりだろう」


「あまり目立ちたくないんだ。

 殊にここのところ、式典を控えた時期だからか、身辺に面倒が多くてね」


「……ああ」


 それだけの説明で、エーベルは事情を察したようだった。


 三ヶ月後の式典で、次期王位継承者が正式に決まる。

 その所為か、どうもノイッシュの身辺も落ち着かないものになりつつある。


 弟王子と王妃には、随分と以前から、王位継承権を放棄する旨を伝えてあるのだが、どうにも信用ならないらしい。

 近頃身の回りで、少々不穏に感じられる出来事が増えていた。


 誰に聞かれるともわからぬ場所で、これ以上この話を続けるのは得策ではない。

 それをわかってのことだろう、エーベルが明るい調子で話題を変えた。


「それよりどうだ、妹の歌は」


 今舞台の上で歌っているのは、エーベルの妹のファナだった。

 亜麻色の長い髪を複雑な形に結い上げて、上品なドレスに身を包んでいる。

 ファレーナ一の歌姫と名高いファナの声は、確かに澄んでいて心地よく、いい歌だと思う。けれど。


「すまない、僕はあまり、歌の善し悪しはわからないんだ」


 そう正直に言うと、エーベルが苦笑した。


「お世辞でもいいから褒めておけ、こういうときは」


「おまえ相手にそれでは、礼に欠けるだろう。

 ……本当に、よくわからないんだ、歌が上手いとか下手だとか、いいとか悪いとか」


「ノイッシュは昔からそう言うな」


「ああ。数年前に、一度だけ、本当にすごい歌を聴いたことがある。

 あれ以来、そのほかのどんな歌も、僕の心に響かなくなった」


「またその話か。魔女の歌に魂を奪われた船乗りのようだな」


「そうかもしれない。けれど忘れられないんだ」


「おまえが我が妹の想いに応えようとしないのは、その魔女のせいか」


「ファナがなんだって?」


 そんなやりとりをしていると、ファナが歌い終え、舞台を降りた。


 一曲歌うと次の歌い手に舞台は譲られる。

 その出番はあらかじめ決められており、数人の歌い手が交代で歌うために、次の出番までには長い待ち時間がある。


 パーティの華でもある歌姫は、自分の出番がない時間はダンスをしたり、軽食を摘まみながら歓談をするのだが、歌い手が身支度をしたり出番を待つために、特別に用意された控え室もあった。


 引っ込み思案で積極的な社交を好まないファナは、歌い終えるとその控え室に下がってしまうことが多いのだったが、今日はそのまま、エーベルとノイッシュが歓談しているテーブルに歩いて来た。


「お久しぶりです、ノイッシュ王子」


 ファナはドレスの裾をつまむと、上品に会釈をした。


「ノイッシュ王子が、夜会にお見えになるなんて」


「たまにはね。久しぶりだね、ファナ」


 その横で、シスター・コンプレックスで有名なエーベルが大仰に妹を褒め称えた。


「今日の歌もすばらしかったよ、ファナ。

 おまえはこの国で一番の歌姫だ」


「もう……兄様はいつもそればかり」


 ファナが頬を染めて、恥ずかしそうにうつむいた。


 そのとき、華奢で小柄なひとりの少女が舞台に上がった。

 赤い花を一輪飾っただけの栗色の髪は結っておらず、そのままドレスの肩に掛かっている。


 この国の貴族の女性は、長く伸ばした髪を結い上げるのが一般的で、足取りに合わせてゆれる、さらりとしたまっすぐな髪は、それだけで随分と印象的だった。


「オルゴールだ」


 ホールがかすかにざわめく。

 遠い異国の芸術ギルドから、わざわざ式典のために呼ばれたオルゴールの歌がどのようなものなのかと、誰もが皆、期待と興味が綯い交ぜになった目を向けている。


 オルゴールの少女がはじめの一音を唇に乗せた。

 美しく伸びやかな声が、ホールに響き渡る。

 その瞬間、場の空気が変わった。


 鳶色の瞳が強い光を孕み、歌いはじめる前は小さく見えたその姿が、別人のように大きく見える。


 さざめいていた歓談の声が止んだ。


 オルゴールの歌を聴き、ノイッシュが小さなつぶやきを洩らした。


「あれは……」


 その声も、オルゴールの歌にかき消される。 

 音量ではなく、響き渡る歌声の、圧倒的な存在感に。


 誰もが舞台の上のオルゴールの歌に心奪われ、その姿に見入っていた。


 時間の流れが止まる。

 オルゴールの歌った一曲が、どれほどの長さだったのかがわからなかった。

 一瞬で終わったようにも、永遠に続くかのようにも思われた。


 彼女が歌い終えたと同時に、魔法が解けた。

 オルゴールが舞台の上で一礼するのを目にしたノイッシュは、思わず駆け出していた。


「……ノイッシュ!?」


 背後にエーベルの声が聞こえる。

 それを無視して、人の間をすり抜け、ノイッシュはオルゴールが下りようとしている舞台に駆け上がる。

 オルゴールの少女が、驚いてノイッシュを見た。


「すばらしい歌だった。離宮に来てもらえないだろうか。

 病で伏せっている母に、貴女の歌を聴かせたい」


 そうノイッシュが言うと、少女は一瞬だけ驚いたような顔を見せ、それから花のような笑顔で答えた。


「喜んで。身に余る光栄に存じます」









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