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#12 隔離病棟/2020  (AI共作)

 新型コロナ病棟となった西病棟の廊下を見回っていると、咳に混じってかすかにすすり泣く声がした。


 N95マスクとフェイスシールドで完全武装した久美子は、声の出どころを探して周囲を見回した。透明な盾越しに、ナースステーションの時計が目に入る。針は深夜二時を過ぎていた。歩を進めるごとに泣き声は近くなる。嗚咽というより子どもが泣くような声だが、この病棟には子どもは入院していなかった。


「……かっ、帰りたいっ……」


 すぐ先の病室からだった。声はやはり大人のものだ。


 四〇一号室に入院しているのは飯田猛。先週はじめに救急車で運ばれて来て、肥満の上に睡眠時無呼吸症候群もあるため一時は悪化が危ぶまれたが、今週に入って症状は回復に向かっていた。


 回復したからこそ、あれこれ考えを巡らせて不安になることもある。


 泣き声がやむ気配はなかった。久美子の足は自然と飯田の病室の前に止まり、その気配を察してか、扉の向こうから堰を切ったように嗚咽が聞こえた。間をおかず血中酸素濃度の低下を報せるアラームが鳴る。久美子が扉を開けると、飯田はベッドではなく床にうずくまっていた。彼が床についた右手のそばで、スマートフォンが青白い光を放っている。


「飯田さん、大丈夫ですから落ち着いて、ゆっくり呼吸してください」


 酸素量を上げ、久美子は飯田の背をさすった。さすりながら、飯田の頬に涙の跡があるのを見つけた。


 この病院に運び込まれて約十日。その十日で彼が接したのは防護服を身に着けた医者と看護師。家族とメールのやりとりをしていても、不安にならないはずがない。


 じきにアラームは止み、飯田はスマホを掴んで自分の足で立ち上がった。久美子が初めて飯田を見たときよりもひと回り痩せた体を、ゆっくりとベッドに横たえる。未だに肥満であることに変わりはない。


「すいません、看護師さん」


「大丈夫ですよ。でも、無理しないでくださいね。ゆっくり眠って、早く良くなってください。ご家族の方も待ってますから」


 久美子は笑いかけたつもりだったが、消灯後の薄暗い部屋、マスクとフェイスシールド。伝わったかどうかわからない。


「すいません」


 飯田はもう一度謝り、スマホを久美子に向けた。金髪に青い目をした赤ん坊が、満面の笑みを浮かべて映っている。その柔らかそうな左頬にある黒々したホクロを見て久美子はドキリとしたが、飯田は「マリリンモンローみたいでしょう」と愛おしそうにほほ笑んだ。


「娘です。まだ八カ月で、妻は日本語があまり得意じゃないのに。出張先でこんなことになってしまって……」


「大丈夫ですよ。飯田さんは順調に回復してますから、もうすぐ会えますよ」


 久美子は飯田が落ち着いたのを見届け、ナースステーションに戻った。見回りのチェックシートを埋めながら、赤ん坊のホクロのことを考える。頭から離れないある可能性を、首を振って追い払った。


 ――考え過ぎだ。


 久美子の本業は看護師ではなかった。なりゆきで今はコロナ病棟で勤務することになり、次から次へと押し寄せるコロナ患者への対応で、本来やらねばならないことが後回しになっている。数ヶ月前は、日本が――いや、世界がこんなことになるなんて思いもしなかった。


 マスクの下で吐息が漏れる。


 病床数八〇の若葉病院で、西病棟の三十五床が新型コロナ病床として確保されていた。つい最近、近くのホテルが軽症者用の宿泊施設となったが、若葉病院のコロナ病床はギリギリでなんとか回っている状態だ。重症者は設備の整った総合病院に回されることもあり、若葉病院ではまだ死者は出ていない。しかし、いつどうなるかわからない。


 ――死。


 もし、コロナ患者がこの病院で亡くなったら。

 もし、その患者があの目(・・・)をしていたら。


 久美子はブルッと肩を震わせた。

 今のところ、ここにいる新型コロナ患者に〈あの目〉をした者はいない。ウイルスではなく寄生生物ブラックグーに体を乗っ取られた者の、〈|観察する眼差し《Observational Stare》〉は。





 久美子がブラックグーと呼ばれる寄生生物に関わることになったのは、二〇一九年の晩秋のことだった。


 離婚が成立して半年。外資系の医療機器メーカーを早期退職し、転職活動に行き詰まったタイミングで、Flavo Urso Publishingという縁もゆかりもない研究機関から求人メールが届いた。内容は「医療従事者向け・M県でのフィールドワーク協力者募集」というもの。


 なぜ自分宛にそんなメールが届いたのか。久美子は訝った。しかし給与は申し分なく、学術的な調査研究に携わる仕事内容は前職より格段に面白そうだった。すぐ履歴書を送付し、返信が来たのは三日後。採用面接は都内のオフィスでと書かれていた。


 ――もし、Flavo Urso Publishingからのメールが来なかったら。


 久美子は面接に向かう電車の中で考えた。

 メールが来ていなければ、結婚前に勤めていた隣県の若葉病院に電話をかけて、復職を希望する旨を伝えたかもしれない。看護師はどこも人手不足だから、電話さえすればすぐ採用されたはずだ。それは堅実な選択肢に違いなかったけれど、久美子はどうしても発信ボタンが押せなかった。


 呼吸を止めた患者の、青白い顔。それは目を閉じるたびにまぶたの裏に蘇り、じっとりと手のひらに汗が滲む。久美子は自分が何を恐れているのか自覚していた。


 ――こぼれ落ちていく命。死だ。


 看護師なら当然それに向き合わねばならない。けれど、降り積もった死はじわじわと久美子の心を締めつけて、結局、結婚を言い訳に臨床の場を離れた。そして再就職したのが医療機器メーカー。


 不完全燃焼の使命感と義務感とが、痼のように心の奥で固くこわばっている。ふとした瞬間、痼はジクジクと胸を刺した。


 医療から離れたいわけではない。だからこそ臨床に戻れない自分が嫌になる。そうしてウロウロと医療のまわりをさまよっている。今回もそうだった。「医療従事者向け」という求人の文言に、すがるように履歴書を送ったのだ。


 車窓を美容クリニックの看板が流れていった。


 ――私は、まだ死と向き合う準備ができていない。じゃあ、いつならいい? 本当は、誰かに背を押してもらいたがっているんじゃない?


 久美子は自問しながら電車を降り、指定されたビルに向かった。


 面接官は四十代くらいの男性が二人。右手のない茶髪の男性が、「井上諒です」と愛想の良い笑みを久美子に向けた。もう一人は眼鏡をかけていて知的な雰囲気をまとっている。木崎友弥ですと抑揚のない声で名乗った。


 木崎の、眼鏡越しのまっすぐな眼差しはどこか違和感があった。けれど、久美子は不思議と嫌な感じがしなかった。悪意で執拗にこちらを見ているのではなく、強いて言うならば、それは純粋な観察。患者を見るとき、もしかしたら自分も彼のような眼差しを向けているのかもしれないと久美子は思う。


「ひとつ確認させてください」木崎が言った。


「職歴に感染症病棟経験ありと書かれていますが、濱田さんはその経験を活かせる職場で働きたいとお考えですか?」


「……えっ? ……あ、はい。そうですね。それが望ましいと思っています」


 歯切れ悪くなったのは、臨床に向かう心の準備ができていないせいだった。かろうじて前向きな言葉で取り繕ったが、久美子は内心動揺している。木崎はじっと久美子を見つめている。


「では、もしFlavo Ursoとの契約に加えて病院勤務をしてもらうことになった場合、体力的に問題ありませんか? 週に二回くらい。労基法に引っかかるほど働かせたりはしません」


「病院勤務、ですか? 体力的には大丈夫ですが……」


「予定としてはホスピスを考えています」


 胸の奥で痼が疼いた。

 ホスピス――ゆっくりと迫りくる死に向き合う人々がいる場所。

 久美子にとっては思いもよらない話だったが、ここで逃げたら一生変われない気がした。それに、久美子はこのとき「死」が向こうから手を差し伸べてくれたようにも感じられた。怖がらなくていいからこちらを向いてみなさい――と。


「わかりました。問題ありません」


 久美子はその場で雇用契約と秘密保持契約を交わすことになった。分厚い契約書の内容を二時間以上かけて説明され、すべてにサインし終えてから、ふと「自分は一体どこに足を踏み入れてしまったのだろう」と不安を覚える。帰りの電車の中で「なぜPublishing(出版)なのか」という疑問が浮かび、ネット検索したが「Flavo Urso Publishing」は見つからなかった。


 翌週、久美子は井上の運転する車で研究所を訪れた。それは廃倉庫のような建物で、井上が勝手口の扉を開けると奥にもう一枚扉があった。建物の外観が五十年前なら、目の前の扉は五十年後の未来。井上は虹彩認証で扉を開け、現れたのはSF映画のような研究施設だった。


 その日、契約書にサインしたことを後悔し始めた久美子を一番困惑させたのは、井上諒から手渡された資料。分厚いファイル五冊すべてに『禁帯出』と書かれていた。


「とりあえず目を通してください。本格的に業務を始めるのは、そこに書いてあることを理解してもらってからです」


 井上は部屋を出ていき、一人残された久美子は一番上のファイルをめくった。目に飛び込んできたのは『黒色粘性無細胞寄生生物〈Melanos manipulatrix〉』という文字。書かれていたのは見たことも聞いたこともない生物に関する研究内容だった。


 黒色粘性無細胞寄生生物、通称ブラックグー。

 黒い粘液状で、触れた生物に寄生して意識を乗っ取る。宿主が死ぬと体から排出され、次の宿主を探して移動する。最初は宿主の体表面に黒斑として視認できるが、一週間ほどで黒斑が消えると同時に宿主の人格は消滅し、ブラックグーが体を支配する。ブラックグーはそれまで寄生してきた宿主の記憶も保持している。


 ブラックグーに体を乗っ取られた人間に共通するのが〈|観察する眼差し《Observational Stare》〉。寄生歴が多いと意図的に凝視を回避する者もあるが、不自然さは拭えない。目つきと行動に演技をしているような作り物めいた印象がある――。


 概要に目を通しただけで頭がくらくらした。書いてあることすべて、荒唐無稽なフィクションにしか思えなかった。それでも、この研究施設にかけられた費用を想像すると「もしかしたら」とも思う。

 ひとまず給料のためと自分に言い聞かせ、久美子は五冊のファイルに黙々と目を通していった。


 そして、Flavo Urso Publishingに入って一ヶ月。

 疑念は払拭されず、ブラックグーの存在も半信半疑のままだったが、給料一ヶ月分の入社祝い金が口座に振り込まれたこともあって、久美子は真面目に仕事にとりくんでいた。といっても、資料を読むか、資料映像を見るくらい。例のホスピス勤務が始まる様子もなかったが、ひとつ明らかになったのは、Flavo Urso Publishingは科学ジャーナルの出版社だということだ。それは、おそらく研究を隠すための偽装。


 ――ヤバそうな感じがしたらすぐ辞めよう。


 久美子はそう思いながら仕事を続け、いつの間にか年が明けて二〇二〇年になっていた。


「そろそろ資料見てるだけじゃ飽きたよね」


 一月半ば。井上が久美子を連れて行ったのは、それまで近づかないように言われてきた一階奥の部屋だった。内部にはガラスで隔てられた空間があり、透明なケースがいくつも並べて置かれている。そのケースの中で、黒いものがうねうねと蠢いていた。


 研究員が久美子たちに気づいて振り返り、その眼差しから久美子は思わず目をそらした。心臓が早鐘を打っていた。


「……あ、井上さん。あれ、ブラックグーですか?」


「うん、そう。もっと近くで見せてあげるからこっち来て」


 井上はいたって普通だった。中に入ることなくガラス壁に沿って部屋の奥へと向かい、そこには執務スペースのような場所がある。彼はゴム手袋を両手にはめ、冷蔵庫からシャーレをひとつ取り出した。


 机の上に置かれたシャーレの中には、黒いナメクジのようなものがいた。よく見るとゆっくり移動しており、その有機的な動きは生物に間違いない。しかし、これが本当に人間に寄生するのだろうか、人間の体を乗っ取るのだろうかと考えると、途端に陳腐な作りごとのように思えた。


「触らないようにしてくださいね。おれみたいになりたくなかったら」井上は手のない右腕をヒョイと上げた。


 井上の目は、木崎とは違う。さっき見た研究員とも違っている。


「あの、井上さんは……」


 久美子は喋りかけたが、なんと言っていいかわからず口をつぐんだ。


 正直なところ、久美子はどうすべきかわからなくなっていた。研究所は怪しいし、やっていることも怪しいが、井上も、井上以外の職員も、久美子に丁寧に接してくれる。契約書を読み返しても、久美子に不利なことは書かれていない。


「なかなか信じられないですよね」


 井上が笑いかけた。


「おれも、我ながらよく切断する決心したなって思いますよ。でも、その判断は間違ってなかった。切断した手から黒いものが出てくるのを見たから」


「……切断部から、排出されるんですね」


 質問しながら、久美子はその状況を想像して眉間に皺を寄せた。それでもまだ信じきれなかった。信じきれないが、井上には右手がない。


「そうです。しかも、おれから排出されたブラックグーはおれの記憶の一部を保持してるんです。寄生前段階――つまり黒斑状態のとき、ブラックグーは宿主の情報を収集していると考えられています。

 あっ、そうそう。濱田さん、おれのデスクのそばにいるオウム知ってますよね?」


「はい。白いオウムですよね。マジカ君」


 久美子は答えたあとでハッとした。鳥だからそんなものかと思っていたが、あの眼差しは、


「もしかして、宿主なんですか?」


「正解。あいつ、人間が喋りかけると『マジか』って答えるでしょう? あれ、おれの口癖なんですよ。マジ勘弁してほしいですよね」


 井上は軽い口調だったが、久美子は笑えなかった。心の中で「マジか」とつぶやき、ふとブラックグーの存在を信じ始めている自分に気づいた。


「おれが手を切ったのはもう六年くらい前かな。あの頃は、そこまでブラックグーは広まってなかった。ブラックグーを改良して――いや、改悪してブラックグーの拡散を目論むやつらがいるんです。うちの会社はそれを阻止しようとしてる」


「ブラックグーを拡散って、どうやって? 感染症みたいに一人から何人にも感染するわけではないですよね」


「簡単な話ですよ。さっき見た黒いケースを川にぶちまければ拡散します。でも、そういうやり方は世間の注目を浴びる可能性があるから、やつらはしない。最近やつらが利用してるのは虫のようです」


「虫?」


「例えば、鈴虫。ブラックグーを寄生させた鈴虫を、町内会で配ったという事例があります。鈴虫の寿命は短いですから、死んだらブラックグーは排出される。次の宿主は必ずしも人間というわけではなく、ブラックグーに寄生された野良猫が発見されています。猫は捕獲できますが、人間はそういうわけにもいかない。この事例、地方の田舎町なんですけど、そこ、ヤバいことになってます」


 久美子は得体のしれない恐怖が自分の胸に芽生えるのを感じた。


「いったい誰が、何のために? 生物兵器みたいなものですか?」


「その話はまたおいおい。一気に情報を詰め込んでも陰謀論っぽくなるから。実際、寄生生物が人間の体を奪うって、濱田さんは信じてます?」


 久美子が返答に詰まると、「だよね」と井上は砕けた口ぶりで肩をすくめた。


「おれも、腕を切れって言ったのが木崎じゃなかったら、信じてなかった。濱田さん、気づいてるでしょ? あいつの目」


 久美子は顔がこわばるのを自覚した。


 ――気づいていた。気づいていたけれど、認めるのが怖くて気づかないふりをしてきた。


「……木崎さんは、宿主なんですか?」


「そういうこと」


 井上は大したことないように言う。


「木崎友弥はおれの高校の同級だったんだ。でも、Flavo Ursoの木崎はなんていうか、木崎の双子の兄貴って感じ。同じ顔だけど別人。まあ、どっちも友だちだけどさ」


 壮大なドッキリじゃないか、という気持ちはまだ残っていた。けれど、久美子はもうほとんど信じかけている。


 印象的な木崎の眼差し。それを恐れてここで逃げてしまったら、今までと同じことの繰り返しだ。


「井上さん、私は何のために選ばれたんですか? 求人メールを送ってくる前に私のことは調べてあったんですよね?」


「正解」


 井上は満足そうにうなずく。「マジか」だけでなく、「正解」も井上の口癖のようだった。


「濱田さんには、ホスピスで〈観察する眼差し〉を持つ人を探してほしいんだ。その人が死を迎えたとき、排出されたブラックグーを速やかに回収できるように。あとは、もし黒斑を持つ人がいたら報告してほしい。黒斑が消える前に切断できれば、人格を守ることができるから」


「わかりました」


 自分で思っていたよりもすんなりと返事が口から出た。胸の奥に使命感のようなものが芽生え、痼がすこし小さくなった気がした。けれど、研究所を出て車で山道を下り、井上と別れて電車に乗ると、すべてが作り話みたいに思えた。


 医学的に説明のつかない寄生生物、人格の消滅、切断による排出。「マジか」とひとり言をつぶやくと、そばかすだらけの女子高生が振り返った。薄い茶色をまだらに散らした皮膚。久美子がそれをじっと見つめると、女子高生は「キモ」と吐き捨てて顔をそむけた。





 状況が変わったのは、新型コロナウイルスが日本に上陸したせいだった。ホスピス行きは先延ばしになり、結局中止になった。その代わり、久美子はコロナ病棟に行くことになった。そこはまさに生死の境目。


 偶然か、意図的か、行き先は久美子が以前勤めていた若葉病院だった。最初は週二回の夜勤の予定だったが、久美子の希望を木崎が受け入れる形でほぼ毎日病院勤務となった。


 ――何かしなければ。


 そんな危機感を木崎と共有できたのだと、久美子は思った。


 数年ぶりの病棟は戦場と化している。さらにブラックグーのことが頭の片隅にあるせいで、久美子が懐かしさに浸る時間はなかった。木崎の眼差しを思い出し、ひたすら患者を観察した。機会があれば医者や看護師にもその目を向けた。


 黒斑を発見したのは五月の終わり。先月の七日に緊急事態宣言が出されたこともあり、世間は一気に自粛モードになっていた。


 問題の患者は三〇六号室、七十六歳の男性、大西孝雄。看護師のことを「お嬢ちゃん」と呼んで愛想よく話す患者だった。おせじにも清潔感のある人物とは言えないが、田舎の祖父のような懐かしさがあった。


 入院前日に熱と全身倦怠感を訴えて救急搬送されたが、PCR検査は陰性。原因不明の発熱とされた。そして入院二日目の朝。採血のために病室に入ったとき、久美子は孝雄の腕の内側に黒いシミを見つけた。袖をめくると大豆ほどの大きさの鮮明な黒斑がある。


「四、五日前からあるんだ。マジックみたいなもんがついて、洗っても落ちん」


 孝雄はさほど気にしていないようだった。高齢者ということで大事をとって入院したが、再検査で陰性ならば退院になる可能性もあり、そうなる前に対応が必要だと久美子は考えた。ナースステーションを抜け、木崎に連絡を入れる。


「七十六歳男性、発熱で入院中。PCR陰性。左腕の内側に黒斑があります。本人は四、五日前からあると言っていて、現時点で様子は普通です」


「わかりました。すぐに行きます」


 簡潔なやりとりだけで木崎は電話を切った。部外者が来たところで院内に入れないのではないかと心配したが、木崎は県職員だという男性と一緒に姿を見せた。名前は刀根。


「こちらは感染対策の確認でいらした方々です」


 師長が二人を看護師たちに紹介した。その表情に困惑はなく、あらかじめ話が通っていたのは明らかだった。


 孝雄の病室には、久美子と木崎、刀根で向かった。木崎は「感染症研究をしている木村です」と偽名を名乗り、黒斑を確認し、腕の内側全体を丁寧に見た。


「大西さん、このシミ、移動したりはしませんでしたか?」


 木崎が問うと、孝雄は「した」と前のめりに返事をする。


「誰も信じないと思って言ってなかったんだ。けど、動いた。たしかに動いた。先生、このシミはなんなんですか?」


「寄生生物です。シミは一週間ほどで消えますが、そのとき大西さんの体は寄生生物に乗っ取られます。それを回避する方法は、寄生部位を切断するしかありません」


 木崎が淡々とした口調だったからか、孝雄はアハハッと笑い声をあげた。


「先生、こんなときに冗談はやめてください」


 すかさず刀根が場所を変わり、パソコンを開いて孝雄に映像を見せる。久美子も見たことのある資料映像だった。


 胸に黒斑のある犬が激しく吠えている。黒斑が消えた瞬間に犬は急に大人しくなり、じっと瞬きもせずカメラを見つめる。実際には、カメラではなくカメラの背後にいる人間を観察している。

 刀根は数種類の映像を孝雄に見せた。孝雄の表情は、疑念、困惑、怒りへと変化していった。


「こんなもん信じて腕を切れっちゅうんか! 切らんと死ぬんか!」


「死にはしません。ただ、大西さんの意識は失われます。シミができて五日目ということなので、猶予はありません。最短で四日でシミが消えた例もあるんです」


「意味がわからん。こんなもんただのシミだ! なあ、お嬢ちゃん」


 孝雄は久美子の顔を見た。


 久美子には孝雄の気持ちが痛いほどわかった。こんな小さなシミができただけで腕を切り落とすなんて、普通に考えて受け入れがたいことだ。久美子自身、いざという時に決断ができるかわからない。


 ――でも、今切らないと大西さんは……。


「大西さん」


 久美子はできるだけ穏やかな口調で話しかけた。


「大西さん、こちらの方がおっしゃっているのは本当なんです。ですから――」


「うるさい! もう出ていけ! わしは変なもんに寄生されたりなんかしとらん! コロナでもない! さっさと退院手続きしてくれ!」


 騒ぎを聞きつけた師長が入ってきて、入れ替わりに久美子たちは病室を出た。人けのない通路の端に移動し、三人同時に吐息をつく。


 久美子は意を決し、疑念を木崎に打ち明けることにした。


「木崎さん、大西さんを説得するのには時間が必要です。突然腕を切れと言われて、はいそうですかと言える人はいないんじゃないでしょうか。私自身、まだ完全に信じられたわけじゃなくて……」


「わかっています。では、大西さんの気が変わったら連絡を下さい。近くに待機していますから」


 思いのほかあっさりと木崎が立ち去ろうとし、久美子は慌てて引き止めた。


「あの、大丈夫なんですか? 時間がないんですよね。それに、大西さんがこのことを誰かに話したりしたら――」


 ブラックグーに関することは口外禁止。契約書には「職務上知り得たことは」と記載されていたが、あれは明らかにブラックグーの存在を世間に知られないためのものだった。木崎が当たりまえのように病院に入れたことを考えると、そこには大きな力が関与している。


 久美子の心配をよそに、木崎は「問題ありません」と表情も変えず帰っていった。その言葉の意味を理解したのは数時間後のこと。


 病室に入ると、孝雄がまっすぐ久美子を見た。口元に笑みがあるが、じっとまばたきもせず見つめてくる。その目からは怒りも困惑も疑念も感じられず、表情筋が動いているのに、目の奥には何の感情も見当たらなかった。


「……あの、大西さん。例の話は――」


「お嬢ちゃん、シミは消えたよ。除菌シートで拭いたら消えた。やっぱり油性ペンでもついてたかな」


 天気の話でもするような軽い口調に、久美子は背筋が寒くなった。孝雄は自分で袖をめくり上げ、「ほら、なんもない」と肘裏を見せる。本当に、そこにはなにもなかった。


「お嬢ちゃん、あんな話を信じたらいけんよ。陰謀論ってやつだ」

  

 孝雄の目が、フェイスシールドの内側の久美子を捉えている。手が震えるのを堪え、久美子は平静を装って病室を出た。足早に廊下の隅まで行くと、人目につかない場所で木崎に電話する。


「大西さんの黒斑が消えました。目が、……目が違います」


「そうですか、わかりました。後はこっちで対応します。お疲れさまでした」


「あっ、あのっ! ……木崎さんはこうなるってわかってたんですよね? 大西さんはどうせ乗っ取られるって。ブラックグーは自分の正体を隠すって」


 返事があるまでわずかに間があった。


「大西さんが切断に応じていたら、契約書で口外を禁止します。そして、寄生されたら彼の口から秘密が漏れることはありません。でも、流出が問題になるのは資料映像や研究データですから、濱田さんもあまり気負わなくて大丈夫ですよ。動く黒いシミはネットで都市伝説になっていますし」


「私が言いたいのはそういうことじゃありません。大西さんは、もう大西さんじゃないってことですよね? それなのに、木崎さんはどうしてそんなに平然と――」


 口をついて出た言葉だった。久美子はその言葉を発したことを後悔した。


 電話の相手が井上だったなら、冗談めかすような笑い声か、小さな吐息が聞こえたかもしれない。しかし電話の相手は木崎。


「それは、僕が彼と同じだからでしょうね」


 通話は切れ、久美子はしばし立ち尽くしたが、ナースコールで戦場へと戻っていった。


 再検査で新型コロナ陰性が確定した孝雄は、翌日に退院することが決まった。「お嬢ちゃん」と女性看護師に気安く話しかけるのは相変わらず。しかし、「なんか大西さん変じゃない?」と囁きあう声がナースセンターにあった。

「目つきがちょっと」

「本当に陰性なのよね」

「投与した解熱剤は?」

 そのやりとりは救急搬送の報せにかき消される。

 一夜明け、勤務を終えて申し送りを済ませた久美子は、病院の正面玄関前で木崎と刀根を待っていた。退院する孝雄を迎えに行くから、そのあとで研究所に同行してほしいということだった。


 ――意味がわからない。


 一体、何が起こっているのか。

 コロナと違って報道されることもなく、密かに、大きな権力によって隠されるように研究が進められている寄生生物ブラックグー。それは大西孝雄の体に息づいた。そうでなければ、孝雄が木崎たちの迎えを受け入れるはずもない。


 あと十分ほどで着くという木崎からの電話を久美子が切ったとき、背後から「違ったらすいません。看護師さんですよね?」と声をかける人がいた。イギリス人の妻と八ヶ月の娘がいる、飯田猛だった。


 ブランドTシャツにハーフパンツ姿の飯田は、病み上がりにしては血色がいい。夏というにはまだ早いが、空調の効いた院内と違って外は二十五度を超えている。肥満傾向の飯田は首筋に汗を滲ませていた。


「飯田さん。今日退院でしたね。おめでとうございます。それにしても、よく私だってわかりましたね。いつも完全防備だったし、今もマスクしてるのに」


「声でわかりました。あのとき、情けない姿を見せてすいませんでした」


 飯田は恥ずかしそうに頭をかき、ふと何かを思い出したようにアッと声を漏らした。


「ちょっと変なことをうかがうんですけど、小さい子が急に大人しくなるのって、何か問題があるんですかね?」


「娘さんのことですか?」


「ええ」飯田はポケットからスマホを取り出して久美子に見せた。その瞬間、久美子は手に持っていたスマホを落としそうになる。


 映っているのは金髪の赤ん坊。その笑みは無理やり口角を引き上げたような違和感があり、その眼差しは何を考えているのかわからない。飯田がマリリンモンローといった左頬のホクロは、跡形もなく消えていた。


「コロナのことがなかったら病院で相談してみてもいいんですけど、こんな時期だから様子を見たほうがいいんじゃないかって妻と話してるんです。食欲はあるし、泣いたりぐずったりしなくなっただけで、むしろ妻は肉体的に楽になったみたいだし。赤ん坊が急に大人になったみたいだって言ってました」


「大人ですか?」


「はい。言葉を理解してる感じがするって。それに、うまく発音できないけど話そうとするって。やっぱり、専門じゃないとわからないですよね?」


「……そうですね。かかりつけのところに相談されるのがいいと思います。あと、すいません、ホクロがなくなってるみたいですけど……」


 唐突に話を変えて怪しまれないかと久美子は心配したが、飯田は「そうなんですよね」と、疑う様子もなく答えた。


「ホクロっていっても最近できたもので、妻の話だと、顔に蚊がとまったのを娘が自分で叩いたらしいんです。そのあと、黒いのがついてたから拭いたけど落ちなかったって。知らないうちにホクロができたんだろうって言ってたんですけど、消えちゃったみたいです。不思議ですね」


 玄関前にタクシーが停まり、飯田は「お世話になりました」と去っていった。その車を見送っていた久美子の目に、見慣れたワンボックスカーが映る。いつも井上が久美子を駅まで送っていってくれる、研究所の車だった。


 その車が近づいてくるのを眺めながら、久美子は疲労した脳で飯田のことを考えている。飯田のスマホに映った金髪に青い目の赤ん坊のことを考えている。感情のない眼差し、消えたホクロ、八ヶ月の赤ん坊から何が失われて、何が宿ったのか、宿ったものは人間の記憶を持っているのか、記憶があるなら誰のものか。


 赤ん坊のささいな変化はじきに忘れ去られるだろう。その子が話す言葉は誰の模倣でもないブラックグーのもので、それが少女の人格となり、彼女の眼差しは彼女本来のものとなる。ブラックグーは一人の人間として成長し、大人になり、いつか死を迎え――。


 ――それは、死と言えるのだろうか?


 運転席には井上が乗っていた。後部座席から降りた刀根は躊躇いなく病院に入っていき、木崎は久美子の前で足を止める。眼鏡の奥の彼の瞳に、久美子はわずかに感情のようなものが見えた気がした。それは、久美子自身の感情だったかもしれない。


「濱田さん、井上としばらくお茶でもしていてください」


「わかりました。……あの、さっき退院した患者さんの赤ちゃん、ホクロが消えて泣かなくなったそうです」


「そうですか。それについては、井上に詳細を話しておいてもらえますか」


 冷静な声だが、久美子はなぜか木崎がいつもより人間的に思える。彼の内側に、動揺の波がさざめいている気がする。


「……木崎さんは、ずっと死なないんですか?」


 久美子の問いに木崎はわずかに目を見開き、フッと笑みを漏らした。演技には見えなかった。


「僕にもわかりません」


 病院の中に入っていく木崎を、久美子は目で追う。彼の内面をのぞき見れたらと願い、ただじっとその背を見つめた。


〈了〉



(Claude生成稿を大幅加筆修正。なお、Claude生成稿はnoteに掲載)

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