第12話:帰るべき場所
朝の龍宮。
食堂には、すでに四天秘書と閣下が揃っていた。
穏やかな朝食のはずだった。
だが、ユキナが入ってきた瞬間、空気が一変する。
彼女の顔は、まるで魂が抜けたかのように生気を失っていた。
目は腫れ、表情は完全に虚ろだった。
昨日の夜から、涙はもう出尽くしていた。
「おはようございます、ユキナちゃん……」
優しく声をかけたソニアだったが、ユキナは反応しなかった。
一方で、ラァーラとチェルシーは気まずそうに視線を交わす。
唯一、サクヤだけはなにも言わず、平然と朝食を続けていた。まるでなにも感じていないかのように。
そして、閣下が静かに口を開いた。
「ユキナ、すでに車は手配してある。準備ができたらここを去れ」
その言葉が突き刺さるように響いた。
「……はい」
か細い声で答え、ユキナは俯く。
(もう……終わったんだ)
そう思った瞬間、胸の奥から鈍い痛みが込み上げてきた。
だが、もう涙は出ない。
全身が鉛のように重く、感情が麻痺しているようだった。
そのとき――
「――お待ちください、閣下」
サクヤの声が響いた。
場の空気が、ピンと張り詰める。
閣下が、彼女の方を見た。
サクヤは真剣な表情で、まっすぐに閣下を見据えていた。
「――ユキナには、無限の可能性があります」
ユキナの目が揺れる。
「彼女は、今はまだ未熟者で、閣下の足を引っ張り、ときにはご不快にさせてしまうこともあるかもしれません」
食堂にいた全員が、サクヤの言葉に耳を傾ける。
「そのようなことが起きた際は、私が厳しく指導いたします。ですが、欠点を考慮しても、彼女はまちがいなく優秀な愛人候補です」
「えっ……?」
ユキナは絶句した。
(どうして……? どうして……サクヤお姉さまが……?)
冷たく、厳しく接していたサクヤ。
その彼女が、今こうして自分を必死に擁護している。
しかし――閣下は、なにも言わない。
沈黙が場を支配する。
サクヤは一瞬、歯を食いしばった。
そして――
「お願いです、閣下!」
サクヤは椅子を蹴って立ち上がり――その場に、膝をついた。
驚きに、息を呑むユキナ。
「……!」
ラァーラとチェルシーが目を見開き、ソニアも口元に手を当てる。
サクヤは、そのまま地面に頭を擦りつけた。
サクヤが、土下座をしている。
「どうか……ご再考を」
サクヤの声が震えている。
「ユキナは、この私が責任を持って教育いたします! 今、彼女を見捨てるということは、可能性という芽を摘むということです!」
頭を深く下げたまま、サクヤは続ける。
「彼女はこの龍宮の未来です! 成長した彼女は、閣下の未来に必要な女性です! そして、閣下の隣に立つのにきっと相応しい存在です!」
彼女が告げた言葉に、衝撃が走った。
「ユキナは……私を遥かに超えるポテンシャルを秘めています」
ユキナは、息を呑んだ。
「お願いです! ユキナを捨てないでください! お願いします!」
ユキナは、呆然とサクヤを見つめていた。
四天秘書たちも、動けずにいた。
(……なんで……サクヤお姉さまが……こんな姿を……? ……なんで……?)
理解が、追いつかなかった。
今まで蓄積されてきた、サクヤに関するすべての前提が、覆されていく。
土下座してまで、閣下に懇願している。
ユキナを守るために。
だが――閣下は、動かない。
「…………」
彼の目は、揺るぎなかった。
「閣下……」
ソニアが口を開いた。
「どうか……ユキナちゃんを……!」
ラァーラも、苦しげに視線を落としながら呟く。
「まだ未熟だけど、このまま終わらせるのは、もったいないんじゃなぁ〜い?」
チェルシーも、拳を握りしめながら訴える。
「まだなにも始まってないんだよ、閣下! ユキナちゃんは、絶対に――」
だが――閣下は、無言で席を立った。
「っ……!」
閣下はなにも言わずに部屋を出ていく。
ユキナは、衝撃で動けなかった。
サクヤが、ゆっくりと頭を上げる。
拳が震えていた。
「……っ」
悔しそうに、唇を噛み締めるサクヤ。
彼女の表情を見た瞬間、ユキナの中で、なにかが崩れ落ちた。
龍宮の正門。
朝日が低く差し込み、辺りは静まり返っていた。
冷たい風が吹き抜ける中、ユキナは門の前に立っていた。
きたときと同じ、わずかな荷物だけを手にして。
彼女の前には、ラァーラ、チェルシー、ソニアがいた。
だが、そこに、サクヤの姿はなかった。
閣下の姿もなかった。
ユキナは拳を強く握った。
「……どうして」
彼女には理解することができなかった。
自分にあそこまで厳しかったサクヤが、なぜ、自分のためにプライドをすべて捨て、最愛の閣下の前で土下座したのかを。
自分のために、必死に懇願したのかを。
「……ユキナちゃん」
ソニアが、そっとユキナの肩に手を置いた。
その表情は優しく、しかしどこか悲しげだった。
「あなたがここで過ごした時間は、決して無駄ではありませんでしたわよ。わたくしたちは全員、あなたを誇りに思っておりますわ」
ユキナは俯いたまま、唇を噛みしめる。
「ソニアお姉さま……」
ラァーラが腕を組み、少し視線を逸らしながら言った。
「ユキナはまだまだ未熟だったけどぉ〜……ほんと、がんばってたわよぉ〜。短い間だったけどぉ〜、私たち、あなたのこと結構気に入ってたのよぉ〜?」
「ラァーラお姉さま……」
ラァーラは照れくさそうに肩をすくめる。
「まあ〜、またどこかで会うこともあるでしょ〜。人生って、なにがあるかわかんないものよぉ〜」
「はい……」
最後に、チェルシーが前に進み出る。
目を、真っ赤にしながら。
「うぇぇ……っ……やだよぉ……ユキナちゃあああん……!」
そのまま、ユキナに抱きついた。
「ほんとに行っちゃうの……? 昨日まで一緒だったのにっ……!」
ユキナの背中に、チェルシーの震える手が回される。
涙が、ぽたぽたとユキナの制服に落ちる。
「チェ、チェルシーお姉ちゃん……」
ユキナは、チェルシーの頭をそっと撫でた。
「……大丈夫だよ、チェルシーお姉ちゃん。わたしは……わたしは、ちゃんと生きるから……」
チェルシーはぎゅっとユキナを抱きしめた後、名残惜しそうに離れた。
黒塗りの送迎車が、ゆっくりと正門前に滑り込む。
エンジン音が、無情に響く。
ソニアが静かに微笑む。
「ユキナちゃん……あなたはまだ、これからの未来がありますわ。どうかご自分を、大切に」
「……ソニアお姉さま……」
ユキナは、涙をこらえながら、四天秘書たちに向かって、深々とお辞儀をした。
「お世話になりました……! どうか、お元気で」
三人は、微笑みながらユキナを見つめた。
そしてユキナは、車の後部座席へと乗り込んだ。
車がゆっくりと動き出す。
窓の外。門の前に立つ三人の姿が、小さくなっていく。
ユキナは、その光景を目に焼きつけるように見つめた。
胸が、締めつけられるように痛い。
そして、静かに呟いた。
「――さようなら」
都心の高層住宅地。
窓の外には、日之国の心臓――首都「邪馬都」の夜景が広がっている。
ユキナは、自宅のリビングのテーブルに座っていた。
正面には、両親が向かい合い、座っている。
母は心底残念そうな表情を浮かべ、ため息をついた。
父は険しい顔のまま、じっとユキナを見据えている。
――沈黙。
重たい空気がリビングに充満する。
しばらくして、父が口を開いた。
「なにをしていた?」
ユキナは俯いたまま、なにも言えなかった。
答えられない。
なにを言っても、もう意味がない気がした。
――バンッ!
突然、テーブルを叩く音が響く。
「答えろ!」
鋭い声が、ユキナの心を突き刺す。
ビクッと肩を震わせ、ユキナは顔を上げた。
父の目には、怒りが宿っていた。
総統親衛隊幹部とのコネを使い、せっかく龍宮へ送った娘が、そこから追い出された。それは、ただでさえ思うように内務省で出世できずにいる父に、追い討ちをかけるようなできごとだった。
「まさか……なんの成果も出さずに帰ってくるとはな」
低く、冷たい声だった。
「総統閣下のもとで学び、仕え、彼に相応しい女性になるはずだったのに……おまえはなにをしていた?」
ユキナの指先が震える。
「おまえは龍宮で、一体なにをしていたんだ?」
「…………」
父の目がさらに鋭くなる。
「まさか……本当になにもしてこなかったのか?」
「……ごめんなさい……」
か細い声で謝罪するユキナ。
しかし、父の怒りは収まらない。
「謝って済むと思うな!」
再び、拳がテーブルに叩きつけられる。
ユキナは、怯えたように体を縮めた。
「おまえは人生で最大のチャンスを逃したんだぞ! おまえには、俺たちの未来がかかっていたんだ!」
メラメラと、静かに燃える炎のように、父の怒りは抑えきれないものだった。
「閣下に見放されるとはどういうことだ……! おまえはなにをやっていたんだ……!」
ユキナは、ただ涙をこらえながら、繰り返す。
「……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
謝罪の言葉しか出てこない。
でも――ちがう。
本当は、ちがう。
本当に謝るべき相手は、父ではない。
――閣下だ。
――四天秘書のお姉さまたちだ。
彼らに認めてもらえなかったことが、なによりも辛い。
なによりも、後悔している。
(わたしは……なにを……やっていたんだろう?)
もう、取り返しがつかない。
やりなおせない。
彼らと二度と会えない。
ユキナの心が、深い絶望に沈んでいく。
(死にたい……)
自室に戻ると、ユキナはドアを閉め、力なくもたれかかった。
彼女の部屋は、典型的な15歳の女子高生の空間だった。
ぬいぐるみ。
お嬢様学校の制服。
読書用の机。
ピンク色のベッドカバー。
そのすべてが、今の彼女には場違いに感じられた。
龍宮の豪華で煌びやかな世界に比べると、自分の部屋などなんとちっぽけで、惨めで、幼稚なのだろうか。
ここでは、自分はただの「子供」だ。
国家の最高指導者に仕え、外国首脳と英語で話す「秘書見習い」などではない。
「…………」
足が勝手に動き、ベッドに倒れ込む。
そして、枕を抱きしめ、涙が溢れた。
「っ……ぅ……っ……」
枕に顔を埋め、声を押し殺す。
「……いやだ……こんなの……いやだ……っ!」
涙が止まらない。
喉の奥が詰まり、うまく息ができない。
苦しい。
悔しい。
痛い。
「わたし……わたし……っ!」
抑えきれない感情が溢れでてくる。
(どうして……こんなことになってしまったんだろう? ……閣下は……わたしを拒絶した。四天秘書のお姉さまたちは……わたしを庇ってくれた。でも……わたしは……認めてもらえなかった!)
すべてが、ぐちゃぐちゃだ。
感情が、整理できない。
(どうして……?)
ユキナは、ただひたすら泣き続けた。
まるで、すべての感情を吐き出すかのように。
翌朝。
ユキナは、静かに目を開けた。
まだ薄暗い部屋の中。カーテンの隙間から差し込む朝の光が、ぼんやりとした輪郭を作っている。
泣きすぎたせいで目は腫れ、身体は重かった。
起き上がる気力なんてない。
けれど、腹の奥にぽっかりと空いた穴が、なにかを求めるように疼く。
ただの空腹か、それとも別のなにかか。
わからないまま、ゆっくりとベッドを抜け、足を引きずるようにしてリビングへ向かった。
食卓には、いつものように朝食が並んでいた。
だが、龍宮で毎日彼女らと食べていたものに比べると、なんて貧相なのだろう。
父と母は黙って席についていた。
ユキナは無言のまま席に座り、スプーンを手に取る。
温かいスープをひと口含む。
けれど、なんの味もしなかった。
ただ、ぬるくて、なにかが喉を通る感覚だけがあった。
「――ユキナ」
その沈黙を破ったのは、父だった。
「さっき……龍宮のサクヤさまから連絡があった」
ユキナの手が止まる。
「――えっ……?」
父はスプーンを置き、まっすぐユキナを見た。
「『おまえを責めないでくれ』、と言われた」
「……っ⁉︎」
「『おまえは精一杯やった』。サクヤさまの厳しい指導にも必死についていった。『なに一つ怠けることなく、自分の役目を果たそうとしていた』。……サクヤさまは、そうおっしゃっていた」
ユキナの指先が震えた。
「……サクヤ……お姉さまが……?」
信じられなかった。
(サクヤお姉さまが……?)
あの冷静で、厳しくて、決して情に流されない彼女が?
(なん……で?)
「それに加えて、サクヤさまも『なぜ閣下がおまえをあそこまで冷たく突き放したのかわからない』と言っていた。おまえは……『完璧』だったと」
(……完璧だった?)
頭が追いつかない。
(……なら……どうして? ……どうして閣下は……? ……どうしてわたしは……あそこから追い出されたの?)
胸が締めつけられる。
次の瞬間、涙が頬を伝った。
「……っ」
俯き、唇を噛みしめる。
父と母はなにも言わなかった。
ユキナは拳を握りしめたまま、机の上の皿を見つめていた。
そんな彼女に、父がぽつりと呟いた。
「……悪かったな、ユキナ」
ユキナは驚いて顔を上げた。
父は、どこか苦しげな表情を浮かべていた。
そして、彼は深々と、頭を下げた。
「えっ……?」
「俺は……おまえのことを出世の道具みたいに考えていた。おまえを龍宮に送ることが……おまえの未来を切り拓く最善の方法だと……勝手に決めつけていた」
「……」
「だけど……俺はおまえのことをなにも見ていなかった。ユキナ、おまえはよくやった。もう、自由に生きろ。俺と夏子のためではなく、自分のために生きろ。父さんの望みは、それだけだ」
その言葉を聞いた瞬間、涙があふれた。
喉が詰まり、声が出ない。
目の前の食卓が滲む。
涙は、止まらなかった。
窓から差し込む朝の光が床に揺れ、制服を身にまとった生徒たちの足元を淡く照らしていた。
教室に入ると、ユキナは静かに自分の席に着いた。
「ユキナ、大丈夫? ずっと休んでたけど、体調、平気?」
隣の席の友人が心配そうに声をかける。
「……うん。……大丈夫」
微笑んでみせたけれど、声には力がなかった。
なにもかもが、薄い膜を隔てた向こう側のできごとのように感じられた。
目の前に広がる「日常」。
規則正しい授業の流れ。
先生の説明。
黒板に書かれる数式。
ノートに筆記するクラスメイトたちの手の動き。
すべてが、まるでニセモノのようだった。
目を伏せる。
ここはまるで、鳥籠のなかのようだ。
もっと広い世界で、自由に羽ばたきたい。
優雅なドレスを纏い、あの晩餐会の舞台にもう一度彼女たちと立ちたい。
英語で世界の要人と話したい。
廊下を歩く教師の声。
生徒たちの筆記音。
かすかな笑い声。
それらすべてが、あまりにもふつうで、ちっぽけに感じられる。
(ここは……現実じゃない)
ユキナの心は、龍宮に置き去りのままだった。
閣下の「出ていけ」という声が頭の中に響く。
(……どうして? ……どうしてわたしは……こんなところにいるの?)
窓の外を見つめる。
青い空が広がっていた。
雲一つない、穏やかな空。
(……ちがう! わたしはここにいるべきじゃない! ……知りたい! ……知らなくちゃいけない! ……なぜ……閣下がわたしを追い出したのか!)
彼女は決意した。
(あのとき、なにも言えなかった! ちゃんと聞けなかった! ……でも、せめてそれだけでも知りたい! ……知らなきゃ! ……もう一度、閣下に会って、今度こそちゃんと聞かなきゃ!)
その瞬間、胸の奥でなにかが弾けた。
「――っ!」
ユキナは、立ち上がった。
その拍子に椅子が後ろに倒れ、教室に響く。
「ユキナ……?」
先生も、クラスメイトも、驚いたように彼女を見つめる。
だけど、ユキナはもう周りの視線など気にしていなかった。
(わたしは行く! 龍宮に! 閣下と、お姉さまたちのところに!)
机の上のノートと教科書をそのままに、鞄だけを掴むと、ユキナは教室を飛び出した。
「ユキナ⁉︎」
友人の呼ぶ声が背後で響いた。
だが、もうふりかえらなかった。
廊下を駆け抜け、階段を飛び降りる。
息が切れても、足を止めるつもりはなかった。
龍宮へ。
閣下のもとへ。
今度こそ、真実を知るために。
「お嬢さん、本当にここでいいんですか?」
運転手がミラー越しにユキナを見た。
「はい。ここで大丈夫です」
ユキナは小さく息をつきながら、外を見つめる。
タクシーの窓越しに広がる景色が、徐々に変わっていった。
高層ビルが連なる都心を抜け、次第に広がる広大な敷地。
やがて、目の前に現れる巨大な壁――総統官邸「龍宮」の分厚い外壁。
まるで要塞のように聳え立ち、その存在感だけで来訪者を威圧する。
(この中に、閣下がいる! お姉さまたちがいる!)
胸が高鳴る。
(もうすぐだ!)
そのとき。
――ドォン!
地響きがした。
「――⁉︎」
視界の先で、龍宮の正門の方向に巨大な爆発が起こった。
赤黒い炎が巻き上がり、爆風が空気を震わせる。
「な、なんだ……⁉︎」
タクシーの運転手が急ブレーキを踏む。
ユキナの体が揺れ、シートベルトが彼女の胸を押さえつけた。
直後。
――ドォン!
再び響く爆発音。
そして――銃声。
パン! パン! パン!
「な、なに……⁉︎」
ユキナの呼吸が乱れる。
心臓がバクバクと鳴り、手が震える。
「――行かなきゃ!」
ユキナはタクシーのドアを開け、飛び出した。
「おい! お嬢さん!」
運転手の叫び声が背後で響いたが、耳に入らなかった。
(――行かなきゃ! 閣下が! わたしのお姉さまたちが!)
彼女は足を全力で動かし、龍宮の正門へと駆けていった。
「おもしろかった!」
「続きが気になる!」
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