Episode.0
彼は、いつも優しい。
優しくて穏やかで、カッコいい。
この日、私、奈月こと伊藤奈月は、昼休憩時間に、本社の休憩室のテーブルで、友人ふたりである詩織と共に、コンビニで買ったサンドイッチを食べていた。
「あぁ、またメイク崩れてるぅ」
やりきれない、と言った声を上げているのは詩織だ。セミロングの髪を綺麗にカールさせた彼女は、鏡に映った自身の容姿を見て、メイクポーチからブラシとファンデーションを取り出し、追加のメイクを始める。
「“RuRu”のクッションファンデ、それより良いって口コミで見たけど」
私の助言に、それがね、と苦情を口にしようとした彼女、詩織。しかし直後のことだった。
突如として大声が辺りに響き渡った。控え室傍に現れた女性社員の宮本沙織が私と詩織に向かって大声をかけていたのだ。
彼女、宮本は比較的、普段から彼女、詩織と親しく話している社員。私はさほど親しくはない。彼女は驚いていた。
「ヤバイよ!また、商品企画部の天鬼さんが喧嘩してる!」
詩織、そして、私、奈月は驚いて、控え室から飛び出した。
ドン、と広報部の途中にあるエレベーター傍の通路の壁に、彼は背中からぶつけられていた。胸ぐらを掴まれた男性社員、三笘のワックスで整えた前髪が、衝撃からユラユラと揺れる。
彼は目の前で胸ぐらを掴んでくる、彼、今年で29歳になる天鬼彰人こと彰人を、少しだけ上目遣いで見上げた。彼より彰人の方が背が高いせいもあり、どうしても怯えた時のように上目遣いになってしまう彼は、それが不満か、睨むような視線を上げていたところ、彼は更にドンと鈍く強烈な音を立て、光沢のある白い壁に背中を叩きつけられる。
衝撃でガクンと頭が揺れた。
「死にてぇのか、てめぇ」
彰人はそう呟くように言い放つ。その恐ろしいほど綺麗に整ったルックスに、鋭利な目つきはよく栄えていた。元青年ファッション誌の契約モデルをしていた彼は、その甘いルックスから日々女子が纏わりつくも、接してみると分かるのだが、10人の10人が「キツい」と評判を口にするほど見た目と中身が違っていた。
そんな鷹の目に睨まれたネズミのように、三笘の闘争心はじわりじわりと沈んでいく。睨む気はどこへやら。三笘は見上げる気が消え失せたのか、視線の先を彰人の胸元まで落とした。
「俺のメシが落ちた、謝れ」
彰人は『機が熟した』とばかりにそう畳み掛けた。二人の横には床に座り込んでいる男性社員がいる。
彼は、パッとしない印象の石塚という男性社員だ。少しふっくらとした体格の彼は、口の端が赤くなっている。どうやら殴られたらしい。
殴ったのは、彼、三笘である。通路のエレベーター傍で今しがた三笘に殴られた彼が、衝撃から数メートル離れた位置をコンビニのおにぎりを食しながら歩いていた彰人へと突き飛ばされ、ぶつかった。ふたくちほど食べただけのおにぎりが床に落ちて転がったこと、それがこの喧嘩の原因だった。
認めて謝罪するのは、まるで殴った相手である石塚に謝るのも同じこと。そう思っているらしく三笘の顔には、あからさまな不満が、ありありと現れていた。
その顔を見た彰人の脚―――膝が、次の瞬間、光沢のある壁にバンと蹴りを入れた。途端、声を漏らすようにその場に崩れ折れる三笘。股間を蹴られた三笘が悶絶してしゃがみ込むのを放って、その場を去って行く彰人。そんな彼の通路を作るかのように、周囲では傍観する15人ほどの社員が身体を避けた。
三笘は痛みからその場にずりずりとしゃがみ込んで行く。激しく瞬きおっかなそうに地面に尻を着いたまま、傍観しするように石塚は彰人を眺めていた。
彰人の去って去ったその場には、カッコいい、と若い女性社員の黄色い声が響く。
彼の本性を知らない女子社員と、知っている女子社員の双方から、対照的な視線が向けられていた。
私、奈月は詩織と共に駆けつけると、そんな彰人を少しおっかなそうな顔で見つめた。
15人ほどの野次馬から離れた場所にチラホラと噂を聞きつけて引き寄せられた別の野次馬、10人ほど。その端に立って見つめていた私になんて気づくはずもないのに。彰人の脚は、私の前でついと止まっていた。
黒髪のミディアムヘアの私の頭に、トンと少し重さの感じる彼の手が乗せられていた。
「…昼、食べたか?」
私は瞬いて背の高い、彼を見上げる。彼はとても優しげな視線をこちらに向けていた。
目を細め、口角を上げている彼、彰人。その綺麗な顔立ちに見せるこの手の表情、それはもう国宝級だと時々思う。
私は激しく瞬き、視線を彷徨わせる。軽く、うんうん、と頷いた。するとトントンと、彼の手は頭の上でリズムを刻む。やがて「無理すんなよ」そう言い残して彼は去って行った。
彼、天鬼彰人は、私の姉の元恋人だ。『元』と言うのは語弊があるかもしれない。姉は5年前、心臓病―――『拡張型心筋症』で亡くなった。
姉は生前言っていた。
―――もしかしたら私、彰君と結婚するかもね。
病気が発覚する半年前頃、順調な交際の様子からそう漏らした姉は、それから数カ月後、体調を崩し始めた。やがて病院に搬送された後、それほど日にちも経たない中、息を引き取ったのだ。
亡くなる間際には、病室のベッドで医師が立ち会う中、親しい彰人に姉は視線を向けていた。取り乱すこともなく、ただ嗚咽を漏らし頬に涙を流す天鬼さんのそんな姿をその時初めて見た。
姉は言った。酸素マスク越しに、姉は寂しそうに笑っていた。
―――彰君……奈月を…お願い…ね…。
左手を彼に差し出した姉。私と母が見守る中、天鬼さんは、うんうんと何度も頷いて姉の手を固く握っていた。
きっとそのせいだろう。
就職先の定まらない私を、彼はコネを使ったり履歴書の書き方のアドバイスをしたりして、就職合格まで導いてくれた。あれから4年が経った。
彼は、私にだけ優しい。




