後篇
目と鼻の先にあった目的地には、予想に反して人間も地上人もいなかった。代わりに、くったりとしおれぎみの人面植物が生えている。
「それが罠なら巧い手だな。とりあえず、おれはひっかかったぞ」
罠なら獲物が近づいたところを即座に襲うか、なにか仕掛けてくるところだろうが、このしおれぎみの小花はただ地面に向かってたれていた。
声をかけると身動きをする。頭をあげようとしているらしい。
どことなく見覚えのある動きで食虫植物に似ているのかと回想していると、思いあたったのはおもちゃだった。近所の駄菓子屋のレジ横に昔からある、日に焼けて色あせながら勢いよく左右に揺れる花型のおもちゃにどことなく似ている気がする。
あの踊る花のおもちゃは向日葵がサングラスをかけた顔だったが、この片手で覆えそうな小花は黒に青い光沢がかかった花弁の色をして、その中央は若干の透過性をおびた真珠色をしていた。
そこに、ややつりあがりぎみの目と口がついている。
食虫植物は捕食の瞬間どうするのだったか。襲ってくる気配はないが、いま自分のおかれている状況は危険なのだろうか。それとも動くだけで危険はない植物なのか。
考えながらラセンが見おろしていると、しおれていた花がようやく首を持ちあげるような動作でこちらを向いた。
「……人間、か?」
「そうだ。おまえのほうは何だ? この辺りで動いてしゃべる植物はほかにないようだが」
「余に問うか、人間。余は、魔王の息子である! ルキル…ぉ、ぅ…」
しゃべり出した直後の何秒間かは勢いがよかったものの、声がすぐに落ちはじめ急速にしおれていく。そしてまたくったりとたれ下がり、しゃべる花は動かなくなった。
おそらくだが、どこか調子が悪いのだろう。
それから気になったのは、魔王と口にしたことだった。ラセンが<ルーニア>の説明をうけたかぎりでは、魔王は魔界の支配者としてひとり存在するのみ。乱立はしていないはずである。
自称魔王という名乗り方をしている、まったく別の存在がいるのだろうか。
辺りを見まわしても風にそよぐ草花が生い茂っているだけで、この小花のように不自然に動く植物はほかに見あたらない。こちらの様子をうかがっているということでもないだろう、この小花はまったく警戒していない。
「三世界で唯一の魔王というのは、植物なのか? さすがにそれは考えなかったな」
木々の伐採問題で地上人と対立でもしているのか。その中心にある森が出発地点になっているのなら、開始直後にいきなり最終局面をむかえたことになる。
いくらなんでも無理がありすぎるだろうとラセンが考えていると、日差しを追いかける植物の早送り動画のような動作で小花が上向いた。
「なにをいう、人間! 父上が、そにょ…ぉ」
会話の開始直後は尊大な態度ぎみで威勢がたいへんによく、数秒と経たないうちに急速にしおれていく。これが正常な生態なのかはわからないが、会話は成立しているように思う。
この植物なのか、それとも生物なのかわからない小花は、地面から生えている地上部のみが動いていた。生えている場所からはやはり動けないのか、移動はまだ一度もしていない。
いまのところ自発的に動く植物は、この小花一本。
ラセンが現在おかれている状況は、この<ルーニア>という世界のなかで日常的といえるのか。非日常的なものにいきなり出会ってしまったことになっているのか。ラセンは肩で息をついた。
どちらだったとしても、出くわしてしまった以上この小花が初遭遇となる<ルーニア>の住人だ。普通かどうかを考えていても仕方がない。
「この世界の話はひとまずやめて、おまえの健康状態だ。弱っているのか? それで問題ない状態なのか」
「あぁ、動けん」
質疑応答の内容があっていない。
「まぁ、植物だからな」
それだけ動けているのだから充分じゃないかと返すと、植物じゃないといわれた。途切れがちな話を聞いたところ、自力で活動していると動けなくなりそうな状態に陥り、近くにあった植物にもぐりこんだそうだった。
植物ではないことを教えてやるといって、寄生しているような状態になっている小花から出てくるためにモゾモゾとがんばっていたようだったが、力が不足中で無理らしい。
自称魔王の息子である、この小花に寄生なのか憑依なのかをしている何かは魔界人。ひとりで初めて地上界へやって来たという。目的地にたどり着いたところまではよかったが、地上界の食べものが何ひとつ口にあわなかった。絶食しているあいだに衰弱することになったそうである。
なにを食べるのかきいたところ、なにかしらの獲れたての肉とこたえが返ってきた。地上人もその食料にふくまれるようで、魔界が盛大に嫌われるだろう理由のひとつがわかった。
街に近い動物たちは口にあわなかったので、森の奥の生きものなら食べられるかもしれないと森が深くなるほうへ向かってすすんでいたが、食料をみつけるよりも先に活動限界をむかえた。このままではまずいと、そのとき近くにあった小花のなかに避難した。
小花状態で獲物が通りかかるのを何日か待ち続け、最初の獲物としてやってきたのがラセンということのようだった。
「食いものをよこせ、人間。見返りはぁ…ぉ…」
物々交換のようなことをなにかモゴモゴといっているが、条件の話をしている場合ではないだろう。それにしても、条件交渉のようなものがあるのか。一方的な捕食関係ではないのかと内心で首をかしげつつ、ラセンは右袖をまくりあげながら小花の前に腰をおろした。
「右腕をやる、食っていいぞ」
右手を小花にむかって出しながらいえば、小花はすぐに食いつこうとせずこちらを見あげるようにする。
「…」
「どうした?」
「…人間は腕が生えんのではないのか」
魔界人は腕を落としてもまた生えてくるような言い方だ。地上人よりも遙かに長命。魔属性による魔法も強力。そこに身体の再生力まで著しく高いとくるのであれば、そんな種族と対峙を考えるほうが無茶ではないのか。
いま目の前にいる脅威中の脅威である魔界人らしき存在は、食の好みから衰弱中で見た目が小花になっている。ここまで話した印象から、幼いような気もする。
天界人は天界のなかでも聖気が特別に濃い場所から誕生し、親子関係は存在しないそうだが魔界人は地上人同様の家族関係があると聞いた。
異性が結ばれ、子供が誕生する。一夫一妻制が多い地上界との違いは、婚姻関係が希薄であること。長寿であることが関係しているのか互いに縛りあわないそうだが、子供が放任教育なのかどうかまでは聞いていない。
家族がいるなら数日間姿が見えず行方不明であればさすがに心配するのではないかと思うのだが、迷子探しをしている人物はあらわれない。近くに動物のいる気配もない。いるのはラセンとこの小花だけ。
「腕を失えば、普通は失ったままだろうな」
「余に右腕をよこすというのか。正気か、人げ…」
「限界なんだろう、あまりしゃべるな」
徳の高い人間のように自分をそのままひとつ与える真似はできないが、片腕なら生きていけるだろうと返しながらラセンは腰紐をひき抜き、右肩に巻きつけた。
食べるといっている量はわからないが、片腕で我慢してもらう。
「空腹で動けないなら、それで少しは動けるようになるだろう。あとは自分でどうにかしろ」
ラセンも自分の食料を探さなければ、確実に行き倒れることになる。食の好き嫌いにかかわっている余裕まではない。こちらを見あげている小花にどうするとたずねた。
人間が口にあわないのであれば、もう自分は行く。つぎに通りかかかる獲物を待つしかないだろう。
「食う」
捕食の瞬間は小花から出てくるだろうと思ったのだが、小花についている小指の爪先ほどの口がパックリと右手の甲に噛みついた。
痛みはあるが、ザリガニに指を挟まれたときのほうが痛かった。
食べるといっていたので骨ごとバリバリと咀嚼される覚悟はしたのだが、噛みついたまま喉のかわりに茎を動かす動作は吸血なのかと思う食事風景だった。途中で不味いといっているのか、食べにくいといっているのか、なにか不平のようなことを口にしている。
これなら止血をする必要はなかったかと思った瞬間、小花が食いついている手の甲から奇妙な青黒い模様が広がりはじめた。痛みはなく、複雑な文字なのか模様なのかわからないものが手の甲から手首、腕と伝いあがってくる。
「ふむ、動けるぞ!」
いくぶん張りがもどった声がした直後、小花の周囲に霧が立ちこめた。その霧のなかから突然、子供があらわれる。青みがかった黒い髪、銀の虹彩を月光が包みこんでいるような眸。まるで生気を感じない、透けるような青白い肌は鉱物のようだった。
「この恩は返すぞ、人間」
しっかりと襟元にあるネクタイ代わりの飾り布や、身につけている高価そうな小物などから身分の高さがうかがえる。問題は、ラセンの感覚で小学校の低学年児童よりも年下の年齢に見えることだった。
自分の足で歩けるが、保育園の送迎で親に抱きかかえられている年頃の子供。
「余は魔王の末子ルキルオス・デューラム・ファト──」
「よし、元気になったな。じゃあな」
どうも面倒なことになりそうな気配に、回復を確認したラセンはさっさと退散することにした。立ち上がろうとしたところを、待たんかと右手をつかまれて強引に阻止される。
ひとまず問題が解消されたのであればそれでいいだろうと思うのだが、相手の言い分はちがうらしい。
「余はおまえに一食の恩ができた。恩は返す!」
この世界の魔界人という種族は、恩義にあついのだろうか。ラセンは恩を返されるようなことはしていないと断った。なにか見返りを期待していたわけではない。そもそも、失う覚悟でいた右腕は無事に残っている。体調も異常はなく、噛みつかれた痕が残っただけだった。
恩返しされるようなことはしていないとこの場から離れようとしていると、自称魔王の息子が驚いたように両手でつかんでいるラセンの右腕を見た。
「何故、契約印が消えているのだ? さっきはたしかに…」
噛みつかれた直後に手の甲から広がった、青黒い奇妙なもののことをいっているらしい。どうして食料提供で契約という話になるのかわからないが、契約不成立になっているのであれば問題ないだろう。
しかし、ラセンの右手をひっくり返しながら見ていた子供があるといった。
「これが契約印だ! 本来はもっと大きいのだが、余の力が弱まっていたからだろう」
そういって示されたのは、噛みつかれた痕に思える小さな奇妙な青黒いアザだった。噛み傷じゃないのかと返すと、契約印だときっぱりいわれる。
契約も恩返しも不要だと話しているとき、突然べつの声が降ってきた。
「やっと見つけましたーっ、勇者さま!!」
自称魔王の息子と同じ年頃にみえる鳥のような翼を持った子供が、崖のところに置いてきたはずの剣を抱きかかえ宙に浮いていた。
「むっ、天界人」
天界からの使いは、ラセンの知識にある天使の姿に近いものだった。ただ頭上に天使の輪はない。自称魔王の息子とは対象的な日に焼けた肌と、明るく春めいた色合いの服装がまっ先に目に飛びこんでくる。
「聖剣がむこうのほうにあって、ほんっとうに探しました! それで、まずは…えっと、召喚契約をしていいたらき…いただきますっ」
何事なのかと宙に浮いている翼がある女の子を眺めていると、その子の前に輝く魔法陣があらわれた。
「やめんかっ、一体何をやっている!!」と、自称魔王の息子が声をあげる。
「ごっ、ご説明はあとでさせていただきます! 勇者さま、とにかくまずは守護のご契約をっ」
空中と地上という距離はあいているが目の前にいる相手にたいして怒鳴るように話す必要はないと思うのだが、子供たちふたりは声を張りあげていた。
「聞かんかっ、バカ女!!」
「キャーッ、ごめんなさい!! 勇者さまっ」
「だれが勇者だ!」
「わぁーん、勇者さまがこわいーっ」
それはそうだろう、自称魔王の息子はいきなり登場した話をまったく聞かない相手に怒っている。
「待て、怒鳴るな。敵対関係だとしても初対面の相手だろう」
「あのバカ女が何をしているか、わかっているのか!?」
契約だといっていたなと、また面倒な押し売りにあっている心境でラセンは返した。こんな訳のわからない状況で契約する気は一切ない。
「ゆ、勇者さまがお二人!?」
それまで下に顔をむけて一方的にしゃべっていた女の子が、ようやくこちらを向いた。
「ゆっ、勇者さ…っ!? キャー、魔界人!」
「このバカ女、先程から訳のわからないことを。この人間は余の契約者だ!」
「そっ、そんな……人違い…?」
「人違いだ!!」
子供たちの様子を見ているかぎり、天界人と魔界人というのはいきなり攻撃しあう関係ではなく、顔を合わせると喧嘩する犬猿の仲であるようだった。そして、どちらも契約と口にしている。
地上界には魔界と天界の両方から来られるようだが、ただ来ただけでは滞在時間に制限でもあるのだろうか。地上界へ長期滞在するために地上人と契約が必要ならば、誰でもいいのではないか。
女の子のほうがいっている召喚契約は、呼びだし方式の魔法だと説明されたように思うのだが。
置いてきた聖剣を持ち、勇者を探している保育園児相当の年齢に見える、この翼がある女の子が守護をおこなうため天界から派遣された人物なのだろう。
ラセンは自分の直感通りに行動して正解だったなと、内心でひと息をついた。こんな幼い子供に守られて、なにが勇者なのか。このまま人違いで通すべきだろう。
その方向で子供たちの話はすすんでいる。ラセンは右腕提供の件で、なぜか自称魔王の息子と正式な契約なのか仮契約なのかをした状態になってしまっているらしい。地上人が地上界外の存在と結べる契約はひとつのみだと、かなり厳重に注意された。
女の子は言いつけられたお使いの内容を遵守しようとしている様子なので、この近くを探していなければ聖剣を持って一度もどるだろう。
「じゃあ…、森のなかをもう一度探してみます」
「さっさと行け!」
あとは天界からの使いを追い返した、自称魔王の息子を魔界にもどるよう説得すれば肩の荷がおりる。食べものが口にあわないと食事をせず、身動きがとれなくなる世界にいるべきではないだろう。どう考えても。
この男の子のほうはどうするべきかと、ラセンは頭上から右横に視線をむけた。すると、立ち去るはずの頭上から困惑した声がいう。
「こ、これは…どうすればいいんでしょう…」
これというのは、聖剣と同じ自己主張の強い輝きを放っている魔法陣のようだった。
「バカか、おまえが出したんだろう。消せ」
バカは余計だが、それ以外に返答のしようがない。自分で出現させたのだから消せるだろうとおもうのだが、女の子は大いにまごついていた。消し方がわからないらしい。
天界の守護という意味は、一体どうなっているのか。
ラセンは魔法使用に不向きな役まわりだと最初に断言されているので、見ている以外にできることはない。
子供たちのやり取りを聞きながら、まさかこの幼い見た目で成人している可能性があるのかと悩んでいると、ピカッと強い発光現象があった。
「バカ女!!」という怒声と共に、男の子がラセンの前へ出る。
頭上の女の子は悲鳴をあげていた。取り消そうとしていた魔法陣を実行状態にうつしてしまったようで、動き出している。輝きが向かっているのは確実にこちらだった。
ラセンはとっさに、右手で男の子を後ろへさげた。
「魔と聖は反発するんだろう、近づくな」
「余よりも、おまえがっ」
右腕で自称魔王の息子を庇い、眩しい光源を遮るように左手を出すと光が左腕にまとわりついてきた。右腕に青黒い奇妙な模様が浮かんだように、左腕にも光る複雑な柄が描かれていく。
今度はなんだと眺めている途中で両腕に鋭い痛みが走った。
右腕に消えたはずの模様が浮かび、その模様を描いていた青黒い線がにじむようにぼやけ、青黒い色が腕全体にひろがってくる。左腕も同様で、発光がおさまったかとおもうと内側から焼かれているような赤黄色へと腕が染まってきた。
「このバカ女っ、さっさと取り消さんか! 余の恩人が死んでしまう!!」
「ど、どど…っ、どう……!」
「さっさと取り消せ!!」
間近で聞こえてくる子供たちの混乱した声よりも、一定した声の調子でうけた説明の一部が脳裏をよぎった。両腕それぞれから伝わってくる痛みの種類は違っているが、どちらも激痛に相当しているだろうと思う。
「…二人共、自分たちの世界へ自力で帰れるか?」
「あぁ、帰れるが…。そうか、助けを読んでくればいいのだなっ」
「すっ、すぐに先生を!」
先生がいるのであれば、女の子のほうは見た目通りにまだ子供なのだろう。
誰かを呼んでくる必要はなく、帰ったらしばらくのあいだは地上界へこないようにとラセンはいった。
「これはどうにもならない。おれと会ったことは忘れろ。おまえたちにこの世界はまだ早い、当分のあいだは絶対に来るな」
家へいますぐもどるようにと、ラセンは子供たちにいった。おそらくだが、このまま息をひきとるという死に方にはならない。両腕からはじまっている侵食がすぐに胴体までおよぶだろう。対極にある属性が接触したとき、どういった反応をみせるのか。
帰る理由は報告でも救援要請でもなんでもよかったのだが、子供たちは納得しなかった。女の子のほうが治すといってラセンの左腕に両手をかざし、発光する治癒系の魔法らしきものを使いはじめる。
「バカ女、やめろ!」
本来は治療行為なのだろうが、この状態では逆効果にしかならない。それを止めてくれるのはありがたいのだが、やめる様子のない女の子に男の子のほうもラセンの右手をつかみ、なにかをはじめる。
痛みが増し、侵食範囲が広がった感覚があった。両腕は半分ほどすでに感覚がない。
とにかくこの子供たちを帰さなければと思うのだが、こちらの言うことを聞いてくれる気配がない。ラセンの悪化した状態を見てとったらしく、魔法を使うことは取りあえずやめてくれた。しかし、今度はケンカをはじめる。
今日は人生のなかで最悪の厄日だったのか。
死亡直後に起きていることなので、死ぬことに抵抗はない。一度目はなかった激痛のなかで二度目は死ぬことになりそうな現実に疲労感はあるが、仕方ないだろう。今度こそ死んだままにしておいてほしい。今日はなにをやっても最悪と出そうだ。
ラセンはじきに訪れる死を待つだけでいいと思うのだが、ふたりの子供たちは半ベソ顔でケンカしていた。もう泣いているのか、泣き出す直前なのか、混乱状態だった。
ラセンの<ルーニア>での死因は子供たちのケンカで出ていた、両極不調和乖離性反応というものらしい。そういう摂理になっているのなら仕方がないだろうといっても、子供たちは助けるという。
ラセンは溜息をついた。
「この世界の循環のなかで生まれず、外からこの世界にはいる場合は特典がひとつあるそうなんだ」
子供でも知っていることのようで、それは<ルーニア>の地を踏む前だと返された。そして、願いはひとつだけ。
「世界の理ならばどうにかできるかもしれんが、この世界へはやってこない」
「来ないじゃなく、来られないだと幸いなんだけどな。…一度足掻くか、仕方ない」
こちらを見あげる子供たちに、自分はその一度の望みをまだ使っていないのだとラセンは話した。今日から十年以内にその特典を使用しなかったときは、一度話し合いだといわれて出てきた。
ラセンはもう一度溜息をつき、早々に使うことになった前置きの言葉を口にした。
世の理
其が置きし数多の雫で満ちし器より一滴を汲み得る者なり
我ここに<ルーニア>と契約す
此度の契約の対価として万物の理よりひとつを我が力として所望する
カッと、辺りを覆いつくす強い光が差した。
「…やっぱり、そうなるのか」
予感が的中してしまったっことに、ラセンは肩を落としてうなだれる。
『おまえは十年経っても使わないと言いそうだったが、意外に早かったな。ろくに進んでいないようだが、まさか毒草にあたってそれを解毒したいなどと…』
ラセンの正面斜め上に出現した、無色の揺らめきが球体になった物体が自動音声のアナウンスのように淡々と話す。こちらを認識したらしい声の途切れた瞬間に、ラセンはそうだと応答した。
「一般的な毒物より劇毒か、急性のそれらしい両極不調和乖離性反応の免疫が欲しい」
『……あれだけしてやった説明中に寝ていたか?』
説明を求めたのは最初の状況だけだとこたえ、やはり無理なのかと聞き返す。
『無理だ。それはこの世界の根底にあたる』
ラセンの現状が解消されることは、世界の法則が根底から覆ることを意味する。それは同時に<ルーニア>の崩壊へ繋がるということだった。
子供たちは不満らしく抗議めいたことを口にしはじめ、ラセンは面倒なことになる前に言い直した。免疫ではなく、体質が欲しいと。
子供たちは同じではないのかと首をかしげたが、長時間講義をうけたかいはあったようだった。今度は即答で却下されず、どうにか受理される。
『むこう十年で妥協させられただけはある。やるだけはやってみるが、期待はするな』
無理なようなら、その通知だけでいいとラセンは返した。この世界に悪影響が出そうなことを願う気はない。死ぬまでの時間が延長された気分で生きることにした第二の人生に、他人を巻きこんでも仕方がない。
周囲を保護するといって結界なのだろう、ぶ厚いガラスを何重にもした長方形の内部に閉じこめられ時点で大事らしいことは理解した。そこから事態が進行していくにしたがって、ラセンの希望と現実が大幅にズレていく。
子供たちが究極魔法といって目を輝かせたのは、始めに巨大な魔法陣がひとつ出現した時点だった。重複という言葉と共に巨大な魔法陣がふたつになったとき、さすが世界の理だと驚嘆の声を間違いなくあげた。
それが一瞬で二桁を超える数になり、子供たちは声もなく放心状態になった。
その三桁におよんでいるだろう魔法陣がひとつの集合体へと集約されていったところまでは、上手くいっているように見えた。しかし、ひとつに圧縮されていくにつれ巨大な魔法陣の集合体は反発するように不規則に振動し始めた。
暴発しそうになっている明らかに不安定な塊へ、世界の理はラセンから取り出した子供たちの魔と聖の力の一部を追加投入した。
「どう考えても一触即発の危険物の火力をあげていないか、それ」
それはそうだと、あっさりと肯定される。ソフトボールの球ほどの大きさに縮んだ無数の魔法陣の集合体は<ルーニア>という世界の根底を揺らす物体となっているそうである。
おそらくこの世界で誕生した万物は、不規則に振動している塊に接触した瞬間に崩壊する。
その説明を聞いて、ラセンは取り消しを頼んだ。そんなことは望んでいないといったはずである。そんな世界激震ではすまない物体を作れたとしても、作り出すべきではないだろう。
「おれは死亡でいい」
『付与』
「…は?」
取り消しを頼んだはずの危険すぎる塊が、ラセンに向かって落下しはじめた。なにを考えているんだとひと言返してから、ラセンは膝の上にいるふたりの子供たちをどうにか後ろへ移動させ、逃げろと告げて前へ出た。
地面に触れたら、かなり危険なことになるのではないのか。空中へ上げるしかないが、触れて大丈夫な塊なのか。そもそも両腕の感覚がかなり麻痺しているので、どこまで動かせるかわからない。
子供たちが結界の外へ出て、自力で逃げてくれることを祈るしかない。いまは落下してくるソフトボールほどの大きさの塊を、なにもない空中に上げておくことに専念しようとした時、両腕が突然重くなった。
「余は逃げんぞ!」
「お守りしますっ」
「はぁ!?」
ただでさえ思うように動かない両腕に、見た目よりはだいぶ軽いものの二人分の重しがついた。こちらの状況を落下中の危険物が察してくれるはずもなく、ラセンは騒いでいる子供たちをどうにか前へ出さないように抱えこみながら片腕を伸ばした。
感覚のなくなっている左の指先に触れ、不規則に振動している塊が斜め上へ跳ねあがる。
左手のほうも一瞬の接触では変化はなかった。また落下してくる、その下にギリギリで右手を差し入れた。弾き上げることには成功したが、前のめりに崩れた体勢のままでは子供たちを下に倒れ込んでしまう。
しゃべるな、舌を噛むなよと短く注意をして、ラセンは反動をつけ体を勢いよくねじった。
背中から地面に打ちつけられ、息がつまる。
力の入らない腕でどうにか抱えている子供たちはすぐにまた騒ぎ始めたので、いまのところ怪我はないのだろう。体を普通に起こそうとしているので、伏せていろと体勢を低くさせた。問題の危険物の真下になる場所を選んだのだ。
「おまえたち、早く逃げろ。おれはもう動けない」
二の腕までは多少なんとなくの感覚がまだ残っているものの、肘付近から指先にかけては動かせず、なにも感じない。いまは痛みがある胴体もすぐに同様の状態になるだろう。足も痺れはじめている。
本来の世界である魔界と天界へすぐに帰り、危険な事態が進行していることを緊急報告することが最善のはずである。
どう考えてもお子様すぎるこのふたりに判断できる内容ではないと思うのだが、そこはさすがお子様の気楽さでどうにかすると言い張る。まったく帰る気がない子供たちに話すのはあきらめ、ラセンはすべての問題の大元である遠近感のつかめない球体に、これよりも危険なことになる前にふたりを生まれた世界へ送りかえすように求めた。
ここで死ぬのならば、ひとつの望みというのは不成就でおわるはずだ。何かひとつを必ずと、あそこまでうるさかったのだから不成就は無効にしてもらう。
そのあとは、本来子供たちを守るはずの役割を持つ人物たちの仕事だろう。ラセンは最後の力を込めて、落ちてくる危険物へと両腕を持ちあげた。さらに上へ押しあげるだけの力は残っているだろうか。
どうすればいいのかもわからない落下中の塊を見つめていると、不規則に揺れていた振動がゆるやかになっている気がした。危険度がさがり、状態が落ちついてきているのだろうか。
それならばなおさら、ラセン以外のなにかに触れさせるわけにはいかない。どうにか動いている両手を可能なかぎり伸ばす。
弾き返すよりも、落ちないように支えているほうがいいのか。しかし、まだ子供たちがラセンの胸のうえにいる。どうするべきなのか忙しく考えていると、両手にうまく収まった落下物がふっと消えた。
「…ったく。できるなら、さっさと消してくれ」
なんのいやがらせだと文句を言いつつ、ラセンは両腕を投げだした。死ぬまでが長すぎる。ひと息をつく間もなく、子供たちが騒ぎはじめた。
「両手が…!」
「治っていますっ」
そういえば痛みも感じない。両腕を動かすとさっきまでよりも軽く、感覚も元にもどってた。
『付与だといったはずだ』
「できるなら、もっと普通にやってくれ」
『そこまでの形成はした。仕上げたのはおまえだ』
どういう言いがかりなのか。魔法適性はどうやっても成長が認められず、低いままではなかったのかと返すと、資質の話だと言い返された。
『おまえはこの世界向きだ。では、望み通りの体質を付与したぞ』
辺りの風景が元へともどり、地面に仰向けでのびているラセンと、その胸の上でケンカしている子供二名が残された。
「おまえたち、もう家に帰ってくれないか」
体質が付与され、子供たちを自宅へ送ることは不成就となったようだった。
これから先どれだけこの第二の人生が続くものなのかわからないが、今日より疲れる一日はそうそうないだろう。出発初日の出来事としても確実に歴代最悪か、かなり切迫する何分間かになっただろうとラセンは空を見上げながら思った。
空はさえざえと晴れわたっている。
この出来事が出会いと革新にかわるのは、まだまだ先の出来事。
<終>