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浅ましき世界

 屈辱極める忌まわしき因縁の傷痕を、情けなしに抉り返された瞬間である。とはいえ、克己心しか窺えない彼女の真剣な眼差しに、欣二は悟った。誠意を持って答えねばならぬ、と。

「確かに、恥ずかしいことに不倫原因からの離婚経験はありますけど、その不倫小説を読んでもない俺ごときに、監修なんてだいそれたことはとても出来ませんよ」

 車内に落ちる薄暗がりの中、そう欣二が切り出したのは、未だ腰痛が回復しきれない寺内恵子を自宅へと送り届ける道すがらであった。

 田原澄江には事情込みで断りを入れている。今頃、江崎のワゴン車で帰宅している頃だろう。

 普段はそう遠くない距離の実家から自転車通勤しているらしい寺内恵子に兄弟関係はおらず、一人っ子で随分甘やかされて育ってきたそうだが、世間一般の風潮に流された両親に心配され、御多分に漏れず「相手はいないのか」「結婚しないのか」と最近とやかく言われるそうだ。

 ついぞ二十七歳までに男女交際の一つもない実情を知れば、ゆえに肉親としては気が気ではないだろう。それにしても、寺内という女性は良くも悪くも化粧もぞんざいで、外見は至って素朴。落ち着いた表情と眼の色、喋り方は、一種の魅力を感じないでもないが、シンプルなボブカットとフレームレス眼鏡が歴然としたスタイルらしく、似合ってはいるが異性を惹き付ける特異性は薄い。顔立ちも悪くないので、意識して洒落込む慣習さえ付けば化けるのではないだろうか、と化粧品関連の会社に務めていた欣二は、口には出さず評す。

 欣二の運転する中古軽自動車の助手席に乗った寺内が、相変わらず無感情でありながらも淡々と自らの家庭内環境をさらけ出した理由は、それなりに心を開きかけているだけではなく、先ほどの話題にさしずめ直結する。

「飽くまでお願いです。監修と言いましたが、所詮はアマチュアが力試しに執筆して投稿しているだけなんで、軽い気持ちで読んで指摘してくだされば嬉しいくらいなんです。こんなシーンでこんな立場の男性が、こんなこと考えないよ。みたいな、女性の私ではわからないことがあるので。まず、読むところからでもいいです」

「そういうことでしたら、まあ基本的に家では暇していますし、いいですよ。でも、本当に大した助言なんか出来ませんよ。そういえば、今まで書いていたという純愛ものじゃなくて、急に不倫ものを書きたくなったのはどうしてです?」

「最近、読んだ不倫ものの本がありまして、それに影響されましてね」

 ほんの少しだが、彼女の声色が高くなった。場所は真新しい住宅街ではなく、商業施設が集中する街並みから少し離れた地域へと入っていた。古い住居群に挟まれる道幅は、軽自動車でなら余裕を持って徐行できるくらいで、田原の車となるとまた擦りつけてしまいそうだ、などとあの冷淡な眼差しと共に思い出してしまう。

 辺りを照らす街路灯には、羽虫が群れて舞い飛んでいた。通り過ぎ際に、それを煩わしげに見上げた寺内は、珍しく感情をあらわにして続ける。

「とあるコンテストで新人賞をとった、たぶん女性が書いた不倫小説なんですけど、実につまらなかったんですよね」

「ほう。つまらなかったんですか」

「そうです。これまでも、もちろん面白くないと感じる小説もありましたし、完結が気に食わない物語もありました。それで、私はどうして受賞までした作品を面白いと感じないのか、もしかしたらズレているのか、アマチュアとして小説を書くべきじゃないのか、悩んだんです。それで、自己分析したんです」

 ──よく喋るなあ。

 本のこととなると感情の起伏さえ淡いものの、ほぼ相槌だけしていれば彼女は語り続ける。そんな寺内の微笑ましい様が、欣二の将来的不安材料からなる杞憂を少し紛らせた。真っ直ぐな人だ、と感じてしまったのだ。

「あ、私の家ここです。ちょっと上がって行きませんか。話の続きをしたいんで」

「まあ、寺内さんがいいなら」

 結婚も恋愛も今後するつもりは無い、と大勢の人間が集結する酒の場で堂々と断言したからか、それゆえに男性としてあまり意識もしていないのだろう。若干の驚きを隠して、さしあたり承諾する。

 あるいは、ひとえに、不倫小説創作への腐心情熱がそうさせるのか、欣二はそう斟酌した。

 突然の来客に驚く寺内両親に、会社の同僚であるとことわり、それから二階にある寺内恵子の部屋まで通された。内装はこれといって特筆すべき点は無く、本棚に収められた書物関係も想像より遥かに少なかった。

 六畳一間でも広さがある従来の畳部屋といった感じで、女性らしさが色薄いため、足を踏み入れた欣二も不思議と緊張感が無かった。

 い草の香りと風鈴が、夜の夏を涼やかに演出している。

 折り畳みのちゃぶ台に麦茶が出された。寺内はノートパソコンを置いて、欣二の隣へ正座する。

「それで、つまらないと思った理由なんですが」

「ああはい、そうでしたね」

 本棚の書籍の数々に目を奪われていた欣二は、ぐっと距離を縮める寺内の眼鏡を前にして我に返り、居住まいを正した。

「作家の願望をそのままさらけ出して書いたような作品が、すごく嫌いなんだな、と私は思ってしまったわけなんですよ」

「作家の願望? 不倫小説で作家の願望というと、例えば主婦である立場のとある女性作家に、不倫願望があるということですか」

「飽くまで私見ですが、叶わない欲望をそのまま物語にできる能力があれば、実際に書いてもおかしくないですよね。それが、共通する立場の読み手に共感性を与えるとなれば、それは人気も出るでしょう。でもね、私は思うんです。それに気づいてしまった時点でストーリー性も何も無い、馬鹿げた独りよがりな創作物なんだなって」

 そこで言葉を一度切った彼女は、ノートPCを開いて前述の小説投稿サイトを開いた。自らのホーム画面を表示して執筆中の小説を、欣二に見せて示す。

 話の理路を辿れば、何を言いたいのか明白。なるほど、と頷いて返す。

「要するに寺内さんがこれまで書いた純愛小説は、自分の願望を描いたものであったので、馬鹿げた独りよがりと感じてしまったと。だから、自分が経験したことがない不倫小説に挑戦したいと」

 そうです、と寺内は鎮痛な声を出す。

「名越さんは中学生の頃、ホラー小説を好んで読んでいたのですよね。なら、余計にわかるはずです。だって主人公や登場人物が被害を受けて、結果無事に生き残れるかわからない物語がホラーじゃ大半となるんですから、作家の主観や欲望から乖離されているでしょう?」

「まあ確かに」

 と、そこで皮肉にも寺内恵子に意識改革を起こさせた『つまらない不倫小説』がどのような内容か少し気になった。

「どんなストーリーだったんです。最近読んだ、それは」

「自分の生活から出てくるありふれた苦悩を理由に不倫を正当化して、理解してくれない夫にバレて離婚を切り出されて、被害者づらして嘆く。その後、数年後に気持ちをわかってくれた夫に謝罪されてまた元鞘に戻る。なんて、馬鹿馬鹿しい。ながったらしい上に浅い心理描写で誤魔化してるだけで、主人公の女は好き放題してるだけなんですよ。しかも、不倫相手が年下の美少年。片腹痛いんですよ。私は不貞で穢れた女にもっと、とんでもない破滅エンディングを用意したい」

 ちゃぶ台上に握り締められた彼女の両拳は、見る者に並々ならぬ決意を感じさせた。しかしそれもまた作家の願望ではないのか、と口から出そうになったが欣二はなんとか喉奥で堪える。

「ありふれた苦悩だから、共感性が得られるんですかね」

 代わりにそんな無難ともいえる返しをしていた。

 元妻の悩みもそう。日々変わらぬ終わり無き平坦な家事、責任だけは強くのしかかる達成感の得難い育児、そんな役割化した生活に目標など無い。あまつさえ、そんな妻を差し置いて、自分だけ空手という享楽に浸った。夫のみが充実している様は、もしかすると自分だけが『家庭』という牢獄に取り残されているように感じたのかもしれない。

 さりとて、何食わぬ顔で妻として接する女性が、自分の知らぬ間に隠れて情事に耽っているなどと想像してしまえば──隔靴掻痒に侵され、果てには例のごとく左胸が呻吟を訴える。

「名越さん?」

「え、ああ、はい」

「名越さんにはひとまず、私の願望を描いてしまった恥ずかしい純愛物小説を読んでいただき、容赦の無い酷評をもらいたいのです。よろしくお願いいたします」

「酷評ですか。了解しました」

 それから少しだけ会話をして、夜も更ける前においとますることになった。

 寺内家の塀の前に一時置きしていた軽自動車へと乗り込もうとすると、わざわざ見送りに出てきた寺内が俯き加減に口を開いた。

「あの、私ってやっぱり変ですかね。男性をいきなり部屋に入れちゃうって。こんなこと、初めてだったんですけど」

「はあ……ちょっとびっくりしましたけど、けれどもまあ最近引っ越してきた俺としては、友達ができたみたいで嬉しかったですよ」

「はい」

 ほんの僅かだが、返事をした彼女の口元が綻んだように見えた。

「じゃあ、言われた通りに感想はサイトに書き込まず、直接寺内さんにメールで送らせてもらいますんで。ただ、読むのはあまり早くはないんで俺は」

「三十万文字以上あるのでゆっくり読んで下さい。よろしくお願いします。今日は本当にありがとうございました」

 エンジンを稼働させた欣二はそこで、現状に至ってはとりとめの無い質問を思い付いてしまった。不躾にも言葉にして放ってしまう。

「寺内さんの本当の願望はやっぱり純愛なんですよね。そちらには、積極的に動かないんですか? 現実的に」

「動いたあとに今があるんです」

 予想に反して迷わず即答した寺内恵子の顔が、憂いをふくむ笑みに変化していた。初めて目にする表情。それは、彼女がれっきとした『女』であると再認識させられる、そんな熱帯夜の隙間を縫うまるで鈴音だった。

 アクセルを踏み込み緩やかに前進を始める欣二の胸懐には、漠然とした満足感が生み出される。数秒前に垣間見た寺内恵子の顔と共に、助力を求められた事実が、微細でありながらもこの心に優越感を去来させたのだ。

 そればかりか、暇を余すプライベートに外部からの要因が加わったことで、意義のある時間が見出せそうな気分にすらなった。


「私、実は幼い頃から身体が弱くて、しょっちゅう発熱で学校を休んでいたんですよ。それで社会人になってから、体力をつけようとソフトバレーボールやバスケットボール、あとフットサルやバドミントンを試したんですけれどね、これがどうしようもなく才能無くて、それで最後の砦みたいな感じで空手をやってみたらセンス抜群だって褒められたんです」

 嬉しそうに語るそんな彼女に対して、ほんの縹渺ながら心開くきっかけを得た経緯は、まさにそんな共通点を見出だしてしまったからだ。

 休日以外の出勤時にほぼ毎日運転を申し付けられ接するようになって、一週間もした頃から徐々に増えていく車内での会話中に、欣二は田原澄江という女性の内面をもっと知りたいと思うようになっていた。

 不貞行為があったあの日、特に慌てるふうも無く堂とした態度で主導権を握り、今後の方針を強引に決定するという冷淡さとは裏腹に、疲労感を呈した脆弱的な雰囲気で自分の身内話をする。

「それでね、私の中学の頃の同級生が興信所を持っているんです。脱サラから頑張って始めてね、凄い有能なんですけど、大事なところで臆病な性格が出ちゃって」

 思い出して噴飯するそんな目と、ルームミラー越しに度々合う。欣二もやぶさか複雑な心境など忘れ、相槌まじりにつられ笑いをする。

「これ、友達から頂いた沖縄の土産物なんですが、よかったらどうぞ」との差し入れから「お中元のあまりですが、いかがですか。私はあまり強くないので」と缶ビールやらアルコールの類いを車内に置いていく。

 そんな彼女から、おっとりとした中に芯の強さを感じた。幼い頃に交通事故で母親を亡くした田原澄江が、独りだけでは空間を持て余すほどの豪勢な家宅に住んでいるわけは、現在携わる企業創立者の実父が数年前に他界したからだ。尚且つ、兄弟は一人もいない。

 要するに彼女は、若くして身に余る権力を世襲してしまった苦労人なのである。その実績と経歴はまだまだ浅いものの、先代が信頼を持って築き上げた組織形態や役職者に支えられ、今なお尽力をもって多忙かつ重責ある業務に挑んでいる。

 彼女にとって安穏とした休日など、毛ほどもあるはずがない。ともあれ、第二種運転免許も取得していないのにも関わらず、田原澄江の運転手として雇われてしまった名越欣二はそれに合わせた勤務形態を余儀なくされていた。

 朝八時に勤務開始、午後六時に終業して帰宅する週休二日制だ。

 彼女との不貞行為に関しては、罪悪感などと簡単な言葉だけではあらわしがたい。それでいて、記憶も意識も朧気で実感さえ薄いとなれば、田原に対して疑念を抱いても仕方がない。仮にそのような事実など無く虚言であるというのなら、そこには別の目的があると繋がるわけだが、経営業務に忙殺される彼女が、暇潰しに他人を貶め楽しんでいるとは、これはこれで考えにくい。

 本当は彼女自身が罪悪感という耐え難い責苦に遭っているのに、のみならず、まさかこちらの立場を守ろうと尽力してくれているのではないだろうかと、そのような回顧に囚われ迷走する日々を送り、入社から早くも二週間が経過したある日の早朝、時刻は七時前。九月を目前にした雨天の田原邸宅前で停めた軽自動車のフロントガラス面には、責め立てるような大粒の雨が降り落ち、戛戛と弾け続けていた。

 いったい自分はこんなところで何をしているのだろうかと、たとえようのない虚無感に襲われる。

 既に生じてしまった危うい関係が深みに嵌まらないよう、確固たる意思で、せめてくい留めなくてはならない。出勤準備中の田原澄江を待つ間、現状の打開策を模索せんとばかりに、答えの無い闇の中でさ迷う。

 目を閉じて、波打つ心臓の音を聴く。早まる雨足に紛れて、コンコン、と運転手席側のサイドガラスをノックしたのは、広げた傘を手に持つ田原澄江その人だった。もう右手首と右足は完治したそうで、湿布も貼っていない。どうやら、伝えたいことがあるようだ。欣二は窓ガラスをずらした。

「おはようございます。どうかしましたか」

「おはようございます。名越さん、少しお話があるのでガレージの中に車庫入れしてもらえませんか」

「了解しました。いつもより疲れているようですが、大丈夫ですか?」

「ええ、気のせいですよ。普段から低血圧気味なので」

 少し顔色が悪いと感じたのは、単に気のせいだろうか。この気分を億劫とさせる暗い天候と、妙に同調した面持ちであった。出勤中の車内では話したくはないのか、或いはガレージ内に用事があるのだろう。後者だとしたら、自分にとってあまり良くない結末が待ち受けているのではないか、と警戒しつつも田原の指示に従う。

 ガレージにおさめた車から降りると、パンツスタイルスーツ姿の田原澄江が前置きなく、奥のトレーニング設備へ向かって指し示す。

「江崎から聞いたんですが、名越さんは空手をしていらした経歴があると。それでもしよければ、ここで私に空手を教えていただきたいんです。週に三回くらいで、もちろん時給は支払います」

 返答に迷った。

 空手をしていたと、酔いに任せ歓迎会の場で暴露した記憶はあったので、いずれは耳に届くだろうとは覚悟していたが、よもや教えろと言われるとは想定外もいいところ。黙っていたことにも、少々の後ろめたさを感じる。

「名越さん自身がトレーニングをしたければ、いつでもここに来て設備を使用してもらっても構いません。シャワールームもね。私のストレス解消を手伝って欲しいんです」

 ストレス解消を手伝う。その言葉と表情にのみ、何やら意図が含まれた艶っぽさを感じとれてしまった。

「主人は来月末になるまで帰国しないので」

 目を細めた彼女の表情は、渋る欣二を、了承へと誘おうとしていた。

「安心して好きにしてもらっても……いいんですよ?」

 口を開けたまま言葉発せず、立ち尽くす欣二。ポロシャツ越しに浮き出た筋肉が意に反して、田原澄江の提案に歓喜している。現状において、自宅アパートや近くにある小さな公園程度で、満足といえる充分なトレーニングがなせているとはほど遠い。

 しかも、心行くまで存分にサンドバッグが叩ける。そんな甘美な誘惑に乗ってしまったのだ。宿敵、橋本京介と合間見えるまで、鈍った身体にはリハビリになるだろう。

「俺もブランクはありますが、それでいいのなら」

「よかった。これで……定期的にストレス解消ができますわ。どうです? 以前、私はあなたに乗せられてサンドバッグを叩いたわけですが、いま見せていただけませんか。名越さんの得意技」

「じゃあ、一回だけ」

 了承した欣二の感情には、傲りも虚勢も、緊張すら無かった。左胸の痛みを抑えようと、鎮静化する術をあの日、望まずとも習得したはず。しばらく緩めていた気を、ついに引き締める時が来たのだ。

 取り乱すことなく息吹き一つ、サンドバッグの前に立つ。

 構えや距離に固執せず、無、そのものが弛緩した筋肉に伝わった。意気込みも殺気さえ必要としなければ、タイミングを計るまでもない。

 無意識との狭間、気づけば当たっていた。標的が仮に人間であればそう思わせたと同時に、次の瞬間には意識の断絶を約束させる蹴りが、サンドバッグの高い位置を弾ませていたのだ。

 コンクリートに囲まれた密閉空間には、謂わば戦場を駆ける銃撃音が反響していた。満足した面持ちの欣二に、田原澄江は「お見事です」と控えめな笑みと拍手で称賛する。

「言い訳ですが、久しぶりなんで少し動きが固いですね。自分的には及第点ですが」

「確かに、名越さんはもっと凄いでしょう。私は真っ直ぐのパンチばかり練習していたので、蹴りは下手なんですよね。教わる日が、本当に楽しみです」

 そんな田原の目元は、屋内であるのに掛けたサングラスに遮られ見えるはずも無かった。


 再就職から一ヶ月が経過し、初の給料支給があった。住まいであるアパート他部屋の住民とも、顔見知りになりようやく気持ちが移住地に定着しつつある。食品スーパーでの業務内容にも慣れ、仕事仲間とも良好な人間関係を構築することができ、少しずつではあるが現在の生活に安定性が見えてきた。

 本日は生活雑貨と食品類を取り揃える、大型スーパーマーケット内での循環棚卸しが行われていた。まだ経験の浅い欣二は複数人の従業員と共に、在庫確認という簡易的な作業を任される。

 九月中旬、未だに続く残暑が世間話の一つとして挙げられるそんな要素も、冷暖房が完備された倉庫の中では関係無い。スチールラック上に保管されたダース入りボールペンの小箱に、タブレット端末から繋がるバーコードリーダーのレーザー光を当てる。個人にあてがわれた業務が着々と進む最中、欣二は昨夜の寺内恵子との会話を思い出していた。

 日曜日の夜、運動でひとしきり汗を流した後、帰宅準備中に電話が入ったのだ。

『お疲れ様です、名越さん。まさか一話ごとに感想をくださるとは思いませんでした。表現の違和感や誤字の細かい指摘まで、ありがとうございます』

「いえいえ、それよりちょっと正直に書きすぎてしまって。気を悪くされてはないですか」

『全体的に退屈、という容赦無い感想を読んだ時はさすがにへこみましたけどね。でも、こだわっているシーンを褒められたところは、本当に嬉しかったです。閃いて書いたセリフとかも、歌詞みたいで電気が走った、とか。ありがとうございます。やっぱり、名越さんにお願いして良かったです』

 そんな寺内恵子の声には、柔らかさを感じさせる喜色がいつになく含まれていた。欣二は自分の方が褒められた気分になり、追加で他にも感じた箇所箇所のシーンについて感想を伝えた。すると、彼女は更に喜んで声を高くした。

『さすが、丁寧に読んで下さっていますね。ところで、気になっていたんですけど、名越さんは読まなくなってしまったんですよね。どうしてなんですか』

 欣二は返答に迷った。中学生時代にぱったりやめてしまった読書の習慣。理由は明確であったのだが、これを読書家に言うと間違い無く反感を買うだろう。

「めちゃくちゃ怖いホラー小説を読んで、結末がしばらく悪夢になって出てきたからです」

 そう偽ると、可愛い理由ですね、と明るい笑い声が届く。初対面では愛想の悪さを印象に持ってしまったが、元来柔和な人なのではないだろうかと実感させられるひとときだった。少女のようなあどけない笑みすら、見てもいないのに欣二は想像してしまう。

「シャワーの後に西瓜でも召し上がりませんか」

 通話が切れた後、空手着を汗で濡らした田原が、欣二の背後に立って本宅の方へと指差していた。今いるトレーニングルームと化したガレージからつながっているため、周りからは見られず移動可能だが、これにはさすがに頭を縦に振りかねた。

「さあ、どうぞ遠慮無く」

 そう朗らかに微笑む姿に、邪気など一片も感じなかった。深みに引き摺り込まれるなど、よもや思いもよらなかったのだ。

 棚卸し作業が一通り終わった辺りで、欣二は強張った腰を伸ばすふりしつつ、片足立ちになり膝だけで蹴りの初動作を試してみた。あの夜の練習中、得意のハイキックに加えてあらゆる蹴り技を指導したときのこと、田原澄江の吸収力には目を見張るものがあった。

「確かにセンスはありますね。相手をぶっ倒してやるみたいな欲というよりか、頭の中で綺麗なフォームの蹴りをしっかりイメージできているからですかね」

「名越さんの教え方がお上手なんですよ」

 素直に褒めると返ってくる照れ隠しのはにかみ顔は、運動直後で程よく紅潮していた。

 ああこれが承認欲求か、とあの時は自戒して正解だったのかもしれない。肩を上下して息を切らす田原澄江を前にして、そんな確証の無い不安に駆られたのだ。あんなものから或いは恋愛関係が始まるのだとしたら、慕情のからくりなぞ知れたものだと、まさに鼻先で笑い飛ばしたくなった。

 回想を終わりにして感情まで消し去る。スッと目蓋を閉じる動作はハイキックに良く似ている。意識は蹴りを当ててやろうとしているわけではなく、飽くまで無心。高い天井から降り注がれる照明光が行き届きにくいスチールラックに挟まれた幅せまい通路の隙間で、まるで気配の無い蹴りを放ち、それから何事もなかったかのように閉足立ちへと戻る。

 ──及第点ごときじゃ、まだまだ勝てないな。

 その時だった。

「すげええ! 今の見たか、さとし!」

 若い男性のエネルギー有り余る叫喚が、広い倉庫内を突き抜ける。振り向いた背後には、一本の通路があり、そこにはチーフマーネージャーの山中に連れられた見知らぬ二人の男性がいた。集中し過ぎていて、近づいてくる気配に気づかなかったのだ。

「名越さん、お疲れ様です。この二人は、今日からアルバイトに入る高校二年生でして、ちょうどいま施設案内をしていたところなんですよ」

 特に指摘もしない山中が、いつもと変わらない笑顔で紹介する。興味津々と顔を輝かす男子高校生が先ほどの声の主であるようで、特徴としては頭髪は巻き毛で身長こそは百六十センチちょっとと高くはないものの、研鑽されし筋肉を備えているようだった。

 もう一人、未だ一言も声を発してはいないが、丁寧に頭を下げる恐らく『さとし』は、およそ百七十センチの身の丈でほっそりとしていた。

「俺、かどいわたけし、って言います! 曲がり角の角に、岩石の岩と、武道の武です。こっちは、せらさとし、って俺の友達です!」

 山中が紹介を続けようとしていたのに、角岩は元気良く遮る。

「俺たち中学ん時から橋本道場に通っていまして、あの伝説の試合の動画、何回も繰り返してガッツリ見てます! 俺、あん時からずっと名越さんのファンなんっすよ! てかっ、あれから試合に出てこなくて、でもいきなりいま生蹴り見られて俺もう超興奮っすよ! 家帰って食パン三斤食えるっす!」

「橋本道場?」

「そうっす! 山中さんと同じ道場で」

 そこで突然、当の山中に口を塞がれ、角岩はそのまま倉庫の外へと引き摺っていかれてしまった。

「ではではのちほど! 名越さん! ちょっとまだ案内が終わっていませんので」と、ひきつり笑顔だけ残して山中は去る。

 呆気にとられて立ち尽くしていると、もう一人の男子高校生である『せらさとし』から強い視線を向けられていることに気づいた。

「名越さん、どうか一度、橋本道場に来ていただけませんか。先生と戦って欲しいんです。橋本道場のみんなが望んでいるんです」

 静かであったが、はっきりと意思を伝えようとする、芯の通った声だった。

 欣二も愛想を作って言う。「ああ、必ず行く」

「明日の夜、道場で待っています。先生にも伝えておきますので、よろしくお願いします。では、失礼します。押忍」

 軽はずみで再戦を承諾してしまったものの、正直にいうと、欣二としてはまだまだ万全と言い難いコンディションだ。それでも、計画性も無いまま現状の生活を維持しているだけで、さしあたって目標までの期日を決めていたわけでもない。何かきっかけが欲しかったのかもしれないし、加えて角岩の発言と山中の挙動にも引っ掛かりを覚えた。

 その日の夜、仕事が終わりアパートに帰った欣二は、スマートフォンで『二年前の試合』とやらを検索する。そのような動画があること自体が初耳であったのだ。あの試合の直後に空手を辞めてしまったのだから、然もありなん。

 動画配信サービスアプリの検索欄に、橋本京介と入力するだけで探すまでも無く簡単に目当ての動画は抽出された。

 ちょっとした儀礼的気分にあり、畳床に正座をした状態で再生する。

 動画開始から最初の一分は、名越欣二と橋本京介の両名が試合舞台上へと順に登るシーンであった為、その部分は無用とばかりにスワイプして飛ばした。

 審判の「始め!」の号令と共に試合が開始する。

 そこからは、二分足らずの悪夢だった。

 左胸を押さえて撃沈する白目を剥いた自分の顔は、あの日の激痛を思い起こさせる。元妻と娘の顔すらにも繋がっていく。

 だが、そこで初めて目の当たりにした試合直後の様相には、心底から驚かされた。広い体育館の二階観客席雛壇を埋め尽くす観衆ほぼ全てが、年に一度しか開催されない中量級日本一決勝戦の壮絶な結末に、立ち上がってまでして歓喜し、大喝采を浴びせていたのだ。

 試合直後に立ってもいられず膝を着く勝者の橋本京介は勿論、担架で運ばれる欣二の名を、声を合わせて呼び叫ぶ集団までいた。

 欣二の胸奥は喜びに打ち震えていた。スマートフォンを握りしめる指先すらも。

 再生回数は五十万回で、コメントには「感動した」やら「勇気をもらった」「生で観て涙が出た」「プロに転向すべき」「息子が毎日この動画を観て、名越選手の蹴りを真似している」とまであり、それだけではなく「この二人の再戦を死ぬまでに観たい」という内容ばかりの称賛の嵐だった。

 欣二は目を閉じて、高揚しそうな頭に鎮静化を命じる。

 この直後にもたらされる屈辱にまみれた自分の行末とは別に、一方では喜び称える大勢の人々がいてくれたのだと思えば、空手に費やした時間と労力は決して無駄ではなかったのだと、五臓六腑にまで染み渡った気がしたのだ。

 独りの畳間でおもむろに立ち上がった欣二は、この時、とてつもなく橋本京介に再会したくなっていた。明日、必ず彼の道場へ向かおうと決意して蹴りを振るう。

 あの試合の時はこうであっただの、語り合いたいと真に心から欲した。

 全開になった窓から流れ入る生温い風を、何度も何度も飽き足らず、欣二の爪先が切り裂く。

 溺れるまで浸り切った今の感情を、浅ましい承認欲求だと過去に戒めたにも関わらず。

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