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第8話:秘書見習いの覚悟

ユキナは、扉の前で小さく息を吸った。


深夜の静けさが、心臓の鼓動をより大きく感じさせる。


(本当に……これでいいの?)


体に纏ったのは、父と母が選んだ、とっておきのシルクのナイトガウン。その下には、細やかなレースの装飾が施された、純潔を守る白い下着。慎ましくも、それを纏うことで彼女は意識せざるを得なかった。今夜、自分がなにをしようとしているのかを。


『今までのおまえの人生は、この瞬間のためにあった』


『おまえの行動に、俺たちの未来がかかっているんだ』


父の言葉を頭の中で繰り返す。


繰り返す。


繰り返す。


何度も。


何度も。


自分がぶれないように。


恐怖を塗りつぶすために。


疑う心を殺すために。


「――っ」


ユキナは躊躇いを押し殺し、震える指で扉をノックした。


コン、コン……


数秒の静寂の後、低く冷静な声が中から響く。


「――サクヤか。入れ」


その一言に、ユキナの肩がピクリと震えた。


彼女は扉をゆっくりと押し開ける。


そこは、まるで別世界のようだった。


重厚な木製のデスク、整理整頓された書類の山、書棚に並ぶ膨大な本。そして、その中央に座る――閣下。


彼は広い机に向かい、淡々とキーボードを叩いていた。青白い光が画面から漏れ、彼の横顔を照らしている。


――まるで、過去の父の姿と重なるようだった。


(お父さまも……いつもこうだった……)


若い頃の父もまた、夜遅くまで資料を作り、デスクに向かい続けていた。


幼かったユキナは、それを見ながら「お仕事ばかりしないで!」と何度も言った。


あのときの父は、微笑むことなく、「あと少しだ」とだけ答えた。


「ユキナです。失礼します」


「……そうか」


ユキナは、小さく息を呑む。


「閣下……お休みにならないと」


ユキナはそっと告げた。


しかし、閣下は画面から目を離さないまま、淡々と答える。


「あと少しだ」


――まるで、父と同じ。


そう思うと、胸が締めつけられた。


「――っ」


ユキナは、手のひらを強く握りしめた。


そして、意を決して一歩踏み出す。


「……閣下」


それでも彼はふりむかない。


ユキナは、目を伏せ、震える指でナイトガウンの前をそっと解いた。


シルクの生地がふわりと肩から滑り落ちる。


柔らかな布が床に落ちる音が、部屋の静寂の中に溶ける。


彼女の肌に触れるのは、薄く繊細なレースだけ。


夜の冷たい空気が素肌を触り、微かな鳥肌が立つ。


胸元を押さえながら、彼女は声を絞り出した。


「っ…………閣下……わたしを……見て……ください……」


その言葉で、総統の指がぴたりと止まった。


部屋に静寂が広がる。


その背中が、ゆっくりとふりかえった。


夜よりも漆黒な総統の瞳が、静かにユキナを見つめる。


「……わたしは……閣下にすべてを捧げる覚悟ができております。……どうか……わたしを受け入れて……」


ユキナの声は震えていた。


覚悟していたつもりだった。


けれど、言葉にするだけで、体の奥が熱くなり、足元がふらつく。


「わたしの身体(からだ)は……まだ誰にも刻まれたことがない身体からだです」


シルクのナイトガウンが床に落ちたまま、ユキナは両手を握りしめる。


胸元に触れるレースの感触が、鮮明に感じられた。


「……閣下に初めてを捧げるために……男性も……恋愛も……すべて避けてきました……」


彼女の言葉は、今にも消えてしまいそうなほど小さい。


だが、それでもたしかに、自分の意志でここに立っている。


「……わたしの心と身体(からだ)は……閣下のものです。……どうかわたしを……永遠に閣下のものにしてください」


勇気をふりしぼり、彼を見上げる。


その瞬間、総統の瞳が鋭く細められた。


ユキナは息をのむ。


――彼が、動いた。


ゆっくりと、だが確実に。


総統は椅子を静かに押し、立ち上がると、彼女に歩み寄った。


夜の闇よりも深い瞳が、まっすぐユキナを見据える。


「――っ!」


そして、問いかけた。


「……親に言われて、来たのか?」


ユキナの心臓が跳ねる。


一瞬、彼の眼差しが見透かすようで、思わず肩をすくめそうになった。


「ち……ちがいます!」


必死に否定する。


その言葉を聞いた瞬間、総統は微かに目を伏せた。


そして、次の瞬間。


ユキナの肩に、ふわりと温もりが落ちた。


――シルクのナイトガウン。


「えっ……?」


驚く間もなく、男はそのまま少女の肩へと優しく布をかける。


大きな手が、そっとガウンを整えた。


「手が……震えているな」


言われて初めて、ユキナは自分の指先が小刻みに震えているのに気づいた。


それを、彼は黙って見つめる。


そして、次の瞬間――


「――無理を、しているだろう?」


その言葉とともに、彼の手がユキナの頭に触れた。


――温かい。


撫でられる感触が、信じられないほど優しくて、涙が出そうになる。


「おまえは、優しいな」


彼の声が、静かに響く。


「えっ……?」


「おまえが18になったとき……それでも俺を慕っていれば――」


彼の指が、一瞬、ユキナの頬に触れた。


「――おまえを、愛してやろう」


心臓が、破裂しそうだった。


呼吸が、うまくできない。


なのに、総統は続ける。


「そのときは、俺がおまえを女にしてやる」


ユキナの顔が、一気に熱を持つ。


あまりにも、直接的な言葉だった。


なにか言おうとするが、喉が震えて声にならない。


「今は、気持ちだけで十分だ」


そして、彼はわずかに微笑んだ。


もう、限界だった。


「――っ⁉︎」


ユキナは、頬まで真っ赤に染め、バッとガウンを握りしめると、勢いよく身を翻した。


「し、し、し、失礼しましたっ!」


そのまま扉を開け、駆け出す。


顔が熱い。


心臓がうるさい。


(走れ、走れ、走れ!)


彼の前から、一秒でも早く逃げなければ。




夜の廊下。


自室に戻るまでの間も、ユキナの顔の赤みは消えなかった。


部屋の扉を閉めた瞬間、彼女はベッドに倒れ込む。


(ど、ど、ど、どうしよう……っ⁉︎)


消えてしまいたくなるくらい恥ずかしかった。


総統の言葉が、何度も頭の中で反響する。


それでも……どこか嬉しくて……胸がいっぱいだった。

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