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酒嚢飯袋  作者: アザとー
3/6

わらびもち

 夏も近くなると、衝動的に食べたくなるものがある。

 きな粉をまぶした水っぽいでんぷんの塊、つるりと喉越しのよい夏の涼味……わらびもち。

 スーパーに走っていって、パック詰めのそれを買って来る。昨今はラムネ味や蜂蜜レモン味などもあって楽しいが、私が求めるのはごくシンプルなきな粉のものだ。

 家に帰り、もどかしく黒蜜の封をあけて透き通ったもちの上に垂らす。そこへきな粉をたっぷりと降りかけて一口、食す。

 そして落胆するのだ、自分の求めていた『わらびもち』の味ではないと。

 もちろん、目の前にあるわらびもちは旨い。黒蜜のとろりとした甘みを絡めた冷たい塊が喉をくぐる抜ける冷たさは、夏日に火照った体を慰めて優しい。

 しかし、私はもっと旨いわらびもちを知っている。だからこそ最後のひとかけらで容器に残った蜜を絡めとりながら、首をかしげるのだ。

「はて、わらびもちってこんな味だったかしらん」

 思い起こせば、私にとってわらびもちとはお店で買うものではなかった。ならばどこで買うのかというと、移動販売車が回るのである。

 もっともこれは関西方面でのみでみられるものらしく、居を関東に移してからは見たことがない。冬は石やきいもに使われるのであろう少し黒ずんだ白いトラック、その荷台に据えられた大きな水槽には氷水が張られている。わらびもちは一口大に丸められてこの中に浮かんで冷たく冷やされている。

 これが週に二回、夕方になると独特の節回しで売り口上をスピーカーで流しながら回ってくるのだ。

「つめた~くて、おいし~いよ、わ~ら~び~も~ち~」

 子供たちは財布の中身を確かめながら公園横に止まったトラックに群がる。おじさんは子供たちから硬貨を受け取り、モナカで作った容器に穴あきお玉ですくったわらびもちを入れてくれる。この上にきな粉をたっぷりとかけて、爪楊枝をちょいと添えて渡される、あくまでも駄菓子の延長であるような質素な食べ物だったが、これが最高に旨いわらびもちでもあった。

 まずは何よりも、一日遊んだ体は水分を欲している。運動量の多い子供で、まして夕方までを走り回って遊べばなおさらである。

 そんな時、喉をつるりと撫でて通るみずみずしいモチのなんと旨いことか。

 加えて子供はいつでも甘いものに飢えている。砂糖を混ぜ込んだきな粉がわらびもちの水気を吸ってしっとりと練られたものがたまらなく旨い。

 つるり、ちゅるりとほとんど噛みもせずに飲み込むほど旨いのだ。

 氷水で冷やし、きな粉のみで食べるのがコツだったかと市販のわらび粉を買いに行く。小鍋でこれを練り上げ、氷水に冷やす。

 しかしこれを食べても、私はやはり落胆するのだ。

「ちがう、この味じゃあない」

 冷静に考えてみよう。移動販売のわらびもちなど旨いわけがない。

 肝心のわらびもちはたっぷりの水に何時間も浸かって揺すられながら運ばれてくる。見た目も昨今コンビニで見かけるような透き通った水の玉のごとき和菓子然としているわけではなく、白っぽくてだらしないほどぽってりと柔らかい。

 きな粉だって上品にパラリではなく、大きなさじですくってバサリとかけられるのだ。まるで砂場に落としたスライム粘土のように粉まみれになって、それがまた水を吸って色も質も変わってゆく様子がなんとも安っぽい。

 それに気づいたとき、私は妙に納得した。

「ああ、そうか、あの味は……」

 もはやどんな和菓子職人にも作り出すことはできない味なのだろう。その味はもはや私の舌の上にしかないのだから。

 夏休み、夕暮れ……あのころの私は短パンを履いて、いつも膝小僧にすり傷をこさえているような少年だった。虫取りが大好きで、公園の木の根元を掘ってジグモをとったり、兄弟と肩車しあっこして高いこずえのセミをとろうとしたり、そんなくだらない遊びに時間を費やすのが常だった。

 こうした少年時代の時間はあまりにもはかなくて短い。苦労して取ったセミが一週間もまたずに虫かごの底で干からびてしまうのに似ている。

 この年になると、わずかなノスタルジアと共にある日の、実にくだらないできごとなどをふっと思い出す。友人たちとキャッチボールしながらわらび餅屋を待った、そのときの小競り合いなどの実にくだらない出来事を。

 もちろん、そんなピンポイントの小さな出来事が私のその後の人生に何らかの影響を与えたわけではない。ただ懐かしむだけの、色あせた写真にも似た記憶を、ふと取り出して眺めているだけの、まったく恥ずかしいセンチメンタルだ。

 それでも、その記憶の中には今はもう会わなくなった郷里の友人がいる。お互いに大人になってしまい、少し離れて暮らす弟たちもいる。なにより、もう失われてしまったキラキラと美しい心を持つ私がいる。

 そんな夏の日の記憶を象徴するものが私にとっては『わらびもち』だった、そういうことだ。

 だから、どんなに追い求めてもあの味には二度と出会えない。

 食味の記憶で一番大事なのは甘かったか辛かったかではなく、どんな状況で誰と食べたかである。

 例えば「今迄でいちばんおいしかった食事」を思い出して御覧なさい、それがどんな味だったのかを聞かれれば、多くの人が困るのではないだろうか。

「う~ん、いつも行く店よりも少し濃かった気がするよ」

 ところがこれを「旨い」のひとことで済まし、そのときに誰がいたのか、どんな状況だったかを語れば口は軽く動くのではないだろうか。

 私にとってあの日のわらびもちはまさに……当時、親からはわらび餅屋での買い食いを禁止されていた。

 罰則が存在したり、親の監視下に置かれるような絶対的な禁止ではない。駄菓子屋の菓子が体に悪いからと買い食いを禁止されるような、口頭での禁止のみであった。

 そもそもがこの移動販売、学校などでも「不衛生だ」と問題視されるアングラなものである。冷房設備もない車に水槽を積んで、アスファルトがゆがみそうな夏日の中を走り回るのだから見た目的なイメージがよろしくないのだろう。おまけに、私たちのところに来る移動車の水槽のふたは簡易なもので、大人たちは「ホコリがはいる」とこれを嫌った。

 だから、このわらびもちを買い食いする行為自体が、親の言いつけにそむくちょっとした悪事だったのである。

 買ったわらびもちは家へは持ち帰れないのだから、友人たちと大きな滑り台の端に並んで腰掛けて食べる。そんなに大それたことをしているわけでもないのに、滑り台のてっぺんには見張りを立てて、大慌てでかっ込むのだ。

 あのときのドキドキや、友人の声、そしてうだるような日差しもやっと和らいだぬるい風の吹く夕べ……そうしたもの全てが合わさっての旨みだったのかと思うと、少し切ない気持ちにもなる。

 買い食い禁止令を出してくれる親のいなくなった今、もはや永遠にあの味には届かない。

 もっともこの買い食い禁止、大人になったいまに思えばあまりにもゆるい禁止であった。親が四六時中子供の後ろに張り付いているわけではないのだから、実際には効力などあって無きに等しい。

 それでも私たちは見張りを立てた。見つかってもゲンコツ一つですむものを、わざわざ大犯罪であるかのように演出して楽しんだ。

 あのころの悪ガキどもに比べると、今の子の買い食いはお上品でキレイなものだと思う。

 いまや、スーパーでもコンビにでも食品は完全包装されている。衛生的には正しいことなのかもしれない。

 ファストフードの店でもキレイなキッチンで作ったものがすぐに供される。これも衛生的には正しい。

 そのせいだろうか、今の子は食べることに対する渇望やアングラな食にたいする耐性がひどく弱い……と思うのは私だけだろうか。

 そんなことをとりとめなく考えながら、今年も小鍋でわらびもちを練る。これは時期に帰ってくる子供たちへのおやつ用に、冷蔵庫で冷やしておくためのものだ。

ウチの子供たちは私が食べさせるからだろうか、わらびもちが好物である。形は変わってしまったが、この子達がいつか年老いたとき、その記憶の中にやはりわらびもちの記憶があるようにと、想いをこめて練る。

 今年の夏も暑くなりそうだ。わらびもちが旨いくらいには……


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