猜疑心の世界
『電話ありがとう、ひさしぶり。もう二年ね』
彼女はいつもそうだ。電話を受ければ、ありがとう。初対面では芯の強さと物腰の柔らかさを兼ね備えていると、それ以外にも言葉に尽くせぬ超然たる魅力を感じさせた。
能動的な性格であるからか、身に受ける行為には怠らず感謝を示す。揺るぎない愛と永遠の幸せを誓い合った日は遥か遠く昔のよう。皮肉にもそう実感させたのは今や忌避に値する存在であるからだ。
それよりまず、訊かねばならない。
「芽依はどうしてる。小学校とか」
『やぶからね。もう寝てるわ。実はあまり順調じゃないの。ちょっと精神的に不安定で、夏休み明けから学校にも行ってなくて』
「担任の先生と話し合ってるか」
『無理させなくてもいいって。芽依はあなたに会いたがってるわ。今、どこに住んでるの? ご実家に電話したけど、妹さんが教えてくれなくて。ねえ、聞いてる? あなた』
「あなた、って呼ぶのはやめてくれ。芽依にまた会いに行くって言っておいてくれ。じゃあな、今から予定あるし、もう切るから」
『ちょっと待ってよ。どこに住んでるのって訊いてるの』
「言う必要は無い」
『じゃあ、今はいいわ。でも、私からの用事を伝えれてない。あのね』
「小説家になれたんだろう? おめでとう。読んだよ、デビュー作」
『本当に?』
歓喜を示す甲高い声だった。結婚した後の生活では、あまり耳にした記憶は無い。
『あなたが読んでくれたの? 嬉しいわ。それで、どうだった?』
「言わなくてもわかるだろう」
『わからないわ。言ってよ。他の誰でもないあななから感想を聞きたいの。読んでくれたなら、どうしてか理由はわかるでしょ?』
どうしてか。何を指し示す意味か明白だ。
元旦那への不満の告発と、それを巧に操り必然的に不貞へと至った。単純明快にしてその程度の内容だ。それでも、主婦層をターゲットにしたプロの編集を加えれば、これはもう需要性の高い商品へと早変わりしてしまうのだろう。
吐き気がした。だが、己の口から出る声は飽くまで平たんだ。
「俺じゃなくて旦那に聞け。それで満足してたんだろう」
『あの人とは半年前に別れたわ』
呆れてしまった。冗談でもないのだろう。それを証明する低い言葉が電話口から続く。
『小説のことしか頭に無い人だったわ。ロマンとか夢とか刺激ばっかり求めて、芽依のことも、懐かない、って育児に努力しようともしないし家族の安定性なんて微塵も考えない』
俺と離婚する前の君とどう違うというんだ。
そう罵ってやりたかったが『ねえ? 聞いてる? あなた、会って話したいの』と二年前とまるで変わらない調子で求められた欣二は、痛む左胸を抑えながら通話を切った。
暗闇で鋭い風音が閃いた。咄嗟の判断で自らが運転してきた軽自動車の裏へと隠れるも、大振りの得物を振るった敵はこの空間の端から端まで見えているかの如くの勢いある足取りで、追撃しようとする。
ギャリン、とコンクリート内壁に接触した凶器から悲鳴があがる。間一髪で回避したが、冗談とは思えぬ殺意に腹底を凍えさせられる。ガレージの人感センサーをOFF状態にしているのだろうか、天井からの光源は期待通りに働かない。少しだけ視界が闇に慣れたところで、この場に一体だけと思しき敵のシルエットが浮かび上がった。
──いや、待て。
別の気配。
事実上、二度の結婚を失敗した元妻。今は、東山美紀との通話を切り、駐めた軽自動車から降りるや、狙っていたかのように照明が落ち、何事かと訝る欣二に対して突然襲撃者が現れたのだ。
もっとも、正体は明明白白。
サンドバッグを盾にする欣二へとゆっくり近づいていく影は、アイスホッケーで使用するフェイスガード付きヘルメットとボディアーマーで身を固め、手には想像したそのまま丈四十センチもある特殊警棒がぶら下げられていた。
そんな全貌を視認してしまえば、正気の沙汰であるのか確信が持てない。日常的な負担及び恨みに精神を蝕まれた彼女が、違法薬物に手を出し、狂気に支配されてしまった可能性が無いわけでもないし、この計画的犯行を遂行するためにわざわざ準備万端としたなら、それはそれで決意は固い。何故ならば、未遂であれど前例は二度もある。
せめてこの場に光を灯さねば、とそう優先順位を固めた欣二はトレーニングスペースからほど近い距離にあるシャワールームへと駆け、ドアを開けてライトの電源スイッチに手を伸ばした。
パッと明かりが点き、ガレージ内にも光が差し込む。矢先、突進する足音がこの空間へと旺盛に響く。
振り返ると同時に跳んで避ける。一秒足らず前まで自分がいたドア面には、警棒による鋭い打撃傷が斜めに走っていた。
フェイスガードの隙間。振り向いた彼女の眼には、人の心と認識できる光は霞んでいるように思える。よく見ると彼女の右手と握る警棒の柄は、粘着テープで固定され、奪われないように策まで講じられている。
「本気か」
返答は無い。
欣二は覚悟を決めて構えた。凶器を持つ相手に対して戦うなど、一介の生活を送る一般人なら経験があるはずもなく、いかなる対応方法をも迷わせる。
殺意が明確である彼女とてまさか、警棒で人を殺傷する術を知り尽くしているわけでもなく、また経験があるわけでもないだろう。せいぜい、この瞬間まで独り寂しく素振りをしていたくらいではないか。まして素人の動きである。なら隙もある。正対するいま『後の先』を狙うよりほか無し。
欣二は半身を切り、左手を大きく前へと伸ばす。
狙い通りだった。その手首へと振りかざした警棒が襲いくる瞬間、すかさず引っ込めた。
警棒の先端が袈裟へと振り切られたと見るや否や一気に踏み込み、その右手を制して同時に足払い一つ、怪我させぬよう配慮を加えて彼女を地面へと引きずり倒す。
それから暴れる彼女の上から馬乗りになって、右手に何重も巻き付けられていた粘着テープをなんとか引き剥がし、警棒を奪い取った。
遠くへと投げ捨てる。
双方怪我無くことが収まったと安堵するも束の間、欣二は自分の顔面へと吹きかけられる霧状の物体に驚いて手で覆うが時すでに遅し、目の中に激痛を覚えて、悲鳴を堪えるまでも追い詰められた。
止め止めなく溢れ出る涙のせいで視界は限りなく狭いが、どうにか確認できた。彼女の手にはどこから出してきたのか、手の平に包み隠せるサイズの防犯スプレーが握られていたのだ。
その時、九割以上遮られた頼りない視界の端で何かが動いた。傍から別の気配が。
彼女から飛び降り地面を転げる。手探りでシャワー室に飛び込み、それからレバーを下ろす。途端に頭上から冷水が降り注がれ、濡れる全身の細胞が萎縮した。飽きず忍び寄ろうとするアイスホッケー姿の人間に叫ぶ。
「田原さん、いい加減にしてください!」
とうとう観念したのか、鼻を鳴らして「冗談よ」と、不貞腐れた声が返ってくる。
辺りを見渡す欣二には、もう一人の存在を確認することができなかった。
「田原さん、一人ですよね」
「そうですけど、他に誰かいたとでも?」
「いや……それで何の御用です」
生前の橋本京介が使用していたという衣服に着替えた欣二は、不機嫌そのまま尋ねる。座るワイドソファーの前には、中身の入ったプロテインシェイカーが置かれていた。まともな服装に着替えた田原澄江も、リグングルームの対面するソファへと腰を委ねる。
「名越さんにちょっとお願いがありまして、直接伝えたかったんですの」
「ここに呼び出す必要性ありましたか」
「前に言ったでしょう? ストレス解消を兼ねていますの。後は、あわよくば」
表面上だけのわかりやすい愛想を振る舞い、遠慮なさらずさあどうぞ、と促してくる泡立つそのプロテインを到底飲む気にもなれず、欣二は僅かにしかめた顔で優雅に足を組む彼女へと非難の眼差しを送る。
九月末の夕刻時、二日前に田原邸宅へと赴くよう命じられて、警戒心を抱きつつ参じたわけであるが、想定通り命を狙われた上に何やら無理難題を押しつけられようとしている。
お願い、という割には友好性の欠片も無い目つきで田原は切り出す。
「十月に開催される産業観光交流センターで行われる地域振興会のフェスティバルで、急遽、協賛企業の一つがイベントに参加できなくて空きが出そうなんです。屋内で並ぶ企業ブースに空きが出ると、スペースがもったいない。大勢の広域住民が足を運びますし」
「出展すればそれだけで利益が出る」
「空いたブーススペースは我々がもらいましたの。急遽の準備で、他に手を上げる企業もいませんでしたし」
「それで、俺に何かしろと?」
「名越さん個人に何か出来るとは思ってはいません。ただね、アイデアが欲しいんです。今回のフェスティバルはハロウィンの演出も加えています。それに合わせて、テーマは変革と銘打っているわけです。そこで、フェスティバルのお手伝いをしたいと希望した名越さんなら打ってつけでしょ?」
「まあ、言いましたけどね」
正直忘れてさえいたのだ。今更とも断れるが、生気の薄い彼女の疲れ眼がこちからから離れようとしない。
「なんでも、テレビ局まで来て生放送されるぐらいでしてね。より完成度を高めておきたいんです。私の身近にいる人物で『変革の権化』といえば名越さんですよね。不倫被害者でこの地で再起をかける。ということで、どうでしょう。何かテーマに沿った出展は考えられないでしょうか?」
無理矢理のこじつけだ。そもそもハロウィーンには『変革』や『再起』など仰々しい志は含まれていない。
しかしここで突発的に、田原のような洗練された容姿の女性が好みそうであり、そのうえテーマにも沿い、でありながらハロウィンイベントに最適と思われるアイデアが不本意にも浮かんでしまった。
欣二は、一秒でも長居したくない思いで話す。
「俺が二年前まで勤めていた化粧品会社に問い合わせてみましょうか。こちら側には直接的な利益が出ないかもしれないですが、出展ブースに商品を出して良いっていえば交渉次第で準備してくれるかもしれないですよ。営業成績がちょっと不振気味な営業担当の友人がいるので、うちの雑貨屋でもコスメ関係を置くとか言って上手く取り込めれば、どうにか準備してくれるかもしれません。あわよくば、ハロウィーンのメイクパフォーマンスをしてくれる人材も出してくれるかも」
それまで、期待もしていないと言わんばかりにまるで感情伴わなかった田原の顔が、パッと輝いた。
「それは良いですね。なるほど、それならハロウィンメイクではなく、通常のメイクパフォーマンスを催してもらっても充分盛り上がるかもしれませんね。私個人も興味がありますわ」
「では、早速、友人に連絡をとってみます。もし交渉上で話が大きくなりそうであれば、当社の名で正式にアポを取り付けて戦略計画を立てましょう。もしあれなら俺も一緒に」
と、言いかけて言葉を止めた。以前、勤めていた会社がある街には、今も元妻と娘が住んでいるのだ。あまり出向きたくもない、と乗り気で無い意思を伝えようとしたが、眼前の田原はその心境をも見抜いたかのように目を細めた。
「では、交渉も名越さんにお願いします」
断るに断れず、それから、早速その場で友人に電話連絡。同期であった酒井友和という友人は、どうやら未だに業務成績に伸び悩んでいたので、欣二の提案に喜んで飛び付いた。
「ブースの設営も屋内の会議室を使うから必要無いし、荷物の運び込みも手伝う。必要な備品はこっちで揃えることができるから、実演販売スタッフを数人用意してくれたら問題無い。後は酒井が好きなように走り回って契約を取れば良い」
『まじでか! 助かるよもう! もう俺、辞めようかと思ってたんだよう!』
実演付きの販売となれば、場を同じくして出展する他企業から多少なりとも注目されるだろうから、営業活動も円滑に進むに違いない。電話向こうの酒井も仕事終わりで疲労が溜まっていただろうに、欣喜雀躍という様子がうかがえた。
『じゃあ、来週待ってるから! 細く計画を立てよう! いやあやっとこれで嫁と課長に顔向けできるよ!』
それで結局、直接顔を合わせて打ち合わせることになったのだ。
通話を切った欣二は、薄いながらも満足気に笑う田原の顔を恐る恐るうかがう。
「上手くいきました」
「名越さん。素早い対応、ありがとうございます」
声も踊っていた。
「そんなに怖がらなくてもいいですよ。あなたに二年間の鬱憤を吐き出して、少しは楽になりましたから」
やはり、勘が鋭い。この状況下でもしや無事に帰宅を許してもらえるとは思ってもいなかったが、まさか明確に言葉にして伝えてくるとは想定外。欣二は目線だけで、部屋端にある仏壇を一瞥した。
「京介の件。私はあなたが悪いとは思っていません。悪いのは、私と私の父親です。嫌いだとも思っていません。でも、あなたが憎いんです。それだけは払拭しがたい感情」
そういうふうに割り切れたんです、と最後に付け加える。目は欣二の身体へ。田原の身体がそわそわと揺れている。
だから、答えを予期してこう尋ねた。
「俺を今日ここに呼んだのは、本当は別の理由があったんじゃないですか」
「ええ、ストレス解消に少し練習がしたくて」
欣二はかぶりを振った。
「田原さん、俺はもう空手を辞めるかもしれません。もう空手を続ける理由がなくなってしまったんですよ。橋本京介さんがいないというだけで、俺の蹴りはもう」
「名越さん。橋本道場の世羅君をご存知で?」
脈絡無い話題に欣二は目をしばたたかせる。
「ああ、高校生の。知っていますよ。大人しそうですが、茶帯で実力もありますね」
「あの子は小学生の頃から苛めをうけて、中学生では不登校になっていたんです。京介の道場で鍛えられて人生に変革をもたらされた一人。あの子には、地域フェスティバルで活躍してもらんです。子供たちを率いて空手の型を披露」
「素晴らしいですね。で、それが?」
「誰かのための空手ではいけないんですか」
返答に戸惑う欣二。真っ直ぐ見つめてくる目線から、逃げる。
「たぶん、道場のみんなは気付いていますよ。俺のやる気の無さをね。だから、田原さん、あなたに教えることもできません」
「教えてくれないなら、それでいいです。それなら、私の拳を受けてください。その胸で。言ったでしょ。ストレス解消なんです。立ってください」
欣二は言われるがまま立ち上がった。拒否する理由も無い。ソファ裏の広いフローリングスペースで裸足になる。仏壇には水子の霊牌が。
眼前に立つ田原澄江が構えをとる。殺気は立ち尽くすだけの欣二にも、充分伝わっていた。
「せいやあっ!」
彼女の裸拳が欣二の分厚い胸へと突き刺さった。踏み込みに連なる体重移動も素晴らしく、まるで無駄の無いフォーム。
「せい!」プリーツスカートをたなびかせ、叩き込む次は左の拳。右、そして左と連続する拳は胸だけではなく、鳩尾、肝臓、更にローキックが内と外の両方へとコンビネーションで休み無く繰り出される。およそ三分、を三回繰り返し、ようやく彼女のスタミナが底を尽きて終わった。
なかなかの打撃力。耐えた欣二の身体も、重い負傷は無いとはいえ、脱げば青アザだらけだろう。
「気持ちが良かったですわ。ありがとうございます。また、来てくださいね。憎しみをぶつけさせていただきますので」
「わかりました。これで満足するなら、また来ます。それと、橋本道場のみんなが田原さんの復帰を望んでいますよ」
息切れで肩を大きく揺らしながらも「くっくっく」と、笑みを広げる彼女は実にご満悦というふうで、聞いてもいない。打たれ続けた欣二に悪寒をもたらせた。
快感に溺れる恍惚とした眼の光で、ぶつぶつと独り言まで漏らしている。
「名越さんは、アドレナリンの分泌を軽視していませんか」
「どういうことです」
「なにをもって楽しいと考えるか。スポーツなんかだと身体を動かすことが、ストレス発散につながるとよく言われますがそうじゃない。競争ですよ。競争の上での勝利。いや、それだけじゃない。敵、そう敵対者があってこその恐怖、それに打ち勝つ耐性、成長の実感、だから対戦者はいつの時代も必要なの。これよ、これが、だから文句は言わせない。私は正しい。正当化? はあ? ふざけんなよ、なにが悪いのよ。私の」
呪詛をとなえる彼女を尻目に、欣二はガレージへ向かおうと踵を返す。
不意に、歓迎会の夜、ワゴン車の荷室で目覚めたあの瞬間が過った。同時にフレームレス眼鏡をかける無表情の女性までも、不快な気分と共に浮き出る。
欣二は足を止めた。場違いと知りつつ口に出す。
「田原さん、不倫をどう思います?」
田原は目の色を変える。
「さあ、私は既婚者でありませんし、今や恋愛も結婚も興味はありませんからわかりませんわ。少なくとも経営者の身でありながら、節操も責任感も無くいたすことではないでしょう。昨今コンプライアンスがどうとか締め付けがうるさいのに、従業員への示しがつきませんわ」
「なるほど、愚問でした」
心から安堵する。
「うれしそうですね、名越さん。まあ、確かに名越さんの不倫の嫌疑は晴れましたがね。でも、どうでしょうかねえ?」
「俺は不倫が嫌いです。不貞行為を悪いと思っているし、嫌いですし、今でも元妻が憎い。だからね、不倫をしている人間を知るとこれまでの関係なんてなかったくらい嫌悪感に染められる」
「当然です。正常な感性ですよ。でも、男女の仲なんて本当に浅はかな理由で始まってしまいますから、引き摺っても仕方がありませんよ。被害者面の不倫される側にも問題はあるでしょうしね」
「そうですね」
皮肉を込めて言った田原にただそう返して、欣二はその場を後にした。ガレージから運転する軽自動車を前に進めさせ帰路につく欣二の頭に、二日前に起こった書店倉庫でのこと模様が蘇る。
確かにあったのだ。四号と呼ばれた不審男性が去り、その後に池浦冴子から感謝の意を示されてから、カフェの業務終了後。慢性的な腰痛に苛まれる寺内惠子と他数人の従業員と共に荷卸し作業及び、書店側建物への商品運搬の途中、期を見計らって池浦から教えられた場所へと真相を追い求めて訪れたのだ。
広々として天井も高い、書物のためだけに建造された倉庫内。欣二はもっとも奥となる一角へと足を進めた。
目当ての空間は、辞書を専門に収納されていた。一際高い本棚は、理由は不明であるが木製の他と比べて真新しい。スチール製の頑丈な棚だ。
その向かいの壁。白色基調のクロスには確かに爪痕らしき線が、三本並んで三十センチほど縦に刻み込まれていた。
次に欣二が注視したのは床板。十センチ幅ある白色ビニールテープが貼られている。爪でこそぎ、捲っていく。古いテープだ、と思った理由は途中で破れてしまったから。その隙間から確かに見えた。
「名越さん、何を……してるんですか?」
しゃがんでいる状態で振り返ると書店ユニフォームのエプロンを着用し、社員証を首に吊るした寺内恵子が通路側に佇んでいた。フレームレス眼鏡を着用しない眼が、心なしかいつもより大きく見開かれている。
「いえ、なんでもないです。ちょっと、なんだろうって気になっただけで」
立ち上がり笑顔でそう返す。血痕はあった。いくら拭き取っても、染みついて取れないといったしつこいう汚れが間違いなくあったのだ。特段、何も言うことはない。ただし、失望はくっきりと自分の中で浮き上がっていた。
「もしかして、山中さんから何か聞きました?」
あらゆる種類の書物が織りなす壁で作られた狭い通路の間、前を向いたままの彼女とすれ違う。
「山中さん? いえ? 何も」
「そうですか」
爪痕、血痕。符合が重なってしまった。それだけでは信じがたい。そう思っていたのに、ついさっき、二つ目すらも重なってしまった。欣二は自分の顔が強張っていることに気付いていた。振り返りはしない。寺内へと。
業務終わりの帰宅時、外灯の光が秋口の夜空を照らす中、欣二は胸のムカつきを抑えつつスタッフ専用駐車場へと向かう。その時、上着として着用していたカーキ色のブルゾンポケットの中で、スマートフォンが震える。
寺内恵子だった。
メッセージにはこうあった。
『今日、よければうちに来ませんか』
断りたいが、迷う。そこで欣二は、拒絶前提にして考慮のこと傾いている自分自身に気づき、独り苦笑いしてしまう。
「なあに独りで笑ってんのお? あ、来週の土曜日、二十時にあたしの家でよろしくね? 飲みに行くの久しぶりだから楽しみい」
かけられた陽気な声に振り向くと、仕事終わりに幼稚園への迎えと食材の買い出しを終えたと思われる池浦冴子と、その手に繋がれる娘だろう幼稚園制服姿の女児が歩み寄ってきていた。
「こんばんは」と、人見知りもせず明るく笑う四歳児。
「こんばんは」欣二も笑って返す。
その時、欣二に直感が芽生えた。池浦はきっと、これまで付き合った男性を、娘に合わせてきたのではないだろうか。母親似の人懐っこさを備えていたとしても、子供ながらに顔色を窺おうとする仕草、並びに機嫌をとろうとする少し不自然な笑顔が印象的だったからだ。
「さあや、このおじさん、今度おうちに連れて行くからねえ?」
「うん! わかった! おじさん、今度あそんでね! バイバイ!」
そんな他愛ないやり取りから「じゃあ、またね」と去って行く二人の背を見送る。
再びスマートフォンに着信が。
『今日はやめておきます。次の水曜日、空手の練習に連れて行ってもらえませんか』
見渡すと少し離れた国道方向へと自転車で走り去っていく、寺内の背姿があったのだった。
「あの、最近あんまり感想をいただけていないんですが、つまらないですかねやっぱり」
「いえ、すみません。借りている本を先に読んでいまして」
橋本道場が入る雑居ビルの駐車場にバックで停めたちょうどそのタイミングで、助手席の寺内恵子が長い沈黙を破った。軽自動車で迎えてから到着した現在時刻は、十七時四十分。秋らしいまばらな薄雲が点在する夜空であろうと、季節柄、暮れゆく早さに辺りはもう色合い寂しい。
不安気な寺内の面持ち。己の秘密を知られ、心配でならないからだろうか。山中の名を突発的に出してしまった自らの失言に悔いているからだろうか、車から降りようとしない寺内は「私、名越さんに変なことを言いましたかね?」と、小さく呟く。
「どうしてですか? 俺の態度が変だとでも?」
「いつもとあきらかに違います。なんだか、固いというか」
「寺内さんを空手の道場に連れてきたのでね。楽しさを伝えるためにも、色々と考えていたんですよ。寺内さんも、そう緊張しなくていいですよ。山中さんもいますし」
「そうですよね。ありがとうございます」
口許を綻ばせる寺内に「どうぞ」と三階の道場へ招き入れる。
道場には子供クラスを指導していた橋本宗介が既に到着していたので、寺内に体験入会の説明をしてもらった。
一般クラスには、角岩と世羅の高校生二人、そして山中文和を含む十名が練習に参加。いわんや山中は、寺内の登場に態度がよそよそしい。
欣二は練習開始時点から寺内に付きっきりで、動きの修正をしつつ模倣させる。
「寺内さんは猫背気味なので、姿勢を真っ直ぐになおしましょう。それで体幹が安定した状態で、突きの時は骨盤を前傾気味にして、蹴りの時は後傾気味に切り替えます。背中とお尻のトレーニングを正しいフォームで積めば、徐々に姿勢矯正されますので家でも試してみてください。腰痛も改善されるはずです」
「わかりました」
「空手の練習中は、押忍、で返事しましょう」
「お、お、おす」
「恥ずかしがらずに、押忍!」
「お……おお、うお、押忍!」
そうして基本稽古、移動稽古、それからミット打ちとつつがなく流れていった。
最後の組手ではレガースのみを装着して、全員と当たる。寺内は当然、壁際での見学で、汗を拭う顔には好奇心に満ちていた。
欣二は順番の回ってきた山中と対峙する。寺内の目線が気になり、どうも集中ができない。
それに加えて、自分の動きにも大きな違和感を持っていた。蹴りが出ない。自分の距離に相手が侵入する瞬間を見計らって、攻撃体勢まで作り上げているのに、ここぞというタイミングで身体が動かないのだ。
山中も茶帯の実力者。橋本京介から指導を受けていたのだから弱いはずがない。
一瞬の躊躇から近距離への接近を許した欣二の腹へ、チャンスを逃さぬ山中の左ボディ、ワンツーからローキック二連打、そして膝蹴りと最後の前蹴りで相手を突き放して反撃を回避、というコンビネーションが叩き込まれた。
ろくに防げず、ただやられるがままで、単純に攻撃を耐えただけの自分が歯痒かった。再び接近された欣二は、インファイトを余儀なくされ、パンチで応戦する。
欣二のパンチはフルコンタクト空手の突きというよりボクシングのそれに似ており、顔面攻撃の距離感を想定して修練されている。蹴り主体でありながら、ミドルレンジを保ちつつ短時間で相手を圧倒する戦略は、かつての師匠から直伝された。
端から見れば、欣二は不得意な戦況に追い込まれて劣勢を強いられていること明白だろう。そんな不甲斐なさに浸食される泥濘のような負の異物が、腹底に這い寄っていたのだ。
組手が終わると山中は普段通りの清々しい笑顔で「押忍! ありがとうございました!」と礼するが、不完全燃焼気味の欣二の様子におかしいとも思ったのか、少し眉根を寄せる仕草もした。
練習が終わった欣二は、こんな日もあるさ、と自分を強引に納得させそれで精神の安定性を保っていた。だが、自信の礎が脆くも崩壊しかけているという恐れも、自覚していたのだった。
蹴れない。ミット打ちや素振りならともかく、人を蹴ろうとすると澱みが発生していたそれに気付いてはいたが、まさか更に悪化しブレーキがかかるとは欠片も予期していなかったのだ。原因はあきらか。他人を死に至らせ、あまつさえその周囲の人を不幸に貶めた自分の蹴りに、強い忌避を感じている。
帰宅の為に軽自動車に乗り込む。すると、後から着いてきていた寺内が「ちょっと待っていてくれませんか」と小走りに離れていった。向かった先には、雑居ビルから出てきたばかりの山中が。
欣二は目を薄めて観察する。
山中の動揺。
背を向けた寺内の顔は見えない。何かを話している。周囲を気にする様子の山中に対して、寺内は十秒間ほどそうしたのち頭を小さく下げていた。
山中の視線そして顔の向きが、欣二の車へ真っ直ぐ向く。車内は暗がりであるから、正確に視認できないだろう。欣二はスマートフォンへ顔を傾けるようにしたままで、目線だけは二人を追っていた。
山中の顔が晴れやかに変化する。「がんばってください!」と響いたあと、慌てる寺内から「声が大きい」と窘められているふうにも見えた。
欣二は一連の状況を目にしてこう考える。
山中も寺内の空手を応援しているのだろうか、或いは最初こそ自分たちの関係性を他者から疑われまいか懸念したのかもしれないが、ここで名越欣二という新しい要因が間に加われば空手道場で円滑に会うことが出来るので、念のために体裁上そう言ったのか。
確定的でもないのに小さな劣情が膨れ上がり、だからか空手を穢された気がした。自分がこんなにも問題解決に苦しみ、能力の喪失危機に瀕しているというのに、と。
角度が僅かに変わり、夜風にボブカットを揺らされ、その隙間に寺内の照れ笑いが覗く。
本能的に重ねた人物はかつての妻、名越美紀。
美紀もまた同じような表情で、名も忘れたあの男と密会して情事に耽っていたのだろうか。
不倫小説を創作する寺内恵子。自分に都合の良い結果を、作品という形で世に送り出した元妻の美紀。
全く同じではないか。感想を求めるところまで、一致する。もっとも、怒りは沸き起こらない。そのような憤懣を抑え込む術は、二年前に身につけているのだから。
山中から離れたご機嫌の様子の寺内が、欣二の待つ軽自動車の助手席に乗り込み、かくしてようやく帰路へとついた。その間、一言も発せぬまま運転操作に集中する。
傍からは奇妙に張り詰めた空気が、見ずとも流れていた。
山中との会話時とは随分と態度が違うものだ。やはりこれも、不倫関係が露見したと、不安なっているのではないか。それならば、せめて楽にしてやろう。自分が空手を辞める、正統な理由になるとも考えた。
二十二時三十分、厚い雲に覆われた上空からは月明かりも少ない。
一層暗さを増した道路に注意を払いつつ、欣二が運転する軽自動車は、寺内家宅へ到着した。
道路際に停車したが、予想通り。
寺内は動かない。
「寺内さん」
「あ、はいっ」
肩を小さく揺らし、咳払いで動揺を誤魔化そうとする寺内。そう見た欣二はハンドルに手を置き、感情の起伏無く続けた。
「大事な話があるんですがね、あの」
「あ、あの、タメ口で。敬語は無しでお願い……します」
寺内は見ていた。だが、欣二は受けるその視線に合わせようともしない。
溜め息を吐く。「寺内さんから借りたあの本、実は俺の元妻が作者なんです」
「え?」
さすがに、意表を衝かれたのだろう。欣二が続ける言葉を待つばかり。
「確かに腹が立つ内容でしたね。あれ、あの作中に出てくる憐れな旦那役は、俺なんですよ。過去の家庭内トラブルに照らし合わせて、不満をぶちまけているんですよ。不愉快極まりないだけで、元妻が何を伝えたいのかもまったく見えない。補完するように繋ぎわせた幸せな頃の思い出だとか、本当に読むのも苦痛でした」
反吐が出る。そんなさもしい言葉だけは、出さずに飲み込む。
「それは……すみませんでした。仮に元奥さんの作品じゃなくても、私ちょっと配慮が足りなかったかもしれないです。最近やっと自分がズレてるんだなって、自覚が出てきて」
「だから、俺はやっぱり不倫小説も不倫自体も嫌いだと実感したんですよ。寺内さんと違って。だから、すみません。もう寺内さんの書いた小説は読みませんし、感想も書きません」
「それなら、あの、私また純愛小説書きます。だったら……読んでもらえますか」
「寺内さんの小説は最近、いろいろな方から読まれるようになりましたよね。もういいんじゃないですか。俺は必要無いですよ」
「いえ、名越さんに読んでもらいたいんです。だって、私は」
微かに空気を震わせる喉の音に、欣二は顔を傾ける。正面から震える眼を見つめていた。
「だって、だ、だ……私は」
「やっぱり寺内さんは、山中さんと不倫してるんじゃないですか?」
「え?」
「前は否定していましたが、続いているんじゃないですか? 言いましたよね。もしそうなら、俺は手伝わないって」
「ふざけないでください。そんなことありえるわけがないでしょう」
以前、否定した際と、一言一句変わらぬ同じ言葉であったというのに、まるで重さが違った。
「私だって、一年前みたいにいつまでも馬鹿じゃないんです。不倫小説にハマったのも確かにそんな経緯があったからかもしれません。でも、どうして」
その声そのものに、切羽詰まった感情が込められている。それでも疑い持つ欣二が言葉発する前に、寺内は目尻を吊り上げて詰め寄る。
「どうしてそんなことを突然言い出すんですか。ありえるわけがないじゃないですか。さっき私が山中さんと話していたから? あれは、確かに今の私の気持ちと方針を、逃げずに伝えました。その上で助言と応援をもらったんです。一つのけじめです」
その目には、涙が満杯にまで溜まっていた。
「違いますよね。その前から私に対する名越さんの目は変わっていたんです。あの日ですよね? 倉庫の仕事を一緒にしている日に、あの場所を何故か見ていて、その後にあなたは、そうだ、あなたは」
涙が流れないように歯を食いしばったのではないだろうか。言葉を切った寺内恵子の両頬は固く強張っていたが、その甲斐虚しく溢れ出た涙によって濡れていく。
欣二は驚いて目を見張る。
「あなたはきっと、私じゃなくて池浦さんの戯れ言を信用したんだ。最低よ」
「それは」
揺るがぬ事実だ。どのようにも言い逃れは出来ない。
「不倫をされて傷付いているってわかってる名越さんに、不倫している人が近づいていきますか? 私がそんな変な人間に見えますか? 私は確かに変な人間ですが、名越さんから見てそんなに? 落ちぶれた人間だと」
底へと溜まっていた黒い猜疑心は、いつの間にか消滅していた。会ったその日から、変わった女性であると印象付けられはしたが、喋ってみれば真面目で朴訥、信条を持ち合わせて目標のために一生懸命突き進む人であった。
田原澄江への罪悪のせいか、蹴れなくなり自信を失っていたせいか、元妻の執筆した小説に強い嫌悪感を抱いたせいか、など他者から影響を受けた要素ばかりが頭を占め、そんな自分が異常だったのだと今さらながら目が醒めたのだ。
「私、勘違いしていました。馬鹿みたい」
寺内は消え入りそうな声で言うと、欣二が反応するより前に助手席から降り、自宅へと駆けていってしまった。