第33話:誓い
静かな雨が、龍宮の庭に降り注いでいた。水滴が石畳を濡らし、深い灰色の雲が空を覆い尽くしている。
総統はリビングの窓際に立ち、黙って庭を見つめていた。背中は広く、強さを象徴するはずのその姿は、しかし今はどこか寂しげだった。
そこにいる四天秘書は誰もが、彼の隣に立つことをためらっていた。誰もが、彼が抱えている痛みを知っていたからだ。
先日、総統の母が亡くなった。85歳。癌だった。
それから、彼は笑っていない。
総統の母――彼女は、龍宮に来るたびに総統を「ヨシちゃん」と呼んでいた。そして、総統もまた、彼女の前ではかすかに微笑み、「ママ……」と囁いていた。
その姿に、四天秘書は衝撃を受けた。
あの強く、圧倒的なカリスマを放つ総統が、ただの一人の息子に戻る瞬間――それは、彼が今までどれほど孤独を抱えていたかを改めて痛感させるものだった。
総統の母は優しい人だった。四人の秘書にも、いつも優しく接していた。
そして亡くなる前、彼女は四人に向かって深く頭を下げ、こう言った。
「息子を、頼みます。あの子は昔から寂しがり屋だから……」
それを思い出し、ソニアが静かに口を開いた。
「……閣下」
しかし、彼はなんの反応も示さない。
ただ、雨を見つめている。
「閣下……大丈夫ですか?」
サクヤが、慎重に声をかける。
「閣下、無理しないで……」
チェルシーが、珍しく真剣な表情で呟いた。
「少しくらい、甘えてもいいんじゃない?」
ラァーラも、いつもの調子を抑えた優しい声で言う。
しかし、総統はなにも言わなかった。
「……俺は……弱い人間だ」
途端、静かに、総統は呟いた。
そして次の言葉は、四天秘書に衝撃を与えた。
「――俺は、自分の弱さを隠すために、この体制を築いた」
「えっ……?」
チェルシーがこぼす。
彼女だけではない。四天秘書は、彼の口から出たその言葉が信じられなかった。
「龍宮は、俺の砦だ。おまえたちは、俺の鎧だ」
そう告げ、彼はリビングに座る四天秘書にふりむいた。
「おまえたちが、いなくなるのが怖い」
彼の声には、かすかな震えがあった。
ソニアの胸が締めつけられる。
彼がそんなことを言うなんて、これまで一度もなかった。
「わたくしたちは、どこにも行きませんわ」
ソニアは静かに言った。
「閣下が望まれる限り、わたくしたちは閣下のお側にいつまでもいますわ」
「閣下、なにをおっしゃるのです?」
サクヤが、冷静な口調の中にわずかに焦りを滲ませた。
「らしくないわね……」
ラァーラは、珍しく真剣な顔をしている。
「閣下……。……だ……大丈夫?」
チェルシーが心配そうに顔を覗き込んだ。
総統は拳を握りしめたまま、沈黙する。
手が、わずかに震えている。
その様子を見て、チェルシーはいてもたってもいられなくなった。
ソファから立ち上がり、駆け寄り、ぎゅっと総統の手を握る。
「ねえ閣下っ! わたしたちに、なにかできることない⁉︎」
「……ある」
四人が一斉に彼を見た。
彼は、静かに顔を上げる。
そして、真っ直ぐに四天秘書を見つめた。
「『誓い』を言ってくれ」
その言葉は、切実な願いだった。
「あのときの『誓い』を、もう一度言ってくれ」
「……わかりましたわ」
「もちろんです」
「うん! するよ!」
「なぁ〜に? そんなことぉ〜?」
他の四天秘書も立ち上がり、閣下のもとへ歩いて行った。
そして半円を作り、胸に手を当てる。
あの日。閣下のものになった日、ここで唱えた「誓い」を一語ずつ思い出す。
四天秘書は静かに視線を交わし、息を合わせる。
そして、目を瞑り、四人は一斉に声を揃えた。
「「「「――私は、総統閣下の専属秘書および愛人として、決して総統閣下以外の男性と関係を持たず、ただ総統閣下お一人のためだけに生き、総統閣下をあらゆる面でお支えできるよう常に人格を磨き、古き名を捨て、 ―ソニア/ラァーラ/チェルシー/サクヤ― として産まれ変わり、この命尽きるまで総統閣下のみにお仕えすることを、ここに誓います」」」」
雨音だけが、しばし静寂を支配した。
静かな空間に、誓いの余韻が漂う。
「……すまん」
閣下の低い声が、雨の音にかき消されそうになりながら響く。
「……閣下」
ソニアが一歩前に進み、そっと微笑んだ。
その微笑みは、慈愛に満ちたものだった。
「何度でも詠唱いたしますわ。閣下の孤独が、それで少しでも癒やされるのなら」
「閣下、何度でも言うよ!」
チェルシーが力強くうなずく。
「ふふ。そうよぉ〜。閣下が望むなら、何百回だって言うわぁ〜」
ラァーラは冗談めかしながらも、深い愛情を込めた声で囁いた。
サクヤも、静かに言葉を紡ぐ。
「この誓いは、私たちの誇りであり、覚悟です。閣下が謝る必要はありません」
閣下は、彼女たちを見つめる。
しばらく沈黙が続いた。
四天秘書は、その表情を心配そうに見つめる。
やがて、閣下はぽつりと呟いた。
「――俺は、独裁者だ」
低く、静かな声だった。
「腐敗した政治家どもを一掃し、壊れた民主主義を破壊して今の体制を築いた。俺は……大勢の屍の上に立っている。今もどこかで、俺の命令により親衛隊が誰かを処刑している」
誰も、口を挟めなかった。
それが、紛れもない真実だったからだ。
「俺は、独裁者だ。だけど、これだけは嘘じゃない−−−−」
彼の視線が、ゆっくりと四天秘書を見渡す。
「−−−−愛している」
その言葉が、重く、確かに響く。
「−−−−おまえたちを、愛している」
その瞬間、四天秘書は一斉に閣下へと手を伸ばした。
ソニアが、彼の頬にそっと触れる。
「閣下、わたくしも愛しております」
チェルシーが、彼の腕に抱きつく。
「愛してるよ、閣下」
サクヤが、彼の肩にそっと手を置く。
「愛しています」
ラァーラが、彼の胸元に顔を埋める。
「愛しているわ」
四人は、そのまま閣下に触れ続けた。
彼の孤独を、包み込むように。
時間が、ただ過ぎていく。
雨の音が、静かに響く。
時計の針が、粛然とときを刻む。
四天秘書は、どこにも行かない。
彼のそばにいる。
雨が上がるまで。
雨が上がっても。
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これにて、第2章:四天秘書編は終了です!
次回から、第3章:嵐の前触れ編になります。戦争の足音が近づき、世界がかなり物騒になる章です!