巣穴の世界
昨夜、動画配信サービスで二年前の試合を観た欣二は、高揚感に包まれながら寝床に着いたわけなのだが、睡眠中に体験した夢が起きて尚も色濃く残っていたため、いささか気分が低迷していた。
そうなるには他にもう一つ原因があり、それは枕元で自分を呼ぶスマートフォンに無理矢理起こされたからだ。ましてや朝の六時で、ディスプレイに映し出される呼び出し相手が想定外となれば、しかめ面になること請け合い。
名越美紀。未だ旧姓のまま登録していることに、特段未練があるわけではない。
振動するその表示をしばらく凝視したまま数十秒。ようやくコール音が途切れて、安堵と共に枕へと顔を沈める。
直後にショートメールが一通。『電話して』
到底折り返す気にはなれず、せめてもの気分転換にと布団から這い出て出勤準備をし、それでも靄つきを胸に残してアパートから出た。心頭滅却。元妻の存在を頭から消して、田原澄江の迎えに車を走らせる。
再就職してひと月と日が経ち、田原への後ろ暗さが薄れていたのかといえば勿論そうでもないのだが、たとえようのないへ心情へと至る所以はやはり二日前の夜、ガレージ内で練習を終えた後の事柄に属す。西瓜、包丁、睡眠薬が胸のざわめきを誘う。
田原澄江を迎えた欣二は、不安を紛らわす意図も含め、普段より少し饒舌になっていた。地元の話、家族のこと、今の暮らしなどなど。あまつさえ──
「実はこの地域に引っ越してきたのは別に目的がありまして、それを今夜果たしに行こうと思っているんですよ」
「そうだったんですね。それじゃあ、今夜の練習は無しということになりますね。明日の夜はいかがですか」
七時過ぎ。親しみ深い新涼灯火の眩い陽光が、前進する車内に燦々と差し込む。初秋の空気はまだまだ生温かい。珍しくサングラスを着用していない田原澄江は何故か、本日に限って助手席に乗り、そして季節に似合う紅色のルージュに染められた薄い唇を綻ばせる。
「私、次の練習が本当に楽しみなんです」
そこで、欣二は少し冷静になった。右こめかみ部分に垂れた一束の髪の毛を、耳裏にかける彼女の左手薬指に指輪が無かったからだ。
「でも、そろそろ旦那さんが帰国するんじゃないんですか。あまり、そちらの家に近寄らない方がいいと思うんですが」
「あら、そういえば主人のことを忘れていましたわ。そうそう、明日なんです、帰国」
と言い終わるかどうかというところで、不意に口元を手で覆い、不快そうに顔を歪めた。欣二が口を開くより早く、彼女は五十メートルほど先の車道脇にあるコンビニエンスストアを指差す。意図を把握し直ぐ様に入った駐車場で停車すると、田原はよたつく足取りで店内のトイレへと向かっていった。
「ちょっと待て、嘘だろ」
浮上しようとしていた先ほどまでの穏やかな気分などどこへやら、不安などという言葉では収まりきらない情動に襲われた欣二の背筋は、卒然と凍り付いていた。
数分後、青ざめた顔で助手席に戻ってきた田原澄江は、ハンカチで口元を抑えたまま深呼吸を繰り返す。
「田原さん、まさかですが、あの夜、西瓜を食べた後に腹痛を訴えていたのは」
「大丈夫です。何も訊かないで。それ以上は訊かないでください」
彼女の指示通り、アクセルペダルを踏んで運転を再開したが欣二は、言葉を選んで再度会話を試みる。
しかし、先に口を開いたのは田原だった。
「あなたは何も気にしなくていいんです。ただ秘密を守るだけ。すべて私におまかせください……ね」
「でもしかし」
「名越さん、言わないで」
血の気が引いて思考能力も薄弱となる欣二は、ただ愚直に従うしかできなかった。
「明日の練習は、やめておきましょう。あなたは、私と違って嘘をつける人じゃないでしょう。大丈夫ですよ、バレやしません。私たちの秘密は絶対ですから、信じてください」
分かりやすい体調不良の様をむざむざ見せつけられて、承諾を意味する言葉はとても吐き出せない。状況を左右する鍵を握っているのは田原澄江であるし、とにかく、一番の被害を被るのは彼女自身だ。
ハンドルを握る手のひらに汗が滲む。つい数分前に自らの身に発生した事態などまるで無かったかのように彼女は落ち着き払い、それでも口を閉ざしてただ目的地方向へ疲労感漂う目を向けている。
逃げ出したい。だが、逃げるわけにはいかない。
「俺が無理矢理あなたを……ということにすれば、すべて解決しませんか」
欣二が躊躇しつつ意中の案を吐いても、そのような簡単な問題ではない、とでも言いたげに彼女は首を横に振る。
「あなたは、悪い人ではないようですね。本当なら、何を言われても私を脅すくらいするでしょうに。やろうと思えば金銭をむしりとったり、飽きずに身体を求めてきたり、弱味につけこんで更に秘密を握ろうとしたり、普通は考えません? 私なら考えますけどね。それとも、お金には興味は無い? 私には」
ふふふ、と自嘲めいた笑みの後、彼女は運転手席へ流し目を送る。
「魅力が無いんですかね」
今度は欣二が頭を横に振った。
「昨日の夜、あなたを泣かせる夢を見て、気分が悪くなったんですよ。それこそ、金銭や身体を要求する中身の夢ですよ。俺は田原さんみたいに、苦労を重ねる人を陥れるなんて、したくないです」
「私を泣かせる、ですか」
交差点の赤信号で停車させ、ふと横目で見る。田原澄江は唇を強く引き締め、何かに堪えているようだった。
「面白いですね。名越さんの目の前で泣ける日がくることを、願いますよ」
欣二が食品スーパーマーケットで任せられる業務内容は基本的に、販売や接客以外の裏方作業ばかりだ。午前中は、教育者である女性社員から販売計画の説明をざっくり受け、そのあと不足分の品出し、鮮度の落ちた商品の取り替え、それから惣菜コーナーに加工商品を並べるなどに追われる。順調にこなしていくなか、いつの間にか昼休憩の時間へと入っていた。
ようやく一息つける。
同じように休憩時間となった複数人の同僚らと、控え室で談話しながら昼食を摂っていたところ、珍しい人物がノックの後に現れた。
「名越さん、お食事中で申し訳ないのですが、少しのお時間よろしいでしょうか」
スラリとしたシルエットのスーツ姿と毅然とした態度は、いかにもキャリアウーマンといった雰囲気を醸し出し、雲の上的存在の登場を実感させた。笑顔で食事中だったパート従業員までも黙り込んでしまう。総務部長の江崎は普段から事務所にこもりきりであるだけに、現場へ足を運ぶなど監査の時くらいだ。
いつやらチーフマネージャーの山中が言っていたとおり、頭髪をショートヘアにまで切り揃え赤茶髪に染めている為か、実年齢より幾分若く見える。
自作であるブロッコリーの塩煮を咀嚼していた欣二も、彼女と顔を合わせての会話は歓迎会があった一ヶ月ぶりだ。ウーロン茶の入った水筒を口につけ、慌てて胃の中に流し込む。
呼ばれて控え室前の通路に出ると、腕を組む江崎は笑みの中に値踏みするような目付きを混ぜて、こう切り出した。
「名越さんも契約社員として一ヶ月経過したところでありますし、勤務態度や評判もこちらの耳に入っています。それで、ご本人からもやはり話を聞いておきたくて。つきましては明後日、面談を行いたいと思いますので、日曜日ではありますけど、十七時頃に事務所まで来ていただけますか」
「承知しました」
なんだそんなことか、と一安心。肩を落とした欣二はあることを思い出し、背を向けようとする江崎を呼び止めた。
「江崎さん、もう一ヶ月も前になる歓迎会の後でのことなんですが、酔いつぶれた俺を送り届ける際は、本当にありがとうございました。ご迷惑おかけしました」
「いえいえ、私は途中で帰らせてもらいましたから。田原さんから聞きましたが、記憶まで失っていたそうで」
「そうなんです。ほぼ忘れていて、それで俺は車内で何か飲んでいましたかね」
「何か?」
「その……ミネラルウォーターか、そういう飲料水を田原さんから渡されて、とか」
「さあ? 私もお酒を飲んでいたので、あまり細かく覚えていないですね。一ヶ月前になりますし」
タクシーで居酒屋まで迎えにきた田原が、アルコール摂取した欣二と江崎の二人を、江崎のワゴン車に乗せ、運転して自宅ガレージまで戻ったと聞いている。その後、江崎は自分の意思でタクシーを呼び、自分の家族が住むマンションまで帰宅したのだという。
「確か、俺のアパートまで送り届けようとして、なんだったかな、鍵が無いからひとまず田原さんの家に行ったんでしたかね」
「そうですね。何か気になることがあるようでしたら、田原さんに私の方から訊ねておきますが」
「いや! なんでもないんです! ただ、その訊きたかったのはそれではなくてですね! そうそう! あれ!」
左胸を抑えて深呼吸。秒足らずで動揺の波を消した。
笑顔で続ける。
「最近、出勤時に田原さんを迎えに行ってるんですが、ちょっと調子悪そうで、疲れが抜けていなさそうなんですよ。眠れてるのかなと心配でして、その薬の服用とか」
「睡眠薬ということですか?」
欣二が頷くと、江崎は怪訝な顔となる。
「ああ、そういえば処方箋をもらっただの言っていたかもしれないですね。気疲れが溜まっているんですよ、きっと。秋頃には、この地域全体で協力して催される振興フェスティバルにも参加しますし、出展準備に忙しいですからね」
「なるほど、振興フェスティバル。それは知りませんでした」
「こちら側からは、一部の人間しか参加しませんが、その時は欠員も発生する可能性もありますから是非ご協力ください。では、これにて」
と身を翻しかけたところで、先ほどまでの事務的な態度とは打って変わって、素の顔と察する人の良さそうな眼差しをつくる江崎は、欣二に溌剌とつけ加える。
「名越さんがこの地に来てくださり、本当に感謝しています。私は今まで通り、オーナーの田原澄江を支えていくので、名越さんはどんな嫌なことがあったとしても、辞めずに続けて澄江さんとの関係を保持して欲しいですね。飽くまで一個人の意見ですが」
珍妙な言い回しで理解不能。この時の欣二の頭の中では、そのような単純な思考だけでは着地しなかった。
江崎はあの夜、何があったのか全て知っている。そう直感したのだ。一昨日の夜、田原が住まいとする本宅に呼ばれた際に巻き起こった事態から、とある疑念が広がろうとしていたのだから。
「シャワーの後に西瓜でも」
ガレージ内にあるシャワーを利用し、清潔な衣服に着替えてはみたが、流されるままの受動的な状況にどうも不安がまとわりついて離れない。
しかし、真面目に空手の練習をこなす姿、自分を厳しく律して業務に挑まんとする通勤時の毅然とした雰囲気、さらにサングラスを外せば覇気の薄い眼差しがあらわになり、そればかりか気を遣って会話をつなげようとする、そんな健気な田原澄江の招請を無下に断ることがしのびなかった。
脱衣室から出た直後、田原が待つガレージへと戻る。うつむき加減で出た時、これまであまり気にもしていなかったのだが、コンクリート床に何かを擦った跡がうっすら残っていることに気付いた。
シャワー室の左隣にある収納庫につながる一本の線が、トレーニングが行われていた方へ向いているまでは判然としている。途中で途切れているので、どこから繋がっているのかはっきりわからなかったが、収納庫からサンドバッグを引っ張りだし、吊るしている場所まで数人がかりで運んだのだろうとこの時、単純に想像して考察をすませていた。
田原は汗まみれの空手着姿のままで、部屋隅に設置された休憩用ソファに座り、微笑を浮かべている。まるで、逃さぬとばかりに待ち構えているとすら、この時の欣二は戦慄してしまった。
「では、どうぞ」
手招きされるがまま、ガレージからつながる細い通路を通り、恐る恐る本宅へと足を踏み入れる。
広々とした土間からロビー、そして通されたリビングルームの内装は、高い天井は勿論のこと大理石柄色調リノリウム床にスモークブラウンのアンティークレンガ内壁という、威容さと重厚感溢れる上質空間で、通常の住宅には無い有り余る余白と悠然としたスケールが広がり、スリッパに履き替えた欣二を待ち構える。
引っ越して一ヶ月、自分の帰りを待つ新しい住居とは雲泥の差である。そんな豪奢な造りとは逆に、あまりにも生活感が乏しい。リビングルームの革張りワイドソファ上にあるクッションは、家具店のサンプル品のように両脇へと添えられ、ガラス製のセンターテーブルには霞もチリも無く、天井から降り注ぐ照明の程よい調光を跳ね返していた。
何故か両面扉を閉じている仏壇が壁際に備え付けられていたが、これはきっと亡くなった田原の実父をまつるものだろう、と気に留めもしなかった。
それさえ除けば、まるでモデルルームに入ったかのようで、更にこれすべて一個人が管理する所有物だというのだから随分と居心地が悪い。心の中だけでそう失笑した欣二は、艶光する黒柿色のダイニングテーブルへと呼ばれ、同じ仕様のチェアに座る。
「ホエイプロテインも召し上がりますか。最近、練習を再開してからちょっとサプリメントの調合にはまっていますの」
蝶ネクタイのバーテンダーでも奥で控えていそうな洒落たアイランドキッチンで、彼女は備え付けの小抽斗から数ある種類の海外製サプリメントを取り出し、手慣れた様子で並べていく。
「名越さんは、何かこだわりはありますか」
初めて招かれて入る家のキッチンへと、足を踏み入れるのもどうかと遠慮があったが、少し興味もあったので近寄って確認しようとした。と壁際の収納棚を田原が開ける際、ある物がちらりと欣二の視界に引っかかる。
数年前まで毎日目にしていた赤ん坊の絵が描かれたパッケージ。見間違うはずがない。
──子供はいないと聞いていたが。
彼女が振り返るより早く、キッチン上に置かれた錠剤サプリメント入りのプラスティックケースへと視線を落とし、それから「お任せでお願いします」と答えておいた。
「じゃあ、後で何が入っているか教えてさしあげるので、今は座って待っていてくださいな」
悪戯っぽい笑みをつくった田原澄江は、ミネラルウォーターと粉上のサプリメントをいくつか混ぜ合わせ、更にすり鉢で錠剤を砕いてプロテインシェイカーに入れて欣二の前に置いた。白濁した液体からは、牛乳に似た香りが溢れ出て、疲労した筋肉を誘惑させる。総容量三百ミリリットル程度だ。
「ホエイプロテインとカフェイン、マルチビタミン、EAAとクレアチン、グルタミンとあとクエン酸を混ぜ合わせました。では、お召し上がりください。私はシャワーを浴びてくるので」
長い茶髪を背中に解放し、揺らしながら浴室があると思われる通路へと消えていった彼女から、眼前に置かれたプロテインシェイカーに視線を落とすも、素直に応じる気にもなれなかった。数分その場で考え込んだのち、おもむろに立ち上がった欣二は、失礼だと承知でキッチンへと立ち入り、先ほど田原が開いていた小抽斗やら収納棚の中身を確認した。
英文字でバイアグラ、と表記されてある開封済みの小箱。そして、田原澄江の名前で処方された睡眠導入薬。気になっていたものは思っていた通り、未開封の哺乳瓶が入った商品箱と粉ミルクの缶だった。
眉根を寄せる。やはり、何かを企んでいる。そう思ってからの欣二の行動は早かった。
彼女の目的がなんであれ、謀略あっての工作と悟った欣二は、プロテインシェイカーには口をつけず衣服の胸部に少量こぼして、後はそのままテーブルに残しておいた。しばらくすると濡れたポロシャツの襟元がベタついて、不快感を及ぼす。
それから、浴室がある奥の通路からスリッパの足音が近づく頃を見計らって、意識が混迷とする演技をする。薄目で虚とし、ダイニングテーブルへ両肘をついてふらふらと頭を揺らす。
「あら、大丈夫ですか? 名越さん」
「ええ、すみません。練習の疲れからか少し、眠気が出てきまして」
顔を上げると直ぐ傍らには、湯上り直後で上気した肌をあらわとする薄着姿の田原澄江が立っていた。上はタントトップに下はホットパンツと、夏場から少し過ぎた今季節であっても自宅の中なら納得できるが、客人を迎えている現状では少々疑問を感じる服装だ。深く甘い香りをふんだんに放つ胸元から首筋、耳元を覆い尽くす緩やかな頭髪に、欣二は息を飲む。
バッチリを目が合った欣二としては、眼前に現れた色香漂う人妻の様相から、視線を外さざるをえない。
「申し訳ないんですが、体調が芳しくないので今日はこの辺で帰らせてもらおうと思います」
「そうですか、それは残念です。じゃあ、少しお待ちください」
私ひとりじゃ食べきれなくて、と彼女はゆっくりとした動作でエプロンを身に纏い、独りで使用するには大き過ぎるサイズの冷蔵庫から取り出した西瓜ひとたまをキッチンで切り分け始めた。その間に欣二はテーブル面へと突っ伏し、不自然の無いよう寝息を立てる。
──この状態でいったい何を巻き起こそうとしているんだ。まさか、また?
ストレス解消。それだけの理由で、再び罪を犯そうとしているのだろうか。
「名越さん? 名越さん?」
試すつもりだった。彼女の呼びかけを無視する。
さほど経たぬ時が過ぎ、足音が大きくなり、それから蒸気を纏う熱を傍らから感じた。荒い鼻息が頭上から降る。
「名越さん」
広いリビングダイニングで発せられたそれは、恐ろしいほど艶かしい声だった。
「……名越さん」
次の瞬間、欣二は顔を跳ね上げた。
彼女の熱い手のひらが衣服隙間へと滑りこみ、首筋から胸元へとつたい落ちようとしていたからだ。そして、その姿を目に捉え、度肝を抜く。
「あら、起きていらしたの?」
二度目に名を呼んだ声と同じく、凍えるほど冷たく、それでいて鋭いシルエット。感情の無い面を持つ田原澄江の右手には、文化包丁が握られていた。
「これは失礼しました。せっかくですので、一切れでも召し上がりませんか」
包丁を後ろ手にして、何事も無かったかのように目を細める田原澄江。欣二は慄然とし、息を飲む。
包丁は置き忘れにしても直接肌に触れるなど、看過できない行為だ。決して情事が再発してはならない。
欣二は断固として回避の立場を取るべく断ろうとしたが、その寂しげな笑みにしぶしぶ折れた。
「まあ、一切れだけ……なら」
その後、結局二切れ三切れと勧められて付き合うはめになるうちに、田原澄江は急な腹痛を訴えだす。
「すみません、お願いです。寝室まで肩を貸してもらえませんか」
欣二は閉口したが、助けを求められば致し方無し。彼女の火照りきった柔肌を、身体側面に意識することも逃れられぬ体勢でなんとか長い階段を登り、十二畳はある寝室へ連れていく。すると彼女は、キングベッドにばったり倒れ込み、腹部をおさえて伏せてしまうのだった。
彼女は苦しそうに手を伸ばす。
「あの、名越さんも、もし眠たければ、御一緒にここで」
形良い爪を持つ足の指で、白いシーツに皺を作る。柔らかそうな枕に深く沈めたうなじより曲線描く茶髪がつたい落ち、むず痒そうな喉元を震わせる。ニット生地のタンクトップに包まれるボリュームのあるバストを呼吸荒く上下させ、薄着から伸びる程好い筋肉のついた細長い両腕と両脚は白いだけではなく、ボディクリームでも塗っているのか圧倒的に艶めいていた。
そんなベッド上の彼女を前に、立ち尽くしていた欣二は息を吐き出してからゆっくり頷く。
「帰ります」
江崎からの面談要望を受けた午後からは、山中の要請によってまたもや書店の倉庫管理へと回された。その際「今夜道場で、色々と事情を打ち明けますので、今は何も訊かないでくれませんか」と申し訳なさそうに告げられた。笑顔ではありながらも翳った目元で、更に付け加える。「黙っていてすみません。わたくしも、名越さんのファンではあるんです。だから信じて頂きたい」
律儀に倉庫内へと付き添ってくれた山中は、在庫管理に追われる寺内恵子へと一礼して足早に立ち去ってしまった。欣二は毎度思う。書店の倉庫へ訪れた山中の表情は、直前までどれだけ笑顔であっても固く変貌してしまう。
倉庫の女王である寺内恵子は、百センチ丈の脚立の天板部から小さな会釈をした。本棚の高い位置へ向かって、書類を片手にリストチェックしていたようだ。
指示待ちの欣二に言う。
「ちょっとお願いがあるんですが、私、今からバランスを崩すんで支えていただけませんか」
「どういうことです? わざとバランスを崩す?」
平然として、かつ突飛な要望に理解が追い付かず、欣二は頭を捻る。
「そうです。お察しのとおり、不倫小説を書くに当たって、書店員が脚立から落下し、それを支えるお客さん、それから恋愛感情が芽生えるというシーンを描写したいので、実際にお願いしたいんです」
「お察しじゃないですよ」
思わず呆れてしまった。察してしまったのは別のことだ。
「もしかしてですけど、その為だけに俺を指名してヘルプに呼んでいません?」
「そうですけど、まあ別にいいじゃないですか」
と寺内はまるで悪びれ無く笑う。そんな表情に、常日頃とは違う印象を抱いてしまった。驚きを隠して欣二も笑う。
「山中さんはそれでよく納得してくれますね」
「あの人は優しいですから。それだけです。あ、眼鏡、台車の上に置いてもらえません?」
素を初めて晒した寺内恵子の顔は、やはりファンデーションを施した程度の薄化粧で、つくりは素朴であるが繊細で整っていた。身長もまずまずある。腰痛癖もあるのだろう猫背を矯正してそれらしい衣服と髪型にすれば、合コンやお見合いパーティーなど、出るところに出さえすればまず、異性は寄ってくると思われる。
けれどもそうしない理由もあるのかもしれない。そんな邪推を中断して、欣二は脚立に立つ寺内の背後についた。
「では行きます。ちゃんと支えてくださいね」
危機感の無い淡々とした声で言い終わるや否や。どれほどの信用があるというのか、準備の応答も訊かず、慌てて両腕を広げる欣二へと寺内は背中から真っ直ぐ倒れかかる。
一瞬だが、判断を迷った。目の前にあるデニムパンツ上の細い腰を支えるべきか、それとも両脇に手を差し込むべきか。
「名越さん! は、はやくっ」
そうした考える暇も与えられず。
咄嗟に両腕を華奢な腹部へと回し、危なげなく受け止めた。
「きゃっ」
と女性らしい一鳴き。
骨張った背中が欣二の顔面に押し当てられる。密着した身体前面で、自由落下する彼女の体重を担ぎ、それから片手を膝裏にまわしてからゆっくりと床に降ろした。
「いやあ、ちょっと焦りましたよ。合図くらいしてくれないと」
ははは、と余裕ぶって笑ってはみたが、見張った目で凝視してくる寺内が次に何を発するか予想してしまった。
「まさか、お姫様抱っこされるなんて思いもよりませんでしたよ。支えるだけって言ったのに、落ちそうになるまで待って受け止めるって……怖かったんで心臓がバクバク鳴っているんですけど」
「いやだって、説明も大雑把で、準備も無かったんでそうせざるを得なかったんですよ」
「そうですか」
下唇を噛んで、顔面を真っ赤に染める寺内恵子の様はそれはもう、可愛らしい、と称えれるほどであったがしかし、その後の業務の間はどれだけ問いかけようと欣二とは一切口をきこうとしなかった。
定時が訪れ、遅番へと業務の引き継ぎをして帰宅準備へと取り掛かる際には、寺内も機嫌をなおしていた。それが、スタッフ専用駐車場前の出来事である。
「名越さん、先ほどはどうもスミマセンでした。十代の乙女でもあるまいし、矮小な理由で機嫌を損ねてしまって」
「いえいえ、全然いいんですよ。小説のお役に立てれるなら、また手伝わせてください」
「それでそのことなんですが、これからもしご予定が無いなら今からうちにでも来ませんか。ちょっと表現について相談があるんです」
「すみません、今日はちょっと外せない用事がありまして、日を変えてということでいいでしょうか。明日の土曜か、それとも日曜日の夜なら空いているんですけど」
「明日は私、遅番の仕事が入っているんで、二十三時くらいまでかかるかもしれないんで、そうですね、じゃあ明後日の日曜日にでもどうでしょうか。よければ、夜に外食をご一緒しません?」
「了解しました」
「あ、それとですね、これ、是非一読しておいて頂きたいんですよ」
肩に下げた水色のトートバッグから彼女が意気揚々と取り出したのは、一冊の単行本で紙製の書店カバーがかけられていた。
「以前、私が大嫌いだと言った不倫小説です。こうはならないようにしたいので、よろしくお願いします」
「不倫小説かあ」
つまらないと評していたが、どうやら大嫌いに格上げされたらしい。カバー越しにも触れたくなかったが、もっとも真摯な眼差しでずいと差し出されては、受け取るより選択肢はない。
「ちなみにですが、寺内さんの細かい感想は」
欣二は軽い気持ちで放った自らの言葉に、今更ながら後悔する。彼女の眼光が熱を帯びたからだ。
「以前にも少し話しましたが、作家が投影したこの女性主人公は自己中心的で独りよがりにも程があるんですよ。誰しもが抱える心の闇を理由に、一夜限りの不倫から更に取ってつけた言い訳でどんどん快楽を重ねて、こんな私に気付いてくれない旦那が悪いのよ、なんて馬鹿げた描写を長々を垂れ流すうえに陳腐な罪悪感で同情を買おうとする、汚らしい性欲の権化たる記録と浅ましき正当化なわけです。それに加えて、傷ついてる私に気付いて? なんて言いながらバレたらバレたで、醜い言い訳どころか逆ギレして甲斐性のない旦那をくどくどと責め立てて、離婚を言い渡されたらされたらで怒り狂って、娘のことはなんとも思っていないのねこの冷血漢、なんて心の中で罵倒しまくって挙げ句の果てには再婚した不倫相手の力を借りてプロ小説家になる? でも、生活力も育児もまるで無い再婚相手に不満持ってそっこう結婚生活は破綻。被害妄想、妬み、と煩悩だらけなのに、とにかく自分を上手くたてる。で、あろうことか、元旦那に擦り寄って最終的に支えられて完結? 願望まみれやんけ! アホか死ねっ! 死ね死ね死ねええええ!」
「これもう読みたくないなあ」
憤然そのまま呼吸困憊に陥るまで吐き出し続けた鬼気迫る寺内恵子を前に、欣二は押し付けられた単行本から目線を外すのであった。
不倫の末に夢にも見た小説家になっただのという要素が、寺内の堪に障ったのではないだろうか。苦笑いを禁じ得ない。その時ふと思い出し、躊躇いからややあって、未だに肩を上下させる彼女へ問いかける。
「もし俺が不倫をしていて、俺は被害者だから悪くはないしこのまま空手の王者を目指す、なんて言い出したら寺内さんはどうします?」
「もちろん、ナニをちょん切ってさしあげます」
自宅アパートへと帰った欣二は一度冷水で汗を流し、脱衣室の鏡前で引き締まった裸体を写す。筋力はほぼ元通りに戻った。心技体を二年前の試合の頃までにはさすがに仕上げれずとも、余計な贅肉は限りなく薄く、見た目はバランス良い。
もっとも、鍛練を怠らぬ橋本京介が、あの凄まじい技能を維持しているなら、今夜間違い無く敗北を期するだろう。むしろ望んでいるのではないだろうか、或いはそれでこそはじめて一新紀元と云えるのかもしれない。
心が踊る。恐怖は無い。そして、彼の精度高い正拳突きを学び、再びトップを目指すのだ。
師範に誓った約束を必ず守る。この地へ移住して一ヶ月、ようやくこの日が訪れた。左胸を数回張って、スポーツウェアに着替える。
栄養補助食品とスポーツ飲料水で、多めの糖分補給。柔軟運動で綿密に関節をほぐしたのちに瞑想を十数分間、精神統一。既に日が暮れた寂しい外界の色が、照明を落とす部屋内へと侵入していた。
突き、蹴り、体さばき、フットワークのイメージを脳内で描き、それに沿った動きを実際に繰り返すうちに再び体温は上昇して汗が滲み出す。
呼吸、爆発、初動で放つ。
拳から飛び出た滴は、真っ直ぐに土壁へと飛翔し、弾き返された。畳床をする足裏からは、音さえ出ない。
左右のワンツーから、左の鉤打ち。左掌で敵の直突きを打ち落とすと同時に下突きで、鳩尾をえぐる。留まらず、膝、前蹴り、軸をずらしながらの流れる動作でハイキックまで繋げる。
気を抜かず、左胸へと襲いかかるであろう右正拳突きを、最低限の体さばきで透かす。
微塵も体感を崩さず元いた畳の継ぎ目へと、左足の爪先を戻した。
その始点から終点まで、動き一つ違わず、再び繰り成す。否、技の精度、速度、切れ味は更に増していた。
闇を切り裂く拳が五連続で唸り、右の足先が宙へと解き放たれた。
「人を蹴る」
情など無い。迷いも皆無。以前と違い家族もいない。命はもとより無いようなもの。今だけは人の心が欠けた名越欣二。闇の中では、自分どころか他人でさえ錯覚しただろう。
その殺人蜂と謂わしめる、彼の形貌を。