契約
ノイッシュが扉を押すと、隙間から薄明かりが差し込んだ。
扉は分厚く重く、ノイッシュは体重をかけてその扉を向こう側に押し開いた。
まぶしいほどに明るいわけではないのに、闇に慣れた目に光が痛く、マリエットは反射的に目を瞑った。それから、ゆっくりと目蓋を開く。
扉が開いたまだその先にも、土壁がむき出しになった通路が続いていて、光は少し先の出口から差し込んでいた。
その光を背に、出口の前に立っている影が目に入った。
逆光ではっきりとは表情がうかがえないその人影が動いた。
銃を持った腕が上がる。
マリエットにとってはあまりにも見慣れた姿。
「裏切るのか、マリエット」
淡々としたグレイの声。
その声は底冷えするほどにつめたかった。
「グレイ」
「言った筈だ。おまえがやらぬのなら私が王子を殺すと。
さあ、こちらへ来いマリエット。邪魔をするのなら、おまえを先に撃つ」
「だめ、お願いやめて……!」
マリエットがノイッシュをかばうように、彼の前に出て両手を広げると、グレイが笑った。
その顔が、洩れ入る光にかすかに照らし出される。
「それが答えか」
グレイはマリエットに、すっと銃口を向けた。
「ちが……」
黒い銃口、それと同じ色をした漆黒の瞳に射貫かれ、マリエットは立ちすくんだ。
彼に刃向かえば、こうして容赦なく切り捨てられるのだろうと思ってはいた。
けれど長いことそばにいたその間に、自分に対して多少なりとも愛着が生まれているのではないかと、そんな希望を心のどこかに持っていた。
が、それはやはり錯覚だった。
彼は怒っているだろうか。
否、怒りを覚えるほど自分に対して感情を持ってはいないだろう。
邪魔だから殺す、それだけ。
わかっていたことなのに、現実を目の当たりにして悲しみに力が抜ける。
マリエットは銃口の前に無防備に立ち尽くした。
引き金にグレイの指がかかる。ノイッシュの声が響いた。
「マリエット!」
ぐいと腕を引かれ、強い力で抱き寄せられ地面に引き倒される。
と同時に銃声が響いた。
辺りに漂う火薬のにおい。彼の腕に抱きすくめられたまま、マリエットは我に返り小さく悲鳴を上げた。
ノイッシュの服の上腕が破れ、血が出ている。
「掠っただけだ、大丈夫」
マリエットの耳もとで、ノイッシュが言う。
「でも……!」
傷を負ってもなおマリエットを離そうとしないノイッシュの腕の中で、マリエットはグレイを見あげた。
そんなふたりに、グレイが銃口を向けたまま近づいてくる。
「……裏ギルドのリアンドールか」
ノイッシュがマリエットをかばう位置で身を起こして言った。
返答の必要を認めなかったのか、グレイは何も答えない。
ノイッシュはそんなグレイをまっすぐに見返し、口を開いた。
「取引をしよう」
その言葉を聞いたグレイの目に、わずかに意外そうな色が浮かぶ。マリエットは思わず声をあげた。
「取引って、何を……!」
ノイッシュは何を言い出すのか。グレイに取引を持ちかけるなんて。
それは裏のギルドと関わりを持つということ。一度契約を結べば、金だけでは済まないその対価を払い終えるまで、薄暗い社会との縁が切れることはない。
彼はそんなものに関わっていい人ではないのに。
「言ってみろ」
「王妃が支払った三倍の額を払う。
彼らを失脚させ、自分を王位につけろ。
そしてマリエットを、裏ギルドから解放してくれ」
マリエットは驚いて、ノイッシュを見あげた。
グレイがノイッシュに銃口を向けたまま嘲笑する。
「そして殺すのか?
マリエットはギルドの薬がなければ生きられない」
「それはギルドの医者と取引をする」
「希少な薬だ。いくらかかると思ってる」
「一国の王位継承者、その未来の妃の薬代くらい国庫から出す」
ノイッシュが言ったその意味が、一瞬マリエットには理解できなかった。
脳内でもう一度反芻し、それからノイッシュを見つめてまばたきをする。
「…………え?」
何も言えずにいるマリエットに、ノイッシュがやさしく笑んだ。
「いやかな」
「だめよ!」
マリエットは首を振った。
裏のギルドとの契約が、どれほど逃れ難いものかを知っている。
それをまさか自分のために。
「こんなの、一時の感情に流されて……」
「一時の感情じゃない。
マリエットがオルゴールとしてここ来て、歌った最初の時に気づいてた。
あの時路上で歌っていた子だって」
ノイッシュが、マリエットがいつも下げているペンダントにふれた。
「これ、ずっと持っていてくれたんだね」
純金の翼が抱く薔薇色水晶。
先刻ノイッシュが語った話が真実なら、あの日グレーベの路上で出会った少年は。
「あなただったの……」
ノイッシュが頷く。
「あの日街でマリエットの歌を聴いて、それからこの通路を掘り始めたんだ」
「あたしの歌……?」
「そう、君の歌を聴いて、何かをせずにはいられなくなった。
マリエットが僕に夢をくれた。だから」
そう言ってノイッシュが微笑む。その向こうで、グレイが言った。
「もし我々が契約を果たし、おまえがファレーナの王となったときには、この契約を盾にファレーナの深部に仇を為す、そのような命を下すこともあるかも知れん。
断ればその代償におまえの命を貰う。
それだけの覚悟があっての選択か?」
「もちろんだ」
そう言うと、グレイが嗤った。
「それはマリエットのためか。
自らの欲望のために、他の何を犠牲にしてもいいと考える。
エゴに塗れた愚かな選択だ。あの王妃と何も変わらない」
「……そうだな。僕も王妃と同様に、王位を継ぐ資格なんてないんだろう。けれど」
そのとき、遠くから馬車の蹄の音が聞こえてきた。
グレイが銃を下げる。
「契約を受理する」
そう短く言って、グレイは踵を返した。
そして出口に向かい歩いてゆく。
「グレイ!」
マリエットは思わず叫んだ。
けれど彼は振り返りはしなかった。
グレイの姿が地上に消え、それからしばらくの後、近くで馬車の音が止まった。




