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前世でも今世でも告白できない男が、それでも幼馴染を諦めない理由は一つだけです

作者: 桜木ひより
掲載日:2026/05/18


「同じ大学に進学できたら、告白しようと決めてたんだけどな……」


病院の天井を見上げながら、俺はそれだけを考えていた。


三十五歳。既婚歴なし。貯金は大したことない。趣味は特になし。


それが俺の全部だった。


消化器の病気だと分かったのは、三十二歳にした健康診断だった。


最初はそこまで深刻に考えていなかった。

医者の言う通りに治療すれば何とかなる、そう思っていた。


でも三年後には、こうして病院のベッドに横になっていた。


仕事はどうなったって?もちろん辞めた。いや、正確には辞めざるを得なかった。


七年間勤めた中堅の食品メーカー。

業務は一通りできたけど、特別に秀でた何かがあったわけじゃない。


上司から褒められた記憶がほとんどないし、後輩の指導が上手かったわけでもない。

ただ毎日、決まった時間に出社して、決まった仕事をこなして、決まった時間に帰っていた。


その繰り返しが七年続いた。まあ何もやらかすことなく、平凡に仕事ができていたし、十分な気もする。


恋愛は……一度だけ、付き合ったことがある。相手は大学時代の同期だった。


でもその関係は三ヶ月で終わった。

理由は、相手から「あなたといると将来が見えない」と言われたからだ。腹は立った。でも、否定できなかった。


俺には、たしかに、何もなかった。


夢もなかった。やりたいこともなかった。

「いつかこうなりたい」というイメージが、どこを探しても見当たらなかった。



いや……ただ、一つだけあったのだ。


花音のことが、好きだった。


桜庭花音。小学校から十八年間、ずっと隣にいた幼馴染。


俺より少し早足で歩く癖があって、机の上を色とりどりの付箋で埋め尽くして、笑うと目が細くなる。怒ると鼻の頭にしわが寄る。

面白い話をしているとき、手振りが大きくなる。


そういう、当たり前の景色が全部好きだった。


大学に進学する前、花音と同じ大学に合格した夜、俺は「これで言える」と思った。

同じキャンパスに通えば、毎日会えるんだから、そのうち自然と——そう思っていた。


でも言えなかった。


一年が経ち、二年が経ち、大学三年の秋に花音に彼氏ができた。


相手は社会学部の先輩で、背が高くて話し上手な人だった。

花音が「好きな人ができた」と俺に相談してきた夜、俺は「良かったじゃないか」と笑って答えた。


その夜、アパートの部屋で一人になってから、しばらく何も考えられなかった。


言えば良かった、とは思わなかった。


それが一番情けなかった。

言えなかったことへの後悔より先に、「あ、俺の負けだ」という諦めの方が速く来た。そういう人間だった、俺は。


花音はそのまま大学の先輩と付き合い続けて、卒業の年に結婚した。


俺は二次会まで出席して、帰りの電車でイヤホンをして、音楽も流さずにただ座っていた。



それからの十年は、よく覚えていない。


仕事をして、飯を食って、寝て、また仕事をした。それだけだった。


何かを失ったとか、誰かを憎んだとか、そういう話じゃない。ただ、「これが俺の人生か」という感覚が、毎朝起きるたびにじわじわと積み重なっていった。


三十二歳の健康診断で病気が見つかった時、最初に思ったことが「そうか、やっぱり」だった。


驚かなかった自分が、一番怖かった。


三十五年生きて、何が残っているだろうかと病院のベッドで考えた。


金は少しある。でも使い道はない。友達はいないわけじゃない。


でも死ぬと言ったら泣いてくれるかどうか、自信がなかった。誰かの人生に、一つでも何かを残せただろうかと考えたけど、思い当たるものが出てこなかった。


ただ一つだけ。


花音に、好きだと言えば良かった。


「同じ大学に進学できたら、告白しようと決めてたんだけどな……」


やり直せるなら、やり直したかった。


その言葉だけが、消える前の俺の、最後の気持ちだった。



……気がつくと、俺は春の朝の布団の中にいた。


窓から光が差し込んで、母の声がした。

「蒼真、起きなさい。入学式の準備できてるの?」


神崎蒼真。それが今の俺の名前だった。前世から持ち越した三十五年分の記憶とは、まるで別の名前。でも今日から、これが俺の名前だ。


布団から起き上がると、鏡の中に十八歳の顔があった。頬に少し幼さが残る。


三十五年分の記憶を持った、十八歳の体。


「……また、同じ大学を受けたのか、俺」


どうやら今世の俺も、花音と同じ大学に合格していたらしかった。


転生した実感が来たのは、それからしばらく経ってからだ。


最初は夢だと思った。夢が続くにつれて、夢じゃないと分かった。

どちらでもいいとも思った。


前世で積み上げた三十五年のうち、誇れるものはほとんどない。

今さらやり直したところで、同じような人間になるだけかもしれない。


でも、一つだけ。


「今度こそ、ちゃんと花音に伝えよう」


それだけが、俺がこの体を動かす唯一の理由だった。





大学のキャンパスは春の匂いがした。


桜の花びらが舞って、正門の前で新入生たちが写真を撮っている。前世では感じなかったことが、今は妙にはっきりと目に入った。光の加減、空気の温度、遠くで笑っている誰かの声。


体が若いせいか、感覚がやたら鮮明だった。


「蒼真!」


声に振り返ると、人の流れの中から花音が走ってきた。


——ああ、やっぱり同じ笑顔だ。


長い黒髪が走る度に揺れて、大きな瞳がまっすぐ俺を見ていた。前世と全く変わらない。変わっていないのに、不思議と胸が詰まった。


「久しぶり! 同じ大学だね、良かった」


「……うん。良かった」


「なんか、蒼真、変わった? 雰囲気というか……」


花音が首をかしげた。


「前より落ち着いてるっていうか。でもなんかちょっと、寂しそう」


俺は少し驚いた。前世から持ち越した記憶が顔に出ているのかもしれない。


「そうかな」


「うん。高校の時は、もっと馬鹿っぽかったのに」


「馬鹿って言うな」


花音がぷっと吹き出した。「ごめん、褒め言葉だよ」


この笑い声を、俺はちゃんと聞きたかったんだな——とぼんやり思った。





大学生活は、思ったより静かに始まった。


前世の三十五年分の経験があるから、授業で躓くことはなかった。人と話す時に余計な緊張をしなくなって、それだけで随分生きやすくなった。


花音とは週に何度か食堂で会って、それとなく一緒に過ごした。前世でもそうだった——俺はいつも「それとなく」しかできなかった。


「蒼真って、図書館でいつも何読んでるの?」


ある昼下がり、花音が俺の隣に座りながら聞いた。


「経済の本」


「うっわ、真面目」


「花音こそ。あの付箋だらけのノート、どんな授業の?」


「心理学! めちゃくちゃ面白くて。人がなぜそういう行動をするかっていうのが、全部説明されるんだよ。蒼真はなんで経済なの?」


「……まあ、前から気になってたから」


「そっか」


花音はそれ以上聞かなかった。この人はいつもそうだ。踏み込まない。でも、いなくならない。


俺がそこに気づいたのは、今世に来てからだった。


前世では「花音は俺に気がない」と決めつけて、それ以上見ようとしなかった。でも今はわかる。花音は俺を見ていた。ただ、俺が先に顔を背けていた。


「……今度、映画でも行かない?」


俺は、ちょっとだけ勇気を出して言った。


「行く! 何観るの?」


「まだ決めてないけど、花音が観たいやつで」


「じゃあ私が選んでいい? 蒼真、絶対文句言わないこと」


「……文句は言わない」


「よし、決まり」


花音がにこっと笑った。喉の奥が少しだけ詰まる感じがした。





映画の約束をしてから三日後、俺は学内の掲示板の前で足を止めた。


「新規ベンチャー企業設立説明会 発起人:黒羽涼介(経済学部二年)」


ポスターに書かれたビジネスプランの内容を読んで、俺は眉をひそめた。


学生向けのマッチングアプリ。学習グループの形成、研究プロジェクトの仲間探し、就職活動の情報共有——。


……これ、前世の俺が「いつかやってみたかった」と考えていたアイデアと、ほぼ同じだった。


もちろん、同じことを考える人間が複数いてもおかしくない。偶然かもしれない。そう言い聞かせながらも、俺は説明会の会場に向かった。


大教室には予想より多くの学生が集まっていた。


壇上に立っていたのは、二年生らしい落ち着いた雰囲気の男だった。黒羽涼介——ポスターに書いてあった名前の通りの男が、滑らかな口調で話していた。


「このアプリの核心は、繋がりの質です。相手が誰かではなく、何をしたいかで繋がる仕組みを作りたい」


話し方が上手かった。聴衆の視線の引き付け方、間の取り方——前世で何度も人前で話してきた人間の動き方だった。


説明会が終わった後、俺は黒羽に話しかけた。


「黒羽先輩、すごいプレゼンでしたね」


「ありがとうございます。神崎くんでしたっけ?」


名前を知られていることに、微かな違和感を覚えた。


「はい、一年の神崎蒼真です。なぜ俺の名前を?」


「少し調べました。最近、うちの経済学部で投資の話をよく聞くもので」


黒羽が俺をじっと見つめた。その目には、何か探るような光があった。


俺が最近やっていたのは、特別なことじゃない。前世の記憶の中で「たしかこのあたりの時期に医療業界が盛り上がった気がする」という感覚を頼りに、少しだけ株を動かしていた。大きく当てたわけじゃない。ただ、外さなかった。


「少しだけ、運が良かっただけです」


「それにしては、判断が早すぎる」


黒羽が微笑んだ。


「一つ聞いていいですか、神崎くん。あなたは、未来のことが分かる気がすることって、ありませんか?」


——ドクン、と心臓が鳴った。


「……どういう意味ですか?」


「そのままの意味です。まあ、今日は探り合いもここまでにしておきましょう。ところで、桜庭さんと親しいですよね」


唐突に花音の名前が出た。


「幼馴染です」


「そうですか。彼女、うちのサークルに入ってくれて。明るくて、いい子ですよね」


黒羽の目が細くなった。感情の読めない表情だった。


「それじゃ、また話しましょう。投資の件も含めて」


そう言って、黒羽は人の群れに消えていった。


俺はその場に立ったまま、拳を少し握り込んだ。


——嫌な予感がする。





花音との映画は、思ったより長くなった。


選んだのはロマンティックなラブコメで、俺は「なんでこれ?」と思ったけれど約束通り文句は言わなかった。エンドロールが流れる頃には、隣で花音が目を拭っていた。


「なんで泣いてるの」


「好きなんだよ、こういうの……言い訳させて」


「言ってない」


「顔に書いてある」


帰り道、花音は少しだけゆっくり歩いた。いつもは俺より早足なのに。


「映画の主人公さ、最後まで言えないじゃん」


「……そうだな」


「あれ、なんで言えないんだろうね。好きなら言えばいいのに」


俺は答えなかった。


花音がちらっと俺を見た。「蒼真は言える方?」


「……さあ」


「そっか」


花音はそれ以上追わなかった。でも、少しだけ表情が変わった気がした。気のせいかもしれない。


気のせいじゃないかもしれない。


前世の俺は、こういう瞬間を全部「気のせい」で終わらせてきた。





翌週、花音から誘いが来た。


「土曜日ひま? 新しいテーマパーク行きたいんだけど」


「行く」


「即答! じゃあ待ち合わせは——」


「迎えに行く。何時がいい?」


「……え、迎えに来てくれるの?」


「幼馴染だから」


少しの間、返信が来なかった。


「……じゃあ、朝九時でお願いします」


「了解」


もしかして、と思うことがあった。でも確かめる勇気はまだなかった。


土曜日の朝、花音は薄いブルーのワンピースを着て待っていた。珍しい色だった。前世で見たことのない服。


「似合ってる」


「……そう?」


「うん」


「……ありがと」


花音の耳が少し赤かった。俺は見なかったふりをした。


でも——テーマパークの入り口で、黒羽涼介が待っていた。





「おはようございます、神崎くん。桜庭さんも」


どう見ても偶然じゃない。俺は内心で舌打ちした。


「黒羽先輩……なぜここに?」


「たまたまです。せっかくなら、ご一緒しませんか?」


花音が俺を見た。俺が何か言う前に、黒羽が花音に向かって微笑んだ。


「桜庭さん、このテーマパークで一番人気のアトラクション、知ってますか?」


「知らないです! 調べてきたんですか?」


「ええ。良かったら案内しますよ」


そこからの三時間が、俺の今世で一番長く感じた三時間だった。


黒羽は本当に上手かった。花音の好みに合わせた話題を選んで、程よいタイミングで笑わせて、疲れたと言う前にベンチを見つけて。前世で磨き上げてきた対人スキルを全力で使っているのが、俺には見えた。


「黒羽先輩って、なんでもよく知ってますよね」


「人を見るのが好きなんです」


「どういう意味ですか?」


「人が何を求めているか、何をしたいか——それが分かると、自然と話すことが出てくる」


花音が「なるほど」と頷いた。


俺は少し離れた位置で、観覧車のゴンドラを見上げていた。


こんなこと、俺にはできない。前世でも今世でも。人の気持ちを読む前に、自分の気持ちが邪魔をする。花音のことが好きだから、うまく話せない。それだけのことなのに、三十五年かけて言えなかった。


「蒼真、どうしたの?」


花音が戻ってきた。一人で。


「……黒羽先輩は?」


「ちょっと電話が来たって。蒼真、さっきから一人でいるじゃん。大丈夫?」


「大丈夫」


「全然大丈夫そうに見えない」


花音が俺の顔を覗き込んだ。大きな瞳が、まっすぐこちらを見ていた。


「黒羽先輩のこと、嫌い?」


「……嫌いじゃない」


「じゃあ何?」


「……別に、何も」


花音は少しの間、何も言わなかった。それから、俺の隣に立った。


「蒼真って、昔から言わないよね、自分のこと」


「……そうか?」


「うん。なんでも分かってる顔して、一人で抱えてる顔する。それが高校の時からずっと変わらない」


俺は返事ができなかった。


「……私にはさ、言ってくれてもいいのに」


黒羽が戻ってくる前に、それだけが残った。





テーマパークから帰る途中、黒羽が言った。


「今度は僕が花音さんを誘っていいですか? もちろん、神崎くんも一緒に」


俺は「それでいいですよ」と答えた。


その声が、自分のものじゃないみたいだった。


花音はすぐには返事をしなかった。「……また連絡します」と言った。その声に、俺は何かを感じたけれど、確かめることができなかった。


夕方、一人になってから、スマホを握って考えた。


黒羽は確実に転生者だ。未来の知識じゃなくて、長年かけて培った対人スキルと、人を動かすための計算。あの人には、「花音を好きになる」という感情がない。あるのは「花音を落とす」という戦略だけだ。


それが分かっていても、俺は黒羽に勝てる気がしなかった。


なぜなら花音が笑っていたから。


その笑顔が本物かどうかは関係ない。花音が黒羽の前で楽しそうにしていた——それだけで、俺の足が止まった。


「……俺、三十五年かけて何も変わってないな」


呟きは誰にも聞こえなかった。





その翌週、花音から「話がある」という連絡が来た。


大学の中庭のベンチで、花音は俺を待っていた。


「どうしたの?」


「……ちょっと聞いてほしくて」


花音が膝の上で手を組んだ。珍しい仕草だった。


「黒羽先輩に、告白された」


俺の胸の内側で、何かが静かに止まった。


「そっか……」


「どうしよう、って思って。蒼真に相談しようって」


「花音はどう思ってるの」


「……黒羽先輩は、話してて楽しいし、気が利く人だと思う。でも」


「でも?」


花音が俺を見た。


「なんか、距離があるんだよね。すごく上手に話してくれるんだけど、その人の気持ちがどこにあるのか、わからない。……私のことを見てくれてる気はするんだけど、なんていうか……」


「計算、してる感じがする?」


花音が少し驚いた顔をした。「……うん、なんでわかるの」


「花音は、人のことよく見てるから」


花音の目が揺れた。


「蒼真は……どう思う」


「俺に聞くのか、それを」


「……聞きたい」


俺の手が、膝の上で少し震えていた。


——言え。今言わなかったら、また同じことを繰り返す。


「花音、俺、ずっと好きだった」


風が止まったみたいだった。


「高校の時から。いや、もっと前から。でも、ずっと言えなかった。……お前が遠くに行くのが嫌だったのか、告白して断られるのが嫌だったのか、自分でもよく分からないけど」


「……蒼真」


「ちゃんと言えてなかった。だから今言う。俺と、付き合ってくれないか」


花音は何も言わなかった。俺も、次の言葉を探せなかった。


木の葉が揺れる音だけが、しばらく続いた。


「……私ね」


花音がゆっくり口を開いた。


「蒼真が気になってたの、もうずっと前から」


「…………」


「でも、蒼真って絶対に言わない人だと思ってた。私のことは、友達か幼馴染としか見てないんだって、自分に言い聞かせてた」


「ごめん」


「謝らないでよ」


花音が苦笑した。でもその目が潤んでいた。


「……私も好き。だからちゃんと答える。付き合う」


俺は何か言おうとして、言葉が出なかった。


代わりに、花音が先に笑った。


「なんで蒼真が泣きそうな顔してるの」


「泣いてない」


「泣きそう」


「……うるさい」


花音が小さく笑った。俺も笑った。前世では一度もこういう笑い方をしたことがなかった。





翌日、黒羽に呼び出された。


人の少ない渡り廊下で、黒羽は静かに待っていた。


「花音さんから、返事をもらいました」


「……そうですか」


「断られました。あなたのせいで」


黒羽の言葉に棘はなかった。ただ、確認しているような口調だった。


「神崎くん、一つだけ聞いていいですか」


「何ですか」


「あなたも、私と同じですよね」


俺は少し間を置いた。


「……ええ」


「前世は何歳で?」


「三十五です」


「私は四十でした。IT企業を経営していました。……あなたは?」


「普通のサラリーマンでした。特別なことは何もない」


黒羽が少し笑った。


「なるほど。それで勝てるんですね」


「勝負だとは思ってませんでした」


「私は思っていました。だから負けた」


黒羽が窓の外を見た。曇った空に、少しだけ青が見えた。


「前世で手に入れたものは多かった。金も、地位も、評価も。でも、最後に残ったのが一人だったのは……自分でも、分かっていた気がします」


「……」


「花音さんを攻略しようとしていた。その言葉が一番正確です。本当のことを言えば」


俺は何も言わなかった。


「神崎くんは、彼女のことを好きなんでしょう。本当に。それが伝わるから、彼女もあなたを選んだ」


「黒羽先輩は……」


「私には、前世で向き合えなかったことがあります。今世でそれをやり直すつもりでした。でも、間違った方法を選んでいた。……あなたを見ていて、そう思いました」


黒羽が俺の方に顔を向けた。その目に、今まで見せたことのない静けさがあった。


「花音さんを大切にしてください。そして、先輩に一つだけ教えてもらえますか」


「何ですか」


「あなたは、前世で後悔していたことに、どうやって向き合いましたか」


俺はしばらく考えた。


「……向き合ったというより、もう一度やり直しただけです。知識も、スキルも、関係なくて。ただ言えなかったことを言っただけでした」


黒羽が小さく頷いた。


「そうですか」


それだけ言って、黒羽は廊下を歩いていった。振り返らなかった。


その背中が、何か大切なものを探している人みたいに見えた。





それから半年が経った。


晴れた午後、俺と花音はキャンパスの芝生に座っていた。花音は心理学の教科書を読んでいて、俺は隣でぼんやりと空を見ていた。


「ねえ蒼真」


「ん」


「黒羽先輩、最近サークルで明るくなったって話してた」


「そうか」


「なんか、ボランティアで知り合った人と仲良くなったって噂で。……ちょっと良かったなって思った」


「お人好しだな」


「悪い?」


「悪くない」


花音がクスクス笑って、教科書に視線を戻した。


風が吹いて、芝生が揺れた。


「蒼真って、前世とかって信じる?」


突然の質問だった。俺は一拍置いた。


「なんで」


「心理学の授業で、そういう話が出てきたから。前世の記憶を持ってる子供、みたいなやつ」


「……さあ。あったとしても、今が大事じゃないか」


「なにそれ、意外と良いこと言う」


「意外とって言うな」


花音がまた笑った。俺も笑った。


前世の俺は、三十五年かけて何を手に入れたんだろう、とたまに考える。お金も、出世も、それなりに頑張った。でも、死ぬ時に頭にあったのは花音の顔だけだった。


今世の俺は、まだ何も大したことをしていない。でも、今日の午後、ちゃんと花音の隣にいる。


芝生の匂いが風に乗ってきた。遠くで誰かが笑っている声がした。


花音が教科書を閉じて、ちょっとだけ俺の方にもたれた。


「今日、夕飯は私が作るよ」


「お前の料理、大丈夫か?」


「失礼な。うまいよ」


「前に作ってもらった卵焼き、甘すぎたけど」


「それは蒼真が甘さ控えめって言い忘れたのが悪い」


「俺のせいか」


「そう。でも今日は普通の塩味にする。文句ある?」


「……ない」


「決まり」


花音が立ち上がって、俺に手を差し伸べた。


俺はその手を取った。


——前世で告白できなかったことに、後悔はない。


ちゃんと今世で言えたから。


言えた、それだけで十分だった。


今度は、花音と一緒に、前世では見なかった景色を見にいく。


【完】


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