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新たな世界

 六畳一間の畳床は、親切な大家の計らいで新品に取り替えられており、そのため仰向けに寝転がると解放感のある香りが鼻腔に広がった。襖や天井、また土壁は築五十年以上となる古アパートの歴史を感じさせる程にはこと足りる。

「大学受験が嫌で、高校卒業したら殺し屋になるんだ、なんて馬鹿なこと言ってた時代があったな」

 殺し屋になったらこんなアパートを住み家にするとまで、妄想していた夢心地な学生時代。

「馬鹿過ぎて、懐かしい」

 独り言は、外を暴れまわる風雨に掻き消される。

 本日をもって満三十歳を迎える名越欣二は、茶褐色の板天井から吊られる照明をしばらく眺めたのち、目を閉じて建物全体を揺るがす強風に耳を傾けた。

 二年前を思い出す。

 二年前のこの日、自分の誕生日に様々な事柄が発生したのだ。栄光と挫折、それから絶望と失意。言葉にすれば単純だが、よんどころない複雑で濃厚な驚異が我が身に降りかかった。

 あれは、全日本ウェイト制空手道選手権大会が大阪で開催された真夏日だった。

 幼少期より身体が弱く、運動に適していなかった名越欣二は、大学を卒業して就職、更に間を置かず二十三歳での結婚時に大病を患い、回復後それを期に運動を始めようと決意した。

 球技は苦手どころかつまらない、団体競技はミスの押し付けあいという印象が拭えず性格的に無理、ダンスなどのパフォーマンス系など目立ちたくないのでもってのほか。

 ならばと、元より興味があった身近なフルコンタクト空手を試してみようと思ったのだ。子供の頃から運動神経は皆無だったが負けん気は強く、また人まねが上手く、股関節の柔軟さも項をそうしたのか、思いの外、すぐに才能が華開いた。

 重鎮の師範からは才能があると目をつけられ、身のさばきから得意技のハイキックまで数多の種類、直伝された。

 空手に熱中するあまり、週に四回は必ず道場に通い、筋力トレーニングも欠かさずそのかいあって、数年あまりで黒帯取得。地方の小さな試合に出場すれば、優勝こそなかったが入賞は常連になった。師範からの実力評価は折り紙つきで、欣二を認めない道場生など一人もいなかった。皆が皆一様に、欣二のキレあるハイキックを習おうと集うため、練習日は毎回盛況となり、周りには常に技術の伝授を求める練習生がいた。

 だからこそ、名越欣二は大舞台へ挑戦の意志を決したのだ。鍛練を重ねて、得意技のハイキックに磨きをかけた。威力、速度は、既に若かりし頃の師範を超えたと、当の本人に言わしめた。

 夏の陣、七十五キロアンダーの中量級に出場した名越欣二の身のたけ百七十八センチの身体は、最良といえるコンディションで、体脂肪率は十パーセントを切っていた。筋肉は隆々としていて、脱げば見る人の口から驚嘆を漏らさせるほどに。

 それでもしかし、全国から実力者たちがこぞって終結するのだ。欣二の地方での入賞経験など知るわけがない。無名選手となれば、なおさら注目されるなどまずありえない。

 それが逆に、気分を楽にさせた。

 初戦が始まる前、観衆は欣二の敗北を確信していた。相手は前回ベストエイト入りを果たしている強豪であるだけに、その前予想は決して間違ってはいない。今年こそは、と相手の息巻いた様子が試合スペースに立つ欣二にも見て取れた。

 四方を囲う紅白の旗を持った審判、中心に立つ主審。二階観覧席を隙間無く占拠する大勢の客。その中に、愛する妻と娘はいない。

 きっと優勝トロフィーを持って帰ると宣言し、早朝に自宅を出たのだ。そして、今に至る。

「礼!」審判が言う。

「押忍!」

 古くなった空手着の前で腕を交差させ、切り落とす。

「始めえ!」

 その合図が、平和な日常の瓦解となる全ての始まりだったのかもしれない。

 対戦相手が接近間際、欣二の右足が唸った。

 一回戦をハイキックの一撃で突破した際は、まぐれだ、と観衆にささやかれた。

 二回戦をハイキックの一撃で勝利した際には、運が良かっただけ、と妬み半分で冷笑を送られた。

 三回戦をハイキックの一撃で沈めた際には、観衆は口を閉ざしてまるで態度は変わっていた。

 四回戦をハイキックの一撃で仕留めた際には、にわか信じられない、とどよめきが広がっていた。

 五回戦の準決勝をハイキックの一撃で相手選手を担架送りした際には、辺り一帯割れんばかりの歓声で占拠されていた。

 そして、六回戦の決勝を前に立ちはだかるは、前回王者の実績を風格にして身に纏う猛者である。欣二と背格好は似て年齢も大差ないようだったが、実力はこれまでの対戦相手と一戦を画すと確信させる。

 眉は太く、眼光鋭い。武骨という言葉の権化といえる、いかにも雄々しい男だ。ここまでの試合を全て右の正拳突きのみで勝ち上がってきたのだという、ある意味、空手家の中でも特異性を持っている選手だった。

 観覧席から一際大きな声で「京介! がんばってえ!」と叫ぶ女性は、察するに彼の妻なのだろう。遠目でも美しい外見をしているとわかる。

 空手には一切興味を持たない我が妻に比べれば羨ましい限りだ、と失笑が口元に滲みかけた。

 気を取り直して息吹きを一つ、審判を挟んだ前回王者を前に集中を取り戻す。これに勝てば、中量級日本一の称号を獲ることになるのだから。

「礼! 構えて! 始め!」

 どっと沸き上がる歓声。

 真っ直ぐ距離を詰めようとする相手を冷静に捉える欣二の精神は、極限まで研ぎ澄まされていた。

 微塵の殺気も無い蹴撃が、示し合わせたかのように相手の左側頭部に叩き込まれる。

 なんともあっさりとした終わりか、欣二のハイキックを受けて倒れなかった者など今まで一人もいなかった。床へ倒れゆくだろう、と思いきや驚いたことに相手は、平然と立っていて、のみならず油断した欣二の左胸に、それは凄まじき正拳突きを直撃させたのだ。背中まで突き抜ける重い衝撃に、数歩退いてしまうがしかし。

 負けじと、次は左からのコンパクトなハイキックを放ち、その足の甲が相手の下顎を正確に打ち抜く。

 これには体幹が揺らいだ、と機をみた欣二は、続けざまに大外からの右ハイキックを放つ。立て軌道の変則回し蹴りはマサカリがごとく熱気を断ち切り、太い首にめり込んだ。

 それでもしかし相手は倒れず、ばかりか踏み込むと同時に、避ける間も許されぬ欣二の左胸に正拳を繰り返し打ち込むのた。

 背骨が悲鳴をあげている。拳で応戦しても敵わぬと踏んで、一旦離れ、再び相手の接近を待った。

 自分は冷静だ。そう言い聞かせる欣二の精神は、焦りというボヤから鎮火するが、それでもなお左胸は急迫危機を訴えていた。ガードしても腕ごと粉砕してしまう、高威力の正拳突き。しかし、欣二もおのれが武器を侮られるわけにもいかぬと、自分の振るう右脚に裸の魂を乗せた。

 空手歴きってと自負する最高速の上段回し蹴り。相手の左腕の上から直撃した右脛は、勢い緩むことなく後頭部を襲う。これほどない打ち応えが、欣二の腹奥にまで響く。頭蓋骨の奥どころか、頚椎にまでダメージを与えたのではないか。

 ──ちょっと待て。嘘だろ。

 息切れも顕著とする試合中であるのに、背骨が凍りつくほど心底から恐怖を感じた。

 相手選手は立っていたのだ。彼の眼の奥で燃える炎は、欠片も勢いを弱めていない。欣二は、攻めている立場であるというのに退いてしまっていた。

 右の拳は悪魔のようだった。相手選手の口から放たれる裂帛の気合いは、こちらの戦意をあっさり打ち消す。

 数度繰り返されたのち、最後の一打となる拳を真っ直ぐ左胸に突き立てられ、欣二はとうとう試合開場の床に倒れ伏した。

 大歓声の末、大舞台での戦いは幕を下ろした。失神した欣二は、大勢から称えられた盛況を知らない。担架で救急室に運び込まれ、AEDにて心肺停止状態から蘇生されていたからだ。

 その後、無事意識を取り戻した欣二は、準優勝のトロフィーを受け取らず、病院へと救急搬送されるはめになった。なんて情けない敗北。みんなに顔向けできない、と気持ちは極限にまで落ちる。

 精密検査ののち胸郭のひび割れを告げられ、地元の病院で治療を受けることになった欣二は、瓦解するプライドと共に賃貸の自宅アパートへと帰った。

 時刻は二十時過ぎで夏とはいえとうに日は暮れ、蒸し暑い夜が辺りの住宅街を覆い尽くす。駐車場に車をとめて建物正面玄関へと向かおうとした際、「名越欣二さんですよね?」と呼び止めれた。

 振り向くと、面持ちに緊張を呈した大学生くらいの若い男が佇んでいた。なよっとした体格で、中性的かつ整った顔つきだ。若い女性に人気があるアイドル風の容姿をした青年。欣二は奇妙な胸のざわつきを覚えて、眉をひそめる。

「そうですが、どちら様でしょうか」

「僕は、やぶきとうま、という名前です。美紀さんの不倫相手です」

「はあ?」

 名越美紀は欣二の妻だ。骨に亀裂が入る胸が、ずきりと痛む。

 美紀とは大学時代に知り合った。喫茶店でのアルバイト中に美紀が来客。そのさい騒動があり、急接近ののちに交際へと成った。欣二が返す言葉に迷った理由は、青年の眼が真剣だったからだ。戸惑うより他なにもできなかった。

「信じられないとは思います。でも、本当です。僕は美紀さんと結婚したい」

 彼の説明はこうだった。

 これから美紀は、欣二に「古い友人が交通事故で入院した」と、嘘をついて薮木とホテルに行くのだという。娘の芽依は、実家にあずけているので帰りは遅くなるというだろう、と。

「もしかして美紀は、君が俺にそれをバラすことを知らないのか」

「その通りです。僕はこれから待ち合わせ場所である駅前に歩いて向かいます。美紀さんが車で迎えにきてくれることになっています」

「君は大学生か?」

「いえ、僕は物書きです。今年二十歳になります。小説を生業にしています」

「なるほど」

 納得してしまった。専業主婦の妻は最近ひまがあればノートパソコンを開いて小説を書き連ね、コンテストに応募しようと躍起になっている。高校生の頃の夢を、十年経過した今になって叶えようとしているのだ。

 オフ会か何かで知り合い、小説執筆の相談を受けている内、そのままなし崩し的に仲良くなったという類いか。反応し難い事実を聞かされ、それでも険しくなる顔を抑えられない。

「きみ、俺がそれを聞いて怒らないと思ったのか」

「怒られても、殴り倒されても僕は意思を伝えるつもりでここにきました。どうか美紀さんと別れてください。よろしくお願いいたします。あの人を愛しているんです。あの人も僕を愛していると言っています」

 辺りには人はいなかったが、あまり声を出すと近所の住民に聞かれかねない。とにかく、ショックではあったけれども、美紀に事実を確認しなければ話は始まらないと思った。

「美紀さんは、苦しんでいるんです。あなたとの生活に。美紀さんは、僕に生きる糧を見出したんです」

「もういい。わかった」

 背を向けた欣二の胸奥で心臓が激しく叩く。厚い胸板を形成する筋肉と骨までもが、刺さるような痛みを訴えている。安静にするべきであるのに、苦痛に顔を歪めながらエレベーターで五階へと向かい、それから自室の扉を開けようとドアノブに手をかけると、ちょうどそのとき外出準備をした美紀が出てきた。綺麗に粧し込んだ姿は、確かに病院への見舞いにしては少々派手だったが、言われてみなければ気づきもしなかったかもしれない。

「あら、あなた。早かったわね」

 とまるで悪びれも無く言う。

「ああ、ただいま。出かけるのか」

「古い友達が交通事故で重傷なの。今から病院に行ってくるわ。ごめんなさい、あなたの誕生日なのに」

「芽依は?」

「実家にあずけているわ。帰りに迎えてくるから、あなたは気にしなくて大丈夫よ」

 まるで感情に起伏ない声だった。それでも、目を合わせて本当のことのように話す。

 ここまで平然と嘘とつけるとは思わなかった。その様子に最初こそ驚いていた欣二だが「わかった。行っておいで」と表面上こころよく送り出した。

 3LDKの部屋に入ると、まずシャワーを浴びて熱くなりそうになる頭を冷やした。愕然となり、思考までも抜け落ちていく。美紀の態度、話し方、仕草、そして外出時の装い。これまで、何度もあったと思う違和感。もしかすると、奇妙な引っかかりを感じた日もあったかもしれないが、欣二はあまり気にも留めていなかった。

 したがって、何度も何度も不貞行為は繰り返されていたのだ。

 美紀が独りで帰宅した時刻は、日付が変わる境目だった。

「あら、あなた起きていたの?  試合で疲れていない?  あ、芽依はお母さんの家に泊まってくるから。もう四歳だし問題無いでしょ」

 と、ご機嫌な笑顔で聞いてもいない事情をつらつらと話す。

「友達の怪我はどうだった?」

 欣二はダイニングテーブルの椅子に座り、口へつけていた缶ビールを離してから尋ねた。

「ええ、それほど酷い怪我じゃなかったわ。本当に良かった」と、清々しい笑顔で返ってきた。

「そうか。ところで、君が見舞いに行く直前、アパートの駐車場で藪木斗真って男とあったんだけどな」

「え?」

 滑稽だった。キッチンでコーヒーの用意をしていた美紀は固まってしまっていた。

「話は聞いたよ。離婚しようか、美紀」


 それから、離婚までとんとん拍子で進んだ訳ではなかった。「私は別れるつもりはない。あなたのことを愛している。芽依にとっても離婚はよくない。私はこの家庭を守りたい」そう美紀が平然と言った時には、さすがに憤怒が身体中を満たそうとした。ところが、波打つ心臓、激しくなる血流、熱くなる頭が、負傷した胸郭に耐え難い激痛を及ぼしたとなれば、我慢するしか他に方法はない。

 冷静な話し合いから結局、円満離婚という形で、お互いの両親共々納得した形で家族は離散するに至った。家庭裁判所でも協議を重ね、結果的に娘の芽依とは週に一度会えるという権利までは獲得できた。こうなったのも、妻の美紀が形の上だけは自責を認めたからだ。

 欣二は不貞相手となる藪木に慰謝料を求めないことにした。もちろん、離婚の原因を作った側の妻から請求されることもなく、また離婚後、藪木とも百日後に再婚を予定するというので、母方の扶養につく芽依の養育費は支払わなくても良いとこれも双方の承諾で取り決められた。

 さあらぬ体の藪木と顔を合わせる都度、自分のものとは思えぬほど激しい義憤が湧き上がった。だが、いつしか激情と共に胸の痛みがひどくなるようになってもいた。胸郭の負傷はもうとっくに治癒しているのにだ。だから、欣二は常に平常心を保っていられるよう、怒りを抑え込む手法を会得した。

 家族の終結日、家を出る際、冷めた眼差しの元妻に言われた言葉が、未だに胸に深く突き刺さったままだ。

「あなたはいいわよね。空手でチヤホヤされていたんだから。あなたが、空手なんかにうつつ抜かしていなければ、こんなことにならなかったのよ。私が斗真を求める原因を作ったのは他でもないあなたの空手よ。あなたが、私の小説を褒めてくれたことなんてあった?  読んでくれたことなんてあった?  あなたからは、つまらない日常しか与えられなかったわ。私の時間や楽しみ、芽依もこの家庭のことだって全部、あなたの空手の犠牲になったのよ」

 欣二は、何も返せず独り自分の車に乗り込んだ。愛娘を抱き締め最後の別れを告げるつもりであったのに、逃げるようにその場を後にしてしまったのだ。それ以来、空手は辞めた。

 確かにそうだったのかもしれないと、一度でも考えてしまえば頭の中をそればかりが巡り巡って離れなくなり、そして真に胸を貫いてしまったからだった。

 別れの言葉を交わそうと幼い娘が待っていたのにも拘らず、自分は逃げた。

 それから二年間、一度も会っていない。

 元妻へ自分から連絡することもなければ、会ってやれと言われることもなかった。


 その後の欣二といえば、化粧品会社という女性が多い会社で経理の仕事についていたゆえ、不倫の件で女性不信になってからというもの何かとストレスを感じ、そして空手という解消どころを失った状態で体力ともに次第に弱っていった。

 仕事上のミスも重なり、身体も壊し、離婚後半年で会社を辞めた。実家に帰り農業を手伝いつつ、気ままに過ごす中でも、婿養子をもらっていた妹は、度々思い出したかのように憤慨する。

「小説書いてるそんな八歳近く若いガキに寝取られたって、悔しくないの?  もっと怒りなさいよ!」

「うるさいな。もういいんだって。落ち着いたら出て行くから、もうちょっとだけいさせてくれ」

「それはいいけどでも、兄ちゃん。もう二十八でしょ? 早くしなきゃ、再就職できなくなくなるよ」

「わかってるよ」

 わかってはいても、一度逃げ込んでしまえば腰も重くなるものだ。両親からの心配も充分承知だが、生きる気概さえない。一度に多くのものを失い過ぎた。

 日々の妹の目線にも同情が含まれている。

「空手はもうしないの? また細くなってるよ」

「自信が無くなった。もうしない」

「でもまた、あんな大きな病気になったら元も子もないよ? てか、あの女、つくづく疫病神ね。結婚した途端に兄ちゃんは病気で死にかけたし」

「もう悪く言うな。終わったことだよ」

 冬を季節にしたコタツ越しの兄妹の会話から時は経ち、年月はいつの間にやら、一年以上が流れていた。

 年を越え、とある六月の夜、就寝間際に欣二のスマートフォンに着信が入った。相手の名を見るや否や、布団から飛び出て正座する。以前、所属していた空手道場の師範からだった。恩年七十になるが、まだまだ生気漲るがなり声がスピーカーから飛び出る。

『欣二、明日うちに来い。たまには稽古つけてやる』

「押忍! じゃなくて、俺もう辞めたんですけどね」

『いいから来いよ!』

「押忍!」

 背筋を伸ばして返事をした明くる日の朝、欣二は古びた道着をボストンバックに詰め込み、車で実家を出た。二度と戻ってきたくはなかった街ではあった。それでも、短時間とあらば、元妻に顔を合わせる機会もないだろう。

 広い敷地を瓦屋根の白塀がぐるっと囲う、その中にある屋敷隣建物が長年通った空手道場だった。

 入り口で礼をして、久しぶりでありながら慣れた道場の板間へ裸足の足を踏み入れると、すぐに空手着姿の師範が現れた。熊のような体格をした剃髪の大男である。厳しい顔で鼻を鳴らす。

「まず正座しろ」

「押忍」

 師範と正対して、指示された通りに正座する。午前中であるので、道場に練習生は誰一人いない。

「欣二、空手を辞めてしばらく経つがどうだ。また、やらねえか。 離婚なんてつまらん理由でやめるなんてな、もったいねえぜ」

「それだけではなくて、俺にはもう空手で勝つ自信が無いんです。あれだけ、練習したハイキックが決勝戦じゃ微塵も通用しなかった。それに空手のせいで家庭を壊してしまったと思うと、これ以上できる気がしません」

「馬鹿野郎が。お前は今、家庭を持ってねえだろうがよ。思う存分、空手をやってもいいんだよ。お前の元嫁だって今頃、好き放題つまんねえ小説でもなんでも書いてんだろうが。んなもんに負けて悔しくねえのか。お前の空手を求めてる奴だっているんだよ」

「しかしですね」

 と、言い淀むと師範はそれを手で遮った。

「しかしじゃねえ。そんなもんでどうする。二年前の中量級の決勝戦は、伝説みたいに語り継がれてんだ。ハイキック対正拳突き、ってな。あんな盛り上がりは、あれ以来ねえぞ。橋本京介、わかるなこの名前」

「押忍」

 にわか、欣二の顔が歪む。左胸の奥までが、ひどくうずき、繋がれた鎖からまるで逃げ出そうと揺れ動いた。

「二年前、俺をボコボコにした相手ですね」

「情けねえこと言うな。お前は強かったんだ。みんなが認めて求めていた。それが、今や腑抜け欣二だ」

「押忍」

 二年前の別れ際、美紀が最後に放った言葉を思い出した。

 あなたは空手でちやほやされていた。

 確かに、承認欲求は満たされる。

 結論、美紀は自作の小説を誰か、身近な人間に認めてもらいたかったのだろう。それが、愛欲に変化してしまったのだ。では、自分は承認欲求ではなく、自己肯定の為に立ち上がる。

 欣二は決意を眼に宿す。

「橋本京介にリベンジします。押忍」

「いいぞ。その眼だ。それでこそ、ハイキックの悪魔、名越欣二だ。橋本に勝てばお前はまた試合で勝てる。人生でも勝てる。 無理にとは言わねえ。でもな、お前の腑抜けたツラ見てっと、俺より先に死ぬんじゃねえかって心配になんだよ」

「押忍。心配かけてすみません。俺はやります」

「橋本が道場を開いてる場所ってのも実はリサーチ済みだ」

 それは、この地から三県ほど跨いだ場所にある地方の街だった。

「それほど田舎でもない。けどな、その市には橋本の空手道場しかないそうだ。どうだ、道場破りでもしてみるか」

「道場破りなんて無礼な真似、滅相もない。それに俺なんかじゃ返り討ちに遭いますよ。あの鉄のハンマーみたいな正拳突き、今でも悪夢に出るほどなんですよ」

 そして、妻の不倫が露呈される部分までセットになって夢に出てくるのだ。

「じゃあ尚更だろう。どうせなら、橋本の門下に入って練習しろ。橋本の技を奪え。それに欣二よ、今も無職なんだろ。近くで仕事できる場所も探せばいい。俺も人づてで調べておいてやる。どうだ?」

 言い終わった後、師範は黙ってしまった。

 返事を聞くのみという体勢だ。最早捨てるものは何も無い。どうにでもなれ、という心象で欣二は叫んでいた。

「押忍! よろしくお願いします! 空手をもう一度始めます! もう一度、中量級日本一を目指します!」


「よし行け。空手したけりゃ、別に結婚なんて二度としなけりゃいい。家族も何もかも全部捨てて、欲しいものを手にれる為に我が儘やる時だって、人生の中で一回くらいあってもいいだろうが!」


「押忍!」

 師範から怒涛の喝破を受けた欣二はその後、鈍った身体を二時間休まずしごき抜かれた。基本稽古、白帯から黒帯を取得するまでの一連の型、移動稽古のあとはミット打ち、既に錆びたハイキックに至っては現役時代同等の勘を取り戻すまで蹴り続けた。

 そうして、橋本京介が住まう街、現在の古アパートに引っ越した八月の今日、あろうことか台風が直撃。随分な歓迎となったが、欣二は過去の自分に思い馳せながら、今度こそ人生の再起を図ろうと目論むのだった。

「待ってろよ、橋本京介」

 アパート建物を襲う強風に味方をするような唸り声を放った後、欣二はハッと我に返った。

「ここまで来て入門を拒絶されたらどうしよう。菓子折とかいるのかな」

 突如不安になり、そんな気分を消し去るために立ち上がると、欣二は左右のハイキックを繰り返し振るのだった。

 名越欣二の蹴りを受けた空手家たちは、口を揃えてその風切る音をこう喩える。

 まるでスズメバチだ、と。

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