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【絶対爽快】因果応報・ざまぁ短編集 ~見下された者たちの逆転劇~

「お前は役立たずのクズだ」とモラハラ夫に罵られていた私、決意の離婚。~私がいなければ、あなたはプレゼン資料も作れない無能でしたね?~

作者: 品川太朗
掲載日:2025/11/15

数ある作品の中から、この物語を見つけてくださり、本当にありがとうございます。


この物語は、モラハラ夫の精神的支配(DV)により、自分を見失ってしまった一人の女性が、

息子のために、そして何より自分自身のために、

自らの「スキル」を武器に、地獄から這い上がり、未来を切り開いていく「再生」の物語です。


序盤は、読んでいて胸が苦しくなるような描写が続くかもしれません。


ですが、彼女が「決意」し、立ち上がり、かつての夫を「ざまぁ」するまでの道のりを、

どうか最後まで見届けていただけたら幸いです。


それでは、どうぞお楽しみください。



第1章:地獄の食卓


きっちりとアイロンがかけられた、糊の効いたワイシャツ。

床に一本も落ちていない、夫の髪の毛。

野菜の切り方がミリ単位で揃えられた、完璧な筑前煮。

これらはすべて、桐谷梓きりたにあずさが、夫・浩介こうすけのために捧げた「努力」であり、「日常」だった。

「ただいま」

玄関から聞こえる低い声に、梓はびくりと肩を震わせる。

キッチンから慌てて駆け寄り、床に膝をつかんばかりの勢いで頭を下げた。

「お、おかえりなさい、あなた。お疲れ様でした。すぐにご飯、用意しますね」

「……ああ」

リビングのソファに深く沈み込んだ浩介は、ネクタイを乱暴に緩めながら、梓には目もくれない。

テレビの電源だけが、無機質な音を響かせている。

食卓に、出来立ての湯気を立てる料理が並ぶ。

メインは豚の生姜焼き。副菜に筑前煮と、ほうれん草のおひたし。そして、あさりの味噌汁。

「いただきます」

浩介は無言で箸を取ると、まず味噌汁を一口すすった。

ピクリ、と浩介の眉が動く。

梓の心臓が、冷たい手で掴まれたように縮み上がった。

「……おい、梓」

「は、はい」

「この味噌汁。あさりだよな」

「はい。昨日あなた、飲みたいっておっしゃってたから……」

「昨日も『飲みたい』と言った。一昨日もだ。違うか?」

「え? ……あ……」

浩介は、カツン、とわざとらしく箸を置いた。

冷え切った声が、リビングに響く。

「三日連続であさりの味噌汁を出す主婦が、どこにいるんだ? 違う具材を考える『頭』もないのか?」

「ご、ごめんなさい! でも、昨日は……」

「言い訳か?」

ぞっとするような低い声。

梓は唇を噛み、俯いた。

「だいたい、お前の作るメシはレパートリーが少なすぎる。俺が誰のおかげで、この広い家に住んで、毎日三食食えてると思ってるんだ?」

「……あなたのおかげです」

「分かってるなら、もう少し頭を使え。まぁ、結婚前から『要領が悪い』とは思っていたが、ここまでとはな」

人格をすり潰すような言葉のナイフ。

息子のれんは、父親の機嫌が悪いことを察し、ただ黙って、小さな口でご飯をかき込んでいる。

七歳の子供が浮かべるには、あまりにも諦めと恐怖に満ちた表情で。

「……ごめんなさい」

梓に言えるのは、その一言だけ。

完璧に整えられた食卓は、地獄のように冷え切っていた。



第2章:親友の警告


翌日。

梓は、週に一度だけ浩介から許可されている「まとめ買い」のため、近所のスーパーに来ていた。

一円でも安く、一週間分の献立を完璧に組み立てる。それが彼女の使命だ。

特売の卵に手を伸ばした、その時。

「……え? もしかして、梓?」

懐かしい声に顔を上げると、息を呑むほど洗練されたスーツを着こなした女性が立っていた。

「か、香織……?」

早乙女香織さおとめかおり

梓が結婚前に勤めていたデザイン会社の元同僚であり、唯一無二の親友だった。

今や、WEB系ベンチャー企業の社長として、メディアにも取り上げられるほどの有名人だ。

「久しぶり! ……っていうか、梓、どうしたの、その顔」

香織は、梓の目の下のクマと、生気のない表情を真正面から見据えた。

梓が着ているのは、三年前のセールで買った、毛玉の浮いたカーディガン。

高級なトレンチコートを翻す香織とは、住む世界が違いすぎた。

「ううん、なんでもない。ちょっと寝不足で……」

「嘘。絶対なんかある」

香織は梓のカートを強引に奪うと、「ちょっと付き合いなさい」と、スーパーの隣にあるカフェに引きずり込んだ。

「……で? 何があったの」

コーヒーを一口飲んだ香織が、単刀直入に切り出す。

「なんでもないって。夫も優しいし、蓮も元気だし……」

「優しい夫は、妻をそんな『お化け』みたいな顔にさせない」

香織の言葉が、グサリと胸に刺さる。

梓は、夫の愚痴を言ってはいけない、と自分に言い聞かせた。浩介さんは外面そとづらはいい。きっと、私が至らないから……。

「……浩介さんは、外面は本当にいいの。ご近所さんにも、『いい旦那さんね』って言われるし」

「外面、ね」

香織はため息をついた。

「梓。あんた、昔はそんな目をしてなかった。もっと……自分のデザインに誇りを持って、笑ってた」

「昔のことよ」

「昔のことじゃない! それ、典型的なモラハラだよ。梓は、夫から精神的に殴られ続けてるんだよ」

「モラハラ……」

「気づいてないの? それとも、気づかないフリをしてるの?」

梓は震える手で、コーヒーカップを握りしめた。

「で、でも……蓮がいるし。あの子から、父親を奪うわけには……」

その言葉を聞いた瞬間、香織の目が、かつて仕事で修羅場を乗り越えてきた時の、鋭い光を放った。

「……本気で言ってる?」

「え?」

「その子のためにならない。父親が母親を罵倒する環境で育てば、子供はそれが『普通』だと思うようになる。蓮君も、将来奥さんを殴る男になるかもしれないよ」

「そ、そんなわけ……!」

「なるよ。子供は親の背中を見て育つ。父親が母親を奴隷みたいに扱う姿を見せて、まともな人間に育つと思う?」

梓は、何も言い返せなかった。

香織の言葉が、否定するにはあまりにも重い「真実」として、梓の心に突き刺さった。



第3章:引き金


その日の夜。

梓は、香織に会ったことがバレないか、生きた心地がしなかった。

いつも以上に完璧な夕食を用意し、浩介の帰りを待った。

幸い、浩介は機嫌が良かった。

会社で何か褒められたらしく、珍しく蓮の宿題まで見てやろうと言い出した。

「どれ、蓮。パパが見てやろう。……なんだ、こんな簡単な計算も分からないのか」

浩介の口調が、少しずつ苛立ちを含んでいく。

蓮は、父親の隣で、小さな体をカチカチに硬直させていた。

「ち、違うんだ、パパ。学校では分かったんだけど……」

「言い訳するな! だからお前はダメなんだ!」

浩介の怒声が飛ぶ。

蓮の目が、恐怖に潤んでいく。

見かねた梓が、間に入った。

「あなた、言い過ぎよ。蓮も疲れてるのよ。宿題はまた明日に……」

その瞬間だった。

蓮が、父親そっくりの冷たい目つきで、梓を睨みつけた。

「うるさいな! ママは黙っててよ!」

空気が凍る。

梓は、自分の耳を疑った。

最愛の息子が、続けた。

「パパが言ってた! ママは頭が悪いんだから、教えなくていいって!」

――ガシャン。

梓の中で、何かが決定的に壊れる音がした。

昨日、香織に言われた言葉が、頭の中でフラッシュバックする。

『子供も同じようになる』

ああ。

そうか。

もう、とっくに、始まっていたのだ。

私が「蓮のために」と我慢していた全ては、蓮を、大嫌いな夫と同じ人間にするために「教育」していたのと同じだったんだ。

「……そう、ね。ごめんなさい」

梓は、ゆっくりと立ち上がった。

その顔からは、一切の表情が消えていた。

浩介も蓮も、妻(母)の異様な雰囲気に、一瞬、言葉を失った。



第4章:反撃の準備


深夜。

夫のいびきと、子供の穏やかな寝息だけが響く中。

梓は、スマホを強く握りしめ、トイレの便座に座っていた。

もう、迷いはなかった。

あの子を、あんな大人には絶対にしない。

そのために、私は、この地獄から出なければならない。

震える指で、メッセージアプリを開く。

相手は、香織。

『助けて』

送信ボタンを押す指が、重い。

『私、離婚したい』

送信。

既読は、すぐについた。

心臓が跳ね上がる。

『待ってた』

カタカタと、返信が続く。

『よく決心した。まずは証拠。夫の暴言、経済DVの証拠を全部集める。ボイスレコーダー、使ってないスマホにある? なかったら明日送る』

『それと』

香織からのメッセージは、そこで一度止まった。

そして。

『あなたの『スキル』、まだ錆び付いてないでしょう? 結婚前に使ってた、あのAdobeのアカウント、まだ生きてる?』

梓は、自分の腕を見た。

結婚前、徹夜続きでデザインを仕上げ、クライアントから喝采を浴びた、この腕。

浩介から「何の役にも立たない」と馬鹿にされ、水仕事と家事で荒れ果てた、この手。

「……錆び付いて、ない」

ぽつり、と呟いた声は、もう震えていなかった。




第5章:反撃のツール


翌日の午前中、インターホンが鳴った。

浩介が会社に行った後、蓮を小学校に送り出した束の間の、梓の唯一の自由時間だ。

「……はい」

宅配便のドライバーから差し出された小さな荷物。送り主は「早乙女デザイン事務所」。

震える手で開梱すると、中から現れたのは、手のひらに収まるほどの小さな黒いスティック――最新型のボイスレコーダーだった。

そして、一枚のデビットカード。

『軍資金。出世払いでよろしく。 香織』

という短いメモが添えられていた。

涙が滲みそうになるのを、梓は奥歯を噛んでこらえた。

その夜から、梓の「戦い」は始まった。

最初は、浩介の怒声が聞こえるたびに、エプロンのポケットに忍ばせたレコーダーのスイッチを入れる手が震えた。

(バレたら? 殺されるかもしれない)

恐怖が全身を支配する。

だが、蓮の「ママは頭が悪いんだから」という言葉が脳裏をよぎるたび、梓は指先に力を込めた。

「おい! 洗濯物の畳み方が雑だ!」

「また特売の安い肉か。俺の稼ぎに見合ってないんだよ」

「お前は本当に要領が悪い。社会に出たら、一日も持たないクズだな」

カチ、カチ、カチ。

梓は無表情の仮面を貼り付け、冷静に罵詈雑言を「収集」していく。

深夜、浩介のいびきが響く中、イヤホンで録音内容を確認する。

そこに記録されていたのは、想像を絶する「地獄」だった。

『お前は俺の言うことだけ聞いてればいいんだ』

自分の耳で、客観的に浩介の声を聞き、梓は初めて自分がどれほど異常な環境にいたのかを「理解」した。

これは、夫婦喧嘩などではない。

一方的な、支配と虐待だ。

ふと、浩介が会社の後輩について話している部分が録音されていることに気づいた。

『……だから、あいつは使える。こないだ俺が作った(・・・・)資料、一発で意図を汲みやがった。それに比べて、使えない奴は……』

(……俺が作った、資料?)

梓の胸に、小さな違和感が芽生えた。



第6章:錆びついた手


録音と並行して、梓はもう一つの「リハビリ」を開始した。

深夜。トイレではなく、蓮の子供部屋のクローゼットの中。

息を殺し、古いノートPCの電源を入れる。結婚する時に浩介から「こんな古いもの、捨てろ」と言われたが、密かに隠し続けていたものだ。

数年ぶりに起動したAdobeのデザインソフト。

画面は、見慣れないツールやアップデートで溢れ、梓を拒絶しているかのようだった。

「……全然、わからない」

かつては、目をつぶっていても操作できたはずのショートカットキー。

今や、指がその場所を覚えていない。

簡単な図形を一つ描くだけで、数分もかかってしまう。

(私……もう、無理なんだ)

ブランクという現実が、重くのしかかる。

夫に「役立たず」と罵られ続けた日々が、本当に梓から才能を奪ってしまったかのようだった。

その時、スマホのチャットが静かに光った。香織からだ。

『リハビリがてら、これ作ってみて。うちのクライアントが急ぎで欲しがってる、WEB広告のバナー。今の梓なら5分で終わる仕事よ』

添付されてきたのは、簡単な素材とキャッチコピーだけ。

確かに、昔の自分なら5分だ。

(……なめないで)

梓の目に、かつての「デザイナー」の光が戻った。

指が、カタカタと動き出す。

最初はぎこちなく、何度も操作を間違えた。

だが、ツールを触るうちに、指が、脳が、あの頃の感覚を急速に思い出していく。

レイアウト。配色。フォント選び。

「こっちの方が、訴求力が高い」

「この写真は、トリミングで印象が変わる」

夢中だった。

夫に罵倒される恐怖も、将来への不安も、その瞬間だけは消えていた。

空が白み始める頃。

一つのバナーデータが、完成した。

それは、リハビリとは思えないほど洗練され、ターゲットの心に突き刺さるような、力強いデザインだった。

送信ボタンを押す。

すぐに、香織から返信があった。

『……やっぱり、錆び付いてない。むしろ、凄みが増してる。梓、あんた、この数年間でどれだけのものを溜め込んでたのよ』

その言葉に、梓はPCの前で、声を殺して泣いた。



第7章:夫の「無能」


その週末。

浩介はリビングでノートPCを睨みつけ、盛大に舌打ちを繰り返していた。

会社で近々行われる、社運を賭けたコンペの資料作りが難航しているようだった。

「クソッ、なんでこのグラフ、こんなに見栄えが悪いんだ……」

イライラした浩介は、キッチンで夕食の準備をしていた梓を呼びつけた。

「おい、梓! ちょっと来い!」

「……はい」

「お前、昔こういう資料作るの得意だったよな? ここのグラフ、なんとかしろ。ダサくて見てられない」

それは、命令だった。

結婚前、そして新婚当初。梓はこうして、浩介の「雑用」を無償で手伝わされていた。浩介が「俺が作った」と会社で評価される資料の、そのほとんどは梓のデザインスキルによるものだった。

以前の梓なら、夫の機嫌を損ねないよう、ビクビクしながら徹夜してでも手伝っただろう。

だが、今の梓は違った。

「ごめんなさい、あなた」

梓は、表情一つ変えずに答えた。

「私、そういうの、もう全部忘れてしまって。やり方、分かりません」

「あ?」

「それより、蓮が公園に行きたいって。そろそろ連れて行かないと、夕飯に響きますから」

淡々と告げ、梓は「じゃあ」とキッチンに戻ろうとする。

「チッ!! 本当に役立たずが!」

浩介は悪態をついたが、梓がいないと資料一つまともに作れない自分自身には、全く気づいていない。

(そう。あなたは何も作れない)

梓は背中を向けたまま、冷ややかに思う。

(あなたが会社で「使える」と評価している後輩も、私があげたデザインの「意図」を汲んだだけ)

浩介の没落の足音は、まだ彼自身には聞こえていなかった。



第8章:秘密の口座


数日後。

香織のチャットに、銀行の振込通知のスクショが送られてきた。

『リハビリ代。クライアント、ベタ褒めだった。次もよろしく』

振り込まれていた金額は「5,000円」。

浩介の稼ぎに比べれば、鼻で笑われるような金額だ。

だが、梓にとっては、浩介から渡される生活費の何万倍も価値のある「自分で稼いだお金」だった。

梓は、浩介に隠し続けていた通帳を取り出した。

結婚前に使っていた、旧姓きゅうせいのままの、桐谷梓ではない、「佐藤梓」の口座。

浩介は、妻が自分以外の「何か」を持つことを極端に嫌った。

独身時代の貯金も、結婚と同時にすべて浩介の管理する口座に移すよう強要された。だが、この口座だけは「解約し忘れた」と嘘をつき、残高数百円のまま放置していたのだ。

梓は、細心の注意を払い、数年ぶりにネットバンクにログインした。

残高、853円。

(ここに、貯めていく)

梓は、夫にバレないよう、図書館のPCや公衆Wi-Fiを使い、香織から振り込まれた「5,000円」を、この旧姓口座に移した。

さらに、長年かけて密かに貯めてきた「へそくり」――浩介から渡された生活費の端数を切り詰めて作った、数万円の現金――も、少しずつこの口座に入金していくことを決意する。

チャリン、チャリンと。

口座の数字が「853円」から「5,853円」に変わる。

そして、へそくりを足せば、数万円になる。

それは、離婚という現実的な戦いに必要な、「軍資金」だった。

梓の「自立」へのカウントダウンが、具体的な数字となって動き出した瞬間だった。



第9章:弁護士とXデー


証拠は集まった。

スキルも、錆び付いていないことを確認した。

わずかだが、軍資金もできた。

香織から、最後の砦が紹介された。

『うちの顧問弁護士。たちばな先生。女の修羅場、専門だから』

梓は「蓮を連れて、新しくできた児童館の体験に行く」と嘘をつき、家を出た。

指定されたのは、香織のオフィスが入るビルの、一つ上の階にある弁護士事務所だった。

「……桐谷さんですね。早乙女社長から伺っています」

現れた弁護士・橘は、カミソリのように鋭い目をした、毅然とした女性だった。

梓は、お守りのように抱えてきたボイスレコーダーと、浩介から渡される生活費の明細(経済的DVの証拠)を机に並べた。

橘は、暴言の録音データを冷静に聞き、家計簿のコピーに目を通す。

「……十分です」

橘は、きっぱりと言い切った。

「人格否定、経済的DV。証拠は明白です。親権はまず間違いなく梓さん側に。慰謝料も、養育費も、満額取れます」

「……よかった」

梓の目から、安堵の涙がこぼれた。

「泣くのは、全て終わってからです」と橘は微笑んだ。

「さて、桐谷さん。あとは『Xデー』。いつ、家を出ますか?」

その問いに、梓はもう迷わなかった。

震えていた声は、そこにはない。

「来週の金曜日です」

梓は、即答した。

「その日、夫は会社の大きなコンペの打ち上げで、おそらく朝帰りになります。家を出るのに、一番都合がいい」

橘の目が、満足そうに細められた。

「承知しました。では、その日に合わせて『内容証明』と『婚姻費用分担請求』の準備を進めます。警察へのDV相談(シェルター確保のため)の段取りもつけておきましょう」

決戦の日は、一週間後に迫っていた。




第10章:最後の仮面


Xデーまでの七日間。それは、梓にとって、これまでの結婚生活で最も長く、最も冷静な一週間だった。

恐怖は、もうない。

あるのは、この地獄を抜け出すための「作業」だけだ。

浩介は、相変わらずだった。

いや、むしろコンペが近づいているせいか、イライラは最高潮に達していた。

「おい! なんだこのシャツのシワは! 縁起が悪い!」

「ごめんなさい。すぐにかけ直します」

「チッ。お前の『ごめんなさい』は聞き飽きた! 本当に役立たずだ」

(どうぞ、もっと言って)

梓は無表情の仮面の下で、エプロンのポケットに忍ばせたボイスレコーダーのスイッチが、確かにONになっていることを確認する。

(最後の、証拠集め)

浩介は、自分が梓の助けなしにコンペ資料を完成させた(と思い込んでいる)ことで、奇妙な自信に満ちあふれていた。

「いいか、梓。このコンペが通れば、俺は課長どまりじゃない。お前のような社会経験のない専業主婦と違って、俺は上に行く人間なんだ」

「……すごいですね」

「当たり前だ。お前はせいぜい、俺の稼いだ金で、無駄遣いしないように節約だけ考えてろ」

梓は、心の中で冷ややかに呟いた。

(あなたが今、必死に売り込もうとしているその資料。デザインの基礎は、私が結婚前に作ったテンプレート。私がいないと、あなたは色を変えることすらできないのに)

梓は、笑顔でさえあった。

その笑顔が、自分を支配してきた男への「侮蔑」であることに、浩介は最後まで気づかない。

夜。梓は、蓮の古いおもちゃ箱の底に、最低限の荷物を詰めた。

保険証と母子手帳のコピー。旧姓の通帳。香織が送ってくれたデビットカード。そして、数万円の現金。

すべてを詰め終えた梓は、クローゼットの奥に隠した古いノートPCを、一瞥しただけですぐに閉じた。

(スキルは、頭に入った。もう、この家には何もいらない)



第11章:決行の日


Xデー、金曜日の朝。

空は、梓の門出をあざ笑うかのように、どんよりと曇っていた。

浩介は、昨日梓が完璧にアイロンをかけ直した「勝負シャツ」に袖を通し、鏡の前で何度もネクタイを結び直している。

「いいか、今日はコンペの打ち上げで遅くなる。朝帰りになるかもしれないが、お前は蓮を寝かしつけて、さっさと寝てろ」

「はい」

「ああ、それと」

浩介は、玄関で靴を履きながら、梓を見下した。

「このコンペが成功したら、俺は来月から『部長待遇』だ。お前も、せいぜい『部長の妻』にふさわしい振る舞いをしろよ。まぁ、お前にできるか分からないがな」

それが、夫が妻にかけた、最後の言葉だった。

「……いってらっしゃいませ、あなた」

梓は、床に膝をつくほどの勢いで、深く、深く、頭を下げた。

バタン、と玄関のドアが閉まる音。

続いて、エレベーターが遠ざかる音。

梓は、ゆっくりと顔を上げた。

その目には、昨日までの「諦観」も「恐怖」もなかった。

ただ、冷たい炎が燃えていた。



第12章:脱出


時間は、午後8時。

蓮の夕食と入浴を済ませ、パジャマに着替えさせる。

(午後7時。浩介、コンペ終了。香織からの連絡)

(午後7時半。浩介、『打ち上げ、開始!』と会社のグループSNSに投稿。香織が確認)

計画通りだ。

浩介は今、酒に酔い、部下に自慢話をし、自分が「勝ち組」であると信じて疑っていない頃だろう。

「蓮」

梓は、積み木で遊んでいた息子に、優しく声をかけた。

「なぁに、ママ」

「今から、香織おばちゃんのお家に、お泊まりに行こうか」

「え? 今から?」

「うん。すごく楽しい『冒険』だよ。パパには、内緒の」

「パパに内緒」という言葉に、蓮は一瞬おびえた顔をしたが、すぐに「冒険」という響きに目を輝かせた。

梓は、蓮に一番暖かいダウンジャケットを着せ、小さなリュックを背負わせる。

「いい? 蓮。お外に出たら、絶対に大きな声を出さないこと。香織おばちゃんの車に乗るまで、静かにする『ゲーム』だから」

「うん、わかった!」

蓮は、父親に鍛えられた「空気を読む力」で、それがただのゲームではないことを本能的に察し、こくこくと真剣な顔で頷いた。

梓は、最後にリビングを見渡す。

完璧に磨かれたフローリング。

チリ一つないテーブル。

(もう、二度と戻らない)

梓は、自分の左手の薬指に目を落とした。

結婚してから一度も外したことのない、プラチナの指輪。

浩介の「所有物」である証。

梓は、それを、ゆっくりと引き抜いた。

指に、白い跡が残っている。

カシャン。

結婚指輪は、浩介の夕食がいつも置かれていた、テーブルの定位置に、無機質な音を立てて置かれた。

それと、浩介の家の鍵。

梓は、蓮の手を強く握る。

「行こう」

音を殺して玄関のドアを開け、鍵を(内側から)閉める。

エレベーターは使わず、蓮を抱きかかえ、階段で1階まで駆け下りた。

マンションのエントランスを出ると、見慣れた黒い車がハザードランプを点滅させていた。

後部座席のドアが開き、香織が叫ぶ。

「梓! 蓮君! 早く!」

梓は、蓮をチャイルドシートに押し込み、自分も転がり込む。

ドアが閉まるのと同時に、車は静かに、しかし力強く発進した。

バックミラーに、自分が囚われていた「家」が小さくなっていく。

「……終わった」

梓の目から、涙が溢れ出た。



第13章:夜明けと地獄


車が向かった先は、香織が梓と蓮のために契約した、都内のセキュリティが万全なサービスアパートメント(家具付きマンション)だった。

「弁護士の橘先生とも連携済み。ここの住所は浩介には絶対バレない。警察にもDVの相談記録(ストーカー防止)を提出済みよ」

香織は、テキパキと鍵を渡し、温かいスープの入ったタッパーを冷蔵庫に入れながら言った。

「蓮君、疲れたでしょ。あっちにフカフカのベッドがあるよ」

「わーい!」

蓮は、初めての場所に興奮しながらも、すぐに新しいベッドで安心したように寝息を立て始めた。

「……香織、ありがとう。いくらお礼を言っても」

「いいって。それより、明日は弁護士事務所で手続き。明後日からは『仕事』よ、梓。うちのクライアント、あんたのバナーで取り合いになってるんだから」

「……うん!」

その夜。

梓は、数年ぶりに、夫のいびきも怒声も聞こえない静寂の中で、息子の寝顔を見ながら、深い眠りに落ちた。


翌朝。土曜日の午前11時。

桐谷浩介は、ひどい二日酔いと「コンペ大成功」の余韻に浸りながら、自宅のマンションに帰ってきた。

(チッ。あのバカ、鍵も開けずに寝やがって)

昨日、「朝帰りになる」と言った手前、自分で鍵を開けて中に入る。

「……?」

家の中は、シーンと静まり返っていた。

いつもなら、この時間は蓮の足音と、梓が朝食ブランチの準備をする音でうるさいはずなのに。

リビングに入る。

誰もいない。

そして、浩介は気づいた。

自分がいつも座る食卓の定位置に、ポツンと置かれた、プラチナの指輪と、家の鍵。

「……は?」

状況が理解できない。

寝室にも、子供部屋にも、誰もいない。

「おい、梓! 蓮! どこだ!」

浩介が怒鳴った瞬間、彼のスマホが震えた。

表示は「部長」。昨日のコンペの上司だ。

「お、部長! 昨日はお疲れ様でした! いやー、大成功でしたね!」

浩介は、上機嫌で電話に出た。

『……浩介君』

電話口の声は、なぜか凍るように冷たかった。

『君は、何を言っているんだ?』

「え?」

『昨日のコンペ、大失敗だ。クライアントから先ほど連絡があった。「デザインが古すぎる」「訴求点がゼロだ」と、激怒されたぞ!』

「そ、そんな馬鹿な! あんなに完璧な資料で……!」

『あれが完璧だと!? 君はいつからあんな手抜きの資料を作るようになったんだ! 昔の君は、もっとセンスがあったはずだが……。とにかく、この案件は白紙だ! 始末書を書いて、月曜にクライアントへ謝罪に行くぞ!』

ガシャン、と電話が切れる。

浩介は、スマホを持ったまま、呆然と立ち尽くした。

(失敗? 俺が? なぜ?)

その時、ピンポーン、とインターホンが鳴った。

混乱したまま出ると、郵便配達員が「書留でーす」と封筒を差し出した。

差出人:たちばな法律事務所。

震える手で封筒を開ける。

中から出てきたのは、一枚の紙。

『離婚調停申立書』

『接近禁止命令申立(DV被害)に関する通告』

浩介の、アルコールと慢心で満たされた頭が、一気に冷水を浴びせられた。

「……は? 離婚? DV?」

妻が出て行った現実。

仕事で大失敗した現実。

二つの「地獄」が、同時に、桐谷浩介の足元を崩し始めた。


第14章:崩壊の始まり


桐谷浩介は、リビングの床に散らばった「離婚調停申立書」の文字を、焦点の合わない目で睨みつけていた。

(離婚? DV? 俺が? なぜ?)

アルコールが抜けきらない頭が、理解を拒絶する。

「あいつは俺がいないと生きていけない」

「俺の稼ぎで食ってるくせに」

「俺の『所有物』なのに」

「ふざけるな……!」

浩介は、まず梓のスマートフォンに電話をかけた。

『おかけになった電話番号は、現在使われておりません』

冷たいアナウンスが響くだけ。

(逃げたな? あの女、俺の許可なく!)

次に、怒りに任せて香織の会社に電話をかける。昨日までの「外面のいい浩介」は、そこにはいなかった。

「おい! 早乙女! 梓をどこに隠した! 人の妻をさらいやがって!」

『……ああ、桐谷さん。おはようございます』

電話口の香織の声は、氷のように冷静だった。

『隠すも何も。梓は自分の意志で、自分の足で、あなたの地獄から出て行ったんですよ。「人の妻」? あなた、彼女を「人」として扱ったことがありましたか?』

「なんだと!」

『もう二度と、彼女にも、私の会社にも電話してこないでください。次はありません。それでは』

ツーツーツー……。

切られた。

浩介は、壁にスマホを叩きつけようとして、寸止めで思いとどまる。

(待て。落ち着け)

浩介の頭に、昨日の「コンペ失敗」の悪夢が蘇る。

(そうだ、月曜。月曜にクライアントに謝罪に……。あの資料、直さないと……)

彼は、慌てて自分のノートPCを開いた。

クライアントに「古すぎる」「訴求点がゼロだ」と罵倒された、自信作だったはずのプレゼン資料。

どこが悪いのか、自分ではさっぱり分からない。

色を変えようにも、グラフを差し替えようにも、どうすれば「良く」なるのか、皆目見当がつかない。

(……そうだ。梓だ)

(あいつがやればいい。あいつは昔、こういうのが得意だった)

浩介の思考は、急速に「怒り」から「焦り」へと変わっていく。

(あいつは俺の妻だ。俺の仕事を手伝うのは、当たり前だ)

浩介は、梓の実家(田舎)の電話番号を必死で探し出した。

(そうだ。あいつは世間知らずだ。どうせ実家に逃げ帰ってるに決まってる)



第15章:自由の朝


同じ土曜日の朝。

梓は、柔らかな日差しが差し込むサービスアパートメントの一室で、目を覚ました。

(……静かだ)

夫のいびきも、足音に怯える緊張感もない。

隣のベッドでは、息子・蓮が、この数年で見たこともないほど安心しきった顔で、すやすやと寝息を立てている。

梓は、ゆっくりとキッチンに立ち、備え付けのトースターでパンを焼いた。

ただ、パンを焼くだけ。

夫の好みを気にせず、焦げないように見張り、バターの量を指図されることもない。

「……おいしい」

カリ、と音を立ててトーストをかじった瞬間、梓の目から涙がこぼれた。

「自由」とは、こんなにも簡単で、こんなにも温かいものだった。

「ママ? ……おはよう」

目をこすりながら起きてきた蓮が、不安そうに聞いた。

「ねえ、ママ。あの『冒険』って、もう終わり?」

梓は、蓮の前にしゃがみこみ、その小さな肩をしっかりと掴んだ。

「ううん。冒険は、始まったばかりよ」

「え?」

「ここが、今日から、蓮とママの新しいお城。パパは、ここには来られない。……大丈夫。ママが、蓮を絶対に守るから」

蓮は、まだ全てを理解できていなかったが、「パパが来られない」という言葉と、母親の力強い目に、こくんと頷いた。

その日の午後、梓は香織のオフィスで、弁護士の橘と最終確認を行っていた。

「……恐らく、ご主人はまず、あなたのご実家に連絡するでしょう」

橘は、冷静に予測を立てる。

「ご実家には、事情を?」

「……いえ。両親は、『浩介さんは一流企業のエリート』だと信じ込んでいて。心配をかけたくなくて……」

「今すぐ連絡してください」

橘は、きっぱりと言った。

「『浩介さんから連絡があっても、居場所は絶対に教えないで。命の危険がある』と。大げさに聞こえますか? いいえ、DV被害者あなたが加害者(夫)に戻る時、一番命が危険に晒されるんです」

梓は、震える手で、数年ぶりに実家に電話をかけた。

そして、すべてを話した。

電話口の母親は絶句し、泣き崩れたが、最後は「よく、逃げたね」とだけ言った。



第16章:錆びていないどころか


週が明けた、月曜日。

浩介は、血走った目で会社に出勤した。(実家への電話は、母親に『梓はここにはいません!』と泣きながら切られ、空振りに終わっていた)

(クソッ、あの女、どこに……)

だが、浩介の心配は、すぐに別の「地獄」に塗り替えられた。

「桐谷君」

部長に呼び出された会議室。

「昨日のコンペの件だが……クライアントが激怒している。君を、このプロジェクトから外す。いや、当面、すべての主要プロジェクトから外れてもらう」

「なっ! なぜですか! 俺は今まで、会社に貢献して……」

「過去の話だ!」

部長は、浩介が「手柄」として提出していた過去の資料(=すべて梓が手直ししていた資料)の束を、机に叩きつけた。

「君のデザインセンス、プレゼン資料のクオリティを信頼していたんだ。だが、昨日君が提出したのは、素人のゴミだ!」

「……!」

「君は、どうやって昔、こんな完璧な資料を作っていたんだ? まるで、ゴーストライターでもいたみたいじゃないか」

浩介は、図星を突かれて冷や汗が止まらない。

(そうだ。俺の評価は、全部、梓が……)

「しばらく、頭を冷やせ。来月から、内勤の……資料管理室だ」

「し、資料管理室……? それは、窓際じゃないですか!」

「事実上の、左遷だ」

浩介が、膝から崩れ落ちそうになった、その時。


同じ月曜日の、同じ時間。

梓は、香織のオフィスで、デザイナーとして「復帰」した初日を迎えていた。

ブランクの不安、社会人としての緊張。

だが、香織から渡された仕事内容は、梓の血を騒がせた。

「……これ、昨日、浩介がコンペで大失敗した、あのクライアントの?」

香織は、ニヤリと笑った。

「そうよ。あのコンペは『仕切り直し』になった。クライアントは『古い体質の会社(=浩介の会社)はもういい。新しい風が欲しい』と、うちに声がかかったの」

「……!」

「前の会社(浩介)が作った資料、参考にもらったけど」と香織はPCの画面を見せる。「……ひどいもんだったわ。これじゃあね」

それは、浩介が梓の助けなしに「自力で」作った、あの「ゴミ」だった。

「梓」

香織は、まっすぐ梓を見た。

「あの男が失ったものの『価値』を、あの男が馬鹿にした『才能』がどれほどのものだったか、見せつけてやりなさい。これが、あなたのデビュー戦よ」

梓は、深呼吸した。

そして、マウスを握る。

カタカタカタカタ……!

静かなオフィスに、梓のキーボードの音だけが響く。

それは、錆びついた機械の音ではなかった。

研ぎ澄まされ、解放されるのを今か今かと待っていた、名刀の音だった。

数時間後。

梓が作り上げたデザインの「骨子モックアップ」を見た香織と、同僚たちは、息を呑んだ。

古臭かったデザインは、洗練されただけでなく、クライアントの「訴求点」を完璧に捉えた、攻撃的なまでの美しさを放っていた。

「……やばい」

香織が、思わず呟いた。

「梓……あんた、ブランクどころか、バージョンアップしてんじゃないの……」

梓は、照れたように笑った。

夫に「役立たず」と罵られ続けた専業主婦は、もうそこにはいなかった。



第17章:プライドの終わり


浩介は、「資料管理室」という名の薄暗い地下の部屋で、埃をかぶったバインダーを整理していた。

プライドはズタズタだった。

(あの女のせいだ。梓が、俺を裏切ったからだ)

(あいつさえ戻ってくれば。あいつを連れ戻せば、俺は元の場所に……)

浩介は、まだ自分が「被害者」であると信じて疑わなかった。

彼は、弁護士・橘からの「離婚調停」の呼び出しを、無視し続けていた。

その日の夕方。

浩介が、生気の無い顔でマンションに帰ると、エントランスに見慣れない男が立っていた。

厳つい顔つきの、スーツの男たち。

「……桐谷浩介さんですね」

「……? (なんだ、セールスか?)」

「橘法律事務所の者です。再三の呼び出しに応じていただけないため、直接、お渡しにあがりました」

男たちが差し出したのは、分厚い封筒だった。

「これは『婚姻費用分担請求』の仮処分決定通知書です。裁判所が、あなたの給与を『仮差押さえ』することを決定しました」

「……は? さしおさえ?」

「奥様とお子様の、正当な生活費です。離婚が成立するまで、あなたの給与の『一定額』は、自動的に奥様の口座に振り込まれます。おめでとうございます、今月からですよ」

「な……! 俺の金だぞ! なんであんな女に!」

「法的な決定です。それと」

男は、もう一枚の紙を突きつけた。

「こちらが『接近禁止命令』。ご実家への執拗な電話が『ストーキング』と認定されました。今後、奥様、お子様、並びにご親族に半径100メートル以内に近づいた場合、警察に通報します」

「…………」

給与は差し押さえられる。

仕事は左遷された。

そして、妻(という名の道具)に、近づくことすらできない。

桐谷浩介は、その場に、ゆっくりと崩れ落ちた。

彼が「エリート」として必死に積み上げてきたハリボテの城は、妻という「土台」を失い、音を立てて完全に崩壊した。






第18章:法廷(調停室)の残骸


数ヶ月後。

離婚調停の最終日。

呼び出しを無視し続けた浩介も、給与の仮差押さえという「実害」と、会社からの「無言の圧(=これ以上トラブルを起こすな)」により、ついに調停室に姿を現した。

だが、そこにいたのは、かつてのエリート社員・桐谷浩介の「残骸」だった。

高価なスーツはヨレヨレで、クリーニングにも出されていない。無精髭が伸び、目は血走り、やつれきっている。

地下の資料管理室での単調な労働と、妻(という名の奴隷)を失った荒れた私生活が、彼から「外面」を維持する力を奪い去っていた。

対照的に、浩介の向かい側に座る梓は、香織からプレゼントされた、背筋の伸びるようなネイビーのパンツスーツに身を包んでいた。

化粧(それは、夫に媚びるためではなく、自分のため)をし、髪をタイトにまとめたその姿は、浩介が知る「役立たずの妻」とは別人だった。

「……梓」

浩介の声は、かすれていた。

「……悪かった。俺が、悪かった。だから、戻ってこい。蓮のためにも、父親が……」

「黙りなさい」

浩介の言葉を遮ったのは、梓ではなく、梓の隣に座る弁護士・橘だった。

橘は、浩介の前に「証拠」として、ボイスレコーダーの音声データを文字起こしした分厚いファイルを、音を立てて置いた。

「『蓮のため』? どの口が言うのですか」

橘は、浩介が蓮に向かって「ママは頭が悪いんだから!」と言わせるに至った、あの日の暴言の箇所を指差す。

「これらはすべて、児童虐待(心理的虐待)の証拠としても提出済みです」

「な……!」

浩介は、自分が「父親」として、蓮の親権を主張する権利すら、とうに失っていたことを知る。

「……金か」

浩介は、最後の悪あがきを始めた。

「金が欲しいんだろ! あの女(香織)にそそのかされて! 俺の稼ぎがないと、お前は……!」

「桐谷浩介さん」

ここで初めて、梓が口を開いた。

その声は、かつてのように震えてはいなかった。冷たく、澄み切っていた。

「あなたに、勘違いを一つ、訂正しておきます」

梓は、自分のバッグから、一枚の薄い「紙」を取り出した。

それは、梓の今月・・の給与明細だった。

「私、復職しました。デザイナーとして」

浩介は、その明細に書かれた「数字」を見て、目を見開いた。

信じられない、という顔。

「……あなた。私がいないと、まともな資料も作れないでしょう?」

「……!」

「私が結婚前に培ったスキルを『役立たず』と罵り、無償であなたの『手柄』のために使い続けた結果……あなたは自分の力で何もできない人間になった」

梓は、浩介の目をまっすぐに見て、告げた。

「今月、私が稼いだこのお金。これは、あなたが『左遷』された先の地下室で得たお給料より、多いです」

それは、決定的な「勝利宣言」だった。

浩介は、「あ、あ……」と意味のない音を発し、椅子に崩れ落ちた。

プライドも、力も、彼を支えるものは、もう何も残っていなかった。

調停は、梓側の「完全勝訴」で終了した。

親権は梓に。慰謝料、養育費も満額。

浩介には、蓮との面会交渉権すら(蓮がそれを望むまで)与えられなかった。



第19章:世界を塗り替えた才能


離婚が成立して、数ヶ月。

街は、鮮やかな広告で彩られていた。

『新しい「働く」を、デザインする。』

それは、梓があのコンペで「仕切り直し」として勝ち取った、大手IT企業の新しいキャンペーンだった。

梓がデザインしたその広告は、古い価値観からの「解放」と「多様性」をテーマにしたもので、業界の賞を総ナメにするほど高い評価を受けていた。

「いやー、梓さん! 本当にありがとう!」

香織のオフィスは、このキャンペーンの大成功により、さらに活気づいていた。

「クライアント、大喜びだよ。『前の会社(浩介の会社)とは大違いだ』ってさ!」

梓は、今や「桐谷梓」ではなく、旧姓に戻り「佐藤梓」として、このオフィスのエースデザイナーになっていた。

彼女が夫から受けた「抑圧」は、皮肉にも、彼女のデザインに「解放への渇望」という強烈なエネルギーを与え、見る者の心を掴んで離さない「武器」へと昇華されていた。

一方、その広告を、桐谷浩介も見ていた。

地下の資料管理室で、窓の外をぼんやりと眺めていた時。向かいのビルの、巨大なデジタルサイネージに映し出されたのだ。

(……きれいな、デザインだ)

彼は、それが誰の作品なのか、知る由もない。

ただ、自分がかつて「センスがある」と評価されていた頃に作っていた(作らせていた)デザインと、どこか「似ている」気がした。

だが、彼にはもう、それを確かめる術も、気力もなかった。

給与の半分近くを慰謝料と養育費で引かれ、残った金でワンルームの安アパートに引っ越した。

会社では「DVで離婚したヤバい奴」と陰口を叩かれ、誰も彼に近づかない。

彼は、自分が「役立たず」と罵り続けた妻が、今や業界の寵児として、自分の手の届かない場所で輝いていることなど、知ることもないまま。

ただ、薄暗い地下室で、過去の栄光(それも他人の力だった)の残骸を整理し続ける毎日だった。



第20話(最終話):私たちの「ただいま」


「ママ、おそーい!」

小学校(新しい土地での)の門から、蓮が元気よく飛び出してきた。

梓は、慌ててPCをバッグにしまい、息子を抱きしめる。

「ごめんごめん、蓮。今日は、ママの大事なお仕事がぜんぶ終わった『記念日』だから」

「きねんび?」

「うん。だから、今夜は蓮の大好きな、ハンバーグにしよう!」

「やったー!」

蓮は、この一年で、すっかり明るさを取り戻していた。

父親の顔色をうかがうことも、母親に暴言を吐くことも、もうない。

彼は「母親が笑顔で働き、自分を愛してくれている」という、当たり前の光景の中で、健やかに育っていた。

二人は、手を繋いで、新しいマンションへの帰り道を歩く。

以前の「地獄」だった家より、ずっと狭い。

だが、温かい光に満ちていた。

「ただいまー!」

「おかえり、蓮」

梓は、エプロンを締め、キッチンに立つ。

もう、献立に怯えることも、レシートのチェックにビクビクすることもない。

(私、今、幸せだ)

夫に捨てられたのではない。

夫を、捨てたのだ。

地獄から、自分の足で、息子と二人で、抜け出したのだ。

ジュウ、とフライパンの上で、ハンバーグが美味しそうな音を立てる。

それは、佐藤梓と佐藤蓮の、「新しい日常」が始まった、祝福の音だった。

(完)

最後までお読みいただき、誠にありがとうございました!

主人公・あずさと、息子・れんの物語、いかがでしたでしょうか。


夫からの「役立たず」という呪いに縛られていた彼女が、

友人・香織の助けを借りながらも、最後は自らの「デザインスキル」で

尊厳と幸せな日常を取り戻す姿を描けたことを、作者として嬉しく思います。


この物語が、もし今、誰かの言葉の暴力に苦しんでいる方がいらっしゃったなら、

「あなたは無力なんかじゃない」という、小さなエールになれば幸いです。

(もちろん、浩介の没落に「スッキリした!」と思っていただけたなら、それが一番の喜びです!)


改めまして、最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。



もし、この物語を読み終えて、

「面白かった」「スッキリした」「梓、よく頑張った!」

と少しでも感じていただけましたら、


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また次の作品でお会いできることを願って。



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― 新着の感想 ―
序盤では蓮は7歳小学生だったけど、最終章では保育園児になってしまってます。
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