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どうやら今夜、妻から離婚を切り出されてしまうようだ

 俺の名前はカール・ヒューゴー、現在24歳。


小さいながらも小麦を扱った小さな商会を経営している。1年前に子爵家令嬢と結婚し、憧れの貴族社会とも繋がりを持てた。

2歳年下の妻は従順で世間知らずのお嬢様だが、そこも俺にとっては魅力だった。


商会も軌道に乗り、プライベートも充実。まさに順風満帆な生活を送れていたと思っていたのに……ある日、俺は妻の部屋でとんでもない物を見つけてしまった。




――それは、5月のある日のこと。



「お帰りなさいませ、カール様」


仕事から帰宅した俺は、出迎えたメイドに尋ねた。


「エリザベスは今、どこにいる?」


エリザベスとは、俺の妻の名前だ。


「奥様でしたら本日から少しの間、御実家に戻られるそうです」


カバンを受け取ったメイドが無表情で答えた。彼女はエリザベスが実家から連れてきたメイドで、年齢は……確か45歳だった気がする。


「何だって? 実家に戻ったのか? 結婚して初めてのことじゃないか……理由は聞いているのか?」


「はい。大奥様が少し足首を捻ってしまい、数日間は歩くことが不自由なのでお世話をされに行かれました」


「そうだったのか? だが、小さな怪我なのだろう? それなのにわざわざ実家に戻ったというのか? ……あの屋敷には大勢、使用人だって働いているだろうに。世話をする者など大勢いるだろう? こっちは大事な話があったというのに……」


「……」


すると、メイドは何故か無言でじっと俺を見つめてきた。


「何だ? 何か言いたいことでもあるのか?」


「いいえ、何でもございません。すぐにお食事にされますか?」


「そうだな。空腹を感じていたところだったし……そうだ、ついでにスコット産のワインを食事時に出してもらおうか?」


するとまたしてもメイドは無言で俺を見つめてくる。


「一体、今度は何だ?」


「カール様。スコット産のワインは奥様の生まれ年に作られた特別なワインで、とても希少価値の高いものです。お飲みになられるときは、常に奥様と一緒と決められていたのではありませんか?」


「希少価値が高いと言っても、後残り5本はあるだろう? 1本位、開けたってかまわないじゃないか?」


何処か反抗的なメイドの態度に苛立ちを感じながら反論した。


「いいえ、それでもあのワインは奥様が持参されたものです。どうぞ今夜は他のワインになさって下さい」


「……なら、もういい。ワインは結構だ。その代わり、今夜は肉料理にしてくれ」


「はい、もう御用意致してございます。奥様より、自分が不在のときは、カール様のお好きな料理を作るように命じられておりますので」


「そうか? なかなかエリザベスは気が利くじゃないか」


エリザベスは、あまり肉料理が好きではない。彼女が好きなのはシーフード料理だった。そこで毎晩、肉と魚料理が交互に出されていたのだ。

それは、2人で苦手な食べ物を互いに克服しようと結婚時に取り決めたものだった。


「よし、それではカバンを頼んだぞ」


メイドに背を向けて歩き始めた時、背後から呼び止められた。


「カール様、どちらに行かれるのですか? カール様のお部屋は右側のお部屋ですよね? そちらは奥様のお部屋ですけれど?」


「そうだ、妻の部屋に用事があるからだ」


「奥様の不在中に、勝手にお部屋に入られるのですか?」


「別に構うことはないだろう? 何しろ俺達は夫婦なのだから」


何故、一介のメイドに自分の行動を管理されなければならないのだ?


「夫婦だろうと、節度は守られるべきでは無いでしょうか?」


「な、何だって? 大体……」


すると、俺の言葉を遮るようにメイドが言葉を続ける。


「お入りにならないほうが良いと思います。……入られれば、後悔なさるかもしれませんよ?」


意味深なメイドの言葉に思わず反応してしまった。


「ほう、何だ? その言い方は……妙に気になるじゃないか? まさか見られたらまずいものでも隠してあるのか?」


「……忠告はさせていただきましたので。では、失礼いたします」


まるで仮面を被ったかのような無表情メイドは一礼すると、去って行った。


「本当に、嫌な態度を取ってくれるな」


大体この屋敷で働く使用人達は、エリザベスが実家から連れてきた者たちばかりだったが気に入らない。彼女のことは「奥様」と呼ぶのに、未だに俺のことはカール様と名前で呼ぶのだから。

俺が貴族ではない、成り上がり者だからそんな態度を取るのだろうか?


「全く……」


ため息を付くと、エリザベスの部屋へ向かった。


そこで、俺はとんでもないものを目にすることになった。



 妻が不在だということで、ノックもせずにノブを回して中に入った。


部屋のランプは消えており、室内は暗い。さっそく明かりをつけるとエリザベスの文机に向かった。


「全く……金庫の鍵から、銀行の通帳まで妻が預かっているなんてどういう状況だ。いくらこれが結婚の条件だからといっても納得いかない。やっぱり婿に入る立場はそれだけ弱いってことなのか?」


ブツブツ愚痴をいいながら、引き出しを探る。


「何だ? 金庫の鍵も通帳まで無いじゃないか……いつもなら、ここから出してくれていたはずなのに……」


そこで嫌な予感がよぎる。

まさか、実家に帰る際に鍵も通帳も持っていったのだろうか? だがそこまでエリザベスの頭が切れるとは思えない。


「くそっ! きっと使用人の誰かが入れ知恵したに違いない……まさか、さっきのメイドの仕業か?」


能面のような無表情なメイドの顔を思い出す。そう言えば、先ほど気になる言葉も口にしていたし……。


「ん? 何だ、これは」


別の引き出しを開けた時、見たこともない書類が入っていることに気付いた。


「何の書類だ……?」


手に取り、ランプの下で書類を確認する。


「な、何だ? 離婚届だって……?」


あまりのことに驚いてしまった。


「離婚だって? まさかエリザベスがこの俺と……嘘だろう?」


幸い? なことにまだ離婚届には一切何も記されていない。だが、大切そうに引き出しに入れてあることが気がかりだった。


「一体、これは……」


そのとき。


「何をされているのですか? カール様」


「うわぁあああっ!?」


背後から突然声をかけられ、思わず声をあげてしまった。振り向くと、この屋敷の執事がじっと見つめている。


「な、何だ。執事だったのか……それより、いきなり後ろから声をかけるな! 驚いたじゃないか!」


「こちらは奥様のお部屋です。不在だったはずなのに扉は開かれ、部屋の明かりが灯されていたので、お声をかけさせていただきました。一体こちらで何をされていたのですか?」


執事は驚かせたことに謝罪せずに、尋ねてきた。


「エリザベスの部屋に用事があったから、訪ねただけだ。いちいち使用人たちにその事情を説明しなければならないのか?」


執事に離婚届を見られないように、引き出しに戻しながら反論する。


「それで、探しものは見つかりましたか?」


「お前には関係ない話だ」


「……左様でございますか。ところで、カール様。お食事の用意が整いましたので、ダイニングルームにお越しください」


「ああ、分かった」


執事が部屋を出ていったので、俺も後に続いた。

長い廊下を歩きながら、爪を噛む。


全くなんてことだ。鍵も通帳も無ければ、現金を手にすることが出来ないじゃないか。

明日は大事な用があるというのに……。


仕方ない、自分の金を使うしか無いか。

俺は心のなかで、ため息をついた――



その日の夕食はとても豪華な物だった。

テーブルの上に並べられた料理はどれも俺の好みの物ばかりだった。


「今夜は俺1人の食卓だっていうのに、いつにもまして随分と豪華だな?」


給仕をしているフットマンに声をかけた。


「はい、奥様から言われております。自分が不在時は、カール様の好きな料理だけを提供するようにと」


「そうか……エリザベスの口添えか」


肉料理を口に運びながら頷く。

何だ、やっぱりエリザベスは俺のことを考えてくれているじゃないか。通帳や鍵が無くなっていることは腑に落ちないし離婚届は気になるところだ。


だが、こうやって自分が不在にも関わらず、俺に気を使ってくれている。


きっと通帳や鍵が無くなっているのは使用人の入れ知恵に違いない。

離婚届が何故あったのかは不明だが……恐らく、俺のことを良く思わない使用人の仕業なのだろう。


何しろ、ここの使用人達はどうも俺を見下しているように見えるからだ。


だが、残念だったな。

エリザベスは俺にぞっこん惚れ込んでいるのだ。だから俺は彼女と結婚し、貴族の一員になれたのだから。


大丈夫、俺はうまくやっている。今も、この先だってずっと。


自分に言い聞かせながら、絶品料理を口にするのだった――




――翌朝


今朝はいつも以上に豪華な朝食だった。


鍵や通帳のことは仕方ないが、エリザベスが屋敷に戻ってきたら金を引きだしてもらうことにしよう。



「カール様、今日のお迎えはどうされますか?」


馬車に乗り込む際、男性御者が尋ねてきた。


「あぁ、今日の迎えはいい。帰りが遅くなるからな。あ、夕食も用意しなくて良いと伝えておいてくれ」


「……承知いたしました。では、お乗り下さい」


微妙な間の後、御者が扉を開けたので俺は早速乗り込み……会社に到着するまでの間、目を閉じた――



「社長、おはようございます」


社長室の扉を開けると、秘書のメリンダが出迎えた。彼女は黒い髪を持つ妖艶な美女で年齢は俺と同じ24歳。

外見は派手でも、仕事の腕は確かだ。


「ああ、おはよう。メリンダ」


扉を閉めると、メリンダは嬉しそうに笑みを浮かべて近づいてくると耳もとで囁いてきた。


「社長、今夜は楽しみにしていますわ」


「俺もだよ、メリンダ」


彼女の細い腰を抱き寄せて軽くキスすると早速机に向かった。


「それじゃ、今日の予定を教えてくれ」


「はい、社長」


俺達は社長と秘書であり……親密な間柄でもあった。だが、お互いの関係は割り切っている。

いざ仕事に入ると、すぐに気持ちを切り替えることが出来るからだ。


社長と秘書は密接でなければならない。

互いのことを信頼しあわなければ、業務に差し支えが出てしまうかもしれない。


俺はそう割り切っているし、当のメリンダもそうだろう。

何しろ、彼女は一度たりとも妻と別れてくれと言ってきたことはないのだから。


そして今日も彼女の協力を得ながら仕事に励んだ。


そうだ、俺は毎日頑張って働いている。

この商会をもっともっと大きくするのだ。俺が平民出身の成金男だと、他の貴族たちから見られないために。


だから俺たちが離婚するなど、断じてあってはならない話なのだから――



****


――18時


 1日の業務を終えて、俺とメリンダは社長室を一緒に出た。


「あ、社長。今日はもうお帰りですか?」


偶然廊下で出会った若手の男性社員が声をかけてきた。

どうやら、背後にいるメリンダが気になるようだ。


「いや、まだだ。これから商談相手との食事会があるからな。そのために秘書のメリンダを連れていくのだ」


「あ、なるほど。そういうことですか。それでは、どうぞ行ってらっしゃいませ」


疑うこと無く、恭しく頭を下げる男性社員。


「ああ、では行ってくる」

「行ってまいりますね」


2人で彼に声をかけると、2人で会社を出た。



「社長、今夜はどんな食事を御馳走して下さるのかしら?」


辻馬車に乗り込むと、早速メリンダが腕にしなだれかかってくる。


「最近出来たばかりのレストランだ。肉料理がメインでフルコースで出てくるらしい。君の好きなワインも飲めるぞ」


「まぁ、本当ですか? フフフ……嬉しいわ。私、今夜を楽しみにしていたの」


「俺もだよ」


俺とメリンダの少し怪しい関係は誰にも感づかれるわけにはいかない。だから、こうやって2人だけで外食をするのは、月に2回だけと決めてある。


今夜の出費は……まぁ少々痛いが、後でエリザベスに援助を申込めばすむことだ。


「ねぇ、本当に奥様には私達の関係はバレていないのかしら?」


メリンダが不意に尋ねてきた。


「当然だ、俺は妻を大切にしている。バレるようなヘマはしていないさ。第一彼女は世間知らずの箱入り娘だ、何もわかっていない。だから心配する必要は無いからな」


「それなら安心ね」


フフフとメリンダが嬉しそうに笑う。


そうだ。これでも俺はエリザベスを大切に思っている。

だからこうして、彼女にバレないように密会しているのだから――



 二人きりの時間を楽しみ、屋敷に帰宅したのは22時半を少し過ぎたところだった。


「メリンダを家まで送ったせいで、帰宅が遅くなってしまったな……」


懐中時計を見ながら屋敷の前にやってきたとき、突然眼の前の扉が大きく開け放たれた。


「うわぁおああっ!?」


驚きのあまり、奇妙な叫び声をあげてしまった。


「おかえりなさいませ、カール様。随分と遅い御帰宅でいらっしゃいましたね」


出迎えたのは気難しい表情の執事だった。


「おい!! いきなり目の前で扉を開けるな! 心臓に悪いだろう!?」


胸を押さえながら、文句を言った。


「おや? 何だか酷く怯えていらっしゃるようですが……まさか、何かやましいことでもあるのでしょうか?」


まるで全てを見透かすような執事の冷たい視線に背筋が寒くなる。


「ま、まさかそんなはずないだろう? 取引先との商談で食事会があったのだ。ほら、いつも月に2回あるだろう? あれだよ」


「なるほど、定例の行事というわけですね?」


「あ、あぁ。そういうわけだ。それでは俺は部屋に戻って休ませてもらう」


定例の行事……その言葉に何処か嫌味を感じつつ、執事の脇を通り抜け……。


「お待ち下さい、カール様」


背後から声をかけられ、思わず肩がビクリと跳ねてしまう。


「何だ? まだなにか用があるのか?」


冷静を装いながら返事をする。

大丈夫だ……絶対にバレるはずはない。レストランの予約だって偽名を使って入れているし、念には念を入れてメガネにカツラをつけていたのだから。


「はい、奥様からお電話で伝言を承っております」


「エリザベスから? 用件は何だった?」


「大奥様の足の具合ですが、3、4日程安静にしていれば良くなられるそうです。なので、あまり心配しなくても大丈夫とのことでした」


「あぁ、なるほど。そういうことだったのだな」


まずい、義母が足の怪我をしていたことをすっかり忘れていた。


「それでは、エリザベスが屋敷に戻るのは……」


「正確な日程は伺っておりませんが、恐らく4日後には戻られるかと思います。何か御伝言はありますか?」


「伝言か……そうだな。では、通帳と鍵の件だが……」


「何ですと? 通帳と鍵とおっしゃられましたか?」


執事の目が光った……気がする。


「い、いや。何でもない。特に伝言は無いな」


「何と、今……無い、とおっしゃられましたか?」


「ああ、言った。どうせ4日後には戻ってくるのだろう?」


通帳と鍵の件はエリザベスが帰宅してから聞こう。


「大奥様や旦那様に伝言は無いのでしょうか?」


「何だって? 伝言……」


そこで気付いた。そうか……執事の言いたいことが分かったぞ。


「どうぞ、お大事にして下さいと伝えておいてくれ。仕事があるので、お見舞いに伺えなくて申し訳ないです。と、ついでに言葉を添えておいてくれるか?」


「はい、かしこまりました。カール様」


まただ、いつになったら旦那様と呼ぶのだろう。だいたい、この屋敷で働いている使用人達は俺のことを何だと思っている?


「ああ、よろしく頼む」


執事に背を向けると、俺は自分の部屋を目指した。


背後に刺すような視線を感じながら――



 翌日の朝食も、昨日同様豪華だった。


食事をしながら、昨夜のメリンダとのデートを思い出す。

昨夜はエリザベスも不在と言うことで、少々羽目を外してしまった。だが……非常に良い時間を過ごすことが出来た。


つい、口元に笑みが浮かんだそのとき。


「カール様、随分今朝はご機嫌のようでいらっしゃいますね?」


給仕をしていたフットマンが声をかけてきた。


「そうか? 分かるか?」


自分の心の内を察して貰えたことが嬉しく、返事をした。


「ええ。見れば分かります。奥様が不在で、さぞかし寂しい思いをされているかと思っていたのですが……その心配は杞憂だったようですね」


その言葉に、フォークを持つ手がピタリと止まってしまう。


何だと……?


まさか、こいつは俺をハメる為にわざとそんな言い方をしたのか?

思わず睨みつけたくなるのを必死で抑える。


「それは、確かに心配だ。だが、4日もあれば足の怪我は治るのだろう? エリザベスだって久々に両親と会えている。きっと、今頃は親子水入らずの楽しい時間を過ごしているのではないか? 大体、俺が笑顔だったのは昨夜は商談がうまくいったからだ。ただそれだけのことだ」


そう、昨夜のメリンダとのデートは最高だった。


「なるほど、それほどまでに商談がうまくいかれたのですね? カール様は本当に仕事熱心なお方で、尊敬するばかりです。私も見習わなければなりませんね」


「そ、そうだな。頑張ってくれ」


ニコニコと俺に笑顔で語りかけてくるフットマン。

うん、きっと気のせいだろう。彼の言葉の節々にどこか嫌味を感じるのは……。


早く、食事を終えて出社したほうが良さそうだ。


今日は食後のコーヒーはやめておこう……そう思いながら、食事をすすめた――




――朝食後


「では、出かけてくる」


フットマンからカバンを受取り、馬車に乗り込もうとした時。


「お待ち下さい、カール様」


珍しいことに執事が現れた。

今まで俺が仕事に出かける時、見送りをしたことが無かった彼が一体何の用だ?


「どうかしたのか?」


「はい、本日のお帰りは何時頃になられますか?」


「そうだな……18時半には帰ってこれるので、その時間に合わせて夕食を用意しておいてくれるか? 勿論肉料理を中心にだ。後はそうだな……食前酒も欲しいな」


「……」


すると何故か執事は目を見開き、まるで穴が開かんばかりに俺をじっと見つめてくる。

その眼差しが何となく不気味だ。


「な、何だ? 言いたいことがあるなら言ってみろ。俺はただお前の質問に答えただけだろう? なのに何故、そんなに見つめてくる?」


男にじっと見られるのは……ましてや、何を考えているかわからない相手に見つめられるのは息が詰まりそうだ。


「いえ、何でもございません。では19時前には、お夕食を出せるように手配しておきます。それでは行ってらっしゃいませ」


「ああ、行ってくる」


まるで飛び乗るように馬車に乗り込むと、執事が扉を締める為に馬車へ近づいてきて声をかけてきた。


「カール様」


「な、何だ?」


「お気をつけてどうぞ」


執事は口元だけ笑みを浮かべると扉を閉め……馬車はガラガラと音を立てて走り始めた。


「ふぅ〜……一体何だって言うんだ? くそっ! いつもなら俺の見送りになど出てこないくせに……本当に不気味な男だ。全く……執事のせいで、嫌な汗をかいてしまったじゃないか」


馬車の背もたれによりかかると、ためいきをついた。


……この時は執事の言葉の意味を、全く理解していなかったのだ。


それが後に俺の失態を招く要因の一つになるということを――



 今朝もいつものように出社し、社長室の扉を開けた。


「おはよう、メリンダ」


「あ、おはようございます。社長」


返事をするメリンダはいつもと違い、様子がおかしい。何やら浮かない顔をしている。

昨夜、あれほど俺と楽しい夜を過ごしたのに一体どうしたのだろう?


「メリンダ、どうかしたのか?」


「はい……実は、出勤するときにヒールが折れてしまいましたの」


メリンダは少しだけスカートをめくると、確かに彼女のヒールが片側折れてしまっている。


「これは歩きにくいな……予備の靴はあるのか?」


「まさか、予備の靴などあるはずありません。だから、困っているのです」


そしてため息をつく。

美しいメリンダに悲しげな顔は似合わない。


「よし、それでは外回りを名目に一緒に靴を買いに行こう。是非俺にプレゼントさせてくれ」


「まぁ! プレゼントなんて……よろしいのですか?」


「勿論だ。社員が働きやすい環境を作るのも社長の仕事だからな」


幸い、顔が利く靴屋がある。

俺の名前を出せば、ツケ払い位どうってことはないだろう。何しろいつも妻を連れて靴を買いに行っているのだから。


「よし、それでは早目に出かけよう」


「はい、社長」


メリンダは嬉しそうに返事をした――



 社員たちに、これからメリンダと一緒に外回りをしてくることを告げると2人で辻馬車に乗った。


「ふ〜……片側のヒールがないと、とても歩きにくくて疲れてしまいましたわ」


メリンダが馬車の中で肩に寄りかかってくる。


「大丈夫だ、これから行く靴屋はサイズも種類も品揃えが豊富だ。きっとすぐに気に入った靴が見つかるさ」


「はい、社長」


こうして俺とメリンダは少しの間、馬車の中で恋人気分に浸るのだった――




****


 馬車が目的地である靴屋に到着した。


早速メリンダを連れて靴屋に入ると、すぐに男性店員が近づいてきた。


「いらっしゃいませ、あ。お客様は……」


「そうだ、俺はカール・ヒューゴだ。当然知っているだろう?」


「ええ。勿論存じております。エリザベス様のご主人様でいらっしゃいますね?」


「あ、ああ。そうだな」


店員の物言いが若干気に入らなかった。まるで、俺がエリザベスのおまけのような言い方に聞こえてしまう。


「彼女は俺の秘書だ。出勤前にヒールを折ってしまって難儀している。これから彼女と外回りをしなくてはならなくてね。このままでは歩きにくいので、靴を見せてもらえるか?」


言い訳がましく聞こえてしまうが、ここはエリザベスが贔屓にしている靴屋だ。あらぬ誤解を生むような真似をするわけにはならない。


すると男性店員はメリンダの足元を見た。


「ははぁ……なるほど。確かにコレでは歩きにくいですね。承知いたしました、ではこちらにいらして下さい」


「はい、分かりました。それで社長は……?」


メリンダは俺を振り向く。

本当は彼女と一緒に靴を選んでやりたいところだが、一緒に行動しては2人の仲がバレてしまうかもしれない。


「俺はここで待っているから、履きやすい靴を選ぶといい」


「ありがとうございます」


笑顔で返事をするメリンダ。


「では、あちらへ行きましょう」


俺とメリンダの会話を聞いていた男性店員が彼女を促し、2人は店の奥へと消えていった。


「……さて、少し待たせてもらうか」


この靴屋は貴族ばかりが利用する店なので、豪華なソファセットが置かれている。

そこに座ると、メリンダが戻ってくるまでの間待つことにした。



そして俺を苛立たせる、ちょっとした出来事が起こる――


――40分後


「何だって? ツケがきかないだって?」


思わず大きな声が出てしまい、慌ててミランダの方を振り向いた。

しかし、ここから少し離れたソファに座る彼女は何も聞こえていない様子で窓の外を眺めている。


安堵のため息をつくと、俺は店員に向き直った。


「おい、どういうことだ? 俺はこの靴屋の常連客だってことくらい、分かっているだろう? いつもエリザベスと靴を買いに来ていたじゃないか? 金は後できちんと払う。だからツケ払いにさせるんだ」


半ば脅迫めいた言葉と取られてしまうが、ここは致し方ない。

昨夜も俺の金で、メリンダとデートをしたのだ。エリザベスが屋敷に戻ってくるまでには後2日はある。

それまではなるべく自分の手元の金を減らしたくはなかった。


しかし店員は俺が凄んでも、怯むこと無く平然と答える。


「ええ、それは十分承知しております。ですが、我々が特別対応していたのはお客様が奥様と買い物にいらして下さっていたからです。奥様がいらっしゃらなければ、流石にツケ払いは無理です。現金でお支払い願います」


「何だって……?」


まただ、ここでもまたエリザベスだ。俺という人間を信用していないのか? これでも俺は社長なのに?


「いいか? 俺を誰だと思っている? 俺は……」


「はい、カール製粉の社長様でいらっしゃいますよね。でしたら現金でお買い上げなど、造作も無いことではありませんか?」


店員は痛いところをついてくる。

確かに俺は社長ではある。けれども今の規模まで会社を大きくすることが出来たのは、全てエリザベスと彼女の両親の資金援助のお陰だ。


よって、俺の財布事情は3人に握られてしまっている。それが資金援助を受ける際の条件だったからだ。


「どうされましたか? まさか、お支払出来ないのでしょうか? だとしたら、申し訳ございませんがお連れ様からお金を頂くしかありませんね」


「な、何だって!?」


メリンダから金を取る? 冗談じゃない、そんなマネさせられるか!


「わ、分かった。支払う、現金で支払おう」


胸ポケットから札入れを取り出し……仕方無しにその場で現金払いをした。


くそっ……なんてことだ。

コレで、手持ちの金は半分以下に減ってしまったじゃないか。


店員は現金を受け取ると、途端に笑顔になる。


「ありがとうございます。またのご利用をお待ちしております。今度は是非、奥様といらして下さい」


「あ、ああ。勿論、そうするさ」


背中にゾッとしたものを感じながら、返事をすると急ぎ足でメリンダの元へ向かった。


「あ、社長。靴のプレゼントありが……え? どうなさったのですか? 何だか顔色が優れないようですけど?」


俺の顔色は相当悪かったのだろう、メリンダが心配そうに声をかけてきた。


「い、いや。大丈夫だ、それよりも早く店を出よう」


背後から何やら痛い視線を感じる。長居すると、色々良くないことが起こりそうだ。


「はい、分かりました」


立ち上がったメリンダを伴うと、逃げるように靴屋を後にした。



「え? もう会社に戻るのですか? せめて何処かでお茶でも飲んでいきませんか? もう少しだけ、社長とデート気分を楽しみたいのですけど……」


メリンダが嬉しいセリフを言ってくれる。勿論、俺もそうしたいところだが……。


「それは無理だ。今は一切変装をしていないからな。既婚者の俺が君と2人で町を歩いてみろ。知り合いに会ったら何を言われるか分かったものじゃないだろう?」


婿養子の立場である俺は何かと気を使わなければならないのだ。メリンダにはその事が良く分かっていない。


「そうですか……でも、仕方ありませんね。靴をプレゼントしていただいたのですから、これ以上我儘は言えませんものね。分かりました、では会社に戻りましょう」


「君が物分かりの良い女性で助かったよ」


こうして、俺達は再び辻馬車に乗り込むと会社へ戻った――



 もうこれ以上、エリザベスが屋敷に戻ってくるまでの間は現金の支出を抑えなければ。


そこで俺は謙虚な生活を送ることに決めた。18時半には帰宅し、19時に屋敷で肉料理とワインを嗜んで23時に就寝する……。

そんな規則正しい生活を過ごした。


それなのに屋敷の使用人達は何が不満なのか、俺を見る視線がいつも以上に冷たく見える。


一体何だって言うんだ……?


そして数日が経過した。



 エリザベスが屋敷を出て5日目――


「カール様。今日、エリザベス様が戻ってこられるそうです」


朝食の席で執事が告げてきた。


「何だって? そうだったのか? いつ連絡が入った?」


「昨夜のことです。カール様がお部屋でワインを飲んでおられた時間でした」


「どうして俺に繋がなかった?」


「昨夜、お部屋にお伺いいたしましたけど? お部屋の扉をノックし、奥様から電話が入っていることを伝えました。ですが酒を飲んでいる最中なので邪魔するなと言われたではありませんか。……もっとも、かなり酔っておられましたが。」


シレッと答える執事。


「何だって……?」


そう言えば、昨夜確かそんなことがあった気がする。


「そうか、今日戻ってくるのか。これでようやく金の問題が……」


そこで冷たい視線を感じ、見上げると執事がじっと俺を見下ろしていた。


「な、何だ……その表情は。言いたいことがあるなら、はっきり言ってみろ」


エリザベスが戻ってくれば、こちらのものだ。何しろ、ここ数日で良く分かったことがある。

この屋敷の使用人達は、エリザベスがいる時といない時では雲泥の差があるのだ。

彼女が戻ってきたら、俺への態度がどれだけ酷いものだったか訴えてやろう。


大丈夫だ、惚れた弱み。

エリザベスは何時だって俺のことを優先してくれるのだから。


しかし、執事の言葉で背筋が冷えることになる。


「では申し上げます。……結局カール様は一度たりとも、大奥様のお見舞いには行かれませんでしたね。そのことを電話口で奥様が悲しげに話しておりました。ここから本宅までは馬車でもせいぜい1時間程度です。18時半に帰宅されることが出来たなら、いつでもお見舞いに行くことは可能だったのではありませんか?」


「あ……」


自分の顔が青ざめていくのが分かった。

そうか。

それでこの執事は俺に帰宅時間を聞いて、目を見開いたのか。


「お、おまえ……何故、そのことを俺に言わなかったんだ? 分かっていたなら一言見舞いの話を口に出してくれても良かったんじゃないか?」


すると執事が冷ややかに言う。


「それを私がわざわざカール様に告げなければならないのでしょうか? 婿養子という立場におられるのであれば、尚更ご自身で気づかれるべきだった……と、私は思います」


「うっ……そ、それは……」


そこまで言われると、何も言い返せない。

だが、少し足首を捻っただけだろう? 別に大怪我をしたわけでもないし、自宅療養だっていうなら軽く考えてしまうのも無理はない話だ。


「カール様、今夜は必ず何処にも寄らずに真っ直ぐ帰宅なさって下さい。エリザベス様から大切なお話があるそうですから」


そして執事は冷たい笑みを浮かべる。


「大切な……話……?」


そこで思い出した。

エリザベスが屋敷を空けた初日、引き出しの中に離婚届が入っていたことを。


まさか……今夜、俺に離婚を切り出すつもりなのではないだろうか……?


全身から血の気が引いていったのは……言うまでも無い――




**


 その日は、生きた心地がしない状況で働いた。


メリンダはそんな俺を気にかけていた。けれども何か話しかけられても俺が「ああ」とか「うん」といった生返事しかしなかったせいだろう。


そのせいで呆れてしまったのだろう。

結局この日はメリンダとまともに話すこともなく、彼女は17時になると退社していった。



「まいった……一体どうすればいいんだ?」


帰りの辻馬車の中で俺は頭を抱えていた。

今から義母に謝罪をしても、もう手遅れだろう。いや、そもそもエリザベスが実家に戻った日に離婚届を見つけた。


「もしや……メリンダとの関係がバレた……?」


思わず口にしていた。

だとしたら、一体何処でバレたんだ? 彼女との関係は周囲にバレないように慎重に交際していたのに。


たった月に二度だけの交際。

彼女と出かける日には偽名を使い、眼鏡にカツラ姿で行動していたのに……?


社長秘書という立場に置けば、盲点だと思っていたのに返って裏目に出てしまったのだろうか?


「駄目だ……絶対に離婚だけは死守しなければ……離婚などされてしまっては俺はもう終わりだ……」


俺は貴族ではない。

子爵家のエリザベスと結婚出来たからこそ、貴族社会に潜り込むことが出来た。

事業が拡大出来たのは、資金援助をしてくれた彼女と義理の両親のお陰だ。

多くの顧客を獲得できたのもヒューゴー子爵家の後ろ盾があったからこそ……。


つまり、俺はエリザベスに離婚されれば全てを失ってしまうということだ。


「よし、決めた。エリザベスから離婚を言い渡される前に、浮気のことを白状して謝るんだ。メリンダともきっぱり別れて、秘書を……いや、会社を辞めてもらおう。俺の誠意を見せるんだ。ついでに見舞いに行かなかったことを謝罪し、明日にでも義母の元を訪ねれば、きっとなんとかなるはずだ……」


馬車の中で、暗示をかけるように自分に強く言い聞かせた――



****



 辻馬車を降り、3階建ての屋敷を見上げた。


今までこんなにも緊張する気持ちで帰宅したことがあっただろうか? 

途中、辻馬車に行先を変えるように告げなかった自分を褒めてやりたいくらいだった。


「よし、まず離婚を切り出される前に謝罪して全て洗いざらい告白し、メリンダと別れることも宣言する。その次に義母の見舞いに行かなかったことを詫びて、明日にでも何かプレゼントを持参して訪ねることにしよう」


馬車で考えたことを改めて口にすると、意を決してドアノブを握ろうとしたその時。

突然眼の前の扉が開かれ、無表情メイドが姿を現した。


「ヒッ!」


まさかいきなり扉が開かれるとは思わず、口から小さな悲鳴が漏れる。


「お帰りになられたのですね、カール様」


「あ、あぁ……。それで、エリザベスは……?」


「はい、もうお帰りになっておられます。食事をしながら大事なお話があるそうです。既にダイニングルームでお待ちになっておられます」


「そ、そうか……大事な話か。分かった、すぐに向かおう」


「では、おカバンをお預かり致します」


「頼む」


カバンを託すとメイドは無表情で受取り、去って行った。

その後姿を見送りながら、思わず心の声が漏れてしまう。


「ハハハハハ……大事な話ね……。まさか夫婦としての最後の晩餐と言うことなのだろうか……」


こんなことなら胃薬を持参してくれば良かった。


重い足取りで、エリザベスの待つダイニングルームへ向かった。


 恐る恐るダイニングルームを覗くと、既に妻……エリザベスが燭台の明かりに照らされて着席していた。


ブロンドの巻き毛に、大きな青い瞳の我が妻。


あぁ、どうして俺はこんなに愛らしい妻がいるというのに浮気をしてしまったのだろう。


エリザベス……離婚なんて、嘘だよな?

そんなにこの俺が不満だったのか?


離婚を告げられることを知り、激しい後悔が押し寄せてくる。

俺が覗き込んでいることに気づいたのか、エリザベスは笑顔を向けると立ち上がった。


「お帰りなさいませ、カール様」


「あ、あぁ。ただいま……」


「どうなさったのですか? そんなところに立っていないで、中にお入りになって下さい」


「そうだな……」


いそいそと中へ入り、はたと気付いた。いや、そうじゃないだろう? まず初めに言うべき言葉があるじゃないか!


「会いたかったよ、エリザベス! この5日間、毎日君に会いたくてたまらなかった! 今再びこうして会えて俺は嬉しくてたまらないよ!」


大げさな素振りでひざまずき、両手を広げて喜びを表現した。するとエリザベスは怪訝そうな表情を浮かべる。


「カール様……そんな格好をされて一体どうなさったのですか?」


何? 俺の喜びの気持ちが伝わっていないのか?


「い、いや……エリザベスに会えた喜びを表したつもりなのだが……何しろ5日ぶりの再会だろう?」


「だとしたら、本宅にいらして頂いても少しも構わなかったのですよ? 何しろ、この屋敷から本宅まで馬車を急いで走らせれば30分もあれば到着しますから」


う! 中々痛いところをついてくる。


「そ、それは……親子水入らずのところを部外者の俺が、お邪魔するわけにはいかないかと思って遠慮を……」


「カール様は私の夫ですよね? 部外者ではありませんわ。何も遠慮などする必要はございません」


「それはそうなのだが……仕事で疲れている表情を見せるわけにもいかないだろう?  君に余計な心配をかけさせたくはなかったんだ」


「なら電話でも宜しかったのですけど?」


「あ……なるほど、そうか……。で、電話ね……」


駄目だ、話せば話すほど墓穴を掘ってしまう!!

思わず髪をかきむしりたくなる衝動を理性で押し止める。


「フフフ。そんな困った顔をなさらないでくださいな。お仕事でお疲れのところ申し訳ありませんでした。カール様の真剣な様子がおかしくて、ついからかうような言葉を口にしてしまいました。さ、いつまでも跪かないで椅子にお掛け下さい」


クスクス笑いながらエリザベスが向かい側の椅子を勧めてきた。


「そうだな。座らせてもらうか」


しかし、着席したものの、まだ料理は並べられていない。

一体どういうことだ? 


首を傾げるとエリザベスが説明した。


「カール様が席につかれてから、出来立ての食事を並べるように給仕に説明してありますの。何しろ、今夜は大切なお話がありますから」


「大切な話……?」


いよいよか? 

ついに俺はエリザベスに離婚を切り出されてしまうのか?

だが、まさか食事前に離婚を要求してくるつもりだったとは思わなかった。 


だが、どのみち今の状況では食欲など皆無。


彼女から離婚の話が出る前に俺から全て白状して許しを請い、スッキリした気持ちで食事をすればいいだけだ。


「カール様、今夜は……」


先に言わせてたまるか!!


「エリザベス!! 俺が悪かった! どうか許してくれ!! 頼む、 この通りだ!!」


エリザベスが離婚を告げるより早く、素早く立ち上がると頭を下げた。


「カール様、一体それは何の真似なのでしょうか?」


冷静に尋ねてくるエリザベス。その姿に何故か背筋が寒くなる。


……やはり、そうか。誘導尋問というやつだな。いいだろう。全て洗いざらい罪を告白して、許しを請う。これからはエリザベスを第一優先し、良き夫になると宣言するのだ。


「聞いてくれ、エリザベス。メリンダとのことは本気じゃ無かったんだ。秘書として採用し、一緒に仕事をするうちに……親密な仲にはなっていった。何しろ、お互いを信頼しあわなければ、円滑に仕事は勧められないからな。そ、そして……つい魔が差してしまったのだが、お互い本気では無かったんだ! 俺が第一優先するのは君だけなんだよ!」


「カール様……?」


エリザベスが怪訝そうに首をかしげる。

やはり、これだけではまだ駄目なのか? だったら他にも白状しなければ!


「すまない、他にもある。君が不在中に、こっそり金庫の鍵を開けて金をちょろまかしたことも何度かある。通帳を使って、金を引き出したことも含めてな。確かに君から十分に月々の金は貰っている。それでも俺は買い物するために自分の手持ちの金を減らしたくは無かったんだよ! 分かるだろう? 婿養子の立場上、小遣いを上げてくれなんて言いにくいってことが!」


エリザベスに言葉を言わせないように、必死に言葉を紡ぐ。


「そのちょろまかした金を使って、俺はメリンダとのデート資金に当ててしまった。彼女の喜ぶ店へ連れていき、プレゼントも贈った。それなりに楽しんでいた関係だったが……けれど信じてくれ! 彼女との関係は本気じゃなかったんだ! 全ては仕事を円滑に進めるために交流を深めていただけなんだ! 俺が本当に愛する女性はエリザベス、君だけなんだよ!」


「……」


けれど俺の必死な訴えに、エリザベスは一言も口を開かない。ただ、大きく目を見開いているだけだ。

彼女のそんな姿を見ていると、ますます不安な気持ちがこみ上げてくる。


「聞こえているのか? 何か言ってくれないか?」


懇願するように、エリザベスを見つめる。

するとエリザベスはため息をつき、尋ねてきた。


「カール様。今日が何の日だったか、御存知ですか?」


「え……? 今日?」


一体何の日だ? さっぱり分からなくて首を傾げる。


「……そうですか、覚えていなかったのですね」


エリザベスは悲しそうにポツリと呟き、足元から何かを取り出すとテーブルの上に置いた。


それは小さな小箱で、青いリボンがかけてある。


「これは……一体……?」


「カール様へのプレゼントですわ。今日は2人の初めての結婚記念日ですから」


「え? あ!」


そうだ、思い出した。今日は……俺達の結婚記念日だったじゃないか!!


「結婚式を挙げた時、約束しましたわよね? 毎年結婚記念日には互いにプレゼントを交換し合って、お祝いしようと」


その声は悲しげだった。


「これは、腕時計です。カール様はまだ懐中時計しかお持ちではありませんでしたよね?」


エリザベスがリボンを解き、蓋を開けると中から銀色に光り輝く文字盤が美しい腕時計が入っていた。


「最新式の……腕時計だ……」


「結婚記念日を忘れていたということは……当然、私へのプレゼントも忘れていたということですよね? それとも浮気の報告が私へのプレゼントだということでしょうか?」


「そ、それは……」


全身から血の気が引いていったそのとき。


「話は聞かせてもらった」


背後から、突然声をかけられた。

「うわぁああっ!?」


背後から声をかけられ、驚いて振り向く。


「うわぁっ!!」


さらに驚きの声を上げてしまった。だが、こればかりは仕方ない。何しろ、振り向いた先に立っていたのは……。


「全く、君と言う男は……成人男性のくせに、大きな声で喚きおって」


「確かに、少し叫びすぎですわね」


「お、お義父さん? それにお義母さんまで!! いつからいらしていたのですか!?」


腰が抜けそうに驚いた。けれどもテーブルを支えに、何とか耐え忍ぶ。


「いつから? そうだな、君がエリザベスに謝罪したときからかな」


義父が腕組みする。その顔には眉間にシワが寄っていた。


「そ、そんな……」


謝罪のときからいた? ということは最初から全て話を聞かれていたということじゃないか!

そのとき、ふと義母と目があった。


「お、お義母さん……足の怪我はもう治ったのですか?」


「ええ、おかげさまですっかり良くなったわ」


ニコリと笑みを浮かべる義母。


「そうでしたか……完治なさったのですね? おめでとうございます……」


「そんなことより、まずは席に座ろう」


「ええ、そうね。あなた」


義父は義母に声をかけ、2人は俺の傍を通り過ぎて席に着席する。


……俺も座るべきなのだろうか?

椅子を引いて、着席しようとした時。


「エリザベス、可哀想に……泣いているのか?」


突然義父の言葉に驚いて、エリザベスを見上げると彼女はハンカチを顔に押し当てていた。


「な、泣いていたのか!?」


義父母に気を取られて、エリザベスの様子に気づかなかった。


「可愛そうなエリザベス……結婚記念日を忘れられていたどころか、浮気までされていたのね?」


「お母様……」


義母がハンカチで目を押さえた彼女の頭を撫でる。


「それどころか浮気相手と遊ぶ金欲しさに、金までちょろまかしていたとは……」


義父が鋭い目で俺を睨みつけてきた。


「う!」


痛いところをつかれ言葉が出てこない。座ることも出来ず立ったまま3人の様子を眺めるしか無かった。


駄目だ。このままで黙っていては、増々フリな立場に立たされてしまう。

何か、何か言わなくては……。


「あ、あの……ところで、何故今日お二人はこちらに……?」


引きつった笑みを浮かべながら勇気を振り絞って義父に恐る恐る尋ねた。


「何故こちらに? そんなことは決まっている。今日は2人の初めての結婚記念日だ。だから全員で祝おうとここへ来たのではないか」


「本当なら、てっきりお見舞いに来てくれるかと思っていたのよ。だからそのときに、結婚記念日のお祝いの話をしようかと思っていたのだけど、随分忙しかったようね? だから屋敷に顔を見せに来なかったのでしょう?」


「……」


鋭い指摘に、何も言えない。


「それにしても結婚記念日を忘れるどころか、金をちょろまかして愛人と楽しんでいたとは……嘆かわしい。君は私達の娘よりも愛人の方が余程大切なようだな」


愛人だって? メリンダが? 

俺は一度だって、彼女を自分の愛人だと思ったことすら無いのに?


「ちょっと待ってください! 彼女は愛人などでは……」


「なら、恋人と呼べば良いのかしら?」


エリザベスを抱き寄せていた義母が冷たい声で尋ねてくる。


「こ、恋人……?」


「そうなのですか? カール様」


泣いていたエリザベスが顔を上げて、訴えてきた。


「ご、誤解だ! 彼女は……」


「全く、往生際の悪い男だ!! いい加減に自分の罪を認めろ!! 大体、何故結婚記念日という大事な日に自分の浮気を告げるのだ!? 少しくらい、配慮するべきではないのかね!?」


義父がついに怒鳴りつけてきた。


「違います! それはエリザベスの引き出しに離婚届が入っていたからで……」



「離婚届なんて知りません。私、そのようなもの引き出しにしまったことすらありません」


エリザベスが首を振る。


「何だって!? 知らない!?」


その言葉に衝撃を受ける。

けれど、彼女は嘘を付くような女ではない事は俺がよく知っている。


「だったら、誰が……」


まさか、誰かにハメられたのか? 誰だ、執事か? それともあの無表情なメイドだろうか……? もしくは給仕のフットマン……。


駄目だ、疑うべき人間が多すぎる。

この屋敷は……俺の敵ばかりだ!


「……先程から、何を突っ立っているんだ?」


ジロリと義父が睨みつけてきた。


「あ、今座り……」


椅子を引いて着席しようとすると、さらに義父が言葉を続ける。


「何を座ろうとしている! これ以上、君の顔を見ているだけで腹立たしい。今すぐ出て行きたまえ!」


「出ていけですって!? い、一体何処に!?」


あまりの言葉に一瞬、頭の中が真っ白になる。


「成人男性なのだから、御自分で考えられたら良いでしょう? 何ならメリンダとかいう女性のところにでも行かれたら? そもそも、ここはエリザベスに与えた屋敷であって、あなたに与えたものではありません」


こんな場面で、義母はとんでもない言葉を口にする。

もはや、こうなってしまえばエリザベスが頼みの綱だ。


「エ、エリザベス……?」


震えながら声をかけるも、彼女は俯いて首を振るばかりだ。


「そんな……」


グラリと身体が大きく傾く。


「何をしている? さっさと出ていけ!!」


「ヒッ!」


トドメの義父の怒鳴り声に情けない悲鳴が上がる。


「も、申し訳ございませんでした!! 今すぐ、出ていきます!!」


彼らに背を向けると、俺は脱兎の如くダイニングルームを飛び出した。

周囲でこちらを冷たい目で見る使用人達に追い立てられるように。



そして、この夜。


行く宛も無いまま、俺は屋敷を追い出されてしまった――


「まいった……まさか屋敷を追い出されることになるとは思わなかった」


屋敷を追い出され、行く宛もなく町中を歩きながらため息をつく。


「だけど、一体何処へ行けばいいんだ……?」


今更実家に戻るわけにはいかない。

農家の家業を継ぐのがいやで、勘当同然で家を出ているのだから。

それにもう実家は弟が継いでいるし、汽車を乗り継いでも5時間はかかってしまう。

仕事もあるのに実家になど帰れるはずもない。


「メリンダか……」


義母の言葉が蘇ってくる。


『何ならメリンダとかいう女性のところにでも行かれたら?』


「いっそ義母の言う通り、メリンダの元へ……」


口にしかけ、慌てて首を振る。

駄目だ! メリンダとは別れると決めただろう! 明日、仕事が終わって帰宅する頃には流石にほとぼりも冷めているだろう。


「とりあえず、今夜はホテルにでも泊まるか……」


再びため息をつくと駅前の繁華街に向かい、一番格安なホテルで一泊することにした。




その夜のこと――


普段とは違う、寝心地の悪いベッドの中で自分に言い聞かせた。


「きっと大丈夫だ……エリザベスは俺に惚れている。だから、あんなに悲しんでいたんじゃないか。明日はプレゼントを買って、これからは心を入れ替えることを誠心誠意を持って彼女に誓う。そしたらきっと許してくれるに違いな……」


精神的に相当疲れ果てていたのだろう。気づけば深い眠りに落ちていた。

明日への希望を胸に抱きながら……。


けれど、この時の俺はまだ何も分かっていなかった。

自分がどれだけ、楽観的な男だったかということを――




****


――10時


「な、何なんだ……一体、これは……」


いつも通りに重役出勤してきた俺は眼の前の光景に仰天してしまった。会社の門に『関係者以外立入禁止』と貼り紙されていたのだ。

しかも、ご丁寧に俺の名前とメリンダの名前が明記されているではないか。


扉の前には警備員らしき、屈強そうな2人の男が立ちふさがっている。


「くそっ! 俺を締め出す気だな!」


だが構うものか。俺はこの会社の社長なのだ。


グッと前を見据えて門を開けると、会社へ向かって歩き出す。

警備員の男たちは俺が近づいてくることに気づき、コソコソ話すと再びこちらを見つめてきた。


「そこをどいてくれ、中に入りたいんだ」


どうせ、俺の顔など知るはずもないだろう。


「いいえ、あなたを入れるわけにはいきません」


「この会社は関係者以外立入禁止となりましたからね」


二人の男は交互に答える。


「何だって? 俺は……」


「自称、こちらの会社の社長ですよね?」


「我々があなたの顔を知らないとでも?」


1人の男が俺の眼前に写真をつきつけてきた。


「あ! お、俺の写真じゃないか!?」


そこには満面の笑顔を見せる俺が写っている。


「警備を頼まれたヒューゴー子爵家からお預かりしているのですよ。今日からこの会社はあなたの物ではありません。売却されたのですよ。部外者は立入禁止です」


「はぁ!? ふざけるな! 俺はこの会社の設立者だぞ!? そんな勝手が許されるとでも……」


「ええ、許されるのですよ。何しろ、この会社の正当な持ち主はアダム・ヒューゴー氏ですから」


アダム・ヒューゴー……義父の名前だ。


「そ、そんな……」


いや、確かにこの会社をより大きく成長させるために会社の名義を義父に変えてもらったことがある。

そして、俺は雇われ社長になったのだった。


その時。


目の前の扉が開かれ、予想もしていなかった人物が現れた。


「やはり、ここへやって来たか。こそ泥のようにコソコソとな」


腕組みした義父が鋭い眼差しで睨みつけていた。背後には3人の警察官の姿もある。

何故警察官を連れているのかは不明だが、俺は元気よく反論した。


「いえ、コソコソなどしておりません。堂々と出勤してまいりました!」


何しろ、ここは俺が設立した会社なのだから臆することは無いだろう。


「堂々だと……? 尚更質が悪いわ!!」


「す、すみません!!」


俺以上に大きな声で怒鳴りつけられ、咄嗟に謝罪してしまった。

何と言う迫力だ……物凄い圧を感じる。


「さて、念の為に尋ねよう。一体、お前は何をしにここへやって来たのだ?」


「そんなこと、聞くまでも無いではありませんか。仕事をしに来たのですよ。私はこの会社の社長……」


そこで言葉を切った。

何故なら義父の殺気を含んだ視線が怖かったからだ。


「お前はまだ自分の立場というものを分かっていないようだな? この会社をここまで大きくすることが出来たのは、私がこの会社の名義を買い取ったからだろう!? 違うか!?」


「いいえ! 違ってなどおりません! まさにおっしゃるとおりです! で、ですが最初に会社を立ち上げたのは、この私ですよ? ここで働く権利は十分あるはずです」


「ああ、だからお前を社長として雇ってやった。何しろ、大事な娘の夫だからな」


「だったら……」


義父の言葉に少し、安心を抱いた。良かった、話し合えば分かってくれるかもしれない。


「何を安心した顔をしている!! いいか? お前は妻があり、婿養子という立場にありながら、会社内で堂々と浮気をしていたのだぞ!! しかも相手は自分の秘書のメリンダと言う名の女とだ! 会社内だけでは飽き足らず、外では変装までして密会していたではないか!! 姑息な手段を取りおって……恥を知れ!!」


「ええ!? な、何故変装したことまで知ってるのですか!?」


よりにもよって、義父は会社内で大きな声で俺とメリンダのことを暴露してくれた。

警備員は面白おかしそうに俺を見ているし、警察官たちは軽蔑の眼差しを向けてくる。

しかも窓からは大勢の従業員たちが顔を出して、こっちを見つめている。そのうちの何人かは、俺と視線があったとたんに目を背けた。


もしや……あいつらが義父に密告したのか?

だが、今はそれどころではない。こんな大勢の前で赤っ恥をかかされてしまったのだから一言、訴えなければ。


「お、お義父さん。いくら何でも、こんなところで大きな声でバラすなんて酷いじゃないですか! 私にだって、人権くらい……」


「黙れ!! だったら、エリザベスはどうなのだ!? 娘にだって人権はある!! それなのに結婚して1年も経たずに裏切りおって!」


「そ、それは……」


駄目だ、義父の言葉はあまりにも正論すぎて反論の余地が無い。

おまけに社員たちの視線が先程から痛くてたまらない。


こっちを見るなと口で言えない代わりに、社員たちを睨みつけた途端、義父の雷が落ちる。


「何だ、その生意気な目つきは!! お前には睨む権利すら無い!!」


「も、申し訳ありません!! どうかお許しください!」


ビシッと指を差されて、必死になって詫びるしか無かった。


「とにかく、この会社はもうお前の物ではない! とっとと消え失せろ! 当然、屋敷にも戻ることは許さぬ! 金輪際、二度と出入り禁止だ!」


一体、どこからそんな大きな声が出せるのだろうかと思うぐらいの義父の迫力はすごかった。

先程から、身体の震えが止まらない。


だが……ここで引くわけにはいかない!


絶対に、これだけは言わせてもらわなければ!



 俺は大きく深呼吸した。


「お義父さん!」


「お義父さんと呼ぶな!! 図々しい奴め!」


「す、すみません!!」


倍以上の大きい声で怒鳴られ、思わず萎縮しそうになる。


「お前のような男に、お義父さんなどと呼ばれる筋合いはない!」


「で、ではヒューゴー子爵と呼ばせて下さい。ヒューゴー子爵! どうしても私を出入り禁止にすると仰るのでしたら、言う通りにいたします。ですがその代わり条件があります!」


「何……? 条件だと?」


義父の眉がピクリと動く。


「はい、そうで……」


「馬鹿者!! まだ自分の立場を理解していないようだな!! お前のようなクズが条件を言える立場だと思っているのか!!」


鼓膜がビリビリ震えるほどの大声で怒鳴る義父。


「ク、クズ……?」


言うに事欠いて、まさか自分がクズ呼ばわりされるとは思わなかった。

しかも、こんなに大勢の見ている前で。流石にこれはショックが大き過ぎる。


「ああ、そうだ。クズをクズと呼んで何が悪い」


義父は腕組みしたまま、微動だにしない。


「くっ……」


思わず、唇を噛みしめる。

だが、こんなことぐらいで挫けてなるものか。これでも俺は若くして一代で事業を起こした社長だ!

おまけに、義父の言われるまま出ていけば……何もかも失ってしまう!!


「そのようなことを仰らず後生ですから、どうかお願いします。この通りですから」


こうなったら下でに出るしか無い。恥をかきすて、情けないほどに何度も頭をペコペコ下げる。


「ふん! まぁ良い。聞くだけ聞いてやろう。お前が出ていく条件を言ってみろ」


やった! 俺の誠意が伝わったようだ!

下でに出て正解だった。


「はい、でしたら私物を全て引き取らせて下さい。会社にある私物と、屋敷にある私物全てです。着の身着のまま追い出されては露頭に迷ってしまいます。私物まで取り上げるのは、あまりに無慈悲ではないでしょうか? 私物の持ち運びの許可と、荷物整理に時間を下さい。5日……いえ、せめて3日。いかがでしょうか?」


情に訴えるように話せば、少しは聞く耳を持ってくれるかもしれない。

何とか出ていくまでの数日間、時間を稼ぐんだ。

そして、その間に信頼を取り戻せれば……うまくいけるかもしれない。


義父は少しの間、考え込む素振りを見せたが……やがて頷いた。


「……いいだろう」


「え!? 本当ですか!?」


まさか、俺の作戦が成功したのか?


「住むところが決まり次第、住所を教えろ。お前の私物を郵送してやろう。それまでは預かっといてやる」


「え!?」


まさか、そう出てくるとは思わなかった。


「だが、こちらもタダでは出来ない。なのでこちらの条件も出そう」


「ど、どのような条件……でしょうか……?」


背中を嫌な汗が伝う。

すると義父がニヤリと笑い、懐から二つ折りにした書類を取り出した。


「これにサインをしてもらおうか?」


「サ、サイン……?」


まさか……果てしなく嫌な予感しかない。


「そうだ。言わずとも分かるだろう。既にエリザベスの署名は入っている。後はお前が署名するだけだ! さぁ! とっとと離婚届にサインしろ! さもなくばお前の私物は没収だ! どうせ、我らが与えた金で買い集めたものばかりなのだからな!」


義父が眼前に突きつけてきた離婚届には……エリザベスの名前がしっかりと記入されていた――





****


 「ふぅ……やっといなくなってくれたか」


 私――アダム・ヒューゴーは、可愛い娘をかどわかした憎き男から受け取った離婚届を見つめ、ためいきをついた。


「もう二度と奴の顔を拝むこともあるまい」


『離婚でも何でもします、どうか私物だけは返して下さい』


私に訴えながら、震える手で離婚届にサインをしていたカール。

奴め……半べそをかいていたな。いいざまだ。


あの時の情景を思い浮かべ、笑みが浮かんだその時。


「ヒューゴーさん、どうやら我々は必要なかったようですね」


警察官が声をかけてきた。


「はい。どうもわざわざご足労頂き、ありがとうございます。ですが、本当は暴れて欲しかったのですけどね。そうすれば彼を逮捕して頂けたのに。おっと、今の話は聞かなかったことにして下さい」


私の話に、他の2名の警察官が笑う。


「ええ。もちろん、ここだけの話ですね」

「聞かなかったことにしておきますよ」


声をかけてきた警察官が帽子を取って会釈してきた。


「では、我々はこれで失礼致します」


「ありがとうございました。感謝致します」


私も礼を述べると、3人は帰っていった。


「ヒューゴー様、それにしても中々しぶとい男でしたね」


「往生際が悪すぎましたよ」


去ってゆく警察官たちの背中を見届けていると、入口を固めてくれていた使用人達が話しかけてきた。


「ああ、全くだ。大柄なお前たちがいてくれて助かった。カールの奴、怯えて震えていたじゃないか」


私の言葉に、彼らは首を振る。


「いえ、彼が怯えていたのは俺達じゃないですよ」


「そうです。旦那様の迫力が凄かったからですとも」


迫力か……。


「まぁ確かに大切な娘をあの男から引き剥がす為に、こちらも負けてはいられないからな。甘い態度を取っては舐められてしまうだけだ。何しろ奴は口がうまくて図々しい。だからエリザベスはたぶらかされてしまったのだからな……」



私は、当時のことを振り返った――


****


 エリザベスとカールの出会いは、若手青年実業家達が集まって開催した親睦会がきっかけだった。

そこで二人はたまたま出会ってしまったのだ。


口のうまいカールは世間知らずのエリザベスに近づき、甘い言葉であっという間に虜にしてしまった。


だが、どうにもあの男が信用できなかった。

だから私も妻も二人の結婚には猛反対した。何しろ、大切な一人娘なのだ。いい加減な男の元に嫁がせるわけにはいかない。

けれどエリザベスは聞き入れようとしなかった。挙げ句に、結婚を認めてくれないのなら死んだほうがマシだと泣き出したのだ。


大切な娘を死なせるわけにはいかない。

そこでやむを得ず、二人の結婚を認めることにした。だがエリザベスを完全にあの男に託すわけにはいかない。


そこで結婚に条件をつけることにした。

婿養子に入ること、財産はエリザベスと我らが全て管理すること。そして会社の名義人を私に変えること。

この3つだ。


これだけ条件を出せば、あいつはエリザベスから離れていくだろうと思った。

だが、あの男は驚くべきことにこちらの出した条件を全て飲んだのだ。

そこでやむを得ず、二人の結婚を認めることにしたのだった。



エリザベスはカールと結婚できたことを大喜びしていたが、私と妻の心中は穏やかでは無かった。

何としても、あの男から娘を守らなければ。


そこで、私は手をうつことにした。

所有する別宅を与え、信頼できる使用人達を配置させることにしたのだ。

さらに奴から買い取った会社の規模を大きくする名目で、使用人達を社員として奴の会社に潜り込ませた。


これで、あの男は屋敷内でも会社内でも監視される立場となった。

だが、愚かなカールは何も気づいている様子は無かった。


恐らく、貴族の仲間入りが出来たことで嬉しかったのだろう。

婿養子のくせに、身の程知らずもいいものだ。


その証拠に、カールはすぐに許し難い罪を犯したのだ。


『浮気』という、重い罪を――


「何だと!? あいつが浮気を!?」


カールがエリザベスと結婚し2ヶ月が経過した頃、奴の会社に潜り込ませていたフットマンから報告が入った。


「はい。カール氏は事業が拡大したので秘書が必要だと言い、先月面接を行いました。そこでメリンダ・ブラックという23歳の女性を採用したのですが、どうやらもう深い関係の様です。周囲にバレないように変装してデートをしている姿を確認しております」


「深い関係だと……? 一体それは……いや、やめておこう。おぞましい、知りたくもない。それにしても変装までするとは、何という姑息な男だ」


「いかがされますか? 旦那様」


フットマンが心配そうに尋ねてきた。


「このまま、あいつの監視を怠るな。本当は今すぐにでも離婚させてやりたいが、この国の法律で、1年は離婚するのを禁止されているからな。だがエリザベスには知らせるな。大切な娘を悲しませるわけにはいかない。どうせ1年経てば絶対に別れさせるのだから、それまでは告げるな。世の中には知らない方が幸せな事があるからな」


「はい」


私の言葉に、フットマンは頷いた――



その後も会社と屋敷に送り込んだ使用人から、奴に関する報告が集められてきた。

内容はどれも不快感極まるものばかりだった。


娘の名を使って、色々な店で買物をしてツケ払いをしている。娘の不在中に引き出しから通帳や金庫の鍵を持ち出して、現金をちょろまかしている。

メリンダとのデートは月に2回で、その度に接待でお金が必要だと言って娘から遊ぶ金を引き出している……等など。


あの男め……幸いエリザベスは夫の不貞に何も気づいてはいないようだが、一体何をやっているのだ?

婿養子という分際で、好き勝手をしおって……絶対に1年後離婚させてやる。


その為に、妻と使用人たちを巻き込んで計画を練ることにした。

奴の監視を続け、どのような性格であるかを分析し……離婚に同意させるかを。


1年間緻密に計画を練って、ついにその計画を実行に移すことにしたのだ。

妻が足を怪我したと嘘をつき、エリザベスの助けが必要だと説明して屋敷に戻らせた。

念の為に通帳と鍵を持って来るようにと付け足したのは言うまでもない。


そして代わりに、執事に離婚届を入れさせた。

この1年で分かった事がある。奴は意外に気の弱い人間だ。離婚届を目にするだけで揺さぶりをかけることが出来るだろう。


私はこれでも温情をかけたつもりだった。

仮にも、カールはエリザベスが選んだ男。娘は今も不誠実な夫を信じている。


妻の足の怪我を心配して見舞いに来たら、少しは見直してやろうと思っていた。

いや、何なら電話1本でもいいだろう。


そう思っていたのだが……奴は私の期待通りに裏切ってくれたのだ――



****



「それにしても、1年後きっちり離婚させることに成功したのは本当にお見事でした」


「エリザベス様も納得してサインされましたからね」


使用人達がにこやかに話しかけてきた。


「ああ、全くそのとおりだ。もとよりエリザベスには、あんな男は不釣り合いだ。それにまだ若い。半年も経てば、再婚だって出来る。今度は慎重に相手を選んでくれることだろう」


元々、あの男と知り合う前からエリザベスの元に見合いの話が舞い込んできていた。


「旦那様。そう言えば、あの浮気相手の女はどうなったのでしょう?」


「既に住所は調べてある。直に弁護士が彼女の元を訪ねるだろう。仮にも子爵家の娘の夫と浮気していたのだ。裁判を起こして慰謝料を取ってやるつもりだ」


私はニヤリと笑った……。




――その後


 エリザベスは子爵家の男性と見合いをし、婚約を果たした。

メリンダは慰謝料として、全財産を没収されて去って行った。


そして肝心のカール。

噂に寄ると、すぐに露頭に迷ったカールは強盗に入って警察に捕まったらしい。

今は、刑務所に入っていると言われているが……真実は分かっていない。


だが今となっては、そんなことはどうでもいい。


私の願いは、娘が今度こそ幸せな結婚生活を送ってくれることなのだから――



<完>





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― 新着の感想 ―
[気になる点] カールはクズだったけど、自分が立ち上げた会社を取られたのはどうか?と。義両親もやりすぎな気がしました。 [一言] 面白かったけど、何故か少しモヤモヤしました。
[一言] 妻の実家の連中にハメられた感じ。 主人公の働きを搾取して、体よく追い出す。 娘も言い包められてしまうし。 貴族は怖い。
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