貧乏食道楽による序文
真夜中まで起きていて、腹が減ったとしよう。
胃袋はキュウキュウと鳴りやまぬし、寝てごまかそうと布団にもぐりこんでも腹の辺りが頼りなくて眠ることさえままならぬ。
不幸なことは重なるもので、冷蔵庫を漁ってみたがちょいとつまむにほどよいものは見当たらぬ……
こんなとき、ちょいと車を走らせれば街道沿いにはきれいな看板を掲げた飲食チェーン店がいくらでもある。そこまで行くのが億劫なら、ちょいと道の角まで歩けばコンビニがある。
私はそんないまを揶揄してこう呼ぶ。
――つまんで食うものに困らない社会
もちろん、私自身のライフスタイルの変化というものも考慮するべきだろう。
食生活に気をつかってやらなくてはならないような幼い子供がいるならともかく、子供たちも大きくなった今、家族の食事の時間がバラバラである日も珍しくはない。
そうなれば、私と連れ合いだけで食事の日は手抜きもする。つまりスーパーで半額シールが貼られた弁当や、コンビニで少し腹持ちのいいつまみとビールなど。
こうした『ちょいとつまんで食うもの』を口にしているときに思うのは、便利ではあるが果たしてこれがゆたかな食生活といえるのだろうか、ということである。
私の連れ合いは家庭料理というものを好まない。食卓に並んだものがカレーやミートソーススパゲティ、肉じゃがなど、いわゆる『名前のある料理』であればご機嫌だが、冷蔵庫のあまり野菜で作ったポトフ風や煮物、クズ野菜をひき肉で寄せたものなどは決して口にしてくれないのだ。
そもそもが和食が好きではなく、我が家の食卓に和食――それも家庭料理といわれる類のものがあがる機会はまずない。それでも食うに困らない、そんな生活の中で、ふと昔食べた何がしかを懐かしく思うことがある。
ここにつづるのはそうした『舌の記憶』である。もちろん、こうした家庭が多くあるとは思えないので全ては私の個人的な所見と体感ではあるが。
年とともに味覚も鈍くなる。そうしたときに心慰めるのは目の前にある食べ物ではなく舌が覚えている味の記憶なのだと、私はすでに知りつつある。
きっと遠い未来に、あなたもそれを知る。そのときになってはじめてこのノスタルジアは理解されるのだろう。
だからいまは、食い意地の張った年寄りの個人的な備忘録だと、ただ楽しく笑って読んでいただければ幸いである。