双極の世界
田原澄江いわく、明日の朝にでも夫が帰国する。一ヶ月前、初対面から数時間経たずして関係を持ってしまった彼女との不倫行為は、当然許されるべきではないと自戒している。よしんば、なし崩し的にであったとしてもそれが事実であるなら、釈明と謝罪を、誠意込めて行うべきである。
だが、隠匿すべきであると主張する田原澄江の立場を考慮する必要もあるし、一方で計り知れない算段まであるとも彼女の行動から散見される。果たして、欲情のみが理由の肉体的邂逅は事実であったのか。
今はしかし眼前にある戦いへと向けて、憂慮を打ち消すべき。
欣二は頭上の建物を見上げた。肩から提げる愛用のボストンバッグの中には、スポーツ飲料とタオル、それから勿論のこと空手着と使い古したレッグガードとグローブのみ。非常にシンプルだ。極めて平静を保っていた。本来なら手土産の一つでも持参すべきだろうが、赴いた先は飽くまで空手道場。
中量級日本王者を輩出した名高い空手道場である。大きな組織団体に属した支部道場とは違い、個人で創設した道場であるのに日本トップクラスの実績を冠するとは非常に珍しく、また名誉あることだ。
当然ではあるが、事前に調べていた橋本空手道場の位置情報と、親切にも山中が教えてくれた住所は一致していた。名越欣二が勤務地とする商業施設集合体より五キロほど北部に位置する雑居ビル内で一部のフロアを借り、月曜日、水曜日、土曜日と稽古を執り行っているらしい。
辺り一帯、一般的な住居は田畑の間にポツポツとある程度で限りなく少なく、夜遅くまで稽古を行うには最適とされる場所だ。周辺住民への配慮を持って立地条件を選んだのだろう。
広くはない駐車スペースに軽自動車を置いて、外に出る。十九時半でもまばらに埋まる自動車の影をざっと眺め、それから欣二は聴覚を澄ませた。
多数の子供とおぼしき元気よい声が、深い夜の秋風によって微かに届く。「はしもとせんせい! れんしゅーありがとーございましたー」
車体に寄りかかり、見上げる三階の横に並ぶ窓のみから、煌々と光が漏れる。
ややあって建物裏口になる扉から、清々しい笑顔の子供たちがどやどやと溢れ出た。保護者に手を繋がれる幼稚園児くらいから、小学生低学年までの子供たちばかりでその数、四十人超えという盛況っぷりだ。
そんな微笑ましい光景に、欣二は目を細めた。数年前までは、自分も子供たちの練習を受け持っていたのだ、とちょっとした対抗心が騒ぐが、今だけは余計なことを考えぬよう抑え込む。
それでも結婚生活の間に、娘の芽依にも体験させたかったと胸がチリチリと燻る。
「おとうさん、きょうもからてたのしかった?」
目を閉じれば、寝ずに帰りを待っていた風呂上がりの娘が、幻となって目蓋裏に浮き上がる。
純粋な戦いに異物は不要。この先、どのような不都合な事由が降りかかろうが、空手に心身と時間を費やすためなら、家族はもちろん恋人などという関係性の人間は二度とつくらない。そう決めたはず。
ゆくゆくは空手ができぬ身体や年齢になり、熱意に相当する人生から転落するだろうが、その時が訪れても決して後悔はしない。
「名越さん、お待たせいたしました」
足音から気づいてはいたが、目の前にはやはり愛想を忘れない山中文和が、茶帯を腰に巻いた空手着姿で歩み寄っていた。彼は鼻から冷え込む夜風を吸い込み、一拍置いてから嬉しそうに口を開いた。
「わたくし……いや、俺からも先生には伝えておりますので、本日はよろしくお願いいたします。押忍」
「よろしくお願い致します。押忍」
業務で接する際とはあきらかに雰囲気の違う山中の背について、欣二は建物内部に入り、それから照明の光が薄暗いコンクリート製の階段を登って想定通り練習場があるとおぼしき三階へとたどり着いた。
練習場となる部屋前には、既に十数人の大人サイズの下履が下駄箱に隙間無く揃え置かれており、それだけでも本日のイベントが待ちかねての最重要課題であると推測できる。
欣二は特に緊張も無く「こんばんは、本日はよろしくお願いします。押忍」と落ち着き払った声で一礼して入室した。
三十六畳ほどの、元は大会議室として使用されていたらしい大広間内には、各々で準備運動をしていた道場生がやはり十数人いた。年齢は高校生から四十過ぎまでまばらで、およそ二十代とおぼしき女性も中に数人と混じる。
そこには、アルバイトで入ったばかりの例の高校生二人も紛れていた。彼らは欣二の顔を見るや、揃って立ち上がった。興奮気味に肩を揺らす角岩武と、それとは対極的に静かな佇まいの世羅聡。二人共が茶帯で、金糸の名を刺繍している。
見渡す。「押忍、代表の橋本先生はいらっしゃいますか」欣二が厳かに言うと、中から一人の男性が進み出る。確かに、その精悍な顔付きには見覚えがあったがしかし。
「初めまして、はしもとそうすけ、です。橋本道場代表、橋本京介の弟です」
黒帯には銀糸で『橋本宗介 二段』とある。
納得する。身の丈、体格、顔形、目付き、立ち姿までの全てが二年前の試合会場で目にした彼と酷似していたのだ。としたところで、当然の疑問を口にしようとした欣二は、意図したタイミングで、押忍、と遮られた。
「本日はわざわざ足を運んでいただきありがとうございます。橋本京介は仕事の関係で遅れて到着しますので、ここはとりあえず練習に参加していただけないでしょうか。その後にできれば、前々回中量級日本二位の名越選手へ折り入って、そして無礼を承知の上でのお願いをしたいのです。兄の前に、是非俺と手合わせを」
肩越しに振り向くと、橋本宗介から目配せを受けた山中が申し訳なさそうに目線を逸らす。
「名越さん、どうかここは、お願いできないでしょうか」
「もちろんです。そのつもりでここに来させてもらったことには間違いないので、お受けいたしましょう。橋本宗介さん、あなたとも勝負します」
「ありがとうございます、押忍」
拍子抜けということはない。想定外の事態を前にして、むしろ集中力が高まる。橋本京介との対戦を事前にイメージして赴いたが、その弟といえど戦法はまるで霧の中というのだから、これには手を合わせてみないことには実力自体が推し量れない。
青色のジョイントマット床に尻をつけて開脚ストレッチをしていると、場違いといえるほど目を輝かす角岩武が四つん這いで素早く寄って来た。
「押忍押忍押忍! いやあすげえっす! まさか、名越さんがここに来てくださるなんてもう本当に夢のようっていうか、まず握手させてくださいありがとうございますいやっほい! 超最高っす、んもうこの日のことをどれだけ待ち望んでいたかというとそりゃもう、一日千秋とはよく言ったもんですよ押忍押忍押忍! あ、素振り練習すんですか? ちょっと動画撮らせてください! うおおお! いい! いいですよ! カメラ目線おねしゃーす!」
「武! 失礼だろ、やめなさい!」
「ああん!」
背後から山中にスマートフォンを取り上げられてしまう角岩。そんなやり取りのおかげで、少し場の空気が和やかになった。
それから橋本宗介の号令により、稽古開始。
道場生が整列する中、欣二だけは体験練習者の立場であるので最後尾に位置して並ぶ。
まずは、基本練習からということで、三戦立ちからの中段正拳突きに始まり、顎打ち、上段突き、回し打ち、手刀側頭打ち、手刀背刀打ち、手刀脾臓打ち、騎馬立ちからの肘打ち、肘振り上げ、貫手、上段受けから中段、下段受け、等々の技を各二十回こなしていく。
それから更に蹴り技へと移行。総勢の口から発せられる気合い、技を繰り出す度に飛び散る汗飛沫、空手への熱意込める皆の真剣な眼差しが、欣二の感覚を真に呼び戻そうとしていた。
続いてミット打ち練習が始まり、三分置きに代わる代わる交代して技を受ける。山中が両腕に装着するキックミットは、経年の使用で表面だけは褪せて薄くなっているが、造りはしっかりしていて厚みもある為、そう簡単にはダメージを通さない。
欣二は当て感覚をただ養うためだけに軽く、それでいて早く、しかし正確な軌道で突きや蹴りを放つ。
リズミカルな打撃音が他を圧倒して、一層大きく鳴り響く。橋本宗介からじっと観察されていようがお構い無く、得意技のハイキックまでも惜しみなく放ち、徐々にその速度を上げていった。それでも五割の能力発揮といったところ。
ただし、ミットの持ち手を担う山中は、さながら戦々恐々とした様子で、あまつさえ引け腰になっていた。
黒帯の橋本宗介以外は色帯ということで、それでも茶帯率は多いということはそれなりに実力有りと道場代表者に認められた者ばかりなのだろう。練習の締めとしてライトコンタクト形式をとるスパーリングが行われる際でも、欣二は相手に申し分無しとして山中や角岩、そして世羅、他の茶帯道場生らと互角以上に渡り合い、それから程よく体温が上昇した頃合いに本日の稽古は終了した。
「では、よろしいでしょうか。名越さんの準備が出来次第」
「わかりました。いつでもどうぞ」
とは言ったものの、橋本宗介の問いかけに了承した欣二は、飽くまで稽古場の勝負という状況とルールに、今更ながら曖昧さを感じた。審判は双方の間に立つ山中が担うようではあるが、僅差の勝敗は優勢かどうかの判断で決まる。となると、他者に判定を委ねるのではなく、確実に一本勝ちを奪い取る必要があるだろう。
負けたところで死ぬわけでもないし、空手を辞める必要があるわけでもない。しかし、橋本宗介に勝利してこそ橋本京介と戦えるのではないかと、緊迫感に染められた思考内で漠然と決めつけていた。
ライトスパーリング中に装着していたグローブとレッグガードを外した欣二と橋本宗介は、道着以外を身に付けていない素手素足である。二人は、二メートルの距離を開けて稽古場の中心に立つ。壁際にはこの場にいる全ての練習生が並んで正座し、重々しい表情で見守っていた。
数センチ透かして開けられた腰高さの窓の方へと、熱気のこもった空気が逃げていく。静寂が落ちる。
「試合時間は、三分三ラウンドです。構えて」
喉を鳴らす山中の声は震えていた。
右利きの欣二はオーソドックススタイルで、正対する相手へと大きく左腕を伸ばし、右手は丹田に沿わす。後ろに引く右足へと七割の体重を預ける後屈構えで、懐に入ろうとする相手を牽制し、そして強引に飛び込もうものなら得てして迎撃する。インファイトには部が悪いが、蹴りの距離を精密に測るには適している。
すなわち、対橋本京介撃墜戦法である。
対する左利きの橋本宗介は、さながら古い幽霊像を想起させる手の形。体重は体幹の中心部。数ミリ分だけ踵を浮かせた機動性に適した構えだ。蹴りも突きにも適応できるが、一撃必殺を矜恃とする兄の京介とはスタイルに差異があるようだ。
「始め!」
山中の合図で始まり、緊迫していた空気は破かれた。
欣二は動かなかった。自分の周りにあたかも目に見えぬ結界を張る。
その効果は、対面する橋本宗介にも嫌というほど伝わっただろう。彼は蹴りの届く距離には入り込まず、側面へと回り込もうとする。
フルコンタクト空手といえば、インファイトでの激しい打ち合いが特色であるのだが、まるで刀で斬り合うかのようなこの戦況を、周囲の見物者は息を飲んで見守っていた。
橋本宗介が動いた。目線のみ動かし、身体は微動せぬ欣二の開いた右半身へと、一気に距離を詰めたのだ。
最速最短である右のローキックが、欣二の右股内側を襲う、がしかし被弾することはなかった。
相手の下段蹴りを透かした欣二の右足は、すうと浮き上がりその動作のまま横蹴りへと変化する。咄嗟に上げた橋本宗介のガードへと接触するが、その威力は軽く、実質の意味は次なる決定打につなげるジャブと同じ。
蹴りのワンツーと云える左のハイキックへと繋げられた足の甲は大外を経由して、死角から橋本宗介の後頭部へと襲いかかった。
ブウン、と振り抜かれた蹴り。ダッキングで紙一重にかわした橋本宗介からの、上下散らしたコンビネーションが唸る。
コンパクトな左の内ローキック。流れる動作で、ボディへの正拳三連打が放たれ、欣二の腹に叩き込まれた。凄まじい圧力だった。
ぐっと堪えて一足分さがる。次なる流れを汲んだからだ。相手の踏み込み、体重移動、殺気、挙動で瞬時に感知した。
橋本宗介の左の正拳突き。
既視感。欣二は恐怖を打破する。
古典的な回し受けで弾き返すと、体さばき込みの一連の動作で、相手の体幹を受け流す。
身体が泳いだ橋本宗介は、観戦者と同じく驚愕していた。
これぞ、橋本京介の正拳突きを想定して用意した迎撃殺法である。
とはいえ、サウスポースタイルから打ち放たれたる正拳の威力は強烈無比。いなしきれず、防いだ手首は悲鳴をあげていた。
それでも、体勢が崩れた相手の隙を逃さず、欣二はここぞとばかりに、お釣りの膝蹴りを腹部へと突き刺す。カウンターを受けて思わず退く橋本宗介へと、追撃の右跳び膝蹴り。
この衝撃を相殺しきれず退けぞって避けてしまう頭部へと、絶好の機を見逃さない欣二の必殺右ハイキックを振り放たれていた。
弧を描く。橋本宗介の左腕を上げた強固な上段受けへと直撃、その上から勢い殺さず、体重を乗せ切った右脚はマサカリのごとく薙ぎ払われる。
おおお、と練習生から驚嘆が広がった。
橋本宗介は身に受けた衝撃に耐えきれず、吹き飛ばされたのち、受け身も取れないままジョイントマット床へと叩きつけられていた。息切れしながらも残心を取る欣二へとすかさず見上げる彼の目は白黒としており、それだけでも焦点が正常に機能していないこと明明白白であった。
ものの一分足らずの決着だった。足腰がいうことを効かないのか、数度立ち上がろうと試みたようだったが、橋本は力抜けた苦笑いを浮かべて脱力する。
「さすがスズメバチ欣二。参りました。俺の負けです」
へたり込んでしまった橋本宗介は、首を振って素直に敗北を認めた。
「ブランクがあると聞いていましたが、まさかこれほどの蹴りとは」
「いえ、とんでもないです。というかスズメバチ?」
周りを囲う道場練習生は感嘆を漏らすのみで、騒がしい印象しかない角岩ですら目を丸くして黙りこくってしまっている。しかし、欣二にとって本当の意味での戦いはこれからだ。パンチの連打を受けた腹部には然ほどのダメージは残っていない。この後に現れるであろう橋本京介戦も、さして問題無く続けられそうだ。
ふと時刻が気になり、頭を傾けた。壁がけのアナログ時計はそろそろ二十二時を指そうとしている。
「橋本京介さんは、何時ごろにここへ」
欣二はその言葉を、切るにしようない状況を目の当たりにする。よしんば、結果が違っても同様の現象が発生したのだろうか──
「え?」
バランス感覚の回復した橋本宗介に続き、山中文和や角岩武、世羅聡に他道場生男性女性問わずが、腰から直角に身体を傾けていたのだ。当惑する欣二に対して。
戦闘態勢のままの頭では意味がわからず、辺りを見渡すだけで欣二は返す言葉が見つからない。
「騙してすみませんでした。どうか許してください」
橋本宗介の鎮痛な声。ゆっくり上げたその顔にはもはや、先ほどまでの覇気は微塵も無い。
「兄の橋本京介は、二年前に他界しました」
「は? たかい? 亡くなったということですか?」
「そうです。二年前の夏です。あなたと戦ったあの夏の試合から二日後でした」
声を出せなくなる。
「くも膜下出血でした。試合の後に精密検査を受けていなかったのが、今でも悔やまれます。助かっていたはずなのに……」
きつく押しつぶした橋本宗介の目蓋の端からは、涙が溢れて流れていた。
「そんなまさか、俺の蹴りが原因で?」
欣二はかろうじてそう漏らした。
視界の端で山中の頭が、がくりと垂れ下がった。震える声で言う。
「今見たようなあんな強烈な蹴りを、何度も何度も繰り返して頭に受けていれば当然ですよ。それでも倒れられない理由があったんです。病院にも行けない理由があったんです。本当は縛ってでも連れていくべきでしたが本人は、俺は元気だって、強情で。俺たちも京介さんの事情を知っていたから」
決勝戦で敗戦の後に心肺停止に陥り、死戦を彷徨った自分の危機的状況までもが、脳裏から吹き出て胸にまで覆いかぶさっていく。目を覚ましてからの耐え難くも実感した敗北が忘れられず、屈辱にまみれたあの夏、対戦相手の橋本京介は中量級日本一を勝ち取り、そして自分は空手界から遠ざかっていった。
だから、知らなくても当然。左の胸に楔が如く何度も繰り返し打ち込まれた正拳突きに苦しめられる毎日を、あの夏から送っていたがまさか橋本京介はそれ以上の負荷に蝕まれ、死に至っていたとは思いもよらなかったのだ。
「名越さんが空手を辞められたと知ったのは、その一ヶ月ほどあとでした。あなたの師匠に電話した時に、教えられたのです。家庭の事情で空手を辞めなくてはいけなくなった、と。あれから二年、どうしても俺たちの中で消えない葛藤がありまして、だから二年経った今」
山中は言葉を切った。
欣二が納得した。震える喉から絞り出す声にはもう、聞き取れるほどの大きさもなかった。
「師範に呼び出されたのはそう言うことか」
全て知っていた上で、再就職先まで紹介したということだ。
濡れた頬を厚い手の平で拭いとった橋本が、決心したとばかりに眼光を強め、力強く語り始める。
「名越さん。俺は兄を失いましたが、名越さんに憎しみや恨みがあるわけではありません。ここにいる皆も同じです。ただどうしても、手合わせさせていただくしかケジメの付け方がわからなかったのです。うちの道場生も皆がそれで納得してくれました。勝敗の結果はどうあれ、その群を抜いた凄まじい蹴りを目の前で見て、体感したかった。それに兄は打ち勝って優勝した。兄が最後に経験した空手、兄が初めて恐怖したその蹴りを教わることで我々空手家は、橋本道場代表橋本京介への弔いとしたかったんです。兄はあなたの蹴りを受けたあと、なんと言っていたか」
そこで、橋本宗介の言葉が詰まる。嗚咽がしばらく続いた。
いたたまれず、欣二が引き継ぐ。
「それは、俺をこの道場で」
「この街に空手道場は、橋本道場一つ限りです。ここで練習をして、子供達にもここにいる皆にも、技を教えて欲しいんです。俺からも兄の技を少しでも、名越さんに伝えられるように努力します」
ここで切った橋本宗介は、大きく息を吸ってから周りを囲む道場生へと目配せした。
「よろしくお願いします! 押忍!」
「よろしくお願いします! 押忍!」
他練習生全員が倣って、気合と共に決意を同じくした。
「この名越欣二、橋本道場の門下に入らせていただきます。押忍」
十字に両腕を切り、意思を示した欣二だったが、その一方、着地しきれない気持ちを残していたことは無論言うまでもない。
考えようとしても考えはまとまり切れない。どのような感情でこの状況に身を置くべきなのか。そして目標を失った今、この先どのような意気込みで生きていくべきなのか。彼らの師匠の死因に直接関わる自分が、本当に空手で関わっていくべきなのか。
涙ながら訴える彼らを前に宣言したこの後に及んでも、頭の中で絶えず巡り巡っていた。
軽自動車でアパートへと帰ってくる際も、まるで道順を覚えていない。帰宅した後にドアの施錠をしただろうか、風呂に入った時には頭髪にシャンプーをつけただろうか、畳床に一枚の布団を敷いて寝床に着く前に歯を磨いただろうか、そのような微細な事柄までもが混沌とした脳内に参戦する。
暗闇に幕を下ろした安アパートの一室で、仰向けに寝た欣二は目を開いて、ただ冴えた思考に身を任せる。靄靄する原因は突き止めていた。周囲はあれで納得し、決着をつけたつもりだろうが、当の自分は隠されていた真実を突然知らされて混乱しているのだ。
二年前、橋本京介は既に死んでいた。
その現実を、どうしても受け止め切れない。
欣二はスマートフォンで例の動画を開く。
──あの時、いったい何度蹴りを当てて、何度正拳突きを食らったのか。
再生ボタンをタップしたはいいものの、動画を観る気にもなれず、試合会場のざわめき音だけが漏れ出るスマートフォンを枕元へと投げ出してしまった。最早、意味の無い行為だ。今となっては、よく知る戦いの結末も、その後に訪れる大声援も、全てが現在の自分を奮い立たせる要因にはなり得ない。
目蓋を閉じればこの世から消えた橋本京介の顔が浮かび上がり、自分が繰り出す蹴りを縫って、今や畏敬の念すらある正拳を突き放つのだ。
かの二年前の瞬間こそを再び、と今日期待して馳せ参じ、挑んだというのに──やりきれない。
スマートフォンからは中量級決勝戦へと向けて、場内アナウンスがなされる。名越欣二、橋本京介両選手の名が呼ばれて、観客席からは声援が飛びかっていた。
なかなか試合が始まらない。
そういえば以前はスワイプして本戦開始まで動画を早送りしたのだったと、スマートフォンを手に取る。
その時だった。
『こっちこっち! いそいでいそいで、先生の試合が始まりますよ!』
欣二は訝る。これは山中の声ではないだろうか。
『早く早く! これで勝ったら旦那っさん! 旦那っさん!』
この良く通る声は角岩だ。
『京介ー! がんばってえ!』
欣二は目を剥く。心臓は大きく跳ねていた。
布団から起き上がり、もう一度再生する。
『京介ー! がんばってえ!』
他の声援に紛れようが関係無く、欣二の耳ならはっきり聞き分けれてしまう。
もう一度。
『京介ー! がんばってえ!』
「この声」
血の気が引いていく。そして、組み上がってしまったのだ。この街に空手道場は、橋本道場のみ。
おおよそ、そんなある一つの推理に確信を持ったとしても、然もしてあり当たり前だったのだ。
古アパート一室の窓ガラスを水滴が叩いた。静かな小降りから徐々に徐々に雨足が強まると、翌日の悪天候を予測させるほどの激しい降りように変わる。いい加減に閉めたカーテンの隙間から覗く窓のサッシに、垂れ流れた雨水が募っていた。
その夜、欣二は一睡も眠りにつくことができなかった。真実を打ち明けた際の、橋本宗介そして山中文和の言動を思い出す。
明くる朝、本当の決着をつけにいかねばならないと、そう覚悟を持って心に決めたにも関わらず、左胸の震えが止まらなかったのだった。