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第37話:愛人vs娘2

「お父さんは、いつか――あなたたちも、必ず捨てる」


リビングとは違う、熱帯の蒸気が立ち上るこの温室で、桜花の鋭い声だけが静かに響き渡った。


ソニアは一瞬だけ驚いた表情を見せた。


まつ毛がかすかに震える。


だが、すぐに、静かな微笑みを取り戻した。


胸の奥に小さな痛みを感じながらも、ソニアは気高く、柔らかく言葉を紡ぐ。


「――ええ。知っておりますわ」


桜花はほんの一瞬だけ、目を見開いた。


――意外だった。


こんなにも、あっさりと認めるとは思わなかった。


だが、ソニアは続けた。


その声音には、わずかな陰りも誇りも、すべてが込められていた。


「愛人というものは、『美』の上に成り立つもの」


ソニアは、そっと空を仰ぐ。


透明な温室の天井から、真昼の陽光が降り注いでいた。


「そして『美』とは、限りあるものですわ」


その言葉は、まるで詩のように静かだった。


桜花は無言でソニアを見つめていた。


ソニアは柔らかな微笑を絶やさず、さらに続ける。


「わたくしという花が、もし枯れるときが来たのなら――それは、閣下のもとを離れるときですわ」


悲しみでもなく、諦めでもない。


ただ、澄んだ覚悟がそこにあった。


「わたくしたち四人――それは、覚悟しておりますの」


穏やかに、しかし確かな強さを宿して。


桜花は、なにも言わなかった。


なにも、言えなかった。


濃密な花の香りの中で、桜花は立ち止まったまま、静かにソニアを見つめる。


そして、ぽつりと呟く。


「……あなたは、理想の愛人ね」


乾いた響き。


ソニアは微笑んだ。


柔らかく、澄んだ声で答える。


「お褒めにあずかり光栄ですわ」


桜花は、ふっと細く息を吐いた。


そして、少しだけ視線を落とし、絞り出すように続けた。


「ようやく……わかったわ」


ソニアは黙って耳を傾けた。


桜花の声は、震えてはいなかった。


だが、その奥に潜む悲しみは、容易に隠せるものではなかった。


「――お父さんは、わたしたちを捨てるために、あなたたちを作ったのね」


太陽に照らされた赤い髪が、かすかに揺れた。


「お父さんの中に……もう……わたしの居場所はない」


吐き出すように、そう告げた。


そして、きっぱりと顔を上げる。


桜花の瞳は、乾ききった悲しみをたたえていた。


「わたし……この国を出ていくわ」


昼間の明るい光の中で、桜花の宣言だけが、異様なほど静かに響き渡った。


「この国を出て、合州連邦に行く。軍に志願すれば、わたしの腕ならパイロットになれるし、市民権もすぐ得られる」


その声には、もう迷いはなかった。


「じゃあ……お父さんには……そう言っておいて」


冷たく、乾いた声だった。


桜花が温室の出口に向かった、そのとき。


ソニアが一歩、前に出た。


「お待ちください、桜花さん!」


必死の声。


桜花は足を止めたが、振り返らない。


ソニアは、胸に手を当て、静かに、しかし強く告げた。


「合州連邦に行ってはなりません」


その声には、震えすら含まれていた。


「閣下は――あなたのお父さまは、あなたを心から愛しておられます」


桜花は肩を震わせた。


だが、なおもソニアは続けた。


「いまは、ただ――その愛がまだ、形になって見えていないだけですわ」


昼の光の中、ソニアの髪が優しく輝いていた。


「言葉を重ねれば、きっと――」


桜花は振り返った。


その顔には、怒りと絶望が浮かんでいた。


「とめないでよ!」


叫ぶような声。


「なにもわかってないくせに、後から来た女がずけずけ入り込まないでよ!」


温室の花々が震えるほどの怒声。


桜花は、悲しげに笑った。


「ねえ……ソニア」


ソニアは、息を呑んだ。


続く桜花の言葉は、悲鳴よりも痛かった。


「愛人ってね……家族を、壊すんだよ?」


ソニアの顔から、血の気が引いた。


凍りつくような沈黙。


「そのこと……ちゃんと考えたこと、ある?」


桜花の声は、囁くように、だが鋭く心を抉った。


ソニアは言葉を失った。


ショックに打たれたように、ただ、そこに立ち尽くした。


微かに震える手を胸元で握り締めながら。


桜花は、ぐっとソニアを睨みつける。


そして、絞り出すように言葉を叩きつけた。


「ねえ――」


低い、震える声。


「――独裁者の愛人の役割って、なんだと思う?」


ソニアは何も言わずに桜花を見つめた。


桜花は、冷たく笑ってみせる。


「それは――子供を産ませることだよ」


ソニアの瞳がかすかに揺れる。


だが、すぐに静かな声で返した。


「……桜花さん。それは……誤解ですわ」


穏やかで、揺るがぬ声音だった。


しかし桜花は怒りに震えた。


「嘘つかないでよ!」


叫びながら拳を握り締める。


「あなたのその体から、わたしの代わりが生まれてくるんでしょ⁉︎」


ソニアはそっと目を閉じた。


深く息を吸い、ゆっくりと目を開いた。


まっすぐに、桜花を見据える。


「いいえ、そんなことはありえませんわ」


その声には、偽りも迷いも、なにひとつなかった。


「閣下にとって唯一の娘は、桜花さんです」


桜花は顔を歪めた。


苦しみと怒りが、ないまぜになった表情。


「嘘つかないでよ! ……お父さんはわたしとお兄ちゃんに不満なんだ! だから新しい子供を作る! あなたたちは、そのための工場なんだよ!」


ソニアはじっと桜花を見つめた。


そしてゆっくりと、ひと呼吸置いてから、優しく、しかし確かな声で言った。


「桜花さん。わたくしは――」


ソニアは、まっすぐ桜花を見た。


「――閣下を、愛しております」


その一言が、桜花の心に鋭く突き刺さった。


「くっ……!」


桜花は唇を噛み、顔を背ける。


ソニアはそっと微笑んだ。


だが、その微笑みの目元には、かすかな涙が滲んでいた。


それでも、震える声を必死に抑えながら、ソニアは続けた。


「だから――」


昼の光の中で、黒髪がきらめく。


「――閣下が愛するあなたのことも、愛したいのです」


涙に濡れた笑顔で、ソニアは桜花に告げた。


桜花はもはや感情を抑えきれなかった。


「あなたがいうように――」


声を震わせながら、ソニアを睨みつける。


「お父さんが、ほんとにわたしを愛してるのなら――」


拳を握りしめ、涙をこらえながら、叫んだ。


「――なら、なんで振り向いてくれないのよ⁉︎」


鋭く、突き刺すような声。


「なんであなたたちばっかり! ……なんで一度も会いに来てくれないの⁉︎ 誕生日のときも! 高校を卒業したときも! はじめて訓練機に乗ったときも!」


桜花は喉が張り裂けそうなほど叫んだ。


「なんでなのよ⁉︎」


温室の花々が震えるほどの絶叫だった。


ソニアは静かに、深く息を吐いた。


そしてまっすぐに桜花を見つめた。


「それは……閣下も、きっと傷ついておられるからですわ」


桜花は息を呑んだ。


ソニアは続ける。


「桜花さん。閣下はああ見えて、とても繊細で、とても不器用な殿方ですわ。……それに、軽度ではありますけれど、発達特性もお持ちですのよ」


桜花の目が、かすかに揺れる。


ソニアは微笑みながらも、苦しげに続けた。


「閣下は過去に、自らの行動が、あなたを深く傷つけてしまったことを、誰よりも後悔しておられますわ」


桜花は震える声で叫んだ。


「なら!」


ソニアは優しく、しかし厳かに言った。


「だからこそ、気軽に会いになど行けないのですわ」


桜花を直視し、続ける。


「半端な気持ちで娘に向き合えば、再び彼女を――あなたを、傷つけてしまう」


ソニアの瞳は微かに光っていた。


「それを閣下は、誰よりも恐れているのですわ」


桜花は唇を震わせた。


「っ……そんなの、信じられない!」


怒りとも、悲しみともつかない声。


ソニアはそっと微笑んだ。


「ええ、そうでしょうね」


静かな、受け止める声。


「ですが、このことだけは、どうか信じてください」


ソニアは胸に手を当て、涙ぐんだ瞳で桜花を見つめた。


「閣下はこの世の誰よりも、あなたのことを愛しておられますわ」


桜花は目を伏せた。


肩がわずかに震えている。


「っ……そんなの……わかんないよ」


掠れる声。


桜花の瞳は、涙で滲んでいた。


「言葉にしてくれないと……わかんないよ」


涙が、こぼれそうになる。


「……やっぱり……信じられない」


小さな、消えそうで、壊れそうな声。


湿った熱気に満ちた温室。


蒸せるような空気の中に、重たく、揺るがぬ気配が満ちた。


桜花が顔を上げる。


その先。そこに閣下が静かに立っていた。

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