前世でも今世でも告白できない男が、それでも幼馴染を諦めない理由は一つだけです
「同じ大学に進学できたら、告白しようと決めてたんだけどな……」
病院の天井を見上げながら、俺はそれだけを考えていた。
三十五歳。既婚歴なし。貯金は大したことない。趣味は特になし。
それが俺の全部だった。
消化器の病気だと分かったのは、三十二歳にした健康診断だった。
最初はそこまで深刻に考えていなかった。
医者の言う通りに治療すれば何とかなる、そう思っていた。
でも三年後には、こうして病院のベッドに横になっていた。
仕事はどうなったって?もちろん辞めた。いや、正確には辞めざるを得なかった。
七年間勤めた中堅の食品メーカー。
業務は一通りできたけど、特別に秀でた何かがあったわけじゃない。
上司から褒められた記憶がほとんどないし、後輩の指導が上手かったわけでもない。
ただ毎日、決まった時間に出社して、決まった仕事をこなして、決まった時間に帰っていた。
その繰り返しが七年続いた。まあ何もやらかすことなく、平凡に仕事ができていたし、十分な気もする。
恋愛は……一度だけ、付き合ったことがある。相手は大学時代の同期だった。
でもその関係は三ヶ月で終わった。
理由は、相手から「あなたといると将来が見えない」と言われたからだ。腹は立った。でも、否定できなかった。
俺には、たしかに、何もなかった。
夢もなかった。やりたいこともなかった。
「いつかこうなりたい」というイメージが、どこを探しても見当たらなかった。
いや……ただ、一つだけあったのだ。
花音のことが、好きだった。
桜庭花音。小学校から十八年間、ずっと隣にいた幼馴染。
俺より少し早足で歩く癖があって、机の上を色とりどりの付箋で埋め尽くして、笑うと目が細くなる。怒ると鼻の頭にしわが寄る。
面白い話をしているとき、手振りが大きくなる。
そういう、当たり前の景色が全部好きだった。
大学に進学する前、花音と同じ大学に合格した夜、俺は「これで言える」と思った。
同じキャンパスに通えば、毎日会えるんだから、そのうち自然と——そう思っていた。
でも言えなかった。
一年が経ち、二年が経ち、大学三年の秋に花音に彼氏ができた。
相手は社会学部の先輩で、背が高くて話し上手な人だった。
花音が「好きな人ができた」と俺に相談してきた夜、俺は「良かったじゃないか」と笑って答えた。
その夜、アパートの部屋で一人になってから、しばらく何も考えられなかった。
言えば良かった、とは思わなかった。
それが一番情けなかった。
言えなかったことへの後悔より先に、「あ、俺の負けだ」という諦めの方が速く来た。そういう人間だった、俺は。
花音はそのまま大学の先輩と付き合い続けて、卒業の年に結婚した。
俺は二次会まで出席して、帰りの電車でイヤホンをして、音楽も流さずにただ座っていた。
それからの十年は、よく覚えていない。
仕事をして、飯を食って、寝て、また仕事をした。それだけだった。
何かを失ったとか、誰かを憎んだとか、そういう話じゃない。ただ、「これが俺の人生か」という感覚が、毎朝起きるたびにじわじわと積み重なっていった。
三十二歳の健康診断で病気が見つかった時、最初に思ったことが「そうか、やっぱり」だった。
驚かなかった自分が、一番怖かった。
三十五年生きて、何が残っているだろうかと病院のベッドで考えた。
金は少しある。でも使い道はない。友達はいないわけじゃない。
でも死ぬと言ったら泣いてくれるかどうか、自信がなかった。誰かの人生に、一つでも何かを残せただろうかと考えたけど、思い当たるものが出てこなかった。
ただ一つだけ。
花音に、好きだと言えば良かった。
「同じ大学に進学できたら、告白しようと決めてたんだけどな……」
やり直せるなら、やり直したかった。
その言葉だけが、消える前の俺の、最後の気持ちだった。
……気がつくと、俺は春の朝の布団の中にいた。
窓から光が差し込んで、母の声がした。
「蒼真、起きなさい。入学式の準備できてるの?」
神崎蒼真。それが今の俺の名前だった。前世から持ち越した三十五年分の記憶とは、まるで別の名前。でも今日から、これが俺の名前だ。
布団から起き上がると、鏡の中に十八歳の顔があった。頬に少し幼さが残る。
三十五年分の記憶を持った、十八歳の体。
「……また、同じ大学を受けたのか、俺」
どうやら今世の俺も、花音と同じ大学に合格していたらしかった。
転生した実感が来たのは、それからしばらく経ってからだ。
最初は夢だと思った。夢が続くにつれて、夢じゃないと分かった。
どちらでもいいとも思った。
前世で積み上げた三十五年のうち、誇れるものはほとんどない。
今さらやり直したところで、同じような人間になるだけかもしれない。
でも、一つだけ。
「今度こそ、ちゃんと花音に伝えよう」
それだけが、俺がこの体を動かす唯一の理由だった。
*
大学のキャンパスは春の匂いがした。
桜の花びらが舞って、正門の前で新入生たちが写真を撮っている。前世では感じなかったことが、今は妙にはっきりと目に入った。光の加減、空気の温度、遠くで笑っている誰かの声。
体が若いせいか、感覚がやたら鮮明だった。
「蒼真!」
声に振り返ると、人の流れの中から花音が走ってきた。
——ああ、やっぱり同じ笑顔だ。
長い黒髪が走る度に揺れて、大きな瞳がまっすぐ俺を見ていた。前世と全く変わらない。変わっていないのに、不思議と胸が詰まった。
「久しぶり! 同じ大学だね、良かった」
「……うん。良かった」
「なんか、蒼真、変わった? 雰囲気というか……」
花音が首をかしげた。
「前より落ち着いてるっていうか。でもなんかちょっと、寂しそう」
俺は少し驚いた。前世から持ち越した記憶が顔に出ているのかもしれない。
「そうかな」
「うん。高校の時は、もっと馬鹿っぽかったのに」
「馬鹿って言うな」
花音がぷっと吹き出した。「ごめん、褒め言葉だよ」
この笑い声を、俺はちゃんと聞きたかったんだな——とぼんやり思った。
*
大学生活は、思ったより静かに始まった。
前世の三十五年分の経験があるから、授業で躓くことはなかった。人と話す時に余計な緊張をしなくなって、それだけで随分生きやすくなった。
花音とは週に何度か食堂で会って、それとなく一緒に過ごした。前世でもそうだった——俺はいつも「それとなく」しかできなかった。
「蒼真って、図書館でいつも何読んでるの?」
ある昼下がり、花音が俺の隣に座りながら聞いた。
「経済の本」
「うっわ、真面目」
「花音こそ。あの付箋だらけのノート、どんな授業の?」
「心理学! めちゃくちゃ面白くて。人がなぜそういう行動をするかっていうのが、全部説明されるんだよ。蒼真はなんで経済なの?」
「……まあ、前から気になってたから」
「そっか」
花音はそれ以上聞かなかった。この人はいつもそうだ。踏み込まない。でも、いなくならない。
俺がそこに気づいたのは、今世に来てからだった。
前世では「花音は俺に気がない」と決めつけて、それ以上見ようとしなかった。でも今はわかる。花音は俺を見ていた。ただ、俺が先に顔を背けていた。
「……今度、映画でも行かない?」
俺は、ちょっとだけ勇気を出して言った。
「行く! 何観るの?」
「まだ決めてないけど、花音が観たいやつで」
「じゃあ私が選んでいい? 蒼真、絶対文句言わないこと」
「……文句は言わない」
「よし、決まり」
花音がにこっと笑った。喉の奥が少しだけ詰まる感じがした。
*
映画の約束をしてから三日後、俺は学内の掲示板の前で足を止めた。
「新規ベンチャー企業設立説明会 発起人:黒羽涼介(経済学部二年)」
ポスターに書かれたビジネスプランの内容を読んで、俺は眉をひそめた。
学生向けのマッチングアプリ。学習グループの形成、研究プロジェクトの仲間探し、就職活動の情報共有——。
……これ、前世の俺が「いつかやってみたかった」と考えていたアイデアと、ほぼ同じだった。
もちろん、同じことを考える人間が複数いてもおかしくない。偶然かもしれない。そう言い聞かせながらも、俺は説明会の会場に向かった。
大教室には予想より多くの学生が集まっていた。
壇上に立っていたのは、二年生らしい落ち着いた雰囲気の男だった。黒羽涼介——ポスターに書いてあった名前の通りの男が、滑らかな口調で話していた。
「このアプリの核心は、繋がりの質です。相手が誰かではなく、何をしたいかで繋がる仕組みを作りたい」
話し方が上手かった。聴衆の視線の引き付け方、間の取り方——前世で何度も人前で話してきた人間の動き方だった。
説明会が終わった後、俺は黒羽に話しかけた。
「黒羽先輩、すごいプレゼンでしたね」
「ありがとうございます。神崎くんでしたっけ?」
名前を知られていることに、微かな違和感を覚えた。
「はい、一年の神崎蒼真です。なぜ俺の名前を?」
「少し調べました。最近、うちの経済学部で投資の話をよく聞くもので」
黒羽が俺をじっと見つめた。その目には、何か探るような光があった。
俺が最近やっていたのは、特別なことじゃない。前世の記憶の中で「たしかこのあたりの時期に医療業界が盛り上がった気がする」という感覚を頼りに、少しだけ株を動かしていた。大きく当てたわけじゃない。ただ、外さなかった。
「少しだけ、運が良かっただけです」
「それにしては、判断が早すぎる」
黒羽が微笑んだ。
「一つ聞いていいですか、神崎くん。あなたは、未来のことが分かる気がすることって、ありませんか?」
——ドクン、と心臓が鳴った。
「……どういう意味ですか?」
「そのままの意味です。まあ、今日は探り合いもここまでにしておきましょう。ところで、桜庭さんと親しいですよね」
唐突に花音の名前が出た。
「幼馴染です」
「そうですか。彼女、うちのサークルに入ってくれて。明るくて、いい子ですよね」
黒羽の目が細くなった。感情の読めない表情だった。
「それじゃ、また話しましょう。投資の件も含めて」
そう言って、黒羽は人の群れに消えていった。
俺はその場に立ったまま、拳を少し握り込んだ。
——嫌な予感がする。
*
花音との映画は、思ったより長くなった。
選んだのはロマンティックなラブコメで、俺は「なんでこれ?」と思ったけれど約束通り文句は言わなかった。エンドロールが流れる頃には、隣で花音が目を拭っていた。
「なんで泣いてるの」
「好きなんだよ、こういうの……言い訳させて」
「言ってない」
「顔に書いてある」
帰り道、花音は少しだけゆっくり歩いた。いつもは俺より早足なのに。
「映画の主人公さ、最後まで言えないじゃん」
「……そうだな」
「あれ、なんで言えないんだろうね。好きなら言えばいいのに」
俺は答えなかった。
花音がちらっと俺を見た。「蒼真は言える方?」
「……さあ」
「そっか」
花音はそれ以上追わなかった。でも、少しだけ表情が変わった気がした。気のせいかもしれない。
気のせいじゃないかもしれない。
前世の俺は、こういう瞬間を全部「気のせい」で終わらせてきた。
*
翌週、花音から誘いが来た。
「土曜日ひま? 新しいテーマパーク行きたいんだけど」
「行く」
「即答! じゃあ待ち合わせは——」
「迎えに行く。何時がいい?」
「……え、迎えに来てくれるの?」
「幼馴染だから」
少しの間、返信が来なかった。
「……じゃあ、朝九時でお願いします」
「了解」
もしかして、と思うことがあった。でも確かめる勇気はまだなかった。
土曜日の朝、花音は薄いブルーのワンピースを着て待っていた。珍しい色だった。前世で見たことのない服。
「似合ってる」
「……そう?」
「うん」
「……ありがと」
花音の耳が少し赤かった。俺は見なかったふりをした。
でも——テーマパークの入り口で、黒羽涼介が待っていた。
*
「おはようございます、神崎くん。桜庭さんも」
どう見ても偶然じゃない。俺は内心で舌打ちした。
「黒羽先輩……なぜここに?」
「たまたまです。せっかくなら、ご一緒しませんか?」
花音が俺を見た。俺が何か言う前に、黒羽が花音に向かって微笑んだ。
「桜庭さん、このテーマパークで一番人気のアトラクション、知ってますか?」
「知らないです! 調べてきたんですか?」
「ええ。良かったら案内しますよ」
そこからの三時間が、俺の今世で一番長く感じた三時間だった。
黒羽は本当に上手かった。花音の好みに合わせた話題を選んで、程よいタイミングで笑わせて、疲れたと言う前にベンチを見つけて。前世で磨き上げてきた対人スキルを全力で使っているのが、俺には見えた。
「黒羽先輩って、なんでもよく知ってますよね」
「人を見るのが好きなんです」
「どういう意味ですか?」
「人が何を求めているか、何をしたいか——それが分かると、自然と話すことが出てくる」
花音が「なるほど」と頷いた。
俺は少し離れた位置で、観覧車のゴンドラを見上げていた。
こんなこと、俺にはできない。前世でも今世でも。人の気持ちを読む前に、自分の気持ちが邪魔をする。花音のことが好きだから、うまく話せない。それだけのことなのに、三十五年かけて言えなかった。
「蒼真、どうしたの?」
花音が戻ってきた。一人で。
「……黒羽先輩は?」
「ちょっと電話が来たって。蒼真、さっきから一人でいるじゃん。大丈夫?」
「大丈夫」
「全然大丈夫そうに見えない」
花音が俺の顔を覗き込んだ。大きな瞳が、まっすぐこちらを見ていた。
「黒羽先輩のこと、嫌い?」
「……嫌いじゃない」
「じゃあ何?」
「……別に、何も」
花音は少しの間、何も言わなかった。それから、俺の隣に立った。
「蒼真って、昔から言わないよね、自分のこと」
「……そうか?」
「うん。なんでも分かってる顔して、一人で抱えてる顔する。それが高校の時からずっと変わらない」
俺は返事ができなかった。
「……私にはさ、言ってくれてもいいのに」
黒羽が戻ってくる前に、それだけが残った。
*
テーマパークから帰る途中、黒羽が言った。
「今度は僕が花音さんを誘っていいですか? もちろん、神崎くんも一緒に」
俺は「それでいいですよ」と答えた。
その声が、自分のものじゃないみたいだった。
花音はすぐには返事をしなかった。「……また連絡します」と言った。その声に、俺は何かを感じたけれど、確かめることができなかった。
夕方、一人になってから、スマホを握って考えた。
黒羽は確実に転生者だ。未来の知識じゃなくて、長年かけて培った対人スキルと、人を動かすための計算。あの人には、「花音を好きになる」という感情がない。あるのは「花音を落とす」という戦略だけだ。
それが分かっていても、俺は黒羽に勝てる気がしなかった。
なぜなら花音が笑っていたから。
その笑顔が本物かどうかは関係ない。花音が黒羽の前で楽しそうにしていた——それだけで、俺の足が止まった。
「……俺、三十五年かけて何も変わってないな」
呟きは誰にも聞こえなかった。
*
その翌週、花音から「話がある」という連絡が来た。
大学の中庭のベンチで、花音は俺を待っていた。
「どうしたの?」
「……ちょっと聞いてほしくて」
花音が膝の上で手を組んだ。珍しい仕草だった。
「黒羽先輩に、告白された」
俺の胸の内側で、何かが静かに止まった。
「そっか……」
「どうしよう、って思って。蒼真に相談しようって」
「花音はどう思ってるの」
「……黒羽先輩は、話してて楽しいし、気が利く人だと思う。でも」
「でも?」
花音が俺を見た。
「なんか、距離があるんだよね。すごく上手に話してくれるんだけど、その人の気持ちがどこにあるのか、わからない。……私のことを見てくれてる気はするんだけど、なんていうか……」
「計算、してる感じがする?」
花音が少し驚いた顔をした。「……うん、なんでわかるの」
「花音は、人のことよく見てるから」
花音の目が揺れた。
「蒼真は……どう思う」
「俺に聞くのか、それを」
「……聞きたい」
俺の手が、膝の上で少し震えていた。
——言え。今言わなかったら、また同じことを繰り返す。
「花音、俺、ずっと好きだった」
風が止まったみたいだった。
「高校の時から。いや、もっと前から。でも、ずっと言えなかった。……お前が遠くに行くのが嫌だったのか、告白して断られるのが嫌だったのか、自分でもよく分からないけど」
「……蒼真」
「ちゃんと言えてなかった。だから今言う。俺と、付き合ってくれないか」
花音は何も言わなかった。俺も、次の言葉を探せなかった。
木の葉が揺れる音だけが、しばらく続いた。
「……私ね」
花音がゆっくり口を開いた。
「蒼真が気になってたの、もうずっと前から」
「…………」
「でも、蒼真って絶対に言わない人だと思ってた。私のことは、友達か幼馴染としか見てないんだって、自分に言い聞かせてた」
「ごめん」
「謝らないでよ」
花音が苦笑した。でもその目が潤んでいた。
「……私も好き。だからちゃんと答える。付き合う」
俺は何か言おうとして、言葉が出なかった。
代わりに、花音が先に笑った。
「なんで蒼真が泣きそうな顔してるの」
「泣いてない」
「泣きそう」
「……うるさい」
花音が小さく笑った。俺も笑った。前世では一度もこういう笑い方をしたことがなかった。
*
翌日、黒羽に呼び出された。
人の少ない渡り廊下で、黒羽は静かに待っていた。
「花音さんから、返事をもらいました」
「……そうですか」
「断られました。あなたのせいで」
黒羽の言葉に棘はなかった。ただ、確認しているような口調だった。
「神崎くん、一つだけ聞いていいですか」
「何ですか」
「あなたも、私と同じですよね」
俺は少し間を置いた。
「……ええ」
「前世は何歳で?」
「三十五です」
「私は四十でした。IT企業を経営していました。……あなたは?」
「普通のサラリーマンでした。特別なことは何もない」
黒羽が少し笑った。
「なるほど。それで勝てるんですね」
「勝負だとは思ってませんでした」
「私は思っていました。だから負けた」
黒羽が窓の外を見た。曇った空に、少しだけ青が見えた。
「前世で手に入れたものは多かった。金も、地位も、評価も。でも、最後に残ったのが一人だったのは……自分でも、分かっていた気がします」
「……」
「花音さんを攻略しようとしていた。その言葉が一番正確です。本当のことを言えば」
俺は何も言わなかった。
「神崎くんは、彼女のことを好きなんでしょう。本当に。それが伝わるから、彼女もあなたを選んだ」
「黒羽先輩は……」
「私には、前世で向き合えなかったことがあります。今世でそれをやり直すつもりでした。でも、間違った方法を選んでいた。……あなたを見ていて、そう思いました」
黒羽が俺の方に顔を向けた。その目に、今まで見せたことのない静けさがあった。
「花音さんを大切にしてください。そして、先輩に一つだけ教えてもらえますか」
「何ですか」
「あなたは、前世で後悔していたことに、どうやって向き合いましたか」
俺はしばらく考えた。
「……向き合ったというより、もう一度やり直しただけです。知識も、スキルも、関係なくて。ただ言えなかったことを言っただけでした」
黒羽が小さく頷いた。
「そうですか」
それだけ言って、黒羽は廊下を歩いていった。振り返らなかった。
その背中が、何か大切なものを探している人みたいに見えた。
*
それから半年が経った。
晴れた午後、俺と花音はキャンパスの芝生に座っていた。花音は心理学の教科書を読んでいて、俺は隣でぼんやりと空を見ていた。
「ねえ蒼真」
「ん」
「黒羽先輩、最近サークルで明るくなったって話してた」
「そうか」
「なんか、ボランティアで知り合った人と仲良くなったって噂で。……ちょっと良かったなって思った」
「お人好しだな」
「悪い?」
「悪くない」
花音がクスクス笑って、教科書に視線を戻した。
風が吹いて、芝生が揺れた。
「蒼真って、前世とかって信じる?」
突然の質問だった。俺は一拍置いた。
「なんで」
「心理学の授業で、そういう話が出てきたから。前世の記憶を持ってる子供、みたいなやつ」
「……さあ。あったとしても、今が大事じゃないか」
「なにそれ、意外と良いこと言う」
「意外とって言うな」
花音がまた笑った。俺も笑った。
前世の俺は、三十五年かけて何を手に入れたんだろう、とたまに考える。お金も、出世も、それなりに頑張った。でも、死ぬ時に頭にあったのは花音の顔だけだった。
今世の俺は、まだ何も大したことをしていない。でも、今日の午後、ちゃんと花音の隣にいる。
芝生の匂いが風に乗ってきた。遠くで誰かが笑っている声がした。
花音が教科書を閉じて、ちょっとだけ俺の方にもたれた。
「今日、夕飯は私が作るよ」
「お前の料理、大丈夫か?」
「失礼な。うまいよ」
「前に作ってもらった卵焼き、甘すぎたけど」
「それは蒼真が甘さ控えめって言い忘れたのが悪い」
「俺のせいか」
「そう。でも今日は普通の塩味にする。文句ある?」
「……ない」
「決まり」
花音が立ち上がって、俺に手を差し伸べた。
俺はその手を取った。
——前世で告白できなかったことに、後悔はない。
ちゃんと今世で言えたから。
言えた、それだけで十分だった。
今度は、花音と一緒に、前世では見なかった景色を見にいく。
【完】




