第17話:ソニアの外交2
「ふぅ……。ようやく、マスコミ抜きで話せるな」
合州連邦大統領官邸の奥深くにあるローザヴェルト・ルームに入ると、大統領は疲れたように肩を回しながら言った。
この部屋は、かつて第32代合州連邦大統領「ローザヴェルト」が政策の決定を行った歴史的な場所で、今は重要な会議が行われる場として使われている。
そしてローザヴェルトといえば、かつて日之国に最後通牒を突きつけ戦争を誘発した後、日之国を戦争で完膚なきまでに叩きのめした合州連邦国民の大英雄だ。イアン・マッケンジー大統領がこの部屋で日之国と合州連邦の話し合いを行うことを決意したのは、果たして偶然なのだろうか?
――いや、そんなはずはない。
(マッケンジー大統領は、すでに場所選びで閣下を牽制している……)
その事実に、ソニアは息を呑んだ。
まるでこの交渉においても、最初から日之国に勝利はないと宣言しているかのようだった。
部屋には大統領と総統、四天秘書、両国の外交官、そして少数の大統領警護隊が控えていた。
通訳は、一人もいない。総統にとって英語は母語同然だからだ。
余計な耳はなく、本音の交渉ができる場だった。
大統領はふと、総統を見つめ、興味深げに言う。
「ふふふっ……それにしても、君は英語が実に上手だ。一瞬、我が国のアジア系国民かと思ったよ」
総統はわずかに微笑しながら答える。
「光栄です、大統領。あなたこそ、英語がお上手ですね」
総統閣下は当然のように告げた。
一瞬の沈黙の後――大統領は吹き出すように笑った。
「ハッハハハハハ! 君は面白いジョークを言うな!」
ソニアはそのやりとりを見ながら、ほんの少しだけ緊張を解いた。
(いい雰囲気……ここまでは悪くないですわね)
合州連邦国民はユーモアのない人間を見下し、決して相手にしない。過去の日之国の指導者が合州連邦の指導者に完全に見下されたのもそれが大きな原因の一つだ。ユーモアのないことは、彼らの文化では余裕のなさを示す。総統はそれを熟知している。
だが、そんな和やかな空気も、長くは続かなかった。
「さて……さっそくだが貿易赤字の問題について話そうか」
そう切り出したマッケンジー大統領の声は、先ほどまでとは違っていた。硬く、冷たい響きを帯びている。
(やはり、そこから来るのね……。彼は同盟国にも容赦ないですわ)
ソニアは心の中で小さく息を吐いた。
貿易問題は、今回の首脳会談の核心のひとつだ。特に、合州連邦が長年不満を抱いている日之国の農産物市場の保護主義政策は、避けては通れない議題だった。
「日之国は農産物に対する関税や補助金を続けている。そのせいで、我々の農家は不利な立場に立たされている。これは明らかにフェアじゃない」
マッケンジー大統領は鋭い視線を向ける。
「総統、君は合州連邦産の農産物への市場開放を進めるべきだ。さもなければ、我々はすべての日之国製品に対して新たに40%の追加関税を課す用意がある。日之国は我が国の友人だ。できればそんなことはしたくない。だが、私は合州連邦国民の未来を背負う身だ。君が『誠意』を見せない場合、必要な措置はとらせてもらう」
その言葉に、ソニアの眉がわずかに動いた。
(強硬な態度……やはり、簡単に譲る気はないですわね)
総統は一瞬、思案するように指を組んだ後、静かに答える。
「我が国は、合州連邦を尊重しております。しかし、日之国が現在取っている措置は単なる保護主義ではありません。これは日之国の伝統的な価値観と古来より伝わる農業文化を守り、有事に備え食料自給率を上げるために必要な政策です。その点を、ご理解いただきたい」
大統領の表情が険しくなる。
「君はつまり、日之国の農業を守るために、合州連邦の農家を犠牲にするつもりか? ええ?」
「そんなつもりはありません。ただ、我々の立場も理解していただきたい」
大統領の青い瞳が細められた。彼は交渉で「ノー」と言われることに慣れていない。これまでの歴代の日之国首相たちは、合州連邦の要求に対してまるで下僕のようにへこへこと折れることがほとんどだった。ゆえに、彼もそれが当然だと思っていたのだろう。
だが――旧体制を実力で解体し、日之国を「総統制」に変えたこの男は違った。
ソニアは総統閣下の冷静な態度を横目に見ながら、緊張を高めていく。
(マッケンジー大統領は今の回答を気に入らないはずですわ……。ここで爆発するかもしれません。閣下、どうかお気をつけください)
その瞬間、大統領はテーブルを強く叩いた。
「狡猾な野郎が!」
部屋が、一瞬で静まり返る。
ソニアは、鼓動が跳ね上がるのを感じた。
四天秘書は、誰一人として言葉を発しない。
だが、大統領警護隊の隊員たちすら、空気の異変に動揺していた。
総統は――微動だにしなかった。
沈黙の中、彼はゆっくりとまぶたを閉じ、一息ついた後、マッケンジー大統領を真っ直ぐに見据えた。
その瞳には一切の感情がなかった。
マッケンジー大統領は、総統を睨みつけていた。
そして――
「おまえたちはパラサイトだ」
大統領の声が響いた。
ソニアは一瞬、耳を疑った。
(今、彼はなんて……?)
それは、明らかな人種差別発言だった。現代において、絶対に許されない発言だ。
だが総統閣下は、それでも表情ひとつ変えない。ただじっと、静かなまなざしでマッケンジー大統領を見据えていた。
「貿易問題にしろ、防衛にしろ、すべて合州連邦が負担してやっているのに、おまえたちはなんの『誠意』も見せない! 我々の軍隊が日之国を守っているというのに、その恩義を忘れたのか⁉︎ ええ⁉︎」
大統領は一方的にまくし立てる。勢いは増し、言葉は次第に荒くなっていった。
その瞬間、ソニアの隣でなにかが動いた。
視線を向けると、同じ四天秘書のサクヤが拳を強く握りしめ、机の下でわずかに震えていた。普段は最も冷静な秘書である彼女の表情は硬く、静かに怒りが燃え上がっているのがわかる。彼女は総統閣下に最も忠実な四天秘書だ。だから、閣下が公然と侮辱されるのが許せないのだろう。
(まずいですわ……。このままでは――)
サクヤが立ち上がり口を開こうとしたその刹那、ソニアは彼女の手を掴んだ。
「……落ち着いて、サクヤ」
無二の親友に囁くように言いながら、視線で必死に訴える。
(耐えて! 外交の場で感情的になってはダメですわ!)
サクヤはしばらく睨みつけるように前を見据えていたが、やがてソニアの手を握り返した。その手のひらから伝わる強い力に、ソニアは彼女の怒りを痛いほど感じる。
(わたくしも怒りたい……。でも、今は違う。……耐えるべきですわ)
総統閣下はマッケンジー大統領からの一方的な罵声と暴言に耐えている。それは耳を疑う、ひどい内容だった。
だが、国を背負うとは、すなわちそういうことだ。
(閣下……どうか今は、日之国のために耐えてください!)
マッケンジー大統領は、まだ続けていた。
「ふんっ! おまえたちは、あの時代からなにひとつ変わっていないな!」
彼の青い瞳は、冷たい憎悪を湛えていた。
「我々はおまえたちの奇襲攻撃を忘れない! その攻撃で我が国の大勢の若人が虐殺されたこともな!」
ソニアは息を飲む。ついに、彼が切り札としてその言葉を持ち出してきたのだ。
それは、日之国の血を引くものを相手に合州連邦国民が持ち出せる絶対的牽制だった。
(なんてひどい……!)
もはや90年近く前のことを、マッケンジー大統領は今を生きる総統のせいにしている。
「おまえが謝れ!」
マッケンジー大統領は立ち上がり、総統の顔に指を突きつけ、総統を睨みつけた。
「おまえは独裁者だ! 過去の日之国の指導者たちと同じ道をたどり、合州連邦を裏切るつもりか⁉︎」
(閣下を……「独裁者」と?)
ソニアは怒りではなく、冷たい絶望感を抱いた。
「もう一度敗北の屈辱を味わいたいのか⁉︎ ええ⁉︎」
その言葉が落ちた瞬間――
ついに部屋の空気は、完全に凍りついた。
重厚な木目のテーブルを囲む椅子に座る者たちは、誰一人として身じろぎしなかった。マッケンジー大統領の挑発的な言葉が、部屋の空気にまだ焼きついている。
だが、閣下は、それでも変わらない。まるで大統領の言葉が無価値であるかのように、静かに、冷ややかに、彼を直視し続けている。
(閣下……)
ソニアは、その答えを待った。
総統は、静かに口を開いた。
「――たしかに、日之国と合州連邦の歴史は、常に平和なものであったわけではありません」
閣下の声は、低く、響いた。
ソニアは息を飲む。
(閣下……)
「それは、まさに大統領のおっしゃるとおりです。我々も決して……決してそのことは忘れておりません。しかし――」
総統はわずかに視線を鋭くし、続けた。
「――我々は、過去を乗り越え、未来へ進まねばなりません。私は、合州連邦、その国民と、大統領、あなたを尊敬しております」
その瞬間、マッケンジー大統領の顔がこわばった。
彼の拳が再びテーブルを叩いた。
「ふざけるな!」
低く、震える声で大統領は言い放った。
「おまえは……本気でそんな戯言を言っているのか⁉︎」
総統は変わらず静かに彼を見つめている。
「俺を尊敬するだと? おまえたちが合州連邦を尊敬するだと? なにを……なにを今さら!」
マッケンジーの青い瞳が揺れていた。そこには怒りだけではなく、困惑や苛立ち、そしてどこか疑念が混じっていた。
「……もういい」
大統領は、低く吐き捨てるように言った。
「おまえとは話すだけ無駄だ」
鋭い視線を投げかけたあと、彼はさっさと会議室の扉へと向かっていく。彼の側近たちや大統領警護隊も、慌ただしく彼の後を追うように立ち上がった。
まるで嵐が吹き荒れた後のように、会議室には総統と四天秘書、そして日之国側の要人だけが残された。
静寂が支配する。
「……閣下」
ソニアは、そっと彼を呼んだ。先ほどの言葉に、彼女はいまだ衝撃を受けていた。
明確な憎悪を向けられ、人種差別を発せられたあの状況で、大統領を真正面から論破するのではなく、彼に敬意を示すことで応じる。それは、誰もが予想しなかった言葉だった。
総統閣下は、なにを考えているのか?
その場の誰もが、そう思っていた。
ソニアは、総統の横顔を盗み見る。
彼は、静かだった。
鋭いまなざしをしているわけでもない。
ただ、まるでなにかを考えているかのように、遠くを見つめている。
――そして。
「少し……休みたい」
ぽつりと、そう告げた。
その言葉に、ソニアの胸が締めつけられるようだった。
「……かしこまりましたわ、閣下。迎賓室へ向かいましょう」
総統と四天秘書は立ち上がり、部屋をあとにした。
合州連邦大統領官邸の迎賓室は、夜の帳が下りた今もなお、荘厳な雰囲気を保っている。
ディナーは予定通り振る舞われたが、肝心のマッケンジー大統領は姿を見せなかった。結局、形式的な会食は行われたものの、会談の続きを期待する者など誰もいなかった。
誰もが、マッケンジー大統領就任後初の日之国と合州連邦の首脳会談は最悪の形で失敗したと悟った。空気は重く、張り詰めていた。
そして今――迎賓室には総統閣下が一人、静かに佇んでいた。
大統領の侮辱を受けながらも、彼は最後まで感情を表に出さなかった。
扉が開く音がする。
四人の影が静かに入ってくる。総統の側近たる四天秘書――彼女たちが彼を訪ねてきた。
「……ひどいよ! あんな言い方、絶対に許せない!」
一番に声を上げたのは、茶髪のボブカットの少女――チェルシーだった。彼女は感情を隠すことが苦手で、目に涙を浮かべながら、まっすぐに総統を見つめている。
「閣下は悪くないのに……どうしてあんなこと言われなくちゃいけないの⁉︎」
次いで、端正な顔立ちとハイポニーテールの女性――サクヤが、冷静な口調で言葉を続けた。
「卑劣です。外交というものが、かくも低俗なものだったとは……。国家元首たる者が、あのような振る舞いをするなど信じられません。閣下、どうかお心を強く持ってください」
サクヤの声は静かだったが、その瞳の奥には鋭い怒りが宿っていた。普段ならどんな理不尽な状況でも冷静さを失わない彼女でさえ、今日のできごとには憤りを隠せないようだった。
「ん〜。まあ〜、私もさすがに今日はちょっとムカついちゃったかもねぇ〜」
妖艶な微笑みを浮かべながらも、どこか険しい表情をしているのは、四天秘書の中でも最も強烈な色気を放つ魔性の女――ラァーラだった。普段は余裕たっぷりな彼女も、今回ばかりは違うらしい。
しかし――
総統閣下は、なにも言わなかった。
ただ、彼の手がわずかに震えているのを、ソニアは見逃さなかった。
「――閣下っ!」
思わず声を上げると、ソニアは迷うことなく彼のもとへと駆け寄った。
彼の震える手を、そっと包み込むように握る。
「……よく、耐えられましたわ」
その言葉を聞いた瞬間、総統の瞳がかすかに揺らいだ。
誰よりも強く、誰よりも冷静であろうとする彼が――今、ほんのわずかだけ、心を揺るがせたのだ。
ソニアは、そっと彼を抱きしめた。
彼の背中に手を回し、静かに、優しく包み込む。
「大丈夫ですわ、閣下。わたくしは、閣下を絶対に一人にはしません」
静寂が、再び迎賓室を支配する。
総統の頬を、一筋の涙が流れ落ちた。
「――っ!」
四天秘書が、一同に息を呑む。
信頼している者たちの前でも滅多に涙を見せない男が、涙を流した瞬間だった。
それだけ、彼は傷ついていた。
海外で育った彼は、幾度となく理不尽な差別や偏見に耐えてきた。
だが、それは彼が鋼の心を持っているという意味ではない。
単に、耐えざるを得なかっただけだ。今日のように。
日之国の最高権力者である彼もまた、一人の人間だった。
誰も、なにも言わなかった。
サクヤは黙って瞳を閉じ、ラァーラは静かに微笑み、チェルシーは目元を押さえながら彼らの姿を見つめていた。
すると、総統は無言のまま、ソニアを抱き返した。
やがて、彼は静かに目を閉じ、彼女の腕の中でゆっくりと息を整えた。
「閣下……今夜は、どうかごゆっくりお休みくださいませ」
ソニアの優しい声が、彼の耳元で響く。
総統はなにも言わなかったが、ただ小さく頷いた。
その後、彼が眠りにつくまで、ソニアはそっと彼の傍らにいた。
そして、彼の安らかな寝息を確認したソニアは、そっと立ち上がった。
彼のために、今、自分ができること。
それを考えたとき、彼女の中にある決意が芽生える。
(わたくしが、閣下をお守りしなくては)
彼女は静かに迎賓室を後にし、足早に廊下を進んだ。
その目には、静かな炎が宿っていた。
目指す先は合州連邦大統領官邸の最奥――大統領の寝室。
(わたくしは閣下の外交担当秘書。わたくしは、やるべきことをします。閣下……わたくしはあなたのために、必ず道を切り拓いてみせますわ)
それが、彼女の誓いだった。
「おもしろかった!」
「続きが気になる!」
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