第48話:ゆるしの夜
ラベンダー色のカーテンがわずかに夜風に揺れていた。
間接照明だけが灯る部屋は温かく、静かだった。
白い家具に囲まれた空間。
ティーテーブルには、母譲りの紅茶コレクションが並び、ティーカップからは淡く香るアールグレイの湯気が立ち上っている。
ソニアは純白のドレスのまま、そっとカップを手にしていた。
だが、その瞳は遠い闇を見つめていた。
(――なぜ、彼はわたくしにキスをしたのでしょう?)
ソニアは、静かに思考を巡らせた。
(――そして、なぜわたくしは……拒まなかったのでしょう?)
指先が、かすかに震えた。
胸の奥に、どうしようもない痛みが渦巻いていた。
罪悪感。
耐え難い、裏切りの意識。
(――わたくしは、閣下に仕えると誓いました。閣下だけに、心も、身体も、すべてを捧げると、誓ったはずなのに)
なのに――
ソニアは、両手で顔を覆った。
マッケンジーと、キスをしてしまった。
あのとき、自分は拒むことができたはずだったのに。
(……わたくしは閣下を、裏切った)
自責の念に、胸が軋んだ。
涙は出なかった。
だが、心は裂けそうだった。
そんなときだった。
――コン、コン。
二度、控えめなノックの音が響いた。
ソニアは反射的に顔を上げた。
「……どうぞ」
かすれた声で告げる。
ドアノブが静かに回った。
開かれたドアの向こうに、立っていたのは総統閣下だった。
彼はラベンダーの香りが漂う室内に、無言で一歩、踏み入った。
その冷静な瞳が、ソニアをまっすぐに見据えていた。
ソニアは反射的に立ち上がった。
だが、言葉を発することができなかった。
凍ったように、ただその場に佇んでいた。
総統閣下は、ゆっくりと室内を見渡した。
ティーテーブルに置かれた紅茶。
白い本棚。
ベッドサイドの、自分との記念写真。
そして、怯えるように立つソニア。
やがて、総統は静かに口を開いた。
「……見ていた。おまえたちを」
その言葉は、剣のように鋭かった。
「っ……!」
ソニアは、まるで心臓を貫かれたかのように絶句した。
呼吸さえできなかった。
「ソニア」
総統の声が、低く、冷たく響いた。
「おまえは俺の愛人だ。そして、おまえのすべては俺のものだ」
ソニアは、震える唇で、必死に声を絞り出した。
「……はい」
深く、深く、頭を下げた。
「どのような罰でも……喜んで、受け入れますわ」
室内に、重苦しい沈黙が落ちた。
ソニアは目を閉じた。
震えを抑えながら、罰を、痛みを、すべて覚悟した。
だが総統は、そんな彼女をしばらく無言で見つめたのち、静かに言った。
「……今夜は、好きにしろ」
ソニアは、信じられずに目を見開いた。
顔を上げ、総統を見つめた。
総統の声は冷たいようで、どこか遠かった。
「今夜だけは……おまえが、ただの女に戻ることを、許す」
ソニアは震える手で、ドレスの裾を握り締めた。
そして、深々と、頭を下げた。
「……ありがとうございます、閣下」
感謝の言葉は、震えていた。
総統は何も言わず、ソニアに背を向けた。
そして、静かに部屋を後にする。
ドアがぴたりと閉まる音がした。
ソニアは、しばらくその場に立ち尽くす。
安堵と困惑。二つの感情が、心の中で交錯していた。
しかし同時に、彼女の中に、一つの覚悟が芽生えた。
白いドレスの裾が、夜風にふわりと揺れる。
ソニアは、まっすぐにある建物へ向かった。
迎賓館。
その廊下には、誰の姿もなかった。
ただ、柔らかな絨毯と夜の静寂だけが、そこにあった。
彼女の歩みは、確信に満ちていた。
やがて、ある扉の前で立ち止まる。
扉の前にいた大統領警護隊から許可をもらうと、ソニアは小さくノックした。
間もなく、中から足音が近づく。
ドアがわずかに開かれた。
そして、マッケンジーが現れた。
彼は驚いたように目を見開いた。
「……ソニア?」
かすれた声。
ソニアは静かに微笑んだ。
「少しだけ……お時間をいただけますか?」
マッケンジーは一瞬ためらったが、やがて黙ってドアを大きく開いた。
ソニアは、白い光の中へと歩み入った。
暖炉の火が、静かに揺れている。
ソファに向かい合って二人は座った。
しばし、ぎこちない沈黙。
「さきほどは……その……すまなかった」
マッケンジーが告げた。
「いいえ。……良いのです」
ソニアのその答えに、マッケンジーは顔を上げる。
彼の表情は驚きに満ちていた。
ソニアは少しだけ頬を赤らめ、視線を逸らす。
「どうか、ご自分をお許しになってください」
しばしの沈黙。
ゆっくりと時が過ぎる。
マッケンジーは視線を逸らす。
「それは……できない」
そして、ゆっくりと語り出した。
「……彼女は、ずっと、俺を待っていたんだ」
亡き妻。
いつも彼を笑顔で送り出してくれた彼女。
病に倒れた彼女。
それでも、最後まで文句一つ言わず、支え続けた彼女。
「俺は……彼女を裏切った」
ソニアは、ただ黙って聞いていた。
「大統領職……国家の重荷……あの椅子に座った瞬間から、全てが、俺を引き裂いた」
夜の闇が、窓の外に広がっていた。
「……生きている実感が、もう、ない」
それは、呟きだった。
告白でも、嘆きでもなく、ただ、空へと零れ落ちた声だった。
ソニアは何も言わなかった。
ただ、そっと彼の手を取った。
温もりを分け合うように。
壊れかけた心を、そっと繋ぐように。
ソニアは、そっとマッケンジーの手を握りしめたまま微笑んだ。
優しく、穏やかに、夜の静寂に溶けるような声で告げた。
「……大統領」
マッケンジーは、ゆっくりと彼女を見た。
ソニアはまっすぐに彼の蒼い瞳を見つめながら、続けた。
「奥様は、きっと天国で、あなたを待っておられますわ」
マッケンジーの肩がわずかに震えた。
ソニアは、手を離さなかった。
「たとえここに姿はなくとも、奥様は常に、あなたの中に生き続けています」
マッケンジーは、目を閉じた。
その顔に、ほんの僅かに安堵の色が差した。
救いと、赦しと、悲しみと。
すべてを飲み込んだ静かな息遣い。
ソニアは、その手をさらにそっと握り、微笑んだ。
沈黙。
だが、それは苦しい沈黙ではなかった。
温もりに満ちた、救いの沈黙だった。
やがて二人は、互いの存在を確かめ合うように、ゆっくりと顔を近づけた。
ためらいがちに、そっと、触れるように。
唇が、重なった。
強くもなく、激しくもない。
ただ、静かに、確かに。
二人は、壊れかけた心を、そっと寄せ合っていた。
夜が、すべてを、優しく包み込んでいた。
唇を離した後、二人は、ただ静かに見つめ合っていた。
暖炉の炎が、柔らかく部屋を照らしていた。
マッケンジーは苦しそうに目を伏せた。
そして、搾り出すような声で言った。
「……俺の心は、今、裂けそうだ」
ソニアは、何も言わず、彼の言葉を受け止めた。
「妻を……失ったばかりなのに」
マッケンジーは、拳を震わせた。
「それなのに、どうしても……君が、欲しい」
声が震えていた。
「わかっている。これは、罪だ。神が絶対に、許すはずがない」
顔を覆い、マッケンジーは、自らの存在そのものを否定するように呻いた。
ソニアはそっと、彼に手を伸ばした。
そして、何も言わずに、そっと彼を抱きしめた。
優しく、すべてを包み込むように。
「……神様は、そんなに無慈悲ではありませんわ」
ソニアは、彼の耳元で、静かに囁いた。
「主は、すべての罪人のために、赦しの道を開いてくださいます」
ソニアはゆっくりと、聖書の一節を口にした。
「『わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである』」
静かな、それでいて絶対の響き。
マッケンジーは、身体を震わせた。
心を、撃たれた。
ソニアはただ、彼を抱きしめ続けた。
何も要求せず、何も求めず、ただ存在そのものを受け入れて。
やがて、マッケンジーはそっと顔を上げた。
蒼い瞳が、ソニアを捉えた。
そして、震える声で囁いた。
「……俺は、君が欲しい。きみの……すべてが欲しい」
その言葉には、絶望と救いと、そして、生きたいという微かな希望が、すべて込められていた。
ソニアは、静かに、微笑んだ。
そして、まっすぐに、マッケンジーの蒼い瞳を見つめた。
「はい……受け入れますわ」
優しく、柔らかく、だが確かな意思を込めて告げた。
「あなたのすべてを、わたくしの中に受け入れます」
間接照明が、二人の間を優しく照らしていた。
ソニアは、白い手を伸ばし、そっとマッケンジーの頬に触れた。
「今夜、わたくしのすべてはあなたのものです。だからわたくしを、あなたのものにしてください」
その言葉が、静かに夜を震わせた瞬間。
マッケンジーは、もう一度、彼女を抱き寄せた。
今度は、ためらいも、迷いもなかった。
激しく、切実に、ソニアの唇を奪った。
二人は、抱き合いながら、深く、深く、何度も、何度も、口づけを交わした。
互いの存在を、確かめ合うように。
互いの孤独を、埋めるように。
夜が静かに、彼らを包み込んでいった。
世界はもう、存在しなかった。
ただ、二人だけの赦しと救いの夜が、そこにあった。
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