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第5話:愛人たちの対立

閣下がダイニングルームを去った後、室内にはまだ緊張が漂っていた。ユキナは涙の跡を残しながら、拳をぎゅっと握っていた。


静寂を破ったのは、鋭い音だった。


――パァンッ!


頬に衝撃が走る。


火のように熱くなった肌を押さえながら、ユキナは驚愕に目を見開いた。


目の前には、冷たい視線を向けるサクヤが立っている。


「……まちがえるのはいい。成長途中なのも……」


サクヤの声は低く、静かだった。


しかし、その怒りは明白だった。


「……っ」


ユキナは手を頬に当てたまま、サクヤを見つめる。


「……私が許せないのは、あなたが閣下の前で泣くことよ」


「……!」


「閣下がどれほど疲れていらっしゃるか、あなたには想像もつかない」


サクヤの声が鋭くなる。


「そんな閣下に気を使わせるとはどういうこと⁉︎」


「サクヤ……!」


席に戻っていたソニアがすっと立ち上がる。穏やかな表情の中に、緊張が漂っていた。


彼女はユキナの肩にそっと手を置きながら、サクヤを見つめる。


「――サクヤ。あなたは、ユキナちゃんに厳しすぎるわ」


サクヤは視線を向けるが、微動だにしない。


「ソニアはユキナに甘すぎる」


「甘やかしているわけではありませんわ。彼女はまだ――」


「――『まだ』? そんな言い訳、通じないわ」


サクヤは腕を組み、冷たく言い放つ。


「ユキナがまだ子供なのは事実。でも、愛人候補生である以上、それは言い訳にならない。閣下の前で泣くことは、閣下の時間を奪うこと。支えるどころか負担をかけることになっているのよ」


「……でもサクヤ。たしかに今日は泣いちゃったけど、ユキナちゃんもめっちゃ頑張ってるよ!」


チェルシーが口を挟む。


「そうねぇ〜。厳しくするのはいいけどぉ〜、潰したら意味がないわぁ〜」


ラァーラがワイングラスを軽く回しながら微笑む。


「……あなたたちがそういう生ぬるい考えだから、ユキナはいつまでも甘えたままでいられるのよ」


ユキナは俯いたまま、拳をぎゅっと握る。サクヤの言葉が胸に刺さる。


「次に閣下の前で泣いたら、ここから叩き出すわ」


「っ……⁉︎」


ユキナの息が詰まる。


目が大きく揺れる。


「それを決めるのは、サクヤ、あなたではありませんわ」


ソニアが力強く告げた。


静寂が走る。


サクヤは冷たい視線のままソニアを見つめる。


ソニアもまた、鋭い目でサクヤを見返していた。


普段は穏やかな彼女(ソニア)が、今ははっきりとした意志を持って立ち向かっていた。


「……は?」


サクヤが無二の親友を睨みつける。


だが、ソニアは一歩も引かなかった。


「なに?」


サクヤの言葉は怒気を帯びていた。


ソニアは深呼吸し、力強く告げた。


「ユキナちゃんを『叩き出す』なんて、そんなことを決める権限があなたにあるの?」


「閣下に仕える愛人としての資質がないなら、ここにいる資格はない。それは当然のことよ」


「それを判断するのは、わたくしたちではなく閣下ですわよ」


サクヤの眉がわずかに動く。


サクヤにとって、これは予想外の反論だった。


普段、ソニアは自分に絶対に口答えしない大親友だからだ。


「たしかに、ユキナちゃんはまだ未熟かもしれませんわ。でも、未熟というだけで無価値だと決めつけるのはちがいますわよ」


「甘いわね。そういう生ぬるい考えが人も国家も腐らせるのよ」


「厳しすぎるわ、サクヤ。たしかに、あなたはいつも正しいけれど、正しいだけでは人の心は動きませんわ」


サクヤの表情が一瞬、冷たく硬くなる。


「……正しくなければならないのよ……私たちは」


「だからといって、正しさだけを押しつけても、ユキナちゃんは花開く前に潰れてしまいますわ」


「潰れるような人間なら、最初からここにいる資格はない」


ユキナが震える。


サクヤの言葉は鋭く、刃物のように心に突き刺さる。


「いいえ。強くなれる人間なら、時間をかけて育てる価値があるはずですわ」


「……閣下に負担をかけるような存在を、いつまでも甘やかすことが正しいと言いたいの?」


サクヤの言葉は明確な怒りを孕んでいた。


それは、いつも自分に賛同してくれる親友が自分に口答えすることへの苛立ちだった。


「閣下を支えるというのは、なにも常に完璧であるということではありませんわ。支えたいと願い、成長し続けることもまた、支えることなのですわよ」


サクヤの瞳がわずかに細められる。


「……いいわ」


サクヤは腕を組み、視線を逸らす。


「私の指導方針は変えない。閣下に仕えるというのは、それほど甘いものではないから」


「ええ、わたくしも立場を変えませんわ。支えるというのは、厳しさと温かさの両方が必要ですから」


「……次に泣いたらの言葉は、撤回しない」


サクヤは鋭い目でユキナを見据える。


「でも……それを私に言わせないくらい、強くなりなさい」


ユキナは拳を握りしめた。


「……はい!」


震えながらも、力強く頷く。




サクヤがダイニングルームを去ったあと、部屋にはまだ緊張感が残っていた。言葉を発する者はいない。


ただ、静寂の中で、それぞれが思考を巡らせていた。


ユキナはしばらく動けずにいたが、やがてゆっくりと顔を上げた。視線の先には、ソニアの優しい表情があった。しかし、その瞳の奥にはまだ僅かに不安と寂しさの色が伺える。


「……すみません、ソニアお姉さま」


ユキナは小さく声を震わせながら、申し訳なさそうに俯く。


彼女の拳はぎゅっと握りしめられ、今にも涙がこぼれそうだった。


「ソニアお姉さまは、いつもあんなにもサクヤお姉さまと仲が良いのに……わたしのせいで……」


声は次第にか細くなっていく。


心が、自己嫌悪に押しつぶされそうになる。


ユキナは知っていた。ソニアとサクヤは普段、互いを完全に信頼し合い、補う存在だった。同僚であると同時に無二の親友でもある二人は、時に同性の恋人であるかのように親しく手を繋いでいる。対立など、この二人には無縁に思えた。


そんな二人が、初めて激しくぶつかってしまった。サクヤがソニアに向けた視線は、明確な敵意だった。まるで、裏切り者に向けるような、鋭い、刺すような視線。


――その原因が、自分だったことがなによりも辛かった。


自分が現れたことにより、二人の関係に亀裂が入ってしまった。


「……ユキナちゃん」


ソニアは優しく微笑みながら、そっとユキナの頭を撫でた。その手の温かさに、ユキナは驚いたように目を瞬かせる。


「あなたはなにも悪くありませんわよ、ユキナちゃん」


「で、でも……!」


「たしかに、サクヤとわたくしは、普段とても仲が良いですわ。親友という言葉では、とても言い表せないくらいに」


(――っ! ……やっぱり……二人はそうなんだ……!)


ユキナは、悟った。


「でも、だからといって、意見がちがうときにお互いの考えをぶつけ合うことが悪いことではありませんのよ」


ソニアの瞳が、ユキナの不安を見透かすように柔らかく光る。


「わたくしたちが意見を戦わせるのは、それぞれがどうすれば閣下のためになるのかを真剣に考えているからですわ。サクヤの言葉は厳しかったけれど、それはおそらく、本当にあなたに期待しているからこそですわ。サクヤは、自分がなにをしても変わらないと思った人間や、自分より劣っていると思った人間には、決して無駄な時間を割きませんわ」


「――えっ……?」


「それに、わたくしがサクヤと対立したのは、あなたを庇いたかったからではありませんわ。あなたがここで成長できると信じているからですわよ」


ユキナの目が大きく揺れる。


彼女はずっと、ソニアが自分を庇ってくれたのだと思っていた。


でも、それはちがった。


ソニアはユキナを認めた上で、サクヤと対峙してくれたのだ。


「だから、謝る必要なんてありませんわ」


「……っ」


ユキナは思わず涙をこぼしそうになったが、必死に堪えた。


もう泣かないと決めたのだ。サクヤの前でも、そして、ソニアの前でも。


「そうそう! ユキナちゃんは悪くないって!」


チェルシーが明るい声で割って入り、ユキナの肩をポンポンと叩く。


彼女のいつもの元気な笑顔が、場の雰囲気を少し和らげた。


「まあ〜、サクヤは厳しいけどぉ〜、そこが彼女の良さでもあるしぃ〜」


ラァーラが、くすっと笑う。


「でも、ソニアの言うこともまちがいじゃないわぁ〜。どっちも、結局はユキナのために言っているのよぉ〜」


「ええ。サクヤも、きっとわかっているはずですわよ。あなたがここで、もっともっと成長することを」


ソニアが微笑みながら頷く。


「……わたし、もっと頑張ります!」


ユキナは涙をこらえながら、力強く頷いた。


「それでいいのよ、ユキナちゃん」


ソニアがそっと彼女の肩に手を置く。


母親のようなその温かさが、ユキナの心に染み込んでいく。


四人は再びゆるやかに会話を始める。


ユキナは、まだ少し心の奥に重たいものを抱えていたが、それでも、少しずつ、前に進んでいける気がした。


ソニアの、そして両親の期待に、応えるために。

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