茫漠の世界
橋本宗介は違和感を覚えていた。
最初のうちは、小手試しとして軽めに蹴っているのだろうと、単純に思い込んでいたのだが、いつまで経ってもあの身をすくませる驚異的な威力が両手に持つキックミットに伝わってこないのだ。
亡き兄でさえも信じられない、と言っていたが彼の蹴りには殺意や気迫が微塵も無い。
だからこそ、恐ろしい。
一ミリも微動しない体幹から放たれる初動無しの蹴り脚は、振り上げられたと思いきや、忍び寄るかの如く死角外から襲いかかり、気付けばもう遅いの状態だ。
直撃を受ければ、さしずめ意識が薄れそうな混迷状態の中で聞く、蜂の羽音に似た現象が耳奥に残るだけ。
であるのに、今、彼の繰り出す蹴りからはその要素はおろか、速度までも抜け落ちていた。
橋本宗介の腑に落ちる。
彼は鬼でも悪魔でもない。人の心を持つ常人なのだ。仕方がない現象なのかもしれない。しかし、杞憂はそこにあらず。
彼は気付いているのだろうか。
自身の変化に。
欣二の現生活上に歪みを与える存在、すなわち田原澄江の運転手役並びに、空手指導を行わなくなり、既に二週間が経過。経営業務を担う彼女とは一切顔を合わせていない。
とにかく、不倫の事実も性交渉も無かった。肩にのしかる罪の重さだけは、未だに取り払われはしないが、一抹の不安は消えたのだ。
『Peaceful place for bees』それが、この商業施設『Castle Bee』の中にあるカフェの名称だ。直訳すると、蜂たちのやすらぎ場。
かくして、江崎から申し付けられた異動先のカフェでの業務は、想像よりも遥かに面倒であると、目の前にした直ぐの欣二に憶測させる。
この地に就職して一ヶ月と半分ほど過ぎた今になるまで、一度も訪れる機会がなかったカフェの二階造り建物は、そう珍しくもない煉瓦調の外壁と緑豊かな木鉢が多数添えられる落ち着いた風合いで、雑貨屋と書店の建物に挟まれた細い通りを少し奥まるまで進んだ位置にあった。隠れ家的演出と見られる。
食事時間帯でなくても、まずまずの客入りであるらしいのは、やはり好条件に当てはまる立地だからだろう。
近隣に住宅街や幼稚園、総合病院に市民体育館と施設が多いため昼時は特に利用客が多く、ビルジョイントタイルが敷き詰められた風通しが良い屋外客席に加え、二階席までも埋め尽くされる。
事前に渡された資料の添付写真で知っていたが、内装は木製の丸テーブルとカウンター席、長方形型のテーブルがフローリング床に並び、その数五十五席ある。
オーナーのこだわりでもあるのか、ほぼほとんどがヴィンテージ風の装飾や家具で揃えられており、それにあわせて床、壁、天井の材質にまで拘っているとまで推量できる。天井から数多吊される裸電球の黄光とマッチした雰囲気の店内で、瀟洒な趣だ。
大学生時代に培った喫茶店アルバイトの経験を生かせば容易いものだろうと欣二は括っていたのだが、まるで規模が違うというのだから二の足も踏んで然るべき。
なるほど、まさしく繁忙期は人手が必要となるはず。そうゆるんでいた心に覚悟を刻む。仕入れ作業、ウェイター、清掃、会計、在庫管理に様々な業務に追われそうだ。
その時、背後からリズム感のある足音が連続して聴こえてきた。振り返り見ると、パンプスで石畳床を叩く今風ファッションの女性が、笑顔を滲ませ歩み寄る。
そして、ひょいと手を上げた。
「ああら、キンちゃん。おはよう。今日からよろしく」
朝八時前、既に開店準備へと取り掛っている店前で声をかけられた欣二は、聞き覚えのある声にハッとなる。
「あたし、覚えてる? キンちゃんの歓迎会でいたんだけど、ていうかその前から」
へらへら、と形容すればちょうど当てはまる人懐っこい笑みを、何の臆面もなく顔に広げて歩み寄る女性は、記憶に正しければその明るい言葉のとおり。
「江崎さんからうかがっています。店長の池浦さんですね」
「そうそう、池浦冴子。今日からよろしくねえ。まあじ、たあすかったわあ、男手が今なくてさあ」
崩れた口調でそう言って腰に手を当てると、まだ何も冗談を言っていないのに、彼女は大いに盛り上がる胸をそらして呵呵と笑う。
欣二は、そんなみるいろニットトップス越しに揺れる胸部から、無表情のままついと空へと視線を逸らした。
そして、その角度のまま訝る。
「ん? その前から?」
赤茶髪のゆるふわとしたショートヘアーがよく似合う童顔。笑うとルージュを引いた厚みのある唇が、大きく横に伸びる。
「そうだよ! マジ覚えてない? あたし、高校のとき同じガッコー、ってかクラスだったんだけど? まあ、あんま話してなかったから覚えはないか? ていうか奇遇だよねえ」
「いけうらさえこ、いけうらさえこ」
「覚えてないって顔だねー、わかるー、キンちゃんも変わったからねー。んな逆三角ガタイで、キリっとした顔になってたらこっちも名前聞くまでわっかんないわ。ほら、なよなよだったじゃん? あ、同級生だしタメ口でよろ! あたしは冴子でいいよ」
池浦冴子。セーラー服姿がぼんやり浮かぶ。
「そうか、池浦か。なんとかく思い出したかな。確かなんか、なんにでも首突っ込む系の人だったような」
万年、所謂ギャルという装いで一年生の頃から三年生まで同じクラスだったからか、直接的に関わりは無かったものの、当時の記憶を少し掘り返せた。しかし、常日頃から髪型やらメイクを頻繁に変えていた印象が強いので、今こうして大人の女性らしい姿となって現れると気付き難い。
年齢は欣二と同じ三十で、身長はパンプス込みで百六十足らず、フィット感のある服装で、女性らしいめりはりのある体型が特に目立つ。細いウェストがその上の丘陵を誇張させているわけだ。
そういえば高校時代からひっきりなしに恋人をとっかえひっかえしていたな、とさして興味も無いのに思い出し、それに関連付けて彼女の左手薬指を盗み見た。
指輪は無い。
「じゃあ、仕事教えるから裏から入ってよ。ちなみにあたしが店長だよ、えっへん!」
と、背を向けつつまたもや胸を揺らす。
「ちなみに、バストはエイチカップだよ?」
気になるんでしょう、と肩越しに見せた笑みは実に下卑たものだった。それから裏口扉の鍵を左手に持って、わざとらしく見せる。
「あたしもキンちゃんと同じバツイチだし、恋人もいないからね? 仲良くしよーぜえ」
そんな関係性の薄い再会から、新たな職場の日常が始まるのだった。
「相変わらず寡黙だなあ? まあ、いいよ。あたしは若い頃と違ってそういうの結構好きだけど、お客さんにはしっかり笑顔で応対だぞーう?」
「わかった」
「あとね、夕方くらいになったらしょっちゅうオーナーが来るから、接客態度には注意だよ」
得意気にそう言った彼女は、更衣室の扉前で沈鬱色に顔を染まる欣二に、カフェスタッフ用の制服を押し付けるのだった。
「実は私、山中さんに告白したことがあるんです」
「ほーう」
欣二が住まいとする安アパートの畳部屋に上がり込んだや否や、座布団に正座した寺内惠子は持参のノートパソコンをちゃぶ台上で開く。
何の前触れもなく唐突に振られた話題に、台所で二人分のコーヒーをつくる欣二は顔に出さず当惑した。
先ほど車の中で、池浦冴子のことを知っているか、と質問はしたがたっぷり熟考した様子の末、まさか自身の恋愛遍歴を持ち出してくるとは思いもよらなかった。
カフェでの初日業務の後、帰宅時に寺内惠子と鉢合わせになり、執筆中の小説の相談に乗って欲しいとの要望があったのだ。
引っ越して二ヶ月以上が経過。最初はこまめに掃除に自炊としていたが、食材を大量に買い込んだところで、あっさりと消費期限を越えるし、まず献立を考えることが面倒となる。掃除も一週間に一回。物欲も薄く、部屋内にまず物が限りなく少ない。
これは、自宅で空手練習をするに必要なスペースを確保するが為であるが、実のところ、独り身の寂しさを浮き彫りにさせる要素でもある。
空手道場で数多くの子供たちと接し、共に精進する仲間との空間に至福の日々を送っていれば尚更だ。
そこまでは変わらぬ日常であるのだが、何故か今日に限って「名越さんの部屋を描写したいので、是非」と、半ば強引に押し掛けられたわけである。「じゃあ、中年男性が住む古アパートに人妻が人目に隠れて会いに行く、てことにしましょうか。ドキドキしますね」
「ドキドキしてるようには見えませんがね」
欣二に素っ気なく返されて助手席からじとりと睨む目には、最近心変わりでもあったのか、フレームレス眼鏡が装着されていない。
欣二も来客自体が珍しいので、顔に高揚感を隠しきれない。閑寂とした部屋自体が歓喜する、そんな錯覚に陥る。
そんな他愛ないやり取りを経由しつつ今があるわけで、紙コップに入ったコーヒーが、ちゃぶ台面に二杯分置かれたところである。欣二も寺内を対面にして胡座に座る。
「すみません、客が来るとは想定外でティーカップが無いんです。熱いですよ」
「あ、お構い無く。次は私のマグカップを持ってきますので」
「いやまあ……それで、山中さんの告白? と、池浦になんの関係性が?」
「私、池浦さんが大嫌いなんですよ」
「はあ」
またしても、脈絡の無い方向性へと進みつつある。もはや解せぬ、と半ば諦める欣二を前に、流石の寺内も苦笑いを洩らして真っ当たる説明を始めた。
「二年ほど前に山中さんは結婚をしたわけなんですが、その前から私は山中さんのことが好きでして、たぶん池浦さんもそうでしたし……他にももう一人いて、山中さんが知らない水面下で三つ巴状態だったんです」
容姿は優男でいて、話術に優れ、目端が利き、気遣いも忘れず、笑顔も絶えない爽やかなチーフマネージャーの山中文和のことあってなら、そうした複数の女性に言い寄られてもなんら不思議ではない。
腕組む欣二は得心いった。
「なるほど、山中さんの態度が寺内さんの前になると、妙によそよそしいのは、そういうわけなんですね。てっきり、二人は不倫してるんじゃないかな、なんて」
そう茶化されたところで、寺内は冷めた眼差しで欣二の目を蔑視するのみ。数秒間そうしたのち、鼻を鳴らす。
「ふざけないでください。そんなことありえるわけがないでしょう」
「いや、これは失礼しました。本当にすみません」
素直に深々と頭を下げ、恐る恐る戻した頃には、彼女の様子も元に戻っていた。
「あつっ」
コーヒーを啜り、思いの外の温度に唇を上下交互に噛みしめている。
「熱いって言ったのに。大丈夫ですか? 寺内さんのノートパソコンに、ちょっとこぼれましたけど」
「だ、大丈夫です。それでですね、話しの続きなんですが、私は気持ちも伝えきれないモヤモヤした状態だったんで、今からちょうど一年前くらいに行動を起こしたわけなんですよ。断られましたが、それが理由で、山中さんは今でもよそよそしいわけです」
「一年前って」
信じられないとばかりにじっと凝視された寺内のほうが、今度は根負けして目を逸らす番だった。
欣二がここぞとばかりに無言を貫く。寺内はしばらく、口を開いたり閉めたりとしていたがようやく、弁明の言葉が決まったようで顔を上げた。
「私にとっては、その、初めて好きになった人だったので……どうしようもなく。でも、フラれるってわかっていたので、ギリセーフであって」
「それで?」
「当たり前ですが、後日、正式に断られました」
欣二は唖然と口を開いたまま、暫く固まってしまった。
「やっぱり、私って変ですかね?」
「それは変でしょ。支離滅裂ですよ」
あれだけ、不倫に幸無し、と謳っておいてよくも堂々と同じ空気を吸ってこの場にいられるものだな、とこの時ばかりは彼女の人間性を心底疑ってしまった。
「わ、わかってはいるんです。所謂、黒歴史なんですよ。その、気持ちが止まらなかったんです!」
箍が外れたのか、突然、顔を赤く染めて金切り声を張り上げる寺内惠子に、欣二は苦笑することを否めない。
「山中さんは結婚してますから、ダメでしょう」
「わかっていますよ。今は山中さんにそんな感情ありません」
「本当ですか? 自分を律してくださいよ。山中さんのご家族にも迷惑をかけるんですから」
と窘めながらも欣二は思い出す。確かに山中は、寺内の前に行くと妙に態度が固くなり、要件だけ伝えると直ぐに立ち去ろうとする。しかし、一年も前の事由を下に、大の男がそこまで気にするものだろうか。
妙に釈然としない。
だから、釘を刺すつもりで欣二はこう言う。
「寺内さんが、山中さんとの不倫を望んでいるなら、俺はもう小説の手伝いも感想も言いませんよ」
「わかってますよ」
寺内は赤面のまま落ち着きなく身体を揺する。疑わしい、と白眼視する欣二から、またもや目線を外して彼女は話す。
「それで、二年前の話に戻るんですけど、結局は清楚系でおっとりした今の奥さんが選ばれたわけなんですが」
今度は薄い唇の端を噛み締めた状態で、悔しそうに続ける。
「池浦さんの堂々とした誘惑の仕方といったら。あの乳を山中さんにこすりつけて、私に当てつけるようなイヤラしい目で、同じ敗北者の分際で。あのチャラチャラした感じも凄い嫌なんですよね。あー、虫酸が走る」
「池浦がどんな人かを聞きたかったわけであって、寺内さんの怨念とかコンプレックスとか、ひがみとか妬みは別に」
待ってください、と突き出す手のひらで制した寺内がすっと背筋を正して座り直す。
「ここからが本題です。まあ、それからなんですが、池浦さんは少々尻が軽いかたでしてね。ここ二年くらい、カフェで仕事に入った男性スタッフらに手を出して、とっかえひっかえ。それで前彼、元彼、今彼とか三人がカフェに乗り込んで大乱闘、というのが半年くらい前にありまして。私もこの目で見ましたけど、内装がメチャクチャになってしまって、後日男三人で仲良く弁償していましたよ」
警察も出動し、逮捕者まで出る事件扱いに発展したらしく、なかなかの大騒動だったらしい。
「でも、ことの原因は池浦さんなんです。良くは知りませんけと、同じ職場の男性と軽いノリで付き合って短期間でふっちゃうんだから、そうもなりますよ。節操が無いんですよ」
「うーん、高校の頃もそんな事件があった気がするなあ」
欣二としては同調する発言のつもりであったが、彼女はかえって憮然とした。
「名越さんも同級生だからって甘やかしてたら、食われちゃいますよ? 誰とも結婚も付き合ったりもしないって、私と約束したはずなんで、しっかり守ってくださいよ」
──この人と約束したか?
欣二は、口には出さず表情だけで語った。ノートパソコンのキーボードを叩く寺内には見えてもいないのか、ああそういえば、とおくびにも出さず話をすげかえられる。
「池浦さんは、四歳の娘さんがいるんですよ。三年以上前に離婚したんです。近くに私立幼稚園があるでしょ? あれも、オーナーの息がかかってるんです」
「ということは、母子家庭ですか。娘が一歳なる前に離婚とは、池浦もなかなか大変そうだな」
そこで寺内は、分かりやすいくらい唇を尖らせて欣二を睨んだ。
「いい加減、私に対してもタメ口にしてもらえませんかね。なんか、腹立つんですけど」
理不尽に、そして憤然と鼻息を荒げて。男に限らず人間とは、本能的に初対面者と比べて優劣を抱く感性を常日頃から張り巡りらせている。知性ある者であっても、まず目で見た情報から相手の持つ特異性を、知らず知らず分析していることだろう。
寺内恵子は自分で思っている以上に、女性としてのコンプレックスを抱いているのかもしれない。十代の時代から池浦冴子が女性として、男性側に与えてきた影響の一端を多少なりとも知る欣二でなくとも、寺内が敵視する心理も必然とうかがい知れる。
「ところでこの部屋、何も無いですね。辞書とか無いんですか」
「辞書?」
「ここ、ネット環境が無いんで類義語とか検索できないんですよ。他に本とかでいいんで、ないですか」
と立ち上がった寺内は不躾に辺りをぐるぐる歩き出して、どうしてか欣二の背後でびたりと停止した。
無表情で見下ろす寺内恵子。行動の意味がわからず、呆気にとられて見上げる欣二は首を捻る。
「あ、本といえば。借りていた小説をまだ読んでいなくて」
欣二は四つん這いで襖へ寄り、中に収納した二段しかないカラーボックスから借りていた単行本を取り出した。
「都合の良い不倫小説なんて言われたら、どうも読む気になれなくてね」
と、そこで紙カバーがするりと外れて、表紙があらわになった状態で単行本が畳床に落ちる。
欣二は手を伸ばしかけて固まる。
「どうしました? 名越さん? おーい?」
拾った欣二の耳に、寺内の呼び掛けは届いてはいなかった。言葉を失う。
題名、掬い上げる後悔の蜘蛛糸
作者、なごえみき
配置換えから数日経過し、土日問わずシフト入りするようになった欣二は、朝早く出勤し、屋内外の設備共に隅から隅までの丁寧に清掃する業務から始まり、ウェイターとしてホールの接客まで担う。厨房で軽食を調理するシェフ並びに他スタッフは女性ばかりで、男性は欣二だけという異質な職場環境だった。
であるからして、力仕事のほぼほとんどを欣二が請け負う。
カフェ『Peaceful place for bees』は、モーニングを提供していない。従って、午前九時からの営業開始に向けてスケジュールを組む。
スタッフの制服は男女問わず、上下黒のチノパンとカッターシャツで、上からはセピア色のエプロンを重ね着、と統一されていて、店の雰囲気や装いに沿うデザインとなっている。
当然ではあるが店長の池浦は、欣二含むスタッフへと的確な指示を飛ばし、そのうえで客数がピークに昇る昼時となれば、グリップの利くスニーカーに履き替えて持ち前の機転を生かし自らもそつなく手伝う。
笑顔絶やさぬ池浦が、僅か三十センチほどの近距離から見上げてくる様は、男性側の視点からすれば確かに気持ちも揺るがされるだろう。もとい、盛り上がった胸部を、故意的に誇示している疑いさえある。対象者に脈ありと勘違いさせる効果はおおいにあるが、学生時代からの彼女の性質を知り、また自身の『生涯、恋愛と結婚はしない』方針に照らし合わせた欣二ともすれば鉄壁の精神で受け流すことくらいは容易であった。
「キンちゃん、良く気が利くねえ。さすがさすがあ!」
あるとき、休憩室で他スタッフに軽いストレッチの教えを求められていた欣二は、片手間の会話はどできぬとばかりに、良からぬ思惑をいかにも彷彿とさせる池浦の双眸から、素っ気なく視線を逸らした。
「まあ、喫茶店のアルバイト経験もあるし、慣れたらなんとか」
「なんか冷たあい」
欣二の前へ即座に回り込もうとする池浦には、大学生の女性スタッフも苦笑いである。
それから十六時の夕刻まで汲汲と業務に励み、次いで書店倉庫の積み荷卸しに向かおうと更衣室へ足を運んでいる最中だった。
「キンちゃーん」
甘ったるい猫なで声で呼ばれ、その反作用で渋くなりそうな顔で振り返ると、またもや急接近した池浦の満面たる笑顔があった。
欣二が片眉を上げて、所用であろう内容を彼女に促す。
「ちょいちょい! んーな、無愛想はダメダメ! ほら、さっきお客さん相手してた時みたいにニッコリー?」
池浦が欣二に向かって両口端を指で吊り上げ、無理矢理口角を形作って見せる。
「それでなに? 俺はまだ書店の方の業務があるんだけど」
「あたし、こー見えて店長だからさ、やっぱり新人くんの意見が知りたいわけよう! んだからだから、今度? 懇親会も兼ねて二人で飲みに行こうぜ?」
てへへ、と舌を出し、片目を閉じ、と茶目っ気出す同年代の女性に、三十歳の欣二は冷めた目線を送る。
「池浦とは行きたくない」
「ちょっと、あたしには容赦なくない? 若い女の子スタッフにしか優しくないの? 職権乱用して評価下げてやるわ!」
演技っぽくユニフォームのエプロン裾を噛んで、地団駄踏む池浦。
「どうせ、池浦の男癖の悪さが起因して、今回俺が配置換えになったんだろ? 結婚も恋愛もしない、って歓迎会でも言ったし、周りも知ってるから、たぶん江崎さんは俺なら池浦にかどわかされんだろう、って期待込めてるんだよ。だったら、変な噂立たすわけにもいかんし断る」
「いやいや、違うって! あたしからキンちゃんの異動を要望したの! 確かに騒動のこともあるから、江崎さんもキンちゃんが条件に適してるって思ったんだろうけど。てか、騒動のこと誰に聞いたの?」
そこで池浦は、はっと眉を上げて途端に表情を渋くする。
「さっき書店って……なるほど、そうかあ。あの女。寺内になんか吹き込まれたんじゃないでしょうね? あたしに食べられるとかなんとか! どうよ、言いなさいよ!」
鋭い。図星であったが、欣二は黙秘を貫く。
なるほどこちら側も嫌っているのか、とこれもまた得心した。歓迎会の際も、隣席に寺内が座っていたから、話しかけてこなかったのかもしれない。留まらず、池浦が喚き散らす。
「キンちゃん、あんな女の言うこと聞いちゃダメよ! 寺内は山中さんと不倫してんだから!」
「は?」
「そりゃ確かにあたしは、職場に来た男の子ら何人かと付き合ったけどさ、複数同時になんて不誠実なマネは絶対にしないの!」
「いや、ちょっと待って。寺内さんが山中さんと不倫? 寺内さんが山中さんを好きだったって話は聞いたには聞いたけど、不倫は否定していたぞ。何かの間違いだろ」
「それはそうでしょ。不倫なんて秘密なんだろうから。それに、あの二人、職場で微妙な空気出してるじゃん? 絶対に今も続いてんだって」
「根拠は? 見た人がいるのか」
左右見回し、人影が無いか確認してから、池浦は声をひそめる。
「見た人いるよ。なんとその人によるとよ、本屋の倉庫で、二人が抱き合ってたんだって! こう、裸の山中さんが下で、寺内が上からさチューしてたらしいの!」
眩暈でよろめいた欣二は、思わず通路の壁に手をついてしまう。言うに事欠いて、まさかあの真面目で朴念仁を絵に書いたような寺内惠子が。
──待て。美紀も真面目すぎるくらい真面目だった。
だとしたら、寺内はどのような心境であの不倫小説を渡してきたのだろうか。序盤のみ試しに読んではみたが、前情報通り主人公の体ばかりを描写したご都合展開で、なかなか不快な気分にさせられた。それが、ますます膨れ上がろうとする。
にわか信じ難いが、いつになく真剣な表情の池浦を頭から疑うのも、少々現実味に欠ける。
「本当にあの寺内さんが?」
「本当だって。あたしだって最初は信じられなかったんだけどさ、ほら倉庫内には監視カメラがあるでしょ?」
「二人の行為が映っていたと?」
「違う違う。寺内も倉庫の責任者だから、そんなヘマは踏まないっての。ちょうど、棚の死角に隠れて映らない空間があるらしいの。んでさ、気になってあたし見に行ったの。そしたらその壁紙に、細い爪の引っ掻き傷がついてるの。床には、ちょっとだけ血痕。これ、意味わかるでしょ? あいつ処女を山中さんにあげたかったんでしょ。本当に気持ち悪いわ」
池浦は顔をしかめてそう吐き捨てる。
さずがに驚愕を隠せず、顔を左右に振る欣二。これまで、職場仲間との会話で寺内を話題にしたことがなかったが、まさかここで信憑性のふくむ噂話を聞かされるとは思いもよらなかった。
「それは、皆が知ってるのか」
「まさか。あたし含めて数人くらいよ。だってよ、他のしょうもない男ならいざ知らず、チーフマネージャーの山中さんがヤバい立場になった場合、被害受けるのはあたしらなんだから」
欣二は、懊悩するしかできない。まだ、調べに入る前段階だ。そもそも事実であっても、他人のこと。いずれ諍いを呼ぶに間違いない男女の情事には、踏み込まぬ方が吉と出よう。だが、どうしてもあの寺内恵子のこととなれば、我関せず、としてはいられなかった。当の本人はつい先日、顔色も変えず否定したところなのだから。
そんな困惑する欣二へ、池浦は先ほどと打って変わった笑顔を背伸びして近づける。
「だから、ね? たまには、一緒に飲みにいこーよう。寺内が言う、あたしの悪いイメージを払拭させたいのう。だって、これから一緒に働く仲間なんだよーう?」
「寺内さんから聞いたんだけど、池浦は四歳の娘がいるんだろ? 夜に出かけられないんじゃ」
「あいつそんなことまで」
店長の池浦は通常、月曜日から金曜日出勤で、八時から十八時まで勤務。その直後に、急ぎ幼稚園へ娘の迎えに走る。
そのような多忙である毎日を送っているのに、常日頃から明るく振る舞い、一方で細かく衛生面への配慮を忘れず、消耗品の在庫から発注管理、経常利益の報告書類作成、新メニューの考案、役職ミーティングの参加に部下への指導も怠らないというのだから、独り身で時間に余裕ある欣二からして感服といえる。
であるからして「今度ね、実家から両親が遊びに来るの。で、娘のお世話してもらう約束してるからその間に、ね? キンちゃんの次の休みを土日に無理矢理合わせたから、ね? あたしも育児と仕事でがんばってるからおねがーい! 同郷の人間同士、昔の話に華をさかせようようー」と、しなだれかかる要素を抜きにすれば、承諾の余地有り。
「わかったよ。たまには、居酒屋もいいかな」
「いよっしゃ! きいーまりー! いやっはっはあ!」
胸を揺らして無邪気に跳ねる様は、とても三十歳には見えない。
高校生当時を思えばお互いが興味も無く接しようともしなかったのに、年齢を重ねていざこうして故郷から遠く離れた地で遭遇した今、距離感は不思議と変わるものだなと、そう欣二が感慨深く目を細めた時だった。
「あれ? どしたの、ゆきちゃん?」
「店長、四号が入りました! さっそく、難癖つけて責任者出せって」
厨房の裏口から従業員専用通路へ飛び出てきた女性スタッフは血相を変え、けれども飽くまで囁き声にまで抑えて言う。
欣二は意味を理解できなかった。だが、途端にご機嫌顔から血の気が引く池浦を見て、ただ事ではないと気を引き締める。
「四号って?」
「ヤバい客がここ一ヶ月の間で頻繁に来るのよ。ごめん、キンちゃん。女性スタッフは、恐がってまともな対応ができないの。お願い」
「わかった。まかせとけ」
「ありがとう、キンちゃん!」
ゆきちゃん、と呼ばれた女性スタッフが控えめに「フレーフレー」と称える横を過ぎて、厨房側の扉を開く。欣二も接客トラブルくらいなら、大学生アルバイト時代に経験済みだ。特に慌てず、時間帯的に空きが多い客用テーブル席を見渡す。その瞬間、視界へ飛び込んできた様相に欣二は顔を強張らせていた。
カウンターから離れた窓際のブース席前。秋明けで肌寒い季節にも関わらず、半袖シャツを肩まで捲り上げた偉丈夫と、オーナーの田原澄江が、正面きって互いに睨みを利かせていたのだ。直ぐ傍らには、トレイを胸に抱いて怯え固まる女性スタッフがうずくまっていた。フローリング床は割れたグラスの破片が散乱し、水浸しになっている。つらなり、男のシャツから下までも濡れていた。
欣二は素早くカウンターから表に出る。立ち尽くす他客をやんわり押し退けつつ前に出て、ざっと現状を確認した。
「なんだよ、あんたは」
「私がここの責任者だと言ってるのよ。聞こえなかったかしら」
低い声で凄味を利かす身の丈百八十越えの男から、上背込みで覆い被さるように見下ろされているというのに、サングラスをかけた田原は微塵も憶さず鼻先で嘲笑の音を鳴らす。
「だから、言いたいことがあるなら私に言いなさい」
「俺は店長を呼べ、って言ったんだよ。どこに目えつけて歩いてんのか知らんがな、客に冷や水かけといて店長が出てこないってのはおかしいだろう」
「だから、店長より立場が上の私が、話を聞くと言っているんです。先ほどうちの従業員が失礼したそうですが、私にはあなたからぶつかりにいったようにしか見えませんでしたがね」
田原澄江が指差す先には、彼女自身が客として利用していたと思われるカウンター席がある。紅茶でも嗜んでいたのか、ティーカップからはまだ湯気が立ち上っていた。
「言いがかりもほどほどにしとけよ」
「これが初めてではありませんよね。監視カメラでことの状況は撮影されているんですよ。証拠画像を挙げて弁護士に相談致しましょうか?」
「んだとこら」
元々厳めしい顔を更に高圧的に歪めて詰め寄る男は、田原が着用するブラウスの胸襟へと手を伸ばしていた。
だが、間に割って入った欣二に妨げられる。
「お客様、落ち着いてください」
「なんだ、次はお前か?」
憤怒で暴走しているかと思いきや、すわ欣二の顔を見るや男は鑑定するかのような目付きで凝視し、それから数歩退く。年齢はおそらく三十前後。頭髪は短く、体格は欣二より一回り大きい。確かに一般女性が怒鳴りつけられたら、畏縮してしまい一溜まりもないだろう。威圧だけで他人を屈服させる眼力も備わっている。
そんな偉丈夫が欣二を見るや、勢いをゆるめたのだ。
厚い唇を重たげに開く。
「あんた、最近この店に入ったのか? 見ない顔だな」
「そうですが、何か?」
「その手、腕」
無表情を保つ男は視線を、欣二の手の甲、手首、肘付近まで袖を捲り露出した前腕へと走らせた。
「あんた格闘技やってんのか」と舌打ちして背中を向ける。「あの女」
「次に来て、同じトラブルを起こすならこちらも黙ってはいませんよ」
欣二の背後から踏み出た田原が、毅然と言い放つ。
「ああ、いいよ。悪かったな。もう来ないよ」
心からの謝罪という態度でもなく、手をひらひら振って屋外に出た男は、どこ吹く風というふうで分厚い肩を大きく揺らして去っていった。
その姿が消えるまで油断無く注視していた欣二は、フローリング床に揺れ落ちる田原澄江の腰を咄嗟に支える。
「こ、こわかったああ」
声も肩も、サングラスの奥にある眼球までも小さく震えている。そんな田原の目とあったや否や、欣二は支える手を振り払われた。
「助けてくれなんて言っていませんが。邪魔しないでくれます?」
「これは失礼しました」
頭を下げたまま、田原から一歩引く欣二。
元妻、美紀との出逢いが、脳裏に甦っていた。
──あいつも強情だったから。
欣二は踵を返し、未だに崩れ落ちて立てない女性スタッフへ手を貸して「もう大丈夫」と励ます。
「あ、あ、ああ、ありがとう、ごご、ございます」
震えからか、まだ言葉がまともに出せていない。
「後は、俺が片付けておくから。お客様方、大変失礼致しました」
スタッフの女性は涙目を手の甲で隠しつつ、控室側へとよたよたと姿を消していった。
唖然とする周囲にも頭を下げて、掃除道具を取りに裏口へ向かいかけた時。
「待ちなさい」
命令した田原が、毫も迷わぬ足取りで、振り向いた欣二へと歩み寄る。
「明後日の夜、二十時に私の家に必ず来なさい。わかったわね」
そう耳打ちしたのち、カードで会計を済ませた彼女は、足早にこの場を立ち去ってしまったのだった。
先ほどまで怯みもしなかった欣二が、渋面する様を見ずして。