第4話:秘書見習いの試練
静かな室内に、紙をめくる音とペンの走る音だけが響いていた。
龍宮の愛人用教室。その名の通り、総統の愛人兼秘書としての役割を果たす者たちのために設けられた特別な教育の場だ。
ユキナは机に向かい、ペンを握る手にわずかに力を込めた。既に愛人候補生としての現場研修が始まって7日目。だが、いまだに慣れることができない。彼女の前には政治経済の資料、外交戦略のレポート、国際関係に関する専門書などが山積みになっている。それらを読み解き、即座に分析し、的確な答えを導き出すこと。それが今日の課題だった。
しかし――
「――遅いわ」
鋭い声が、容赦なく飛んできた。
ユキナの肩がビクリと震える。必死にペンを走らせていたが、それでもサクヤの求める水準には到底及ばなかった。
「す、すみませんっ! わたし――」
「言い訳はいらないわ。もっと速度と精度を上げて」
ユキナは唇を噛みしめた。悔しさを堪えながら、手元の資料をもう一度見直す。だが、時間がかかる。サクヤの前では、小さなミスさえ許されない。一つの言葉遣い、一つの計算、一つの解釈ミス。それらすべてを、彼女は容赦なく指摘する。
「――ユキナ」
「は、はい!」
「これは学校の勉強じゃないの。閣下の愛人になるための訓練よ」
サクヤの眼差しが、鋭くユキナを射抜く。それは、彼女の本気度を測る視線だった。
「あなたは閣下の愛人になるの。その覚悟があるなら、もっと速く、もっと正確に、もっと深く考えなさい。閣下が求めているのは、ただ美しいだけの無能なトロフィー女じゃないわ」
ユキナの手が、わずかに震えた。
「……はいっ!」
気持ちを奮い立たせるように答えたものの、震えは止まらなかった。
サクヤはユキナの答案用紙を覗き込み、ペンの先をなぞるように視線を走らせる。試験官のように冷徹なチェックだ。
「……」
数秒後、サクヤが冷たく口を開いた。
「……まちがい。最初からやり直しなさい」
ユキナは息を呑む。
手の中の答案用紙を握りしめる。それは、自分なりに必死に考えた答えだった。
しかし、サクヤはため息をついた後、ユキナを容赦なく切り捨てる。
「こんなレベルの答えしか出せないの? そもそもあなたは巡航ミサイルと弾道ミサイルを混同しているわ。それに陸軍水陸機動旅団と海軍機動打撃群の共同運用によるパワー・プロジェクションとオフェンシブ・ケイパビリティーについても理解していない。あなたの国防に対する意識はその程度? それでは防衛軍全軍の大元帥である閣下を到底支えられないわ。防衛出動のときどうするの?」
「……ごめんなさい」
「謝ることに意味なんてない。そんなことより脳を回転させなさい。皇華女学院生なんでしょ? なさけないと思わないの?」
ユキナの胸が締め付けられる。サクヤの言葉が、痛いほど突き刺さった。
「改めて聞くわ。あなたが目指す『愛人』とはなに?」
「……閣下を支える存在……です」
「曖昧ね。答えを濁しているの? 『支える』ってどういうこと? はっきり言って」
ユキナは必死に考えた。しかし、サクヤの冷たい眼差しに晒されると、思考がまとまらなくなる。
「……閣下の負担を減らし、心の支えとなり……えっと……その……」
サクヤの眼が、ほんの少し細まる。
「……そんなことも答えられないの? 内務省官僚の娘が聞いて呆れるわね。親からなにも教わってないの?」
その言葉が、ユキナの胸に深く突き刺さる。
(ダメだ……)
視界がにじんだ。拳を握りしめ、必死に堪えようとする。
だが、耐えられなかった。
「……っ……!」
肩が小さく震える。
「泣いている暇があるなら考えなさい。あなたは総統に仕える女でしょ?」
「……!」
サクヤの声は冷静だった。慰めることもしない。それが、彼女の教育の仕方だった。
ユキナは涙を拭いながら、小さく頷いた。
――悔しかった。
ただ学習についていけないことが悔しいのではない。サクヤに認められないことが悔しいのでもない。閣下に相応しくない自分が、悔しい。まるで自分の「存在理由そのもの」を否定されたような気持ちだった。それは、閣下に仕えるために育てられてきた自分にとって、最も苦しいことだった。
静寂が続く。
やがて、サクヤがゆっくりと口を開いた。
「――ユキナ」
「……はいっ!」
涙をこらえながら、顔を上げる。
「あなたは今、ただの子供よ。愛人としての資格はない」
「……」
「でも、それは未来永劫そうであるという意味ではないわ」
「……!」
「ここからどうするかは、あなた次第。泣くだけで終わるの? それとも、変わる覚悟を持てるの?」
ユキナは、拳を握りしめた。
(……変わらなきゃ!)
心の中にある恐れ、迷い、それをすべてふりはらうように。
「……わたしは……!」
サクヤがじっと彼女を見つめる。
「わたしは……変わりたい……!」
小さく、しかしはっきりとした声で言う。
(お父さまとお母さまの期待に答えるために……!)
サクヤは微動だにせず、静かに、新たな課題を机の上に置いた。
「……なら、次の問題に進みなさい。今度は言論統制と治安維持、軍によるクーデター防止と、国内に潜伏しているタターガ人テロリストの排除についてよ。内務省官僚の娘なら、できるでしょ?」
その言葉には、わずかな期待が込められていた。
ユキナは、それをしっかりと受け止めた。
(わたしは……ここで、変わらなくちゃ……!)
決意を胸に、彼女はペンを走らせた。
夕暮れの光が窓から差し込み、居住棟のダイニングルームは柔らかな橙色に染まっていた。温かな光が天井の装飾を照らし、広々とした空間に静かな落ち着きをもたらしている。
四天秘書と閣下が揃う夕食の時間。普段なら穏やかな会話が交わされるはずの場だったが、今夜の食卓には、ひとつだけ違和感があった。
ユキナの様子がおかしい。
彼女は俯きがちで、箸の動きも鈍い。普段なら元気に返事をする彼女が、今夜はほとんど口を開かない。四天秘書たちもそれに気づいていたが、誰もまだ口には出していなかった。
しかし、その沈黙を破ったのは、やはり閣下だった。
「――ユキナ」
低く、落ち着いた声が響く。
ユキナの体がビクリと震えた。彼女はすぐに顔を上げ、必死に取り繕おうとするが――
「大丈夫か?」
閣下の視線は真剣で、どこか心配そうでもあった。
彼はすでに気づいていた。彼女の様子がおかしいことに。
ユキナの胸の奥に溜まっていたものが、一気に溢れ出してしまった。
「っ……! ……すみません……!」
彼女の肩が小さく震え、涙がポロポロと零れ落ちる。
食卓の空気が、一瞬にして静止した。
「――え、ちょ……ユキナちゃん⁉︎」
チェルシーが驚いた声を上げる。
「あらあらぁ〜」
ラァーラがワイングラスを軽く傾けながら微笑む。
「まあ……」
ソニアが優しく眉を寄せた。
サクヤはなにも言わず、ただじっとユキナを見つめている。彼女の目は冷静だったが、その奥にはなにかを探るような光が宿っていた。
「なにがあった?」
閣下の声は静かだった。しかし、その声には責める響きはなかった。ただ、彼女がどう答えるのかを見守っているようだった。
「……わ、わたし……サクヤお姉さまの問題が……うまくできなくて……」
声が震える。
「……なんどもまちがえて……なんども叱られて……。……本当に……わたしは閣下に相応しいのか……わからなくなって……」
ユキナの声は掠れていた。
「……」
閣下は静かに話を聞いている。
「……ごめんなさい……! ……わたし……ちゃんとしなきゃいけないのに……! もっと強くならなきゃいけないのに……! ……ごめんなさい……!」
涙は止まらなかった。龍宮での生活がどれほど厳しいものかは理解していた。覚悟を持ってここに来たつもりだった。しかし、それでも耐えきれず、閣下の一言で堤防が決壊した。
「……ユキナちゃん」
ソニアがそっと彼女の隣に移り、背中を優しく撫でた。
「あなたは、よく頑張りましたわね」
「……っ!」
ユキナは驚いたように顔を上げる。
「厳しくされるのは、それだけ期待されているということ。でも、無理をしすぎるのはよくありませんわ。あなたはまだ、これから成長する途中なのだから」
ソニアの言葉は、まるで母親のように優しく包み込むものだった。ユキナの小さな震えが、少しだけ和らぐ。
「そ、そうだよ! サクヤはめちゃくちゃ厳しいからね~! でも、別にユキナちゃんのことがきらいとか、そういうわけじゃないと思うし!」
チェルシーが明るく笑い、ユキナの肩をポンポンと叩いた。
「それだけ将来有望ってことじゃなぁ〜い?」
ラァーラがグラスをくるくる回しながら微笑む。
サクヤは、ただ静かにユキナを見ている。その瞳の奥が、微かに揺れた。
「――サクヤ」
閣下が静かに彼女の名を呼ぶ。
「はい」
「おまえは、どう思う?」
サクヤは一瞬、迷うように視線を落とし、再びユキナを見据えた。そして、淡々と答える。
「……私は、ユキナを閣下の愛人に相応しい存在にするために指導しているだけです」
「……」
閣下はそれ以上なにも言わず、ただ彼女たちのやり取りを見守る。
「ま、焦らずいこうよ!」
チェルシーが明るく言う。
「――ユキナ」
閣下の声が、再びユキナを呼んだ。
「はい……!」
「泣くのもいい。悔しがるのもいい。ただし、簡単に諦めるな」
ユキナの目が、大きく揺れる。
閣下は彼女をまっすぐに見つめていた。
その瞳には厳しさと、そして、優しさがあった。
「俺は、おまえに期待している」
「……っ!」
胸が熱くなる。
彼女は、ただ期待されることがこんなに嬉しいことだとは知らなかった。
誰かに頼られ、信じられることが、こんなにも心を満たすものだとは。
それは、自分の存在を肯定してくれる。
ユキナは強く拳を握った。
「はい……! 絶対に、強くなります!」
「……そうか」
閣下は静かに頷いた。
その瞬間、ユキナは涙を拭い、再び食事に手を伸ばした。
彼女の中でなにかが変わった。
これまで以上に、愛人としての道を進む覚悟が固まった。
「おもしろかった!」
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