第18話:ソニアの外交3
深夜。合州連邦大統領官邸の夜は静寂に包まれていた。重厚な絨毯が足音を吸収し、長い廊下にはかすかに灯されたランプの明かりだけが揺れている。警備のために配置された大統領警護隊の姿はあるものの、彼らの視線が無防備で非力な彼女に真剣に向けられることはなかった。ソニアは彼らに「総統閣下から、大統領への重要な伝言を預かっております」と嘘を告げると、身体検査の後、比較的簡単に通してもらえた。
ソニアは無言で歩きながら、自らの胸の鼓動を抑えるように深く息を吐く。
(……これが、わたくしの役目ですの)
彼女は立ち止まり、目の前の分厚い扉を見つめた。合州連邦大統領官邸の最奥に位置する、大統領専用の寝室。
指先をそっとドアに触れ、ノックする。
コン、コン、コン。
「……誰だ? ジョンソンか?」
やや疲れの滲んだ男の声が、扉の向こうから返ってくる。
ソニアは一歩前に出て、静かに、洗練された英語で答えた。
「失礼します、大統領」
短い沈黙の後、扉がゆっくりと開かれた。
イアン・マッケンジー大統領は、緩く開けたシャツの襟を直しながら、訝しげな視線を向けてくる。
「……こんな時間になんの用だ?」
冷ややかな声だった。
だが、そこには先ほどの激昂とは違う色があった。
ソニアは一歩部屋に足を踏み入れる。
大統領の寝室は、合州連邦大統領官邸の中でも特に格式高い装飾が施された空間だった。古風なシャンデリアの明かりが天井から揺れ、壁には歴代大統領の肖像画が並ぶ。書棚には政治学や歴史に関する書籍がぎっしりと詰まっていた。
しかし、大統領本人はその華やかさとは対照的に、暗い表情を浮かべている。
そこには、世界中どこにでもいる疲れた初老の男性がいた。
ソニアは静かにその場に立ち、彼の瞳をまっすぐに見つめた。
「総統閣下の秘書のソニアと申します。大統領、我が国の天流河総統のことでお話があります。どうか、少しばかりお時間をください」
「おまえたちの総統のことなら、もう話すことはない」
「いいえ。それでもわたくしは、ここに来なければならないと感じました」
ソニアは大統領を直視する。その瞳には、覚悟が込められていた。
マッケンジー大統領は短く息をつき、窓際のソファに腰を下ろす。
「……座れ」
その指示に従い、ソニアは向かいの椅子に静かに腰を下ろした。
「言いたいことがあるなら、手短にしろ」
「はい」
ソニアは深く息を吸って、吐いた。
「――日之国の奇襲攻撃は、多くの合州連邦国民を傷つけました」
ソニアの声は、いつもの穏やかさを保ちながらも、どこか深みのあるものだった。
マッケンジー大統領の眉がわずかに動く。
「……」
「あの戦争は、決して起きてはならないものでした。わたくしはそのことを、深く理解しております」
ソニアは一度言葉を切り、大統領の表情をうかがった。
彼は目を細め、拳を握っていた。
「……おまえたちは、あの攻撃に対して真摯に謝罪するべきだ」
そう低く言い放つ彼の声には、ただの政治的な駆け引きではない、個人的な怒りが滲んでいた。
(なるほど……。なにかありますわ……)
「……」
ソニアはなにも言わなかった。
ただ、彼の目をじっと見つめた。
次の瞬間、マッケンジー大統領はゆっくりと口を開いた。
「私の曽祖父は、日之国の奇襲攻撃で殺された」
――沈黙。
合州連邦大統領官邸の夜が、まるでその言葉とともに静止したかのようだった。
「彼は軍人じゃなかった。ただの技術者だった。だが、日之国の卑劣な奇襲攻撃のせいで、彼は……。彼には妻と、幼い子供たちがいた。彼の遺体は今も、沈んだ戦艦の残骸の中だ」
その手が、ギュッと膝の上で握りしめられる。
(そういうこと……でしたのね)
ソニアはゆっくりとまぶたを伏せる。
彼が日之国に対して激しい敵意を抱いている理由。それは単なる政治的な立場ではなく、個人的な怒りに根ざしたものだった。
「大統領とご家族の許せないお気持ちは、当然のものですわ」
ソニアの声は、限りなく優しかった。
「わたくしは、その痛みを理解しておりますわ」
マッケンジー大統領は、ゆっくりと顔を上げた。
「……『理解』だと? 軽々しく言いやがる。おまえたちが始めた戦争だ。おまえになにがわかる?」
ソニアは息を呑んだ。
だが、彼女は動じなかった。
「たしかに、わたくしたちはあなたのご家族の痛みを本当の意味では理解できないかもしれません」
ソニアは微笑むことなく、静かに答えた。
「ですが、大統領。わたくしたちの総統閣下は、合州連邦を深く尊敬しております。彼はあなた方が抱える傷の深さも知っておりますわ」
その言葉に、大統領はわずかに目を細めた。
「彼は、以前の日之国の指導者たちとは一線を画す新しい存在です」
ソニアの瞳には、迷いがなかった。
「総統閣下は、合州連邦を理解し、合州連邦の言葉を話し、そして――」
ソニアは覚悟を決め、世界最大の超大国の指導者をまっすぐ見つめた。
「――閣下は、合州連邦を愛しておりますわ」
大統領は、その言葉を噛み締めるように、しばらく黙っていた。
やがて、長い沈黙の後――
「……どういうことだ?」
その言葉は、先ほどまでの敵意とは異なるものだった。わずかだが、ソニアはそこに、彼の興味を感じた。
(少しずつ……彼の態度が変わってきていますわ)
怒りと敵意に満ちた彼の瞳は、徐々に冷静さを取り戻してきている。
もちろん、まだ完全に受け入れてくれたわけではない。
それでも、彼の表情の硬さが少しずつ緩みつつあるのを、ソニアは見逃さなかった。
だからこそ――彼女はさらに言葉を紡いだ。
「ご存知かもしれませんが、総統閣下は銀行員であった父親の海外転勤により、ロンディニオンで育ちました。しかし、彼は英州育ちでありながら、合州英語も自ら進んで学びました。そして、今では両方の英語を流暢に話せますわ」
マッケンジー大統領の眉がピクリと動いた。
「……そうなのか?」
「はい」
大統領は信じられないという顔をしていた。
英語圏においても、英州英語と合州英語という二つの対極に位置する全く異なる英語を両方とも流暢に操れる者は一部のトップスター俳優を除いてほぼいない。ましてや、なぜ極東の国家の指導者にそれが可能なのかは、彼には理解不能だった。
「……それは、なぜだと思います?」
ソニアはあえて間を取り、大統領の反応を待った。
「……」
彼はなにも言わなかったが、視線がわずかに鋭さを増した。
興味を抱いている証拠だ。
「総統閣下は、合州連邦の言葉を流暢に話す史上唯一の日之国の指導者です。それは――合州連邦を理解するためです」
そう静かに言った瞬間、大統領の目が少しだけ見開かれた。
「閣下は合州連邦の大統領であるあなたのことを深く敬愛しておりますわ」
「……彼が?」
マッケンジー大統領の声には、あからさまな疑念が含まれていた。
「はい。合州連邦を訪れ、大統領とお話しすることは、彼にとって非常に大きな意味を持ちます」
「……ほう?」
「閣下は、合州連邦を敵視しておりません。それどころか、歴代の日之国の指導者の中で最も合州連邦を尊重し、理解しようとしている人物です」
マッケンジー大統領は短く鼻を鳴らした。
「だが、彼は独裁者だろう? 日之国の民主主義を破壊した。戦後合州連邦が築いた民主主義を!」
ソニアはその言葉に怯まなかった。
むしろ、大統領がそこまで言うことは、予想の範囲内だった。
「いいえ、大統領。それは違いますわ」
彼女は冷静なまま、大統領の目を真っ直ぐに見つめ、続ける。
「彼は腐敗した日之国の政治を大幅に改革するため、首相任期末期、やむなく旧陸上防衛隊を率い、クーデターにより全権を手に入れる道を選んだのです。……それは、本当にやむを得ないことでしたわ」
「やむを得ないだと?」
「はい」
ソニアは淡々と続けた。
「大統領もご存知の通り、21世紀初頭の日之国は長らく政治の完全な機能不全に陥っていました。大規模な汚職や与党内の派閥争い、世襲議員による議会の支配、優柔不断ですぐに覆される決定、若者を搾取し老人だけを優遇する歪な利益構造、GDP比300%を超える政府債務……国民はそのすべてに絶望し、選挙に行くことすら諦めていました。もはや民主主義では、日之国が変わることは不可能だったのです」
マッケンジー大統領はなにも言わず、じっとソニアを見つめていた。
「その状況を打破するため、5年前、当時首相だった閣下は決断を下したのです。民衆は彼を支持し、日之国を変えるために彼にすべての権力を託しました」
大統領の表情が少し変わる。先ほどまでの激しい敵意は、ほんのわずかに揺らぎを見せていた。
「それでも、民主主義を破壊したことには変わりない」
「いいえ、大統領。閣下は民主主義の精神を捨てたわけではありません。むしろ、彼は日之国を再生するために、一度壊す必要があったのです。そしてそれは、決して己の利益のために行なった行動ではありませんわ」
「……」
マッケンジー大統領はなにかを考えているようだった。
ソニアはさらに続ける。
「あなたは曽祖父の死によって、日之国を憎んでいるのかもしれません」
彼の瞳が、わずかに揺らいだ。
「大統領、わたくしはあなたの憎しみを否定するつもりは一切ありません」
ソニアは彼の目をまっすぐに見据えたまま、静かに言った。
「ですが、わたくしたちは未来へ進まねばなりません。総統閣下も、そう信じております」
マッケンジー大統領は、ゆっくりと息を吐いた。
彼の目からは、先ほどのような怒りの色は消えつつあった。
そして、彼はゆっくりと口を開いた。
「……ミス・ソニア。君の話、もう少し聞かせてもらおうか」
その言葉が発せられた瞬間、ソニアは確かな手応えを感じた。
マッケンジー大統領は、腕を組んだままソニアをじっと見つめた。さっきまでの激しい敵意は影を潜め、その代わりに慎重な、探るような視線が向けられていた。
(大統領は、対話を続ける意思がある)
「ありがとうございます、大統領」
彼女は優雅に微笑んだ。
「大統領。あなたが抱いている疑念を解くことができるのなら、それはわたくしたちにとって、とても意義のあることですわ」
「……ふん」
マッケンジー大統領は鼻を鳴らしながらも、椅子に座り直した。
「続けてくれ。俺が納得できる話ならな」
ソニアは一度深く頷くと、彼の目を真っ直ぐに見つめた。
「日之国の全権を握る総統閣下が、ただの独裁者ではないことをお話ししましょう」
マッケンジー大統領は黙ってソニアの言葉を待つ。
「おもしろかった!」
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