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第6話:愛人たちと難題

深夜。龍宮の廊下は真夜中の静寂に包まれていた。柔らかな照明が淡く灯る中、パジャマ姿のユキナはラァーラに手を引かれながら歩いていた。


「……ラァーラお姉さま、どこに行くんですか……?」


ユキナは不安げに尋ねる。


「ふふ、ちょっと面白いものを見せてあげるだけよぉ〜」


ラァーラは悪戯っぽく笑っていた。


そして、二人はある部屋の扉の前で立ち止まった。


「え……?」


ユキナは不安そうにこぼす。


「ここよぉ〜、ユキナ」


ラァーラはドアを指差す。ユキナは戸惑いながらその場に立ち尽くす。


「え……? で、でも、ここって……」


「そう。閣下の寝室よぉ〜」


魔性の女がにやりと笑う。


「そして、今、『愛人の最も重要なお仕事』が行われているところぉ〜」


「……⁉︎」


ユキナの顔が一瞬で真っ赤になる。


ラァーラはくすくすと笑う。


静かなはずの廊下に、ふと微かな音が漏れてくる。


「っ!」


ユキナは耐えられなくなり、全身を真っ赤に染めながら、一歩後ずさる。 


「あ、あ、あ、あのっ! わ、わたし、もう寝ますっ!」


ユキナは慌てふためきながら、その場から逃げ出そうとする。


「ええ〜、せっかく来たんだしぃ〜、見ていきなさいよぉ〜? 良い勉強よぉ〜?」


ラァーラは悪戯っぽく引き止めようとするが、ユキナはすでに必死に首をふっている。


「む、む、む、無理ですっ! こんなの……無理ですぅぅぅ!」


顔を覆いながら、ユキナは駆け出していく。その背中を見送ったラァーラは、くすくすと笑った。彼女は、まだまだ純情すぎるユキナの反応が面白くて仕方なかった。


「ふふっ……まだまだお子ちゃまね〜、ユキナ」




ユキナは自室のベッドに腰掛け、スマートフォンを手に取った。


画面の光が、暗い部屋をわずかに照らす。


(……眠れない……)


胸の奥がざわついていた。


今日のできごとが、何度も頭の中を巡る。サクヤの厳しい言葉。ソニアの優しい励まし。閣下の視線。そして、ラァーラの言葉。


『愛人の最も重要なお仕事』


それを耳にしたときの衝撃が、まだ消えない。


閣下のそばにいるとは、そういうこと。


ユキナは、唇を噛みしめた。


わかっていたつもりだった。けれど、実際にその現実を突きつけられると、どうしようもなく怖くなってしまう。


(……わたし……本当にここにいていいの……?)


心の奥底に生まれた不安は、どれだけ否定しようとしても、簡単には消えてくれなかった。


次第にそれは、恐怖へと変貌していく。


彼女は、深く息を吐く。


そして、スマートフォンの画面に映る母の名前をすがるように見つめ、迷いながらも指を滑らせた。


コール音が数回鳴る。


『――もしもし? ユキナ?』


やがて、柔らかな声が耳に届いた。


「……お母さま」


『――どうしたの? こんな遅くに』


母の声はいつもと変わらない。穏やかで、どこか余裕のある響き。


「……その……少し……お話ししたくて……」


『ふふ、夜更かしはお肌に悪いわよ? でも、いいわ。聞いてあげる』


その言葉に、ユキナの緊張がわずかに和らぐ。


けれど、それでも胸の奥の不安は消えなかった。彼女は膝を抱え込むようにして、震える声で言葉を紡ぐ。


「……お母さま……わたし……本当にここにいていいんでしょうか……?」


一瞬、沈黙が訪れる。


「まだ未熟で……サクヤお姉さまには厳しく指導されて……今日も……閣下の前で泣いてしまいました……」


声が震えた。


今日のことを思い出すと、胸の奥が痛くなる。


(こんなわたしが……本当に閣下に仕えることができるのかな?)


母は、ゆっくりとした声で答えた。


『あなたはまだ学ぶ途中なのだから、できないことがあるのは当然よ』


「……でも、わたし、本当に『愛人』として……閣下にふさわしいのでしょうか?」


『――ユキナ』


母の声が、少しだけ真剣な響きを帯びた。


「……はい」


『あなたは、小さな頃から特別だったわ。とても優秀で、努力家で、純粋な心を持っている。そんなあなたが、閣下に仕えることは、当然のこと。運命なのよ』


その言葉に、ユキナは言葉を失った。


「――運命」


『だから、頑張りなさい』


それは、優しさと同時に、確固たる命令のようでもあった。


『あなたは閣下のものになるのに相応しい子よ。お母さんは信じてるわ』


閣下のものになる。


ユキナの胸が、ぎゅっと締め付けられる。


母の言葉は、疑いの余地がないほど真っ直ぐで、重かった。


彼女にとって、それは揺るがない真実。


『大丈夫。あなたならできるわ。閣下のおそばにいて、女としてしっかりとお支えするのよ。私がお父さんを支えたみたいに』


「……はい……」


ユキナは小さく答えた。


『ユキナ、あなたは私たち家族の誇りよ』


母の優しい声が耳に響く。


彼女の言葉には、揺るぎがなかった。


ユキナは、いつも母が正しいと思っていた。


だから――


(わたしも……そう思わなきゃ……!)


『それじゃあ、もう遅いから、ちゃんと寝るのよ? あなたの身体は、もうあなただけのものじゃないんだから』


その言葉に、一瞬だけ息を呑む。


それは、これまで母から何度も聞かされてきた言葉だった。


総統閣下に仕える者として、当然のこと。


ユキナは、目を閉じる。


「……はい、お母さま。……おやすみなさい」


『おやすみなさい、ユキナ。がんばってね』


通話が切れる。


静寂が戻った。


ユキナはスマートフォンを胸元に抱えながら、そっと目を閉じた。


母の言葉を、何度も何度も頭の中で繰り返しながら。


――そうしないと、なにかがブレてしまう気がするから。




金曜日の夕暮れ時。居住棟のリビングに集まっていた四天秘書とユキナは、穏やかな会話を交わしながら夜のひとときを過ごしていた。


そこへ――


リビングの扉が、ゆっくりと開いた。


全員の視線が、一斉にその方向へ向けられる。


「……ただいま」


その一言とともに姿を現した総統閣下は、いつも以上に疲れていた。


いや、疲れているというよりも、「なにか」を背負っているように見えた。


「閣下……?」


チェルシーがそっと立ち上がり、彼の顔を覗き込む。


他の四天秘書たちも、彼を気遣うように目を向けた。


「今日は……特にお疲れのようね」


サクヤが冷静な声で言う。


閣下はネクタイを緩めると、ゆっくりとソファに腰を下ろした。額に腕を乗せ、深く息を吐く。


まるで、すべての重圧を一瞬だけでも忘れようとしているかのように。


その姿を見て、四天秘書たちはすぐに動いた。


「閣下、お茶を淹れさせていただきますわ。英州産のリラックスできるハーブティーをご用意いたします」


ソニアがすぐさまキッチンへ向かう。


「閣下、少し肩をほぐしましょう。疲労は筋肉の緊張からも来るものです」


サクヤが静かに後ろへ回り、マッサージの準備を始める。


「ね、閣下! お風呂にする? それとも、わたしたちと一緒にのんびりする?」


チェルシーは、無理にでも元気づけようと大きな笑顔を作った。


「ふふっ、たまには甘えていいのよぉ〜? 今日は特別に、私が閣下をとろけさせてあげるわぁ〜」


ラァーラは挑発的な笑みを浮かべ、彼の隣に腰掛ける。


しかし――


「……」


閣下は、なにも答えなかった。


目を閉じる。その仕草には、すべての会話を遮断するような意思が込められていた。


「……閣下?」


ソニアが、そっと声をかける。


しかし、反応はない。


「……」


サクヤが小さく眉をひそめる。


「ね、閣下! いつもみたいに話そ? ほら! 今日はわたしがとっておきの面白い話を――」


「今日は……いい」


その一言に、全員が動きを止めた。


彼は、なにも求めていない。


なにも受け入れようとしていない。


四天秘書たちがどれほど気遣おうとも、彼はそれすらも拒絶するように、深く沈黙していた。


「閣下……」


ソニアが、静かに目を伏せる。


「……」


サクヤもまた、なにかを考えるように視線を落とした。


チェルシーもラァーラも、どうすればいいのかわからなかった。


彼を癒したいのに、その手が届かない。


(――なぜ?)


ユキナは、その光景をじっと見つめていた。


四天秘書たちは、皆彼を心から愛し、全力で支えようとしている。


なのに、彼はまるで、それすらも拒むかのように閉ざしてしまう。


(――どうして?)


なぜ彼は、こんなにも遠いのか?


「どうすればいいんだろ……」


チェルシーが小さく呟く。


ラァーラも、ソニアも、サクヤも、それぞれに彼を癒そうとしたが、なんの手応えもなかった。


そのとき――


「今日は……一人にしてくれ」


閣下の低く響く声が、部屋を満たした。


全員が息を呑む。


閣下が、そんなことを言うのは初めてだった。


どんなに疲れていても、誰かを突き放すようなことはしなかったのに。


今日だけは、ちがった。


その表情は、女たちには読めなかった。


「……わかりました」


サクヤが静かに立ち上がる。


「閣下、失礼いたしますわ」


ソニアも一礼し、静かに背を向ける。


「また、あとでね!」


チェルシーは、ぎこちない笑顔を作った。


「……ゆっくり休んで」


ラァーラは、珍しく色気を漂わせるのをやめ、静かに告げた。


四天秘書たちは、次々とリビングを去っていく。


ユキナだけが、その場に取り残されるように立ち尽くしていた。


彼女は最後まで、彼の顔を見ていた。


彼の深い悲しみを、誰よりも間近で見ていた。


(わたしには……なにができるんだろう?)


四天秘書たちですら、彼の心には届かなかった。


ならば、未熟な自分になにができるというのか?


なにをしたら、この人の孤独を少しでも癒せるのか?


「……」


閣下は、ただ静かに目を閉じていた。


その顔は、あまりにも孤独で、苦しそうだった。


それは、一国の指導者とは思えないほど、弱々しい姿だった。


今、彼は誰にも心を許さず、誰の手も受け取ろうとしない。


まるで、この世界に、たった一人でいるかのように見えた。


(閣下……)


ユキナは、拳を握りしめた。


(彼のそばにいると誓ったのに……わたしはまだなにもできていない)




ラベンダー色のカーテンが夜風にそよぎ、温かな間接照明が部屋全体を包み込む。白を基調とした上品な家具が整然と並び、ベッドサイドには総統閣下との記念写真が大切に飾られている。  


四天秘書たちはソニアの部屋に集まっていた。


円卓を囲む彼女たちの表情は真剣そのもので、まるで国家機密を話し合う戦略会議のような空気が漂っていた。


「……では、今の閣下の状態を客観的に分析するわ」


サクヤが冷静に述べた。


「明らかに心的なストレスがピークに達している。肉体的疲労だけでなく、精神的負担が大きな要因と考えられるわ」


「でも、それってどうすれば解決できるの?」


チェルシーが眉をひそめながら尋ねる。


「ふふ……単純に考えれば、ストレスの解消よねぇ〜」


ラァーラがくすりと笑いながら、長い指で紅茶のカップをくるくると回した。


「問題は、閣下にとっての最適なストレス解消法がなにかってことねぇ〜」


「一般的に、ストレス解消には休息、運動、発散、安心感の提供のいずれかが有効とされていますわね」


ソニアが整理すると、サクヤが即座に首をふった。


「閣下は元来、自己犠牲的な性格。休息を勧めても、積極的に休もうとはしないでしょう。運動も閣下の場合は逆効果ね。今の状態では余計に疲労が蓄積されるだけ」


「じゃあ、発散させる?」


チェルシーが思いついたように言う。


「具体的に?」


「例えば、お酒! 飲んでパーッと忘れるとかさ!」


「アルコールは一時的なストレス緩和には有効だけど、根本的な解決にはならないわ。むしろ、飲みすぎると意思決定能力が低下する可能性がある。それに、緊急事態が発生し、総統として対応を迫られたら『詰む』わね」


サクヤの冷静な言葉に、チェルシーは小さく唸る。


「……じゃあ、どうするの?」


「『安心感の提供』が最も有効な手段と考えられるわ」


「なるほどぉ〜。じゃあ〜、『閣下にとっての安心感』を分析する必要があるわねぇ〜」


ラァーラが興味深そうに身を乗り出した。


「閣下は、常に誰にも頼れない立場にいる。国家の全権を背負う者として、他者に弱みを見せることができない。つまり、閣下が心を許せる環境を提供すれば、精神的負担の軽減に繋がる。問題は、心を許せる環境をどう作るかよ」


サクヤが腕を組んで考え込む。


「四人で寝室にお誘いして、もっと閣下に甘えてもらう〜?」


「うーん、それって本当に効果あるの? 閣下って、そういうのを素直に受け入れる人じゃない気がするんだけどなぁー……」


「実際、スキンシップにはオキシトシンの分泌を促進し、ストレスを軽減する効果があるわ。でも、それだけで解決するとは思えない。ゆえに、却下ね」


サクヤがばっさりと切り捨てた。


「閣下は私と同じINTJ。つまり責任感の塊。彼のストレスを根本的に軽減するには、彼が一人で背負わなくてもいいと実感させることが必要なのかもしれないわね」


「でもさ、『頼れ』って言ったところで、閣下は簡単に頼ってくれないと思うよ?」


チェルシーが肩をすくめる。


「……たしかに。言葉ではなく、行動で示す必要があるわね」


「例えば、閣下がなにも考えなくてもいい状況を作るとかぁ〜?」


「……具体的には?」


「うーん……閣下をなにも考えられないくらい気持ちよくさせるとかかしらぁ〜?」


ラァーラが妖艶な笑みを浮かべた。


「……あのさぁ、ラァーラ、それって要するに体で癒すってこと?」


チェルシーが呆れたようにため息をつく。


「ええ〜。そうだけどぉ〜、なにか問題あるぅ〜?」


「一定の効果はあるかもしれないけど、それは短期的なものよ。今、求められているのは長期的な精神安定。そもそも、閣下の精神的ストレスの根本原因が特定できていないわ。感情の起伏が激しいのは、明らかに『過去』に起因するものだけど……。おそらくコンプレックスか……後悔か……。発達特性が絡んでいる可能性も高いわ」


(…………)


サクヤの指摘に、ユキナは違和感を抱いた。


四天秘書たちは、まるで閣下を難しい理論で分析し、対策を練るように話し合っている。


確かに、どの意見も的確だし、知的だ。


(でも――)


「なんか……『ちがう』気がする」


彼女はぽろりと自分につぶやいた。


「――っ! ……そっか!」


ユキナは突然立ち上がった。


「ユキナちゃん! どこへ行くの⁉︎」


ソニアの鋭い声が響いた。四天秘書たちが一斉に彼女を見る。


しかし、ユキナは立ち止まらない。


(話し合っている場合じゃない! わたしが……直接!)


「ユキナ!」


サクヤが低い声で呼ぶ。命令に近い響きだった。


だが、ユキナはふりむかない。


「ちょっ、ちょっと待ってよ! まだ話し合いは終わってないよ⁉︎」


チェルシーが焦ったように声を上げる。


「どこへ行くつもりぃ〜?」


ラァーラが軽く笑いながら問いかけるが、ユキナはそれすらもふりきった。


(行かなきゃ!)


迷いのない足取りで、ユキナは扉を開けた。


「――っ!」


ソニアが息を呑む。


冷たい廊下の空気が部屋に流れ込む。


ユキナの小さな背中が、そのまま夜の闇に消えていこうとしていた。


「――まさか」


サクヤがハッと気づく。


「ユキナ、やめなさい!」


ユキナの目線は、まっすぐに閣下のいる場所へ向けられていた。


「ユキナちゃん、ダメ! 閣下は今、一人にしてほしいのよ!」


ソニアが叫ぶ。


しかし、その言葉もユキナには届かない。


彼女は迷わず、長い廊下を駆け抜けていった。

「おもしろかった!」

「続きが気になる!」

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