渦巻く世界
髪留めを解いたゆるっとした焦げ茶髪は、助手席から振り向いたワンピース越しの胸元まで垂れ落ちていた。その女性の顔形は、昼間と差異のある雰囲気であってももちろん見覚えはあったが、少し疲れ気味の目元と感情味薄い瞳は、サングラスの奥に隠れていたのだから初のお目見えとなるのではないだろうか。
「田原さん……ですよね?」
欣二が恐る恐る尋ねると、まず返事の代わりに冷やかな眼差しが向けられる。
「ええ、田原澄江ですが、もしや昨夜のことを覚えてなさらないのですか? 名越欣二さん」
現時点での欣二の心境を有り体に言い表すならば、さながら卒倒寸前。
「まさかですけど」
と言いかけたところで電話の着信音が、ワゴン車内の密閉空間内であたかも脅かすがごとく轟く。どうやら田原澄江のスマートフォンからのようだ。
機器をじっと見つめていた彼女は「着替えておいてくださいね。それから声は洩らさないように」と言い残して助手席から速やかに降りていった。
暗がりであった周辺にパッと光が照らされる。コンクリート面で覆われているとだけ把握していた今の場所は、どうやらガレージ内のようで、人感センサーでの照明が稼働したらしい。
頭元に重ね置かれていた衣服を手に取り、素早く身につけた頃合いを見計らったかのように、後部座席に繋がるスライドドアが開け放たれた。通話終了したと察する田原が菫色のスマートフォンを手に立っていて一言も発さず、経緯はおろか事態が飲み込めず狼狽する欣二を凝視する。
「あの、もしかして俺はあなたと」
「名越さん、ご安心を」
まるで根負けと云える形で声を絞り出した欣二だったが、待っていましたと言わんばかりのタイミングであっさりと遮られてしまう。田原の口調は変わらず淡々としていた。
「すでに帰国途中だと思っていた主人ですが、どうも空港での出発前に、緊急のトラブルが社内で発生したと報告を受けて、対応に追われるため帰国自体を延期とせざるを得なくなったそうです」
混迷とした頭では理解しきれず、返す言葉が思い浮かばない。
「うちには子供もいませんし、ですので、慌てる必要はなくなりました」
と諭す口ぶりで彼女は言う。一方その視線の先は、対象である欣二の頭から爪先へと品定めするかのように動いていく。
「もしかしてですが俺は、あなたと肉体関係を持ってしまった?」
「はい」
愕然とした。長い睫毛が備わる目元を翳らせ若干俯き加減になる様子は、欣二の胸を貫く。
「まま、まさ、まさか、お、俺が田原さんを無理矢理、なんてことは」
「そこは少し複雑ですね。飲み会の帰りで江崎と私が二人であなたをアパートに送り届けるはずだったんですけど、酔い潰れてしまっていたんです。アパートの玄関の鍵はどこにも見つかりませんしどうしようかと思って、ひとまず目が覚めるまでうちで休ませようとしたんですが」
彼女は欣二から顔を逸らし、自らの二の腕をさすった。何かを思い出しているようで肩を上下に揺らす。
「その、あなたに誘われて、なし崩し的に」
「ぬぐううう!」
頭を抱えてしまった。なんたる耐えがたい忸怩。涙さえ滲み出そうになったほどであるが、まず優先して為すべきことがある。勢いよく顔をあげた欣二は折り返し、ひたいを床にこすり着ける。
「すみませんでしたあ! この大罪をどのようにして償うべきか、どうかご主人様に謝罪させてください!」
「それはなりません」
取り乱す欣二とは反面、飽くまで落ち着いてそれでも提案を受け付けなかった田原澄江。その意外性ある言葉に、土下座からハッと顔をあげる。
「それはどうして」
「私はこんな立場ですから、影響力というものが出てしまいます。わかりますよね? 何に影響が出るか」
唾を飲み込んでから、欣二はその冷淡な質問に答えた。
「経営ですか」
「それだけではありませんよ。多数の従業員を抱えているんです。どのような影響が出るか、あなたには想像できないでしょう。それに夫は、少々厄介な性格のうえ無駄に知識を保有しておりまして、何かと法的手段をとってトラブルを解決しようとするのです。コンサルト関連企業を立ち上げて海外を主流に活動しているので、あまり日本には帰っては来ないのですがね。その分、情緒が欠けていて容赦が無いのです。すなわち」
すなわち、報復を受ける欣二は社会的に全力で叩き潰されるだろう、と彼女は言いたいのだ。
「でもそれは、あなただけではないでしょうね。多額の慰謝料を求められるのは、私もです。それに間違いなく離婚に発展するでしょうから、私がオーナーとして関わる商業施設はすべて……だから、他言は御法度、絶対に極秘です」
不貞行為を秘匿する。
それでは、思慮分別して判断したとはとても胸を張って言えない。更にいうならば、今となって忌み嫌う元妻同然の行いをしたとまで云える。そんな欣二の心境を読んだのか、田原はあたかもお見通しとばかりに堂々と向かい立つ。
「不倫されて離婚した名越さんの立場からすれば、少々酷といいますか、切り分けられないところですよね。でも、状況が状況であるのでひとまずは私の言う通りにしてください。念を押して言いますが、これはあなただけの問題でないのです。それに多額の借金なんて背負いたくないでしょう?」
未だに判断に迷う欣二。このワゴン車の中で、記憶さえ無いが眼前の彼女と情事が繰り広げられたのか。想像してしまう。艶めく長い焦げ茶髪からは嫣然とした香りが漂い、白く細長い首すじから、ふっくら尖る唇に、あえかな眼の色、しとやかな手の指は自身の上下する肩に添えられている。強く抱き締められた身体を慰めるように──しかも、誘ったとは──罪悪は胸に重苦しくのしかかる。そこで、最後のとどめと云える容赦無き言葉を浴びせられてしまう。
「もし、あなたが他言してこのことが周囲に露呈された場合、私はあなたを絶対に許しません。二度と立ち直れないくらい、徹底的に潰します」
この仕事を辞めよう。欣二の行動方針は固まる。まずもってこの地より立ち去り、身を隠す選択がお互いのためにも最良ではないだろうか。別に殺し屋に狙われているわけではないのだから、出奔したところで追って来まい。
「それから、私もこんな立場であるので、色々とトラブルの種は事前に押しつぶしたりとしてきたわけですので、実は興信所も抱えているんです。どこでこのことを漏洩されるか心配でなりませんからね。名越さんがどこに逃げても捜し出してみせますので、承知しておいてくださいね」
完全に、逃げられない状態を作り上げられてしまった。別の手立てはないものかとしばらく悩んではいたが、未だに思考がまとまり切らない精神もとい身体では最良の手段を捻出できない。
「とりあえず、車から降りていただけますか。証拠になるものを処分してしまうので」
「わかりました」
「それと、うちの従業員に主人のことを質問しないようにお願いします。下手に詮索して、疑いを受ける要因を作らないこと。もちろん、契約社員である名越さんとオーナーの私に接点があることも不自然ですから、私のことも話題に出さないようにしてください。もし、この警告を無視した逸脱行為の報告があればその時は」
「わかりましたよ。守りますから」
ひとまずは承諾することにした。溜め息すら車内に響く。
のそのそとワゴン車から出ると、驚いたことに想像とは違った空間が広がっていた。一枚の壁を隔てた隣駐車スペースには、黒塗りのわかりやすい高級セダン車が駐められている。
ガレージであることは推量したままであったがしかし、そのスペースは車庫以外の用途にも利用されていた。
ワゴン車の前方にはシャッターがあり、屋外へと出る仕様になっている。目を剥いて驚いただけではなく、欣二がみずからの窮迫状況をも忘れて思わず胸躍らせてしまった理由は、ワゴン車後方のガレージ奥にあった。
広々とした十八畳スペースの床には、青色のジョイントマットが敷き詰められ、天井の梁からは足下まで丈があるサンドバッグが吊るされていた。スチール製のラック棚には、ボクシンググローブとレッグサポーター、キックミットなどの打撃系格闘技で使用する欣二にとっては馴染み深い用具が保管されている。
ついでにパワーラックとベンチ、バーベルシャフトまで角に設置されており、未使用ではないかと思えるほど外観上は真新しい。内装は鼠色のコンクリート壁で覆われた単なる倉庫と云える造りで、壁面には換気扇やら冷暖房機器が設置され、また休憩用ソファに加えて更衣兼用のシャワー室まで完備している。その隣には収納庫まであるようで、さしずめトレーニングルームそのものだった。
極め付けにはハンガーラックに掛けられた純白の空手着と白帯。まさか、線の細い田原澄江が空手をしているというのか。そんな、重なる驚きに見舞われ、ただ佇んでいると、背後から黒色ナイロン製ゴミ袋を手にした田原が、背後から歩み寄ってきた。
「私が空手をしていたら意外だと思われるでしょうね。数年前くらいまで続けていたんですけど、最近は事業の拡大もあったり主人が海外に活動拠点を移したりで、忙しくて道場には行けていないんです」
「なるほど、それでストレス解消も踏まえて、いつでも自宅でトレーニングできるようにと」
「そうです。強くなりたいとか、セルフディフェンスの観点というよりか、まずはストレスを抜くためです」
過度のストレスが溜まるのも無理はない。若くして大勢の従業員を従え、生活までもを守る責任ある立場なのだから、個人専用トレーニングルームが、察するにこの豪邸と思わしき中にあっても必然である。
欣二としては、理想的な練習環境を前に陶然としてしまう。としたところで、我に返る。自分が空手をしていたという過去は、いずれ知られることになるだろうが、この場では隠しておこうと思ったのだ。これ以上、追い詰められる私事的要素を握られるわけにはいかない。
「ところで、名越さんは格闘技にはご興味ありません?」
「ええ、まあいや。多少はテレビで観るなりはありますが」
と曖昧を濁すに留める。
とにかく、話題を広げたくはなかったので深く考えず「田原さんの腕前が見てみたいですね」とご機嫌取りを目的にわざとらしい笑顔を向けていた。
欣二も空手経験者で、過去には多くの門下生を指導してきた。パンチであろうとキックであろうと、ある程度の技は熟知しているので、白帯の技量を見て褒める程度くらいなら慣れたものである。
すると田原は返事をするでもなく、ジッと欣二の顔を無言で見つめてから「いいでしょう」と、空気より重い承諾の言葉を発し、スチールラックからグローブを取り出して両手に装着した。
そして、全長百五十センチはあるサンドバッグ前へと進んでいった。つい先ほどまでの閑寂とした眼差しとは違い、目元には殺気といえる力が込められている。
「あれ、ちょっと待って。そのままで?」
オーソドックススタイルの構えをとる彼女の衣服は、落ち着いた女性の魅力を引き立てるカーキカラーのシャーリングプリーツワンピースで、丈はスネ付近まである。履き物はピンヒールファッションサンダルであり、誰が見ても運動には不向きと思える装いだったのだ。
欣二が制止するも、次の瞬間。
「せいやあっ!」
所謂、裂帛の気合が田原の口から発せられ、コンクリート内壁に幾重も反響する。
綺麗なフォームだな、と数メートル離れた位置から見守る欣二の眼に焼きついたのも束の間、パアン、と黒い合皮面に波紋を残して弾いた右ストレートは、無駄の少ない素早い体重移動から摺り足につらなり放たれた。
直後のことであった。梁から吊るされたチェーンがシャンと鳴り、およそ五十キロはあるサンドバッグが揺れるその下で、足首を捻った田原澄江が苦痛に顔を歪めて蹲ってしまったのだ。抑える右手首までもよもや捻ったのか。
「田原さん、危ない!」
次なる事態を予測して咄嗟に駆け寄った欣二だが、目眩と頭痛に襲われ膝を落とす。その目の前で、痛みに耐えきれず涙ぐむ田原澄江は、大きく揺れたのちに戻ってきた五十キロサンドバッグからの逆襲を受け、なす術なく後方に吹き飛ばされていくのだった。
「病院はそこを右になります」
そう指示した田原澄江は、現在空手着を着用している。
転倒の際、サンダルのヒールでスカート裾を踏みつけたせいで、ワンピースは無惨にまで破れてしまっていた。負傷から身動きがとれないので、とにかく近くにあった空手着で代用したというところだ。
腫れた右手首は、氷のうで冷やしている。左手薬指には、結婚指輪にしては少々似つかわしくない小ぶりなダイヤがあしらわれたリングが嵌め込まれていた。
ワゴン車の中で欣二が目を覚ました時刻は早朝八時頃だったらしく、だからか負傷した田原を乗せて総合病院に向かう土曜日の道路は思いのほか交通量は少なく、それでも乗り心地は快適といえなかった。幸い欣二の業務開始は翌週の月曜日からで、本日予定は無い。
右手首と右足首の捻挫、それから床でしこたまぶつけたひたいの擦り傷は実に痛々しく、左ハンドル運転席からルームミラーに映る不貞腐れた表情の田原を後部座席に乗せて運転している欣二の身としては、自らの軽率な発言に責任を感じるところであった。
痛いよう、と声を殺して咽び泣く田原を当然放っておくわけにはいかず、頼られるがままガレージに駐めていた左ハンドル高級外車で病院に向かっている最中だ。
例のワゴン車を利用しなかった理由は、本来の所有主が総務部長の江崎であるし、不倫行為を起こしてしまった揺るがぬ現場となるだけに細心の注意を考慮して外に出したくなかったとのこと。
ちなみに江崎は、不貞が発生する前にタクシーで帰宅したらしい。
「名越さん、笑わないでくれませんか」
「いや、笑っていませんが」
口をへの字にして、眉間に皺をこさえた欣二の心境は、どうやらお見通しのようだった。思い出し笑いがこみ上げ、今すぐにでも両手で顔面を覆い尽くしたい気分である。
「左ハンドルは初めてで、どうも緊張するんですよ。顔が強張っちゃって」
「そうですか。これ、主人の愛車なんで注意してくださいね」
仕返しとばかりに精神を揺さぶってくるので、当の欣二は「素晴らしい正拳突きでした。途中までは」と、いくばくか皮肉を込めて褒め称えた。
ぐう、と本日初めて人間臭さのある仕草を顔に灯し、そっぽを向いてしまうその様子に、若干だが欣二は彼女の本質に触れた気がした。
現在年齢二十八らしい田原澄江という女性は、経営者という立場であるゆえに、どのような事態を目前にしても冷静沈着であり、鋭い洞察力で対応し、努力と経験から生み出される圧倒的カリスマ性で、歳上の管理職従業員まで率いてきたのだろう。見上げるべき英明な女性が、気分で放った欣二の言葉に乗せられ、実力を証明しようとし、結果、怪我まで負ってしまったという有り様。
まさかの凡ミスをおかすとは、と少々懐疑的になったりもする。
「ちなみに、空手はどの程度の期間していたんですか」
彼女の空手着姿は、少々不恰好といえた。
「数年程度ですよ。最近は特に練習がおざなりになっていたので、ウォーミングアップ無しではやはり」
と力無げに溜め息を吐き出す。そんな細い身体でもある程度、熱を上げて練習に打ち込んでいたのだろう。一瞬垣間見えた完成度の高い動作は、多少目を見張るものがあった。
──細い身体、か。
自分の上で揺れる白い影。幻や夢ではなかったということだろうが、まるで記憶が無い。
「全然覚えていないんですが、俺は本当にあなたと」
「ええ、しましたよ」
ことなげに返す声は、途端に無感情で機械的に変化した。深く話す気も無いと言いたげだ。素っ気ない彼女もまた、事後に後悔したのではないだろうか、気丈に対応せざるを得ないのかもしれない。もっとも、欣二の身体には何一つ彼女と重ねた肌感覚が残ってはいないのだから、猜疑心も芽生えてしまう。
「まったく覚えていなくて、それに俺、強い方じゃないですけど酒を飲んで潰れたことなんて一度も無かったんで」
「火傷みたいなものですね。本当に……あとまで残る。いろんな意味で」
会話の脈絡を無視したその哀愁染みた言葉は、黙って認めろ、と遠回しに言っているようだった。そんな後悔に染まった顔をミラー越しで目にしてしまえば、これ以上の追及はできない。不倫とはこうも虚無感に襲われるものなのか、と。
「一度、線をまたいでしまえば、二度目なんか簡単に越えてしまうんでしょうね」
そんな何の感情を伴わない田原澄江の言葉が、慣れぬ左ハンドルを運転する欣二の心をこれ以上ないほど揺れ動かしてしまった。
「あ」
結果、病院正面玄関口前の屋根付きロータリーで縁石に乗り上げてしまい、黒塗りのボディをポールに擦りつけるという大失態を起こしてしまうはめになったのだ。
ハンドルを固く握ったままブレーキペダルを踏んで、声も出せない欣二。恐る恐るルームミラーを確認すると、写し出された女性の唇がゆっくり動くところだった。
「この車、もちろん保険はかけていますが、運転手限定特約を家族限定にしていまして」
「まさか」
欣二は絶句した。運転手席へと身を乗り出し囁く声を、耳元に受けて。
「運転させておいてなんですが、修理代金は弁償してくださいね」
「いま、あの、お金無くて」
「とりあえず、立て替えておきます。それから、手首と足首が完治するまで私、運転ができませんので」
欣二は、次の言葉を予測して絶望する。
「通勤する際は迎えに来て下さります? 運転手として名越さんを雇えば、また何かあっても怪しまれませんし」
「なにか、って」
ハンドルに突っ伏した欣二は、かろうじてそう洩らし、己が流されゆく未来を恐れ、泣きたくなっていた。
「ちなみにですが、私を脅そうなんてしても無駄ですよ。その時は、あなたの肉親全ての人生が終わると思ってください。報復とはそういうものです。ただし、秘密を守っていてくれたなら、半年後には名越さんを正社員にしてあげます」
「田原さんは嫌ではないんですか? 不貞相手の俺が、同じ会社にいるなんて」
欣二の釈然としない質問に、田原澄江は少しの間だけ考える素振りをした。それから含み笑いを混ぜて言う。
「興味があるんですよ」
「興味?」
破滅へ向かうピリオドに──そんな会話を思い出す、畳床に寝っ転がって放心状態から抜け出せない欣二は、ゆっくり目蓋を閉じて光を遮る。
その日は、診察後の田原澄江を家に送り届けたのち、謂わば茫然自失状態でアパートへと帰宅した。重なり渦巻く想定外の事象が、我が身に襲いくる。
再起を試みた新たな生活に早くも冷や水をさされた、どころではない沼落ちした心境ではあったが、ここで折れるわけにはいかぬと欣二は安アパートの居間で両頬を張って奮い立つ。
時刻は正午、警察と車輌保険調査員が来て事故後の検分だのと済んだ後に、なんだかんだとかえって気分が紛れてきた。それは、自由気ままに行動できるスペースが、余す時間と共に存在するからだ。
結婚生活を送っている際など土日休みと慣れば元妻に「家族サービスをするべきだ」「芽依が小さいうちに思い出をつくっておくべきだ」と囃され追い立てられ、最終的には仕事で溜まった精神的疲労を癒すことなく時間の大半を費やし貴重な休日は終わる。
そうでなくても、家族の共有スペースであるリビングルームでゆっくり寛いでいれば、掃除中の元妻に煩わしく見られるが為に手持ち無沙汰感をもって居心地悪く、娘を連れて外へと逃亡し、帰りが遅ければ「どこに行ってるの」と電話がくる。離婚後、実家で二年間の怠惰生活を送っている時も、やはりどうしても肩身狭い思いをした。
「独り言はまあ多くはなるけど」
好きなだけ昼寝をして、好きな料理を作って、好きなだけ外出したところで誰にも迷惑をかけない。それでいて、学生時代と違ってある一定の収入もあるうえに、自動車も所有しているので行動範囲も広い。勿論、外食もしほうだいであるし料理も最低限の栄養さえ摂取できれば手抜きで良い。
「あれ? もしかして、結婚経験した後の独身生活って最高なんじゃないかこれ」
借金と不貞履歴を拵えてしまった自らの立場をこの時だけは忘れて、欣二は近所迷惑も意に介せず叫び上げるのだった。
「俺は無敵だあ!」
結局その日のうちは二日酔いの残りが正常な思考を阻害させていると自覚があったので、たっぷり睡眠をとって回復に専念することになった。
ただし、悪夢を見る。繰り返し繰り返し、自分の上で揺らぎ続ける白い影が、声を荒げて責め立てるのだ。泣き叫びながら。
ところが、目覚めた欣二にその詳細は残っておらず、ただ苛まれる感情のみが胸奥に焦げ付いていたのだった。
それから更に一日を挟んだ月曜日の朝より、新入社員名越欣二の本格的な業務教育が開始された。無論、オーナーの田原澄江が現在独りで暮らす、二百坪の敷地内に荘厳をもって建つ謂わば西洋風外観の豪邸に中古軽自動車で迎え、無言の気まずい通勤時間を経てからとなったが。
まず欣二は研修期間として教育係に付き添われた状態で、大型食品スーパーの業務を覚えていった。
開店前の清掃業務は客の目に留まりにくい物陰まで気を遣い、隅々まで拭き掃除をしなければならない。接客時の基本的な対応マニュアルを頭に入れて、実際に現場で商品陳列しつつ職場環境に慣れていく。多くはパートタイマーの中年から壮年の女性従業員が主で、中には夕刻から学生アルバイトがシフト入りして回しており、その業務管理の一端はチーフマネージャーでおなじみ、山中文和が担っていた。
初めての体験ばかりで、そのうえ久しぶりの肉体労働である。初日から齷齪と働き続けてようやく退勤時刻である十八時が過ぎ、タイムカードを切ろうとした頃合い、待ってましたとばかりにその山中が血相を変えて「良かったまだいた!」と駆け寄ってきたのだった。
「実はちょっと書店の方で問題が起こりまして、今からでも手伝っていただきたいのですが」
「書店で問題ですか? まさか、寺内さんとか?」
欣二は眉をひそめ、思わず逡巡する。
「そうなんです。ついさっき事務所に連絡があって見にいったら、腰を痛めてしまったようで、今すぐに動けないようなのです。しかし、今日の検品業務もまだ終わっていないようで」
「俺は検品業務なんてやったことないですが、何か手伝えることがありましたら力になりますよ」
「ありがとうございます」ほっと安堵した山中が手早く説明していく。「腰の調子はかなり良くはなったようなのですが、それでも書店に陳列する業務で人手が足りていなくてですね。寺内さんの指示通りにしてくださるだけで結構なんで」
緩急付けて喋り続けたのち、力無くがくりと頭を落としてしまう様子を見てしまえば、さしもの欣二も当然見過ごせない。家族持ちの頃は、育児もあって早く帰宅できるよう専念して定時までに担当業務を完徹させていたが、現状、焦って早く帰ったところで誰かが待っているわけではない。
「勿論、手伝わせていだだきます」
タイムカードを切る手を戻した欣二は笑顔で快諾した。山中はわかりやすく「本当にありがとうございます! 名越さんが来てくれて、わたくし感無量でございます!」と欣喜雀躍とばかりに喜びを大仰に全身であらわす。
欣二はそんな彼を目にして心和む。そして、対人的性質にさえも改めて触れた気がした。この男は性別問わずさぞ他人に好かれるのだろう。
自覚無しにそうしているのか訊くも無粋であるのでそうはせぬが、仕事柄か、それともそもそも天性の持ち前か、或いは単に腰の低さと愛想が混ざり混ざって自然に態度へ発揮させるのか、いずれにしても対象の承認欲求を満たす大袈裟とも云える反応を、彼は惜しげもなく振る舞うのだ。
「山中さんは、上司の鏡ですねえ」
と控えめなお返しをすれば「いやはや、とんでもないですよもう、やだなあ!」年甲斐も無く、顔を隠して照れる。
「ところで、金曜日の飲み会なんですけど、俺ってかなり飲んでいました?」
「いえ、それほどではなかったんですが、二日酔いがつらかったですか? 飲み会自体が久しぶりと言われていましたし、慣れていない人に囲まれてちょっとアルコールが回りやすくなっていたのかもしれないですねえ」
うんうんそうに違いない、とひとりしきりに納得する山中は変わらず曇り一つない笑顔である。
「あの後、俺がどうなったか知っています? ちょっと記憶が無くてですね」
「ん? 江崎さんとあとから来たオーナーが、ワゴンに乗せて送って行くと言っていましたが……おお? まさか? 何か面白いお話が聞けるということでしょうか? 教えておくんなまし!」
「いや、ちょっとそれほどではないんですが」
逆に問われて面食らう。社会的地位としても倫理的立ち位置的にも雲の上であるオーナーの田原からは、詮索せぬよう強く釘を刺されているのだ。まして、この話題から行き着く先は、我が身にかけられた呪いへと辿り着くだろう。つまり、禁忌である。
「江崎さんやオーナーに失礼を働いていないか気になっただけなんです。なんせ記憶が無いんで」
「大丈夫ですよ! 江崎さんも今朝からそんなことは言っていませんでしたし、何やら苦笑いが絶えない感じでしたけど、機嫌は悪くなかったですよ? あと、髪を切って染めていましたねえ。よおく、お似合いでした」
細いところまでよく気づく男だと、欣二まで苦笑する。若い頃はさぞモテたであろうに、それでも大型書店に隣接する倉庫に到着すると、寺内恵子の無惨な様相を見るや「寺内さん、ご指名の名越さんですよ。では、わたくしめは急ぎの所用がありまして」と何故か及び腰となった山中はそそくさと去っていってしまった。
「あの、腰を痛めた、と聞いていたんですが……大丈夫、じゃないですよね?」
「はい」
何食わぬ顔で返事をした寺内は、事情を知らない他人の目からすれば、嘲笑されかねない状態である割にまるで気にしたふうでもなかった。
台車が三台並べられた二台のうちには、商品である書物関係が入っていると思われる段ボール箱が、三から四と積み上げられている。そのうちの一台には、書店のユニフォームエプロン姿の寺内恵子が、希薄な表情で所謂三角座りをしているのだった。
「時間が無いので早く書店の方へ行きましょう。私が指示した棚に並べるだけでいいので、別に難しくはないですよ」
要するに、私も運べ、ということだ。
呆れた胸懐を顔には出さず請け負った欣二は、お荷物が乗った三台の台車を書店に運び込み、彼女の指示に従い作業を続けた。まだまだ客がチラホラと残る店内の通路、奇異の目が降りかかるも彼女の乗る台車を押し進め、止まれと言われば止まり、曲がれと言われば曲がるの繰り返しで、品薄となった商品を既定の場所に積んでいく。
とうとう作業も終盤へと差し掛かったところで、不意に未だ台車上に座る寺内がリスト表を片手に「あの」と控えめな声を出した。
「はい、どうしました?」
「これ、最近出版された私オススメの不倫小説なんですが、読んでみませんか」
手渡された文庫本を目にして閉口する。女性側が不倫する題材ばかりの短編集で、あらすじを読むだけで辟易とするどころか、過去の累積から生み出される左胸の古傷に鈍痛を呼んだ。
「いや、結構です」
「そうですか。ドキドキしながら読めて楽しいんですがね、男性主体の官能小説と違って露骨な性表現も無いですし、心理描写も細かいし、短編集なので展開も早いですし」
「不倫ものは、俺にはちょっと刺激が強くて」
この女わかっていてやっているんじゃないだろうな、と僅かに寄せる眉間を背けて作業に戻る。寺内恵子という女性は、オーナーの田原澄江と年齢も近く、感情をおもてに出さない態度も酷似している。もっとも、高慢な空気が眼差しや潑剌とした口調から滲み出る女王然とした田原に比べると、寺内は声質こそ高いものの地を這うような発声の仕方に加えて単調でボソボソ喋るため幾分素朴に感じる。
なので、気分的に態度を改める必要も無く、楽と感じた欣二は恥じることなく笑って言った。
「前に酒の場で言ったと思いますが、俺も不倫された身ですので」
「それです」
「それ?」
「以前にも軽く話題で出ましたが、実は私、小説を書いていまして、小説投稿サイトを利用しているんですが、残念なことにあまり読まれていないんですよ」
「なるほど、ということは不倫小説をですか」
「いえ、純愛ものです。ただ、これは恥ずかしいので誰にも言わないで欲しいんです」
恥ずかしいと言う割には、完全無欠の無表情である。ノンフレーム眼鏡奥の冷めた目でさえ、くすりとも笑わない。
「それを……どうして俺に教えてくれたんです?」
寺内恵子は変わらず低い調子でこう言う。
「不倫小説の執筆に挑戦してみようと思ったからです」
会話の脈絡を考察した結果、彼女の口から次に出る言葉を、欣二は漠然とだが読み取ってしまった。
「監修してもらえませんか? 経験者から助言をもらいたいんです」