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酒嚢飯袋  作者: アザとー
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貧乏鍋

 私の連れ合いは口の悪い人間で、私が母や祖母から習い覚えた料理を振る舞えば「貧乏料理」と罵るを常としている。

 別にこのことについて異論を唱えるつもりはない。確かに私が作るものは見た目からして貧乏くさいものなのだから。

 例えば庭に生えたフキ、これは春浅い細く育ったものをとって食べる。

 軽く塩で擦って数十分置く、アク抜きはこれだけ。ざっと塩を洗い流したら適当な長さに切りそろえ、熱した油で炒める。味付けは砂糖と味噌のみである。

 この料理、見た目は美しくない。アクをたっぷり吸った味噌が灰色に変わり、頼りなくくすんだ緑色のフキにドロリと絡みついている。

 これを鉢になんのてらいもなくドンと盛り付けるのだから、見た目としてはさらによろしくない。いかにも田舎の家庭料理という見た目である。

 しかし、これが実にうまい。息子などは飯を山に盛った茶碗を片手に、鉢を手元に引き寄せるほどの好物である。

 山菜味を感じるほろりとした苦味と砂糖の甘みの調和が素晴らしい。酒が進む。

加えて味噌は万能調味料であり、アクやクセの強い食材に合わせればえぐみを消してこれを旨味に変えてくれる。だから飯も進む。

 連れ合いも別に味を嫌っているわけではない。小料理屋風に小洒落た小鉢に天盛りすれば喜んでこれを食べる。しかし、食べ終わったあとの一言は「おいしいけど、見た目が貧乏くさいよね」である。

 連れ合いの思う貧乏くさくない料理というのは、ファミレス等の盛り付けが標準であるようだ。つまりはメインの料理の端に付け合わせがちょこんと乗ったアレである。

 少し安い居酒屋で、なんのてらいもなく小鉢に突っ込まれた卯の花がつき合わせとして出されれば、これもやはり貧乏くさいと罵って箸をつけない。

 そんな連れ合いでさえ気に入ってくれた料理が『貧乏鍋』である。もちろんこれは連れ合いによる命名で、本当は常夜鍋と呼ばれるものなのだが。

 作り方は至極簡単、鍋に水を張り、昆布を敷いて湯をたてる。この時、酒を一カップ程度加えるとさらに良い。

 具材は豚肉とほうれん草、ただそれのみ。

 豚肉は薄切りでさえあればどのようなものでもかまわない。我が家では子供が食べ盛りのころには脂の多い特売肉をがっつりと買い込んでこれを作ったが、酒を入れれば臭みも落ちるし、脂はゆがいたときにほどよく落ちてしまうので高級な肉を使うよりもかえっておいしいくらいだ。

 そしてほうれん草。ネットなどでレシピを調べればほうれん草に限らず、野菜であれば白菜などでもおいしいとある。しかし私が強くオススメするのはほうれん草、譲っても小松菜や青梗菜などの青物野菜までである。

 理由は至極簡単、そちらのほうがうまい。

 鍋の湯には豚肉の脂とうまみがたっぷり溶け込んでいる。ここに長く煮込む白菜などを入れると、どうしても吸い込んだ脂でもったりと重たくなりがちなのだ。

 その点、ほうれん草はさっと湯にくぐらせるだけで食べられる。シュウ酸のエグみが豚だしのインパクトにも負けず、最強の組み合わせなのである。

 これをたっぷりと。目安は一人一束である。

 我が家は四人家族なので四束のほうれん草を、ざっと洗って5センチ幅に切りそろえる。ザルに山のように盛られたほうれん草に最初は驚くかもしれないが、なに、ゆでればかさの減る野菜なのだから、一人一束なんてたいした量じゃない。

 つけダレはさっぱりとポン酢で。バリエーションとしてゴマダレを用意することもあるが、どちらにも薬味などは入れない。この鍋は簡便であるのが信条なのだ。

 そもそもなぜに『常夜鍋』などという名がついたのか、これは『毎晩食べても飽きがこないから』なのだという。ならば煩雑な手間などはぶいて素材のおいしさのみで食う、この簡便さも『毎晩』という条件には大事なのではないだろうか。

 さて、御託は置いておいて食べるとしよう。まずは煮え立った湯の中に豚肉を入れる。

 脂身がてろてろとしていた安肉も、湯でしめられてあっという間に美しいピンクになる。入れる肉の量にもよるが、ここで冷たい肉を大量に投入した結果として一度温度が下がって沸騰が止まるはずだ。ふたをしてしばし待つ。

 たいした時間ではないはずだ、飯をよそい分けている間にコト、コトリとふたが歌いだすだろう。そうすればころあい、ほうれん草をまずは一掴み入れてやる。

 肉食である我が家の家族はすでに肉を箸で摘み上げ、豚肉の柔らかさを堪能しつつ浅くゆだったほうれん草をいくつか食す。まだ芯の残るほうれん草は、葉の部分こそ食ったりと柔らかくなっているものの、噛めばかすかにシャリと葉の間に固さを残す。

 これもまた旨し。

 火がつきはじめた食欲に命じられて、ザルのほうれん草の半分ほどを湯の中にどばっと落としてやる。湯気のもうもうと上がる湯につかるや否や、ぴんと立ってかさばっていたほうれん草がくったりと柔らかく葉をまげてたちまちのうちにかさが減る。

 湯につかりきれなかったほうれん草を押し込むようにして黙々と鍋をつつく。とろりととろけるほど柔らかくなった葉の部分を肉に絡めるようにしてゴマダレで食うのも良し、まだ固さの残る茎ばかりを拾い集めてポン酢で食うもまた良し。鍋の進行と共に変化してゆくほうれん草の食味を楽しむ。

 こうしてザルのほうれん草がなくなるころには、鍋の中の肉など脂が抜けきって固くなっている。それがまたいい。

 少し紙を思わせる固い質感を歯の間でていねいに噛み切りながら、投入したばかりのほうれん草のアク味と口中で絡ませる。細かい栄養学などわからずとも、これが滋味であると感じるのは、素材をそのまま食べるようなシンプルな調理法だからだろう。

 肉は安いものでいいといったが、ほうれん草だけは旨いものを選ぶほうがいい。

とはいっても、高級スーパーで高いものを買って来いというのではない。それでは 毎晩食べられるほど財布にも優しい『常夜鍋』の意味がない。

 例えば近所の農家からほうれん草の間引き菜を手に入れたとき、これは中指ほどの大きさしかないのだからひげ根だけを切り落とし、あえてほうれん草そのままの姿でゆでてみた。シュウ酸のエグみはほとんど感じず、ゴリゴリとしているはずの根元までもが柔らかくて甘い。いまだにあれ以上のほうれん草には出会えていない。

 スーパーでも、重要なのは値段や産地よりも育ちようだ。葉っぱが深く緑になったいわゆるほうれん草よりも、まだ早い時期に出回るやや薄い色をしたものの方が常夜鍋には合う。

 もっとも、一人一束という大量のほうれん草を必要とするこの料理、最後の決めてとなるのはやはり『値段』で、ほうれん草が安いときを狙う。このほうれん草の安い時期というのはちょうど出盛りの時期であり、この時期であれば大きさの違いなどあってもまず外れはない。


――安いは旨い


 これは私が連れ合いに教えたことのうちのひとつだ。

 料理は完成段階であれば、高い方が旨いものが出てくるに決まっている。それは材料の仕入れの値段であり、店舗に置く調理人の人件費であり、料理に対する手間賃であるのだから。

 例えばチェーン式のファミレスなどの場合、調理の手間は工場が受け持つ。スープやソース類であれば工場一括で調味、調整したものが店舗に届けられるのだ。

 これは製品の均質化のためにはひどく正しい考え方である。これによって調理場に味のわかる料理人をおく必要はなくなり、人件費を安く抑えることができる。

 コンビニの弁当なども工場での一括生産だ。店舗や地域によって発注先に差はあっても、全てが同一のマニュアルで作られているのだから、やはり均質なものが出てくる。

 これはひどく正しいことである。同じチェーン内であれば味の保障はされている、これは商品を買う上での絶対的な安心感となる。

 だが、こういった均質化された料理の絶対的な落とし穴として、毎日これを食べ続けると飽きが来る。

 私の連れ合いは独身時代、調理の手間すら惜しがって毎日の食事をコンビニ弁当や安いチェーン店に求めたらしい。確かに独り身であれば金銭的にもたいした負担ではなく、片付けの手間もないのだから時間も節約できる。賢いやり方ではある。

ただし、そうした生活も一週間ほどで飽きたそうだ。しまいにはなにを食べても同じ味にしか感じなくなってしまったのだとも。

 けっか、連れ合いは私と結婚するまで朝と昼に簡単な食事のみ、夜は食べずにビールと菓子で腹をごまかすというライフスタイルであった。

 このころの連れ合いの価値観は『安いは不味い』であり、私は近所のスーパーで一緒に買い物をするときなどによく言われたものだ。

「だめだめ、そんな安い肉を買っちゃあ、不味いから安いに決まっているでしょ」

 そんな彼女の目を覚まさせるためにだまし討ちのような形で食べさせたのがこの常夜鍋である。

 ほうれん草は道端の無人販売で売っているものを一束100円で譲ってもらってきた。豚肉も業務用スーパーの大量パック、いわゆる安い肉を買い込んできたのだ。

それでも一応は鍋である。連れ合いは文句を言いながらもこれに箸をつけた。

「具がこれしかないってどんだけ貧乏なの? 普通は鍋って具材がいっぱいあってさあ、エビとか蟹とか入ってるんじゃないの? それに、なんで白菜じゃなくてほうれん草? ケチらずに白菜買えばいいじゃない」

 そう言いながら、一口目を頬張った彼女の表情が変わったのを、私は見逃さなかった。

「ふうん、貧乏臭いのになかなかね。やるじゃない、『貧乏鍋』」

 こうして『貧乏鍋』は我が家の冬の定番メニューとなったわけであるが、さて、ここで『安いは旨い』の種明かしをしよう。

 野菜には旬というものがある。どれほどハウス栽培が発達しても、これは絶対である。

 野天で植物を生育できる、つまりハウスに使う資材費などはカットできる。そして野菜には出荷時期というものがあるのだから、その時期中に畑にあるものを一気に出荷してしまいたい、そうなれば当然に値段は下がる。

 つまりいちばん流通するのは生育適期に育てられたものであり、うまいのは当たり前なのだ。

 流通の回転率というのもある。例えば昔ながらの回転寿司屋を思い浮かべて欲しい。客の多い店ならばレーンを流れる寿司は次々と消費され、レーンには新たな寿司がたされてゆく。これが客の少ない店ではネタが干からびたような寿司がいつまでもまわっていて食欲を削ぐ。

 スーパーなどでも安い物は次々と売れてゆく。それを見越しての大量仕入れなのだから、特売の日に合わせて用意された新鮮なものが並ぶ。つまり、売れている、回転率の高いものほど新鮮なのは当たり前なのだ。

 さて、安いは旨い『常夜鍋』に話を戻そう。

 この鍋の唯一の欠点は、シメの雑炊ができないことである。豚の出汁はたっぷりと出ているが、同時にほうれん草の灰汁もたっぷりと出ており、これで雑炊を作ると舌がざらつくような渋みが出てしまう。

 貧乏人にふさわしく飯をかっこみながら腹いっぱい食うのがこの鍋の基本スタイルだ。それほどに飯のすすむ鍋でもある。

 しかし、どうしても鍋はシメが欲しい派の方には、雑炊ではなくてラーメンをオススメする。何も高級なものでなくていい、インスタントラーメンで十分だ、何しろ『貧乏鍋』なのだから。

 麺は残った湯で普通にゆでる。その間に付属の粉末スープをどんぶりにあけておこう。麺がゆだったら最初にお玉いっぱいの湯をどんぶりに入れ、スープを軽く溶く。そこに麺を取り分けたら、あとは各々好みの濃さになるまで鍋の湯でスープを薄めて食す。

 どの銘柄を選ぶかにもよるが、安いラーメンであれば味が濃い目なのでほうれん草のエグみもほとんど気にならない。隠し味として酢をひとたらしすればさらにだ。

 私は辛味を好むので、かんずりなり七味なりをここに加えて食す。鍋で温まりきった体からさらに汗が噴出す。これがよい。

 ふうふういいならがらこれをかっ込むとき、あらためて『貧乏も悪くない』としみじみ思うのである。


 さて、いかがだろうか『貧乏鍋』は。

 旨い、ビタミンBもたっぷり、大量のほうれん草のおかげで翌日は快便と良い事尽くし。ぜひ一度お試しあれ。


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