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かつて王都の名門、グランディール公爵家には娘がいた。
名をセレスティア。銀の巻き髪と琥珀の瞳を持ち、幼い頃からその聡明さと気品で宮廷内にその名を知られていた。公爵家のただ一人の娘として、誰もが彼女の成長を期待し、見守っていた。
だが、運命はいつも、何の前触れもなくその姿を変える。
その年、セレスティアの母が体調を崩した。
「王都では騒がしすぎて、十分な静養ができないだろう」
そう判断した父公爵の命により、母は実家である辺境伯家へと戻ることになった。
そして夏の終わり、セレスティアは母の見舞いのため、一人で辺境へと向かうこととなった。
公爵家の馬車に揺られ、緑深い森を抜け、岩の多い谷を越える旅路。数日を要するその道中は、娘一人には過酷とも言えるものだったが、旅慣れた侍女と護衛がつき、何より彼女自身が気丈であったため、大きな問題もなく進んでいた。
一方その頃――
辺境伯家の城では、彼女の到着に先んじて運ばれてきた荷物が整理されていた。
その中には、彼女の装束や装飾品が丁寧に詰め込まれた衣装箱もあった。
細工の施された銀の鍵を開けた使用人たちは、思わず目を見張った。
「なんて美しいドレス……」
金と白のレースが編み込まれた舞踏会用のドレス、淡い水色の散歩着、刺繍入りの手袋や扇子。それらはどれも、公爵家の娘にふさわしい、気品あふれるものであった。
そこへ、城を訪れていた町娘が一人、好奇心から足を踏み入れる。
「……ちょっとくらい、いいよね」
悪戯心と憧れが混ざったその行動が、すべての始まりだった。
娘――エレンは箱の中からドレスを選び、鏡の前でくるりと回った。
まるで舞踏会の姫君のように――と、彼女自身も思った。
そして、その姿のまま、何気なく城の中庭を歩いた。
「……あら、あれって」
「まさか、公爵令嬢?」
「いつの間に到着されたの? あのドレスは……」
使用人たちはざわつきながらも、箱の中身を知っていたこともあり、すぐに彼女をセレスティアと信じ込んだ。
エレンは驚いた。だが、すぐに気付いた。
――このふりを続ければ、夢のような日々が手に入るかもしれない。
芝居小屋で生まれて役者の卵だったので、エレンは芝居が得意だった。
よし! しばらく私は公爵令嬢を演じよう。
公爵令嬢になりきって歩いてみた。
「あの物腰、やはり、あの方はセレスティア様のようね」
聞こえてきた使用人のその言葉。
セレスティアという本物の令嬢が来たら、こっそり逃げればいいわ。
辺境伯城で公爵令嬢として過ごす経験なんて、これを逃すと一生できないもの。
それが、狂い始めた運命の、最初の一歩だった。
◇
エレンは、すっかりグランディール公爵令嬢になりきっていた。
それが後で恐ろしい事件を巻き起こすことなど気づきもせずに。
まるで最初からそこに生まれ育ったかのように、城の回廊を歩き、微笑み、使用人たちに指図を与え、紅茶を飲み、昼下がりの庭を優雅に散策してみせた。
誰もが疑わなかった。いや、疑うことすら思いつかなかったのだ。衣装箱に詰められた美しいドレスが、彼女に偽りの威光を与えていた。
そして――。
翌朝、ようやく城へ到着した本物のセレスティアは、旅装のまま応接室で待たされた。
辺境伯である祖父が外出中のようで、戻るまで時間がかかるらしい。同行した公爵家の者たちに、もうよいから帰るようにとセレスティアは鷹揚にいった。
雲行きが怪しくなっている。天気が崩れる前に、森を抜けた方がよいと、セレスティアは判断したのだ。
護衛も侍女も、セレスティアの言葉を受け入れた。すでに、目的地である辺境伯城の応接室にいるのだから、なにも問題はないと思った。
彼らが帰って行って、しばらく経った。
上級使用人という風情の女がやってきた。
「お前は誰なの? グランディール公爵令嬢を語るとは不届きな」
「何を言っているの? 私が、セレスティア・グランディールで――」
「この女を摘まみだしなさい!」
誰も耳を貸そうとはしなかった。
使用人たちは彼女を詐欺師と罵り、騎士たちは腕を掴んで外へ連れ出した。
冷たい石畳の上に投げ出された彼女に残されたのは、埃にまみれた小さな鞄だけだった。
泣きも叫びもせず、ただ呆然と歩き出したセレスティアの前に、古びた幌馬車が止まり一組の中年夫婦が現れた。
その目は品定めするのようにレティーナを眺めていた。
「へぇ、これはまた……とんでもねえ拾いもんだな」
男は女に囁いた。「こいつは、ただの貴族じゃねぇぞ。相当な上等品だ」
気づいたときには、彼女は古い小屋の奥に押し込められていた。
セレスティア・グランディールの名前は、そこで消えた。
本来ならすぐにでも国外へ売り飛ばされていたはずだった。
だが、セレスティアにとっては幸運なことに、その頃隣国の王子が書置きを残して姿を消し、隣国王家は大騒ぎとなっていた。
国境には厳重な検閲が敷かれ、密輸人も人身売買商人も入り込めなかった。女は嘆き、男は舌打ちを繰り返したが、二人は彼女を手放すことなく、監禁を続けた。
逃げ場も、助けもなかった。
それでも、唯一の救いがあったとすれば、女の異常なまでの嫉妬深さだった。
「アンタ、一人でこの子と話すんじゃないよ」
「目を合わせないで。触れちゃダメ。嬢ちゃん、あんたも、私の男に、色目を使ったら許さないよ」
女は決して夫とセレスティアを二人きりにはさせなかった。
だからこそ、彼女は身体を傷つけられることなく、たまに受ける暴力に耐えながら、生き延びることができた。
その命が、いつか光の下に戻れると信じて。
「聖女は世界を救わないと決めていた~「みんなで一緒に死にましょうよ!」と厄災の日、聖女は言った」
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