自由と不自由
それからも連日、宮殿のどこかでパーティは行われていた。
大きな催しから小さなサロン、昼に行われる舞踏会から、夜に開催される夜会まで。
そのたびにマリエットは舞台で歌った。
連日の開催ともなると、他の歌い手たちは毎日舞台に上がるわけではなく、数日おきに歌うのが慣例ともなっているようだったが、マリエットはそれには倣わず、毎日舞台に上がっている。
マリエットはオルゴールとしてこのためにファレーナに呼ばれてきているのだし、歌はマリエットにとっては麻薬のようなもので、歌っている間だけは、不安に苛まれることもなく、孤独を感じることもなく、自分に与えられた任務のことを思うこともなく、ただの歌うたいとしてのマリエットでいられる。
その日マリエットが呼ばれたのは、いつもより小さいホールで開催されたこぢんまりとしたパーティだったが、ノイッシュも招待されていた。
彼はセレスタン公爵と同席していることが多かったが、今日は公爵はいないようで、ノイッシュはひとり舞台の近くでマリエットの歌を聴いている。
ノイッシュがマリエットへの興味をあまり隠そうとしないのと、はじめてマリエットが歌った時にノイッシュが舞台に駆け上がり、オルゴールに声を掛けて離宮へ招いたこと、そして最近まで彼がこのような社交の場に顔を出すことはほとんどなかったのに、ここのところ頻繁にその姿を見かけるということとで、王子がオルゴールに熱を上げているらしいという噂は、すでに宮中に知れ渡りつつあった。
マリエットが歌い終え、舞台を下りると、ノイッシュが近づいて来た。すっと手が差し出される。
「一曲、お願い出来るかい?」
マリエットは微笑んで、ノイッシュの手に自分の手を重ねた。
「喜んで」
しっとりとした音楽が奏でられる中、ノイッシュににリードされて踊りながら、マリエットは、今までになく彼と密着していることに気がついた。
何故だかどきどきする。こんなことは任務のためにしているだけのはずなのに。
オルゴールとして、そしてこのような場所へ入り込むことが多いリアンドールの訓練の一環として、ギルドでは、ダンスもしっかりたたき込まれた。
マリエットにダンスを教えたのはグレイで、彼のダンスはとても上手だった。
けれど眉ひとつ動かさない冷徹な表情をまったく崩すことなく踊るので、マリエットは文句を言ったことがある。確かに完璧なエスコートかも知れないが、ムードもへったくれもないと。
グレイには、教えるために踊っているだけなのだから、そんなことはどうでもいいと言われたが。
そんな、氷の人形と踊っているような気分しか味わったことがなかったマリエットを、ノイッシュは上手にエスコートしてくれる。
グレイと踊っていたときは、ついて行くのに精一杯で、激しいスポーツでもしているようだったが、ゆったりとして上品な彼のダンスはそれとは正反対だ。
マリエットを穏やかに見つめる翠玉の瞳。
ノイッシュのリードがあまりに優雅でやさしいので、妙な錯覚を覚えてしまう。
それを振り切ろうと、マリエットは踊りながらノイッシュに訊ねた。
「ねえ、そういえばあなたは、どうして穴を掘り始めたの、そのきっかけは?」
話の糸口は、相手が興味を持っているところから掴む。それがセオリーだと教えられた。
けれどまさか一国の王子をターゲットにした任務で、相手と親しくなるために用意する話題が、穴掘りになるとは思わなかったが。
それでもやはりセオリーであることには間違いがなく、マリエットが出した話題にノイッシュはうれしそうな顔をした。
「自由になりたかったんだ」
「……自由?」
「そう。王座など望むなと、随分幼い頃から母に言い聞かされてきた。
弟王子とぶつかるようなことはせず、ただひたすら目立たないように。
……別に、それはそれでよかったんだよ。僕は争いたくなんてないし、王座なんていうものにも興味はない。
ただ、今もこれから先も、自分が生きる世界の中で何の役割も得られないのだと思いながら生きてゆくのは、むなしくて、それなりに辛いものだった。
宮廷学校で出会う同年代の子どもたちは、皆家のために学力を伸ばしたり、騎士になるために剣の腕を磨いたり、それぞれに努力していて眩しかった。
僕はいい成績を取ることも、剣技を磨くことも禁じられていたから。
何しろ弟より目立つことがあってはならなかったんだ」
「……それは、随分窮屈ね」
「うん。しかもね」
クライマックスに向かっていく曲が、ふたりの声が周囲に聞こえないように、音のカーテンの役割を果たしてくれている。
それでもノイッシュは声を潜めて、マリエットの耳もとで言った。
「弟はね、こう言っては何なんだけど、学力と知識と運動神経に少々難があってね……」
「なにそれ、全部じゃないの」
「実はそうなんだ。だからそれを超えてはいけないって、結構大変でさ」
「人柄は?」
「なんていうのかな、ちょっと言いにくいな……。
まあもう少し、人を思いやる心や、思慮深さがあればばいいのにと思うことは、あるかな」
ノイッシュは、そう言葉を濁した。
知り合ってまだ間もないが、ノイッシュが皮肉や悪口を好む人格ではないということはわかる。
その彼がこうして歯切れの悪い返答を返す以外にない程度には、どうしようもないということか。
「それは大変だったわね、同情するわ」
マリエットは、心から言った。
「ありがとう」
ノイッシュが苦笑した。
「だから穴掘りを始めたんだよ。
この方面の知識と技術なら、いくら磨いても弟と競合することはないだろう?」
「そんな理由だったの」
「あと、もうひとつ。
子どもだった僕は、自分が掘った穴が外に繋がれば自由になれる気がしていたんだ。
だから土の壁を削る一掘り一掘りが、僕が望む自由に近づいているんだと思えた。
外に行って自由になれたら、弟のことも気にせずに好きなだけ勉強も出来る。
本当は僕は、貴族の子弟ばかりが集まる宮廷学校なんかじゃなく、貴族も平民も関係なしに実力だけで入学が決まる国立学院に入りたかった。
そこでたくさんのことを学んで、広い世界に出てみたかったんだ。
……でもね、そんなことを思いながら、何年もひたすら掘り続けていたら、本当に壁を越えて外に出てしまった。
そしてずっと抱いていた望みが叶ったときに、わかってしまったんだ。
僕は、育った環境を、僕を待っている母を、捨てられなかった。
折角外に出られたのに、そのまま旅には出られなかった。
国立学院に飛び込むことも出来なかった」
「……それは、仕方がないわ」
マリエットは、離宮に招待されたときに、彼とその母が笑い会うさまを思い出して言った。思い遣りにあふれた、やさしい空気を。
「そう。わかっているんだけどね。
……式典が終わり、正式に弟が王位継承者に決まったら、旅に出たいな」
「前にも言ってたわね。そんなに旅がしたいの?」
「うん。昔まだ元気だった母と旅行したときに、僕はとても強くて自由できれいなものを見たんだ。
この世の何よりも美しいと思った。それと同じようなものをもう一度見たいとずっと思ってた。
旅をすれば、そういうものにずっと出会い続けられるのかと」
「そう……」
きっとノイッシュよりは自分の方が、広い世界を見て来ただろうと、マリエットは思う。
それでも彼が言うようなものに出会えたことはない。
この世にある美しいものに、自分が関わる機会はきっとない。
世界は平等ではなく、恵まれた立場にいなければ見ることができない景色はいくらでもある。
だからマリエットは歌うのだ。
歌えばそれと同じくらいに、美しいものが見られるような気がしているから。けれど。
「……あたしは、そんなもの見たことがないわ」
それでもノイッシュの言う美しい景色には、自分が歌の中で見る世界など、到底敵わないのではないかとも思う。
夢と現実のどちらが強いかといえば、それはきっと現実の方だ。
「でも見なくていい。きっと悲しくなるから」
踊りながら、ちいさな声でそうつぶやいたマリエットに、ノイッシュが言った。
「君と僕とは、全然違う環境にいるけれど、不自由さだけは似ているね」
「え?」
「いつか自由になりたい?」
ノイッシュの言葉に、マリエットは少し驚いて顔を上げた。
「……自由に、なんて、考えたこともないわ」
自分にとっての自由とは、どのようなものだろう。想像がつかなかった。
好きなように自分の歌だけを歌えることだろうか。
けれどギルドから離れれば薬はもらえない。
薬がもらえなければ歌えなくなり、死ぬしかない。だからわからない。
「望むことを諦めちゃだめさ」
ノイッシュが言った。
「諦めずにいれば、機会が訪れたときに、自由への道を選べるから」
ノイッシュの言葉に、マリエットは少々の苛立ちを憶えた。
マリエットの置かれた立場がどのようなものかを知らないから、そんなに勝手なことを言えるのだ。
「どうやって。無理よ、あたしは死にたくないもの」
気楽な様子でそのようなことを言うノイッシュこそが、今リアンドールである自分に狙われているのに。
心をゆるしたマリエットに裏切られ、王宮から連れ去られ自由を奪われたときに、同じことを言えるのか。言える筈がない。
けれどそれを滑稽だと笑えなくなっていることに、マリエットは気がついた。
「……そんなお気楽なことを言ってないで、もう少し身辺に気をつけた方がいいわ」
思わずそう言ってしまってから、マリエットははっとして口をつぐんだ。
彼を誑かして解毒剤を奪ったあとに、その身柄をおさえるのが自分のするべきことだというのに、警戒心を煽ってどうするのか。馬鹿だ。
「心配してくれているのかい?」
ノイッシュがそう言ってマリエットの顔をのぞき込む。
マリエットは思わず、ぷいと顔をそらした。
「違うわ。随分とめでたいことを言ってると思っただけ。確かにあなたは、世間知らずの王子様だわ」
「そうかな」
そのとき、音楽が終わった。
「じゃあマリエット、その世間知らずが、外へ行きたくて掘った穴を見てみないか?」
「……え?」
ノイッシュが答えを待たずに、マリエットの手を握った。
そして踊り終えた人たちの間をすり抜けて、扉に向かって歩いてゆく。
ホールを出る瞬間にマリエットが振り返ると、人の視線を痛いほどに感じた。




