2 北の塔
「離せよ……!僕は……やってない……!」
カイエルの声が、廊下に響いた。
だが、二人の近衛兵は表情を変えることなく、カイエルの腕を固く掴んだまま歩みを止めなかった。
「私たちは国王のご命令通りに動くだけです。私たちに無実を主張しても意味がありません」
片方の騎士が、感情を押し殺した声で言った。
その声に、僅かな哀れみが滲んでいたことに、カイエルは気づかなかった。
初日は貴族牢に入れられた。だが、翌日、兵士がやってきて、カイエルを引きずり出した。
連れていかれたのは、長年使用されていない古い塔。
重罪を犯した者が、存在を消すために閉じ込められる場所。
そこに、かつて愛されていた第二王子は、連れて行かれる。
階段は苔が生え、ひどく滑りやすかった。
壁はひび割れ、窓は小さくて風すら通らない。
ギィ……と重い音を立てて、鉄の扉が開いた。
「ここだ」
カイエルは投げ込まれるように中へ入れられた。
狭く、冷たく、暗い。ベッドの代わりに、薄い布が敷かれた石の床。
小さな窓から、わずかな太陽の光が差し込んでいた。
「なんだ、ここは?」
唖然を牢を見まわすカイエルに兵士は答えた。
「北の塔です。食事は一日一回。話し相手はいません。……では」
扉が閉じられる。鍵の音が、耳に焼き付いた。
「北の塔って、重罪人用の塔じゃないか。一度入ると、二度と出ることは出来ないという」
カイエルは、ただ立ち尽くした。震える両手を見つめる。
家族の声が頭の中で反響する。
「化け物」「妹を毒殺しようとした」
「……ちがう……違うのに……」
膝をついた。体が震えた。
涙が、静かに零れた。
誕生日に聞くはずだった祝福の言葉。
それはすべて、罵声と怒号に変わった。
カイエルは、膝を抱えて丸まりながら、小さな声でつぶやいた。
「……母上……兄上……誰か……」
返事はなかった。
夜が、ただ冷たく、更けていった。
◇
朝なのか、夜なのか。
その違いすら、だんだんとわからなくなっていった。
塔の窓は高い位置に一つだけ。差し込む光はわずかで、雲が出れば室内は真っ暗になる。
扉の小さな投げ口から、毎日一度だけ食事が差し入れられる。
黒く焦げたパンと、水とも呼べない濁った液体。たまに、干からびた根菜。
それが王子への、唯一の「接触」だった。
「……今日も、これだけか」
誰に聞かせるでもなく、呟いた声は壁に吸い込まれた。
かつて、王宮では絹のシーツに寝て、豪華な料理に囲まれていた。
優しい侍女の声。兄リオネルに教わる剣の構え。
頭をなでてくれる母の優しい手
「あの日々が夢みたいだな」
口にした瞬間、その思い出が痛みに変わる。
全て、失われた。誰も信じてくれなかった。
むしろ、皆が自分を“化け物”だと決めつけた。
ときどき、扉の外で牢番の話し声が聞こえた。
「アイツ、生きてるか?」
「恐ろしいくらいに動かねえな」
誰も、彼の名を呼ばない。
カイエルは、少しずつ人の声が怖くなっていった。
最初の数日は扉に縋って「僕は毒なんて入れてない!」「父上を呼んでくれ!」と叫んだ。
だが、それに応じる者はいなかった。
何日目かに、カイエルは扉の前に置かれたパンを見つめて、ただつぶやいた。
「誰ひとり、信じてくれるものはいないのか。話すら聞いてくれない。所詮、僕はそんな存在だったのだな」
冷えた石床に横になると、背中が凍えるように痛んだ。
体は日に日に細くなり、言葉も感情も色を失っていく。
「誰も僕を愛していなかったんだ」
ふいに悟った現実。
そして、ある日。
カイエルは、何も感じなくなった。
飢えも寒さも、苦しみも、悲しみも。希望さえも。
すべてが、ただの“風”のように遠ざかっていった。
彼の目の中から、光が消えた。