第9話:充実した日々
朝の陽光が、大理石の床に柔らかく反射する。
広々としたダイニングテーブルには、四天秘書と総統、そしてユキナが座っていた。
ユキナは、まともに顔を上げられなかった。
昨夜のことを思い出すたび、顔が熱くなる。
閣下に、あんなことを言ってしまったのだ。
(「わたしを……永遠に閣下のものにしてください」なんて……!)
それなのに――
彼は、ユキナを受け入れるどころか、優しくナイトガウンを羽織らせてくれた。
そして、ただ頭を撫でてくれた。
それがどれほどの安心感を与えてくれたか、彼女は言葉にできなかった。
「――ユキナ」
低く、穏やかな声がテーブルの上に響く。
総統の声に、ユキナはピクリと肩を震わせた。
「は、はいっ!」
慌てて顔を上げると、総統はいつもの冷静な表情で彼女を見ていた。
「昨日は、おまえに気をつかわせたな」
静かにそう言う。
(……気をつかわせた?)
ユキナは戸惑いながら、総統を見つめた。
「い……いいえ! そんなことは……!」
焦って言いかけるが、次の瞬間。
四天秘書の視線が、一斉にユキナへと集中した。
ソニアは優雅な仕草で紅茶のカップを持ち上げながらも、その瞳が鋭くユキナを見つめている。
チェルシーはパンを頬張りかけたまま完全にフリーズしていた。
ラァーラは興味深そうにユキナを見つめ、ニヤリと笑っている。
サクヤに至っては、じっと目を細め、無言でユキナを威圧している。
まるで、全員が「説明しなさい」と言わんばかりの表情だった。
ユキナは思わず喉を鳴らした。
そのまま、朝食が進む。
しかし、総統が食事を終え、食堂を去ると──
「――ユキナちゃん?」
ソニアが微笑んだ。
その微笑みが、なぜか怖い。
「えっと……?」
「昨日、閣下となにかあったのかしら?」
ソニアの優しい声に、チェルシーも身を乗り出してきた。
「そうそう! 昨日、閣下と二人きりだったんでしょ⁉︎ なになに⁉︎ なにがあったの⁉︎」
ラァーラもテーブルに肘をつき、ニヤリと笑う。
「まさか、初夜だったとかぁ〜?」
「――っ⁉︎」
ユキナの顔が、一瞬で真っ赤になる。
「ち、ちちちがいます! そ、そんなこと……!」
「じゃあなに?」
サクヤが冷静に問いただす。
(……もう、隠し通せない!)
ユキナは震える声で、昨夜のできごとを正直に語った。
総統の部屋へ行ったこと。
ナイトガウンを脱ぎ、彼に自らを捧げる覚悟を決めたこと。
けれど、総統はそれを拒み、優しくナイトガウンを羽織らせてくれた。
そして――彼は、ユキナに手を出さなかったのだ。
話し終わると、四天秘書たちは静かになった。
沈黙。
長い沈黙。
――その後。
「……え?」
チェルシーが、まばたきをする。
「ちょ……え? ……いやいやいや! 普通、抱くでしょ⁉︎ だってユキナちゃんこんなにかわいいんだよ⁉︎ わたしが男だったら百パー抱くよ⁉︎」
「そうですわね。普通の男性なら、まちがいなく受け入れていたでしょう。でも、閣下は普通の男性ではないですわ……」
ソニアは、どこか感慨深げに呟く。
「やはりね」
サクヤが、腕を組みながら小さく呟く。
「閣下ほど優しい男は、この国にはいないわ」
四天秘書たちは、どこか誇らしげに微笑んでいた。
ユキナは、そんな彼女たちの表情を見て、胸の奥が温かくなるのを感じた。
彼は、本当に優しい人だったんだ。
自分の恐怖を察してくれて、無理に自分のものにしようとしなかった。
(わたし……彼の側にいたい。もっと……ふさわしい存在になりたい!)
ユキナは心の奥で、そっと誓った。
両親に植えつけられた意志が、自らのもので上書きされた瞬間だった。
広々とした総統執務室に、紙の擦れる音が静かに響く。
総統閣下は、分厚い書類の束を手に取り、次々と目を通していた。
ユキナは、その隣で慎重に総統の動きを見つめながら、チェック済みの書類をダブルチェックしていた。
これは昨日から始まった彼女の新たな役割。
総統の補佐として、少しでも役に立つこと。
「――あっ」
ユキナの目が、一瞬、大きく見開かれる。
書類の中の一箇所に微妙な矛盾があった。
恐る恐る、ユキナは総統に声をかけた。
「閣下……ここ……この部分なのですが――」
そう言って指し示す。
総統は、手を止めてユキナの指差す箇所をじっと見つめる。
そして、数秒後――
「……たしかに」
低く、静かな声が執務室に響く。
総統はユキナを直視した。
「助かる」
優しく、穏やかに告げられる言葉。
ユキナの心臓が、ドクン、と高鳴る。
(認められた! 役に立てた!)
ユキナの頬が、ぱっと明るく染まる。
「はいっ!」
嬉しそうに返事をするユキナ。
そんな彼女の成長を、四天秘書は静かに見守っていた。
ソニアは誇らしげに微笑み、ラァーラは「やるじゃなぁ〜い」と軽く頷き、チェルシーは満足げに腕を組む。
しかし――
サクヤだけは、無言だった。
彼女は腕を組んだまま、ユキナをじっと見つめる。
冷静な目で見極めているかのように。
ユキナはそんなサクヤの視線に気づくと、少しだけ背筋を伸ばした。
(まだまだ、これからだ!)
午後の日差しが大きな窓から差し込み、愛人用教室の机の上を淡く照らしていた。
重厚な机の上には、ユキナが解いた論述問題の答案用紙が広げられている。
その向かい側で、サクヤが腕を組みながら、彼女をじっと見ていた。
「できた?」
静かに、しかし鋭い声で問いかける。
「はい!」
ユキナは元気よく返事をした。
彼女の筆跡が踊る答案には、自信に満ちた考察が綴られている。
サクヤはペンを持ち、視線を落としたまましばらく沈黙する。
やがて、細い指で答案の一部を軽く叩きながら言った。
「……悪くないわね。よく学習しているわ」
ユキナの表情が一気に明るくなる。
サクヤからの評価は滅多に得られない。だからこそ、嬉しかった。
だが、次の瞬間――
「でも、まだ甘いところもあるわね」
サクヤは答案の一部分を示しながら、鋭く言葉を続けた。
「たとえば、ここよ。あなたは合州連邦を最初の交渉相手に選んでいるけれど、この場合、まず他の友好国と連携する方がいいわね。合州連邦に話を持っていくのは、その後の方が得策よ」
「はい! ……なるほど……勉強になります!」
ユキナは真剣な眼差しで頷く。
サクヤはそれを見て、一瞬だけ微かに唇を緩めた。
彼女は言葉には出さなかったが、その目は静かに満足していた。
湯気がゆらゆらと立ち上り、広々とした大浴場には心地よい温もりが満ちていた。
浴槽の湯面が静かに揺れ、照明の柔らかな光を反射する。
四天秘書のうち、サクヤを除く三人――ソニア、チェルシー、ラァーラが既に湯に浸かっていた。
ユキナもその輪の中にいる。
リラックスした雰囲気の中で、自然と会話が弾んでいた。
「今日の最高評議会で、外務大臣がまたあの視線を送ってきていましたわね」
呆れたようにため息をつくソニア。
「あー! わかる! あのおじさんマジでキモいよねー!」
チェルシーが無邪気に言い放ち、湯をバシャッと跳ね上げる。
ラァーラはそんな二人のやり取りをくつくつと笑いながら眺め、肩をすくめた。
「ふふっ、それは美人税ってやつよぉ〜。あなたたちが魅力的すぎるのが悪いのよぉ〜」
「はぁ……。これですから閣下以外の殿方は……」
ソニアは髪を後ろにかき上げた。
そのとき、彼女はふとユキナを見て、問いかける。
「そういえば、ユキナちゃん。今日のサクヤの指導、どうでした?」
ユキナは、パッと顔を輝かせる。
「えっと……すごく緊張したんですけど……でも……サクヤお姉さまに、『悪くないわね』って言われたんです!」
誇らしげに胸を張るユキナ。
「おお〜!」
チェルシーが湯の中で両手を上げて喜び、ラァーラも「それはすごいじゃなぁ〜い」と微笑む。
「さすがですわね、ユキナちゃん」
ソニアも優雅に微笑み、彼女の成長を讃えた。
すると――
「調子に乗らないことね」
浴場の入り口から、冷静な声が響いた。
一同がふりむくと、そこにはサクヤの姿があった。
濡れた髪を下げ、ゆっくりと湯へと足を踏み入れる。
「あなたはまだまだ未熟よ。半人前ですらないわ」
冷静な口調で告げる。
ユキナは、一瞬だけ身を竦ませたが、すぐに頷いた。
「はい、サクヤお姉さま! わたし、まだまだ勉強中です!」
素直に受け入れるユキナ。
サクヤはそれを見て、ふっと目を細める。
湯に肩まで浸かると、彼女の表情はいつもとはちがっていた。
険しい目つきでも、冷徹な表情でもない。
――心底リラックスしている、少女のように穏やかな顔。
「はぁ……」
ユキナは思わずじっと見てしまう。
(すごくリラックスしてる……!)
こんな表情のサクヤを見るのは、初めてだった。
(サクヤお姉さまの……別の一面……!)
今まで、彼女はいつも厳しく、完璧で、総統に相応しい愛人としての姿しか見せなかった。
でも今は、ただ温かな湯に浸かり、心からくつろいでいる女性だった。
ユキナは、なんとなく嬉しくなる。
(サクヤお姉さまも、こんなふうにリラックスするんだ……)
その気づきが、ユキナの心を少しだけあたためた。
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