お菓子と姫と歌姫と
何とか身支度を調えて、マリエットは昼間から開催されている舞踏会の舞台に立ち、歌った。
舞台にいる間は気力だけで身を支え、歌いきることができた。
けれど一曲歌い終えて控え室にたどり着いた途端、力が抜けてマリエットはソファに倒れ込んだ。
こんな時に控え室に誰もいなかったのは幸いだと思った。体調はひどく悪く、人に見られていたとしても取り繕えない。
けれどソファに身を預け、目を閉じていたマリエットの耳に、ノックの音が聞こえた。慌ててマリエットは身を起こす。
入ってきたのはファナだった。
マリエットの様子を見て、ファナが驚く。
「マリエットさま、大丈夫ですか、顔色が真っ青……!」
慌ててソファに駆け寄ってくるファナに、マリエットは何とか微笑んで見せた。
「心配おかけしてごめんなさい。
ここに来てから三週間ほど経って、疲労が重なってきているみたいで……」
「こんな体調で歌っていらしたのですか?」
「あたしは、オルゴールだから……。
どんな時でも、どんな状態でも、歌えるんです」
そう笑ったマリエットに、ファナが言う。
「オルゴールとは、皆そうなのですか。
それほど調子がお悪いのなら、休んでいらっしゃったほうがよいのに……」
「それでも、歌っていたいの。
あたしの歌が、届くのなら」
広間の隅で舞台の上の自分をじっと見つめるノイッシュの視線に、マリエットは気づいていた。
目を合わせることはしなかったが、それでも今日の舞踏会に、彼がいてくれてよかったと思った。
今は本当は、ノイッシュのためだけに歌っている。
ほんの一瞬だけ、目の前を通り過ぎた歌姫の歌が、これから先記憶に残るようにと。
少しでも彼が、自分のことを憶えていてくれたらいいと。
歌っている自分を見ていてくれたノイッシュの表情を思い出すと、緊張にこわばっていた心が温まりゆるりと解ける。
彼はここにはいないのに、そのまなざしを心に描くだけで、尽きてしまいそうな体に再び力が戻ってくるような気がしていた。
今はもう、そんな気持ちを知ることができただけで、充分だと思える。
ファナは、そんなマリエットを、じっと見つめていた。無言で。
「……ファナ姫?」
その沈黙とまなざしを怪訝に思い、マリエットが名を呼ぶと、ファナが我に返り、慌てた。
「ご、ごめんなさい、ぼうっとしてしまって」
それからファナは、手に持っていた小さな包みをマリエットに見せた。
「あっ、あの、マリエットさま、これ、私の家に伝わるお菓子なのですけど。
その……疲労、とかに効きますので、よかったら」
やけに辿々しくそう言って、ファナが菓子をマリエットに差し出す。
マリエットはぼうっとしたまま、その砂糖菓子をファナの手から受け取った。
「ありがとうございます、ファナ姫」
そう答えて何とか笑い返したが、熱で思考が纏まらない。
ぼんやりしたまま、マリエットはふるえる指先で包みを開けると、菓子を口に入れた。
上品な甘さが口の中に広がる。
それは熱で体力を奪われ、弱っているマリエットの心に、体に、染みわたるような甘さだった。
「……おいし」
思わずそうつぶやいたマリエットを、ファナが、心配そうに見つめていた。
控え室に入っていったファナを、エーベルは廊下でずっと待っていた。
もし何か不穏な気配を感じたら、すぐにでも中に飛び込もうと。
けれど中からは物音らしい物音も聞こえてこず、わずかに妹とオルゴールの静かなやりとりが漏れ聞こえてくる程度だった。
しばらくして、ファナが扉を開けて部屋から出てきた。
彼女は思い詰めたような表情をしていた。
「お兄様……」
エーベルは無言で、そんなファナの肩をそっと抱くと、廊下を歩き、普段自分が執務室として使っている部屋へファナを連れていった。
扉がぴったり閉まると、ファナがエーベルの袖を掴んで訴えた。
「お兄様、わたくしわからなくなってしまいました。
本当にあの方は、ノイッシュさまに危害を加えるような悪人なのでしょうか?」
ファナの表情に見えるのは、オルゴールを騙したという罪悪感と後ろめたさ、そして形容し難い痛みだった。
「ファナ」
「あの砂糖菓子を、マリエットさまに手渡したときに、わずかに指先がふれました。
……とても、熱くて。本当にお辛そうで……」
そう言ってファナはうつむいてしまった。
このような心痛を妹に負わせてしまったことに多少の罪悪感を抱きながら、エーベルは安心させるように、ファナの背中をとんとんと叩いた。
「だとしたら、余計に早く解決せねばならないだろう。
王子のためにも、オルゴールの姫君ものためにも。
もしもファナが言うとおり、彼女が真実悪者ではないのだとするなら、なおさらだ。
……辛い思いをさせたね、ファナ」




