友達になってよ
「ああ、こんなところに座らせたら、スカートが汚れてしまうね」
そんな心配をするノイッシュに、マリエットは笑った。
「湖で裾を濡らしながら遊んでいたのに、今更です。気になさらないで」
「そうか」
ふたりは、再び静けさを取り戻した湖面を見た。
「とても、落ち着いた場所ですわね」
「ああ。子どもの頃からここが気に入っていて、よく来ているんだ。自邸からも近いし」
「そんな昔から離宮に」
「そうなんだ。王位を継ぐ気はない僕が、王族の暮らすフロイア宮殿に居を置く資格はない、そう思って、僕がまだ幼い頃に、母とふたりこの離宮に移り住んだんだ。
それでよかったよ、弟のように必死に勉強をせずに済んだし、自由で気楽だった。好きなことばかりしていた」
「好きなこと……」
「うん。穴を掘るのが好きなんだ」
「……穴?」
思えば先日、離宮でもそんな話をしていたような気がする。けれど王子の言う穴掘りが、一体どのようなものなのかが想像がつかない。
一国の王子と、穴掘りという単語に、共通点を見いだせなくて困惑を憶える。
「不思議だって顔をしてるね。だけど趣味って、人それぞれあるだろう?
思いも寄らぬ人が思いも寄らぬことを好んでいたりもする。
僕の場合はそれが穴掘りだった。……そうだな、多分、暇だったんだよ。王位は弟のものだと最初から思っていたし、他の貴族の子弟のように、継がねばならない家もない。勿論最低限の勉強はしたよ、王位は継がなくとも、一応王家の子孫が、あまりに愚かではみっともないからね。
それでも時間は有り余っていて、そんな頃、フロイア宮殿の地下道の修復工事があったんだ」
「地下道? そんなものが城内に」
「うん。フロイア宮殿の下は、地下道が整備されていてね、宮殿と敷地内の主要な場所は、すべて地下で繋がっている」
「じゃあ、離宮と宮殿も?」
ノイッシュが頷く。
「ちょうど、離宮への地下道の入り口が崩れかけていたので、その修理が始まったんだ。
多くの職人が、道具を手に地面や石を掘っていくのを毎日見てた。
そうしているうちに道具の使い方を覚えてしまって、自分でもやりたくなった。
夕方前には工事夫たちも仕事を終えて帰るから、そのあとは誰もいないんだ。
地下道に入って勝手に探検しているうちに、中の構造もだんだんわかってきた。
王宮の図書室に行って、関連の書籍を何冊も読みあさり、いろいろなことを調べたよ」
「ノイッシュ王子は、研究熱心なのですね」
つい口を出た、それはマリエットの本心だった。ノイッシュが笑う。
「楽しかったんだよ。地下道にはいくつか舗装されていない横道があってね。
工事で使ってる道具を勝手に借りて、一番端の、土がむき出しのままの地下水路の行き止まりから、僕は穴を掘り始めたんだ。
自分の方向感覚と距離感が間違っていないなら、ずっと掘っていけば、外に出られるんじゃないかって思ってさ」
「外って、ファレーナ城の庭園の壁の向こうに、ですか?」
「そう。ファレーナの王族は、特別な行事でもない限り、ファレーナ城の敷地外に出ることはほとんどないんだ。
だから外に憧れてた。離宮は敷地の一番外れにある。そこからずっと掘っていけば、そのうちに壁の外に出られるかも知れないと」
「それは……また、突拍子もないことを」
「子どもだったからね。
でも、子どもの手でも、毎日少しずつ掘れば案外長い道が掘れるもので。
五年ずっと掘り続けて、最終的には本当に外に出てしまったんだ」
「信じられない! 五年も穴を掘り続けてたの!?」
マリエットが驚いて叫ぶと、ノイッシュが照れたような顔を見せた。そしてマリエットは、はっと気づく。
あまりのことに、相手がどういう身分の者かを一瞬失念して、つい砕けた口調になってしまった。
育ちの悪さというものはなかなか取り繕えないものだと、自分のことながら呆れる。
「……ほ、掘り続けていたの、ですか?」
恥ずかしさに思わず上目遣いになって、マリエットが慌てて言い直すと、ノイッシュがおかしそうに笑った。
「ここには君と僕のふたりだけだ、そんなに畏まらなくていいよ。
こんなのも今だけさ。そのうち弟が正式に王位を継いだら、僕は市井に出て、平民と同じように暮らす。
夢なんだ。自由になったら、いつか旅に出たい」
「旅?」
「そう。生まれてから今まで、ただ一度だけ母と旅をした時の他は、ほとんどこの壁の中にいたからね。
ここを出て自由になりたい。だから、僕の初めての、城の外から来た友達になってくれるかい、マリエット」
穴掘りだの旅だの友達だのと、王子、という身分から予測していたことは何も当てはまらず、どこまでも予想外で、マリエットは困惑を隠せなかった。
「……友達、って、だってあなたは一国の王子で」
「それはさっきも聞いたよ。そして僕はどうでもいいことだと言った。
確かに今はまだ僕は王子と呼ばれてる。それは仕方がない。
だからふたりでいるときだけでもいいんだ、友達になってくれないか?」
まさか一国の王子から、このようなことを言われるとは思っていなくて、マリエットは戸惑った。
そんなマリエットを見て、ノイッシュが少しさみしげな微笑を浮かべた。
「……って、突然そんなことを言われても困るよね。
友達なんて、頼み込んでなってもらうようなものでもないし、外の世界に居場所を持っている君は、きっと本当の友達を、数多く持っているのだろうし」
そう言われてマリエットは、思わず黙り込んだ。
自分には友達などいない。
自分の周りにいるのは、自分たちを使役するギルドの人間と、マリエットをリアンドールに育てるために手元に引き取ったグレイだけだった。
そのグレイも、自分に愛情や関心を持って、そばに置いてくれているわけではない。
ただ、彼の手足となり働くリアンドールが必要だったから。
「マリエット?」
ノイッシュが、黙ってしまったマリエットの顔をのぞき込む。
「あっ」
マリエットは我に返り、慌てて顔を上げた。
あまりに唐突に予想外のことを言われたために、思わず返答に窮してしまったが、よく考えてみれば、自分がここにいるのは、彼と親しくなり解毒剤を手に入れることと、彼を王宮から連れ去るという任務のため。
彼の方から近づいて来てくれるのなら、それは願ってもないことだった。
「ええ、友達になりましょう」
マリエットが言うと、王子の表情がぱっと明るくなった。
「いいのかい?」
マリエットがこくりと頷いて笑いかけると、ノイッシュが言った。
「じゃあ緊張せずに、他の友達にするようにしてほしい。
そうだな、さっきは僕のことを話したから、君のことを何か聞かせてほしいな。友達になった記念に」
「あたしのこと?」
「そう」
「あたし、何も話すことなんて……」
「じゃあ好きなことを。歌は?」
「歌、ね……。そうね、歌うのが好きだけど、でもあたしの歌は、あたしのものじゃないから」
「君のものじゃない? それは、オルゴール……職業歌手だから?」
「そうでもあるし、それだけでもないわ」
マリエットは指の先で、喉元にふれた。
「子どもの頃、ティアナ熱に感染して」
「ティアナ熱だって?」
王子の声に驚きが混じる。
「ええ」
「よく生きていたね」
「あたし、運がいいのよ」
「けれどあの病気は、治ったとしても確か……」
「ええ」
ティアナ熱という、死んだ母親からマリエットが感染した病気は、発病すれば八割が死ぬ病気だ。
そしてたとえ病気が治癒したとしても、致命的な後遺症が残ることで知られている。
長い間かけて少しずつ喉が炎症を起こし、最終的には腫れ上がった気道が塞がり窒息し死に至る、という。
「その後遺症の進行を抑える薬がほしくて、ギルドのオルゴールになったの」
正確には、薬をもらえているのはオルゴールとしての報酬ではなかったが、無論そこまでは明かさない。
「歌うのは好きよ。歌だけがあたしの夢で、あたしの言葉。
……だけどたまにわからなくなるの。今のあたしは歌いたくて歌ってるのか、それとも生きるために仕方なく歌ってるのか」
昔、オルゴールになるためにギルドに入るまでは、後遺症で数年後に死ぬかも知れないという怖さはあっても、歌は自分のものだった。
今は、リアンドールとしての役割を果たす限り、その症状で死ぬことはない。
けれど命を繋ぐかわりに、マリエットの歌も、マリエット自身も、ギルドの道具になった。
そのときと今と、どちらがいいのかはもうわからない。
ただあのまま、好きなように好きな歌を歌い、路上で暮らしていたなら、やがて炎症を起こした喉は歌を奏でることも出来なくなっていただろうし、おそらくこの歳まで生きることもできなかっただろう。
「君は歌いたくて歌ってる。そういう歌だと、僕は思う」
「……え?」
「仕方なしに歌っている歌を聴いて、どうしてももう一度聴きたいなんて思ったりはしない」
「ノイッシュ王子……」
マリエットは顔を上げて、王子を見た。
彼の言葉がうれしくて、けれどそれゆえになんと言っていいのかわからなくなってしまって。
そんなマリエットに、ノイッシュは穏やかな表情で言った、
「少し前にね、とても悲しいことがあったんだ」
「悲しいこと……?」
「うん。でもさっきここで歌ってた、君の歌が聴けたから、もう大丈夫」
そう言って、ノイッシュが立ち上がる。
「そろそろ戻らないと。今夜の舞踏会では、君も歌うのかい?」
「ええ」
「じゃあ、聴きに行くよ。君の歌が好きだよ、なんのために歌っているのだとしても、変わらずに」




