千年心中
「セリン、君の為にこの世界を捨てるよ」
まばゆい金の髪を風にあそばせ、瞳に深い海の青をたたえた美しいその人は言った。
心臓がとくんと大きく鳴って、胸の奥底から喜びが滲み出しては体中を満たしていく。
私、変だ。こんな事を言われて嬉しいなんて。こんな事ちっとも望んでなんかないのに。
そう思うのに滲み出る喜びはどんどん大きく膨らんで次第に私の思考を飲み込んでゆく。
(ああ、ようやく愛しい人と共に、わたくしを縛るこの世界から解き放たれる!)
歓喜に満ちた声が頭の中で響いた。その声が果たして私のものなのかすらあやふやで。
「――アスラン様、わたくしは……」
唇がひとりでに言葉を紡ぐ。お互いの息さえ感じられるほど間近でアスラン皇子の顔を見つめながら、私は私でないような、心が薄く剥がれていくような不思議な感覚を味わう。
(愛しいアスラン様。共にここで死ねるなら、わたくしはその先を望みはしません)
再び胸の奥から苦しい程の愛おしさと悲しみが溢れ出して、荒海のように私を翻弄する。
その輝く金の髪に触れたい。
その深い青の瞳に見つめられたい。
白くしなやかなその指で触れられたい。
(そしてその手で、この命を奪って欲しい)
朦朧とする意識の中で、その一言だけがまるで神の啓示であるかのように大きく響いた。
……そうだ、私はこの人と一緒に死ぬ為にここにいるんだ。手に手を取って皇城を抜け出したあの日からずっとこの時を待っていた。
切なくなる程の愛しさの中で、私はそれを思い出した。
「……あの。大変失礼なのは重々承知で申し上げます。今、何ておっしゃりました?」
「だからねセリン。君は僕とひと月後に心中する運命にあるんだって言ったんだ」
にこにこにこ。そんな表現がぴったりの人好きのする笑顔で、その人は言った。豪華な豪華なあらゆる美しい物で飾られた私室で、さも当り前のことを幼い子供に教えるように。
私は目の前で屈託なく笑う人物をまじまじと見つめた。眩しい金の髪に明るい空色の瞳。誰もが見惚れる端正で甘い顔。だけど――
この人、頭大丈夫なの? いやいやいや仮にも一国の皇子様よ、しかも世継ぎの。それが妄想魔のうえ虚言癖とかマズイでしょ!
思わず私は皇子の笑顔から、皇子の背後に立つ人物へと視線を向けた。褐色の肌に銀の髪、怜悧な容姿にエキゾチックな漆黒の法衣姿。まるで彫像のように、私がこの部屋に入った時から微動だにせず突っ立っているその人物は、皇子とは正反対ににこりともしない無表情のまま、けれど明らかに助けを求める私から、すっとその視線を逸らした。
まあ逸らしたくもなるよね、この状況じゃ。
彼は私の上役で、名前をユスフ様といって最高執行官というとても高い位と身分の方だ。
「あ、信じてない顔。でもそれって既に千年前から決まってる決定事項だから。君はひと月後、絶対僕と心中したくなる。本当だよ」
絶対って何どこから来るのその自信、千年前からの決定事項って何そのファンタジー!
「――できれば謹んでご辞退申し上げたいのですけれど、アスラン皇子様」
私は引きつる顔に無理やり笑みを張り付け、できるだけ丁寧にお断りしてみせる。何せ相手はこの国の世継ぎの皇子様、怒らせたら首を刎ねられても文句は言えない。しがない新人の神官見習いという身上ではそれが精一杯。
「君は遠慮深い女性だね。皇子の僕と心中できるなんて滅多に経験できる事じゃないよ」
何ですか、その妙に残念そうに溜息つくの、やめてもらえませんか!なんて言えるはずもなく、私は密かに右の拳を握りしめた。
「……心中とはいえ、皇家の方の命を奪うのは大罪ですし、私も命は惜しいので……」
耐えるのよ。耐えるのよ私!
「まあまだ心中の日までひと月あるし、今すぐ納得しろと言っても君の都合もあるだろう。今日の所はこの話はここまでにしよう」
皇子は肩に掛かる見事な金の髪を払うと、豪奢な装飾の施された肘掛椅子に背を預けた。その姿はとても優雅で気品に満ち溢れていて、それだけに先程のイタイ発言が実に残念だ。
「それはそれは実に恩着せがまし……げふんげふん! 寛大なお心に感謝いたします」
絶対に納得してたまるかこの妄想皇子!
「突然の話で驚かせたね。今夜はゆっくり休むといいよ」
皇子が気障ったらしく片目を瞑ってみせる。
「――そうさせて頂きます」
そして願わくば皇子の気が変わっていますように。私は退出の礼をとると、そそくさと皇子の私室の扉に手を掛けた。
「ユスフ、セリンを送って行ってあげなよ」
背後で聞こえたアスラン皇子の声に一瞬足が止まる。とんでもない!上役に官舎まで送らせるなんて恐縮を通り越して何の苦行!?
こちらも丁重にお断りするべく慌てて振り向いた私に、皇子の背後から朱色にも見える明るいブラウンの目が、突き刺さるような視線を返してくる。
ううっ、ユスフ様の助手についてひと月。仕事には随分慣れたけど、この無口なところと鋭すぎる視線には未だ慣れる事ができない。
「ユスフ、セリンが怯えてるよ」
「怯えてませんっ、恐縮してるだけですっ」
皇子に図星を指された私は焦ってその場を取り繕うけれど、それが嘘なのは明らかだ。
だって仕方がないじゃない。最高執行官といえば皇帝以外の誰にも縛られない独立した権力を持ち、アスラン皇子とさえ張り合える程の高位職。しかもその職務はといえば、謀反などの大罪人を裁くのがお役目。平たく言ってしまえば、神の名の下に大罪人に死を与える死刑執行官という事になる。
そんなユスフ様に多くの者は畏怖の念を、一部の後ろ暗い者達は恐怖を覚える。
私はというと、別に後ろ暗い人間ではないけれど、この無口で部下の私とこれっぽっちも打ち解けようという気持ちの欠片も持ち合わせていないらしい上役に、いつもびくびくと怯える毎日なのだ。
「恐縮ね。ユスフ、随分気を遣われてるね」
実に爽やかに笑ってユスフ様をからかうアスラン皇子。何を他人事みたいに。あなただって同類です!
「普段からそんな物を腰に下げてるから皆敬遠するんだよ。セリンもそう思うだろう?」
言いたい放題のアスラン皇子は、ユスフ様の左腰に吊られた長い剣を指差した。
歴代の最高執行官によって幾人もの咎人の命を断ってきたその長剣は、最高執行官の象徴として「死神の大鎌」と呼ばれて畏れられていた。そういういわくありげな剣を側に置くのは一体どういう気分がするものなのか、想像するだけで背筋がうすら寒くなる。
「い、いえ私は……。そ、それではこれで失礼しますっ」
私は今度こそ逃げるように扉を開けた。
「――ああそうそう、言い忘れていたけれど。ユスフと君は今日から婚約者だからね」
すっかり逃げ出したつもりになっていた私は、皇子がさらりと口にした衝撃発言を一瞬捉え損ねてしまう。
「は……え? こんやく……婚約者―!?」
その意味にようやく気付いた時、私は素っ頓狂な声を上げて、にこにこと笑顔を浮かべる皇子と見事婚約者へと昇格した上役の無表情な顔を交互に見比べたのだった。
「あの、本当にこちらへ移らないと駄目、なんでしょうか?」
私は前を歩く背中に恐る恐る問い掛けた。黒の法衣の背中で銀の髪が揺れている。それを何となく目で追いながら返事を待つけれど、一向に答えは返ってこない。
『それでね、君にはユスフの婚約者として彼の屋敷に移ってもらうよ。さすがに四人一部屋の官舎じゃ不都合だしね』
アスラン皇子の言葉を頭の中で反芻する。
この私がユスフ様の婚約者。そんな嘘みたいな話、とても信じられない。更には私がアスラン皇子とひと月後に心中するなんていう話に至ってはもう問題外。だいたい皇子と心中するのが本当なら、どうして心中相手の私をユスフ様と婚約させるの、意味不明よ。それってまるで昔話にある、婚約者を愛せずに世継ぎの皇子と心中する悲しいお姫様のお話そのものじゃない。一体何を考えてるんだろう、あの皇子は!
「何でこんな訳のわからない事に巻き込まれたんでしょう、私」
やっぱり返事は無い。こちらの声が聞こえているかもはなはだ怪しい無反応ぶりに、とうとう私は歩く足を止めてその場に立ち尽くす。その段になってようやくユスフ様も足を止めて私を振り返った。
「どうして私なんでしょう? ユスフ様の婚約者もアスラン皇子の心中相手も、別に私でなくても他にいくらでも相応しい方はおられるのに。どうして私なんですか?」
熾火のような不思議な色をしたユスフ様の瞳が、じっと私を見下ろす。その瞳に見つめられると何故か落ち着かない気持ちになる。
「ユスフ様はいいんですか? 貴族の姫でもない、ただの神官見習いの私が婚約者でも。しかもその婚約者はひと月後に世継ぎの皇子と心中の予定ですよ」
冗談めかして心の内を口にした。それでもやっぱりユスフ様は何も言わない。
「――私なんかとは口をきくのも嫌ですか」
何だか腹が立った。どうして私がこんな理不尽を押し付けられるの? 勝手に婚約を決めたアスラン皇子も皇子だけれど、それを黙って受け入れるユスフ様もユスフ様よ!
「だったら婚約なんて破棄して下さい!」
思わず勢いで口走った言葉は、天と地程の身分の違いのあるユスフ様にきいていい口じゃない。慌ててユスフ様の顔色を窺うけど、無表情のままの顔が怒っているのかそうでないのか私には判別がつかなかった。
「……私、やっぱり官舎へ戻ります」
こんな気持ちのまま、婚約者としてユスフ様のお屋敷になんて行けない。
私はぺこりと頭を下げると、たった今歩いてきた道を逆に辿る。多分、後で咎めを受ける事になるだろうけど、それはもう仕方ない。
「……運命、というものがあると思うか」
半分自棄を起こしていた私の背中に、不意に低い声が問い掛ける。それはまるで弦楽器が奏でる艶を含んだ音色のようで、私はその声に引き止められるように足を止めた。不思議とユスフ様の声は、どんな音にも紛れず自然と耳に滑り込むような響きを持っていた。
「――あると思うんですか、ユスフ様は」
沈黙が落ちる。沈黙の先にあるユスフ様の顔を確かめたくて、私はそっと振り返った。
銀の睫毛に縁どられたユスフ様の目が、私を見つめていた。まるで私の全てを見定めようとするかのような強い眼差し。
「それを確かめる為の婚約だ」
私を見つめたままユスフ様は静かに言った。
「確かめる、為?」
それはどういう事、なんだろう?
「俺との婚約が気に食わないのなら、運命など無いのだとお前が証明しろ。そうすれば俺は婚約などいつ解消してもいい」
「そ、そんなの急には無理です!」
第一、運命が本当にあるとして、それって物事が過ぎ去った後からわかるものじゃないの? それを今すぐ証明なんてできる訳ない。
「無理なら諦めろ。俺が答えを確信するまで黙ってこの茶番に付き合うことだ」
冷めた瞳でユスフ様は言った。茶番。その一言が地味に私の胸に突き刺さる。ユスフ様にとって私との婚約はただの茶番ってこと?
「……じゃあ、確信したその後は?」
「言っただろう、いつでも解消してやると」
その答えを喜んでいいのかどうか複雑な気持ちになったけれど、とりあえずは僅かでも光明が見えた事には違いなかった。
「わかりました。できるだけ協力しますから、サクッと答えを見つけて下さい。私は茶番でユスフ様と結婚するつもりも、アスラン皇子と心中するつもりもありませんから!」
そう言い切った私を、ユスフ様はただ黙って見つめた。その冷めた眼差しからは、ユスフ様の心を読み取る事はできなかった。
神殿の朝は早い。日の昇らないうちから神官達は起き出し、まずは禊ぎの行から一日は始まる。それが見習いともなれば一番の下っ端。神官達が起きるよりも先に起き、全てにおいて遅れる事は許されない。その習慣はユスフ様の助手になってからも続いている。
「……結局ユスフ様のお屋敷に泊まってしまった……」
官舎の粗末な寝台とは違ってふかふかの寝台で目覚めた私は、広々とした客用の寝室の天井を見つめながら呟いた。
ユスフ様のお屋敷は皇子の住む皇城のように豪華ではなかった。けれど華美な装飾こそないものの質の良い調度品で揃えられていた。
いつもの習慣で日が昇る前に目が覚めた私は、寝台から抜け出すと窓の外を見た。
東の空から薄っすらと明るむ夜明け前の世界。鳥達が賑やかにさえずるのはまだもう少し先の事。夜の名残りの色濃い景色の中で、どこからか水音がする。それは私につい昨日まで神殿で耳にしていた清流を思い出させた。聖山イデ山から流れるその水で、毎朝の禊修行が行われるのだ。
ユスフ様のお屋敷はそのイデ山の東の麓に建っていた。同じく西の麓には聖大神殿が、屋敷と神殿に背後を護られる形で南に皇城が建つ。三つの建物はイデ山の麓に逆三角形を描きほぼ隣接するような位置関係にあった。
だったら、山のこちら側にも神殿と同じく山から水が流れていても不思議じゃない。
私は夜着の上から単衣を羽織るとそっと寝室を抜け出す。屋敷の中で誰かと出くわす心配はなかった。昨夜、ユスフ様から屋敷には通いの使用人がいるだけだと教えられていた。
足音を忍ばせて掃除の行き届いた大理石の廊下を歩きながら、私はこんな広い屋敷にたった一人で住んでいるユスフ様の事を考える。
寂しくはないのかな。ご家族は? もしかしてユスフ様も私と同じように独りなのかな。
私は幼い頃に両親を流行病で亡くし、神殿の孤児院に引き取られた。そこで神の教えに触れた事が私が神官を目指すきっかけだった。
そんな事を考えながら廊下を進んでいくと、次第に水音が大きくなってくる。その音は神殿で聞いた清流の音と重なった。
やがて廊下の壁に飾り気のない扉が現れた。予感めいたものが何かを告げる。私はそっとその扉に手を掛けた。
「――やっぱり」
目の前には神殿の清流とよく似た澄んだ流れがあった。しかも上流には人の背丈よりも遥かに大きな岩から流れ落ちる滝まである。
私は思わず裸足になって清流を目指した。
扉から流れに沿った一部分までが平らな石で敷き詰められ、この場所が日常的に水汲み場か何かの目的で使用されている事がわかる。
「こんな清らかな場所、もったいない!」
私は羽織っていた単衣をするりと落とすと、夜着のまま石畳の敷かれた川岸からそっと足を流れにつけた。水は冷たかったけれど神殿での禊修行で慣れている。そのまま流れの半ばまで進むと思いの外深さがあって、一足進むごとに体が水の中に沈んでいく。水の冷たさに徐々に体温が奪われ、それに伴って身体の内外の穢れが清らかな水に溶けだしていくような感覚を覚えた。それはまさに禊だった。
「そこで何をしている」
突然鋭い声が背後の岸から飛んだ。驚いて振り返ると、川岸の石畳にずぶ濡れのユスフ様がこちらを睨むように立っている。
銀の髪からは水滴がひっきりなしに滴り落ち、身に纏った白い単衣は濡れて褐色の肌に張りついている。単衣越しにユスフ様の鍛えられた身体が透けて見えていた。
め、目のやりどころに困る……
私はどぎまぎとしながらユスフ様から目を逸らすと、口早に言った。
「あ、あの、つい神殿での習慣で禊を……」
「禊? もう神官見習いでもない身で、禊をする意味もないだろう」
「え? どういう、意味ですか」
神官見習いでもないって、どういう事?
私のうろたえ振りにユスフ様は一瞬訝しげな表情をしたかと思うと、すぐに何かに気付いた様子で小さく溜息をついた。
「知らなかったのか。既に神官見習いの職を解かれているのを」
「そんな!」
頭の中が真っ白になった。せっかく次の春には晴れて見習いから三級神官になれるはずだったのに!
悔しくて悲しくて自然と涙がせり上がってくる。でもそれをユスフ様に見られたくなくて、私は勢いよく川の流れに顔を突っ込んだ。
アスラン皇子もユスフ様もひどい! 何もかもを勝手に決めてしまうなんて。
「――おいっ!」
突然激しい水音がした。何事かと思った直後、がしっと腰をつかまれた。驚いて足が水底から浮き上がったところを下から持ち上げられ、気付くと私はユスフ様の肩に担がれるようにして水から出されていた。
「馬鹿な真似はよせ! そんなに修行がしたければ俺の修行につき合わせてやる! 勝手に俺の見ている前で死のうとするな!」
間髪入れずに怒鳴られ、私はカチンときた。
「し、死んだりしません! ていうか、勝手に勘違いして自殺にしないで下さい! 私は両親の分まで長生きするんですから!」
そう怒鳴り返す。すぐ目の前にユスフ様の驚いた顔があった。銀の髪が濡れて頬に張り付いている。私は思いっきりその顔を睨んだ。
どれ位そうしていたのか、やがてユスフ様の顔が驚きからいつもの無表情へと戻ったかと思うと、そのまま岸へと運ばれて石畳の上に乱暴に転がされた。
ユスフ様自身も水から上がると、私が水に入る前に脱いだ単衣を拾い、投げてよこした。
「貧相過ぎて逆に目のやり場に困る」
私は慌てて受け取った単衣で身体を隠す。今更ながら気付いたけれど、ユスフ様同様私の夜着も濡れて身体に貼りついていた。
咄嗟に口もきけずにいる私に、ユスフ様は背中を向けるとふんと鼻で笑う。
うう、貧相って言われた!
「明日からはもう少し早く出て来い」
真っ赤になって単衣の前を掻き合わせる私に、屋敷へと歩き出したユスフ様が言った。
「え……?」
「修行がしたいなら存分につき合せてやる。ただし、音を上げたらそれまでだ」
それは神官の修行を続けてもいいって事?
「は、はいっ!」
嬉しくて嬉しくて私は去って行く広い背中にぺこりと頭を下げた。もしかしたらユスフ様はそんなに怖い人じゃないのかもしれない。
ユスフ様の一日は夜明け前の滝行から始まり、瞑想、神への祈りと、神官のそれとほぼ変わらないものだった。けれど神官とは違い、剣の修行に長い時間を費やす事も厭わなかった。咎人の首を刎ねる為に、ユスフ様には日々剣の腕を磨き続ける義務があるからだ。
私はあの日からユスフ様の屋敷で、ユスフ様と共に修行する日々を送っている。それは神官見習いとして煩雑な仕事に追われていた日々よりも、もっと純粋に神の領域に近づく日々に思えた。
最初ユスフ様は、私がそのうち修行に音を上げるだろうと思っていたようだった。でも必死に毎日の修行についてまわる姿に少しは真剣だという事をわかってもらえたのか、ほんの僅かずつだけれどユスフ様は私に色々な話をしてくれるようになっていた。
ユスフ様を生んだ方は五年前に亡くなっている事。それ以来この広いお屋敷に一人で住んでいる事。そしてユスフ様があまり人と話さないのは、最高執行官という職務に関係しているという事。
「俺に名前を呼ばれる事を厭う者は多くいる。皇城に出入りする者は、多かれ少なかれ皇家に不満を持っている者が多い。謀反人を裁く立場の俺に名前を呼ばれる事を、まるで自分が告発されるように感じるんだろう」
「そんなのただの理不尽じゃないですか。ユスフ様が気にする必要なんてないですよ」
「それはお前にやましい事がないからだ」
「そうでしょうか? でも私の名前は遠慮せず呼んで頂いて大丈夫ですから」
「――お前の許可は別に必要ない」
「あっ、何ですかその言い方は!」
「……じゃれるな、なれなれしい」
そんな風に師匠と弟子のように、私達は同じ屋根の下で暮らす事に次第に慣れていった。
「やあ、セリン。久し振りだね」
「つい三日前にお会いしたばかりですけど」
私は豪華な椅子にゆったりと腰かける皇子に引きつる笑顔を向ける。
いつものようにユスフ様を送り出した後、私はアスラン皇子の元を訪れていた。皇子は時折こうして私を呼び出しては、例の残念話や世間話をするのを日課に加えたようだった。
「相変わらずつれないね、セリン。君は僕と心中する仲だって事、忘れてない?」
皇子は椅子から立ち上がり、にっこりと綺麗な顔を近づけて私を覗き込んだ。そして思わず身を引こうとする私の腰に左手を回して引き寄せると、そっと右手で顎をすくう。
「忘れるわけがないよね?」
甘く囁くアスラン皇子から慌てて顔を背けると、私は焦りながら言った。
「わ、私はユスフ様の婚約者です。それをお決めになったのはアスラン皇子です!」
いつもの皇子じゃないような気がした。確かに皇子は会えば「僕の心中相手」だの「愛しいセリン」だの、妄想全開の囁きを投げかけてはきたけれど、こんな強引に迫るような事はなかった。それなのに。
「ユスフは君にキスのひとつでもしたかい? ひと月も二人きりで同じ屋敷に住んでいて、まさか何にもないなんて事はないだろう」
背けた顔を追いかけるように、皇子は耳元で執拗に囁く。
「そ、そんな事アスラン皇子には……」
「関係ない? ふうん。でもね、それってセリン、君がユスフに愛されてないって事だよね? まあ君達は名ばかりの婚約者でしかないんだし、それも当然と言えば当然だけど」
何も言い返せなかった。そうだ、忘れていたけれど私とユスフ様は、本当に結婚を約束した婚約者ではなかった。
「君はどう? 彼の事を好きになった?」
「わ、私は……」
言葉が詰まる。ユスフ様の事が好きかどうかなんて、今まで考えた事もなかった。
「答えられないんだ?」
「え?……きゃっ」
皇子は口籠る私を不意に抱き上げたかと思うと、先程まで自分が座っていた豪華な天鵞絨張りの椅子にすとんと降ろした。
突然の事に為すすべなく椅子に座らされた私は、慌てて立ち上がろうとするけれど、皇子は肘掛に自らの両手をついてまるで囲うように覆い被さって来る。すぐ目の前には皇子の整った顔。逃げ場はない。
「セリン、思い出してよ。君が一体誰を愛していたのか。君の事を見向きもしない婚約者? それとも――」
じっと私を覗き込むアスラン皇子の明るい空色の瞳が、何故かその瞬間深い海の青色に底光りしたように見えた。言い知れない恐怖に、身体が凍りついたように固まる。
恐い……、誰か、助けて。
「さあセリン、あの時の続きを今度こそ果たすんだ。今日が約束のひと月後だよ」
皇子が私の耳元で囁く。微かに耳朶に触れる皇子の唇の湿った温かさと柔らかさが、私の中の何かを揺さぶる。何かが自分の奥底で目覚めるような奇妙な感覚に私は震えた。
嫌だ、誰か……ユスフ様、ユスフ様!
(――アスラン、様……)
突然頭の中で声がした。
その瞬間、私の中の世界が反転した。さっきまでの恐怖が嘘のように消え、ただ皇子への悲しい程の愛しさがとめどなく溢れ出す。
「やあ僕の愛しいセリン。やっと会えたね」
深い深い海の瞳でアスラン皇子が微笑んだ。
「さあセリンおいで。長い時間を掛けたけれど、ようやくこれで念願が叶うよ」
アスラン皇子が誘うように右腕を広げた。その手には美しい装飾の施された短剣が握られている。恐れはなかった。ついさっきまで無理矢理皇城から連れ出されて怯えていた自分が馬鹿馬鹿しく思える。全てを思い出した今の私は、何の躊躇もなく皇子の腕の中へと一歩を踏み出す事ができる。
「セリン!」
名前を呼ばれ振り返ると、そこには漆黒の法衣を纏い荒い息を吐くユスフ様がいた。「アスラン、こんな所で何をしている! 城ではお前がいないと大騒ぎになっているぞ」
「もう城の者に知れたのか。でもそれもどうでもいい。僕はこれからセリンと逝くよ」
ユスフ様がはっとして私を見た。私は黙って頷いてみせる。
「――そうなのかセリン、お前はやはりアスランを選ぶのか。俺達はまた何一つ変える事ができないのか……!」
ぎりっと唇を噛みしめ、絞り出すようにユスフ様が言う。
「残念だよユスフ。そろそろ君も受け入れるべきだ。これが僕達三人の運命なんだと」
運命。何故かその一言が心に引っ掛かる。いつだったかその言葉を私に尋ねた人がいた。その人は何故それを私に尋ねたのだろう?
「――そんな事は、できない」
ユスフ様の瞳が、熾火のように揺れた。ゆっくりと右手が腰の長剣に伸びる。
「死神の大鎌か。ユスフ、君がそれで僕達の命を奪うのは、これで何度目だい?」
「何度でもだ。大罪人の処刑は俺の役目だ」
「違うな。これは君の私怨だよ、ユスフ」
二人が私を挟んで睨み合う。
「さあセリン、こちらへおいで」
アスラン様が誘う。
「行くな、セリン。お前を斬りたくはない」
ユスフ様が引き止める。
アスラン様と共に逝きたい。心が悲痛な声で叫ぶ。だけどその奥底ではユスフ様の必死な瞳に揺さぶられる自分がいた。
「セリン! これは運命だと、変えられぬ運命だとお前が俺に突き付けるのか!」
ユスフ様の放った一言が私の中で弾けた。そうだ。どうして私は忘れていたんだろう。運命を私に問うたのは、ユスフ様だったのに。
ユスフ様が腰の剣を抜き放つ。いけない!
「駄目ですユスフ様、私はまだ死ねません!両親の分まで生きるって言ったはずです! それに私が死んだら、またユスフ様は一人になってしまう……!」
気付くと私はユスフ様に飛び付いていた。
「セ、セリン? どうして、君は……」
「アスラン皇子、私やっぱり皇子と心中なんて御免です。だって私はユスフ様の婚約者なですから!」
呆然とする皇子とユスフ様に私は大声で宣言する。何だか憑物が落ちたような気分だった。さっきまで感じていた皇子への愛しさは、今はとても遠い物に思えた。
その時、ガランとユスフ様の右手から剣が落ちる音が響いた。と同時に皇子とユスフ様が脱力するように膝をつく。
「――どうやら最悪のシナリオは回避できたみたいだね」
「……ああ。過去の亡霊どもはセリンが吹き飛ばしてしまったようだな」
「お、お二人共、大丈夫ですか!?」
慌てて私はユスフ様を支える。
「何とかね。セリン、君がたった今、僕達三人の運命を変えてくれたからだよ」
「運命?」
疲れたように笑うアスラン皇子。
「そう。千年以上前から繰り返される、皇家の背負ってきた罪、とでもいうのかな。でもそれを説明する役はユスフに譲るよ。僕はとても疲れたし、城へ戻らないといけない」
そう言われて何となくピンとくるものがあった。あの時私の中にあったのは、私のものではない感情だった。でもユスフ様が剣を抜いた時思った事は間違いなく私自身のものだと確信できる。
「私、ユスフ様がまたあのお屋敷で一人ぼっちで暮らすんだって思ったら……」
今更ながら力が抜けて、今度は私がぺたんと地面にへたり込んでしまった。
「セリン」ユスフ様がそっと私を抱きしめる。これは本当に現実に起こっている事?
「ああそうそう。戻る前に一つ。君達の婚約は白紙に戻してもいいけれど、どうする?」
そう提案したアスラン皇子が私達を振り向き苦笑する。
「――ああ返事は結構。僕としては半分とはいえ血の繋がった兄弟の婚約者を奪うのはもうこりごりだからね。じゃ、後はよろしく」
そんな言葉を、私はユスフ様の温かい唇を受けながら聞いたのだった
ありがとうございました!