世界が終わる五分前
「そ、速報です!」
テレビのアナウンサーの切羽詰まった声が聞こえてきたのは、陽気な午後のことだった。四月も中頃に入り、桜はほとんど散ってしまったものの、暖かい気候が続いていた。
小学生は公園で走り回り、老人は犬の散歩をし、ママ友であろう女性たちが大きな声で笑い合っている。中高生の部活動の声がどこからか聞こえ、鳥が何羽か空を羽ばたいていった。
どこからどう見ても、平和な日常の一場面であろう。
そんな日に似つかわしくないほど、アナウンサーは取り乱している。
しかし、それは無理もない。報道を聞けば、誰もがそう思うに違いなかった。
「今日で世界は幕を閉じます、つまり終わるのです!!えっと……、みなさん、とにかく逃げてください!人類はおろか、全ての生き物が、し、死に絶えることになります!!」
世界の滅亡。アナウンサーはそれを言いたいのだろうが、それなら一体どこへ逃げろというのか。そもそも、何だこのふざけたニュースは。
皆がそんな冷静なツッコミができたのは、時計がもうすぐ午後三時を示そうとするまでであった。
キィ、キィ……。
ブランコの鉄同士がこすれ合う音が、静かな公園に響く。
空はすっかり茜色に染まり、カラスは呑気に鳴きながら夕暮れを知らせている。
そんな様子を見上げながら、少女はブランコをこぐのを止めた。
少女といっても、高校生だろう。ねずみ色のブレザーにチェックのスカート、首元には赤いリボン。吹き抜けた風が肩ほどの長さの髪をさらっていった。
「ねえ」
離れた所で背を向けて立っている少年に向かって、少女は口を開く。
少年は、下にある街を見下ろしていた。
この公園は一番高い場所に位置しており、街を一望できる絶景スポットでもある。
しかし、その街は今や絶景とはほど遠かった。
三時を過ぎたあたりから、人々は慌てだした。テレビで専門家による詳しい解説がなされたからである。
それによると、今この星は、ある星に向かって接近中とのこと。
自分たちの星に外部から隕石か何かが近づいてくる、というのは聞いたことがある話だ。
だが、『自分たちの星が』接近中というのは前代未聞のことなのである。
ゆっくりとしたスピードで進んでおり、人々は「この星が動いている!」と感じることは難しいらしい。例えるなら、体感できる人がいるかいないかの震度一の揺れが起こっていると思ってもらえればいい。
「そんなに速度がないならば大丈夫」と安心してはいけないと専門家は語る。そうは言っても星と星の衝突。その威力は凄まじいものに変わりはない。
緊急調査の結果、『衝突される』星の方が、この星よりも固い性質であることが判明した。
壁にトマトを押しつけると、トマトは潰れてしまう。
なぜか?自分よりも固い物にあたったからである。
つまり、その論で言うと、脆いこの星の方がバラバラになってしまうのだ。
そして最悪なことに、衝突するまでもう時間がないという。予測時刻は午後六時。もう三時間もない。
これでもう人々は大慌て。
行くあても分からず荷物をまとめ出したり、親戚に片っ端から連絡をしたり。「どうしてもっと早く現状が分からなかったのか」「一体何をしていたのか」と宇宙関係機構や政府は、膨大なクレーム対応に追われた。各国の首脳がオンラインで緊急会議を開いたが、為す術などあるはずもない。
中には、パニックを引き起こしたり正気を失い、「どうせ何もかもなくなるなら」とバットを振り回し街を破壊していく連中もあちこちで現れた。
テレビのニュースも先程の詳細を伝えると、「神頼みでも何でもいい、とにかく生きる道を考えてください!皆さん、必ずまたお会いしましょう、では」と言ったきり何も映らなくなってしまった。
そんな大混乱の世界の中に、ある街の少年少女はいた。
この街でも同じようなことが起こっており、皆パニックになっている。泣き声や奇声、何かが壊れる音が響き渡る街とは違って、ここは唯一静かだった。
「午後五時五十五分」
少し目にかかる前髪を払いながら、少年が腕時計を見てつぶやく。
こちらも少女と同じ制服を着ており、違うのはズボンであることとネクタイを締めていることだった。
少年はうすく笑みを浮かべながら、少女の方をゆっくりと振り返った。
「世界が終わるまで、あと五分だ」
少女は肩をすくめて見せると、再びブランコをこぎ出す。
「……あなたって、本当に『そういう人』なのね」
「それは君もだろ?」
「まあ、そうだけど」
少年は少女の隣のブランコに腰を下ろす。
ギラギラとこちらを照らす夕日は、世界が終わることに抵抗しているようだった。
「まさか、こんな日が来るとはな。想像もしてなかった。君だって、夢がようやく叶うんだぞ。嬉しくないの?」
「……でもさ、当たり前にあった日常がなくなるのって、何だか寂しいなって」
「ええっ?君、そんなこと言うキャラだっけ。高二の夏を思い出せよ」
そう、あれはすぐにでもムービーのように脳内で再生できるのだ。少年も、あの夏の日を、目の前の少女と出会った日のことを思い出した。
今の八月とは、恐ろしい。
平気で三十五度を超え、四十度に達する日もある。外に出れば、もう体が溶けてしまいそうになり、冷静な判断なんてできなくなる。
「これが理由にならないだろうか?」と当時十七歳の少年は考えた。
「いじめられていたからか。心の弱い奴だったんだな」で終わっては、少年の中で許せないものがあった。
「これだけ暑いから、頭がおかしくなってしまったのか。じゃあ、仕方ない」の方がマシな気がしたのだ。
少年は、ほこりっぽい階段を上がっていた。掃除が行き届いてないのが明らかで、一歩踏み出すごとにほこりたちがダンスしている。
手の甲で汗を拭いながら、やっとゴール地点まで来た。
目の前にある鉄の扉を開ければ、屋上だ。
今日は午前中までしか授業がなく、部活以外の生徒はさっさと帰宅していったはずである。友達とカラオケに行くとか、バイトだとか、彼氏とデートだとか。聞くつもりはないけれど耳に入ってきた情報によると、皆さんそれぞれ忙しいようだ。
少年は、そんな予定なんてものはなかったので、こうして一人屋上に向かうことができている。
ドアノブを握ると、驚くほど冷たかった。
「いいのか?本当に?」と聞かれているようで、少年は少しの間その場に立ち尽くした。
これでいい。もう疲れたんだ。こうするしかない。
覚悟を決めて、ドアノブをしっかり握りしめ扉を開ける。
まず飛びこんできたのは、眩しい夏の日差しだった。先程まで薄暗い階段を上がっていたので、余計に光が目に入ってくる。
そして、むせ返るような暑さが襲ってきた。昼間というのは、暑さが最高に達する時間帯である。学校内で太陽に一番近い所にいるのだから、その温度は尋常でないはずだ。
やっと目が慣れてきた頃、少年は屋上に人がいることに気がついた。
スカートを履いているのを見ると、女子生徒だろうということは分かったが、顔は後ろを向いていて見えない。
少年がドアを開ける音で、一瞬パッとこちらを振り返ったが、すぐに背を向けてしまった。
これは困った。てっきり誰もいないものだと思っていたのに、これでは少年の目的が果たせない。
しばらくすれば少女は出ていくかもしれない、という希望を持って、少年はそこに居座ることにした。
五分、十分、二十分、三十分……。
少女は全く動く気配を見せない。
生きているか確認したくなるほど、微塵も動かずに空を見上げて突っ立っている。
少年はドアの近くでその様子を見守っていたが、さすがに限界がきた。
今日はもう諦めよう。また日を改めよう。
そう思い、少年が立ち上がろうとした時だった。
「……自殺ですか?」
初め、誰が発した言葉か分からなかった。屋上は、ついさっきまであまりにも静かだったからだ。遠くで運動部の声が聞こえるが、ここはまるで取り残されてしまったかのように、時が止まっていた。
声の主である少女が、ゆっくり近づいてくる。
少年は、初めて少女の顔を見た。
まっすぐにこちらを見てくる大きな瞳に、ついでに取り付けたような小さめの鼻と口。白い肌と対比するような漆黒の髪は、もう少しで肩に届きそうだった。
少女はいつの間にか少年の目の前まで来ており、またその口を開く。
「あの、聞こえてますか?」
「えっ、あ、はい、き、聞こえてます……」
「先輩ですか?年下には見えませんけど」
頭から爪先までジロジロ見られて、少年はどんな顔をするのが正解なのか分からなかった。
というより、学校で人と会話をしたのはいつぶりだったか思い出せず、対応に困ってしまったのだ。
「えっと、二年です……」
「あ、そうなんですか。じゃあ、同学年ですね!でも、見たことないな……。同学年なら、敬語じゃなくていいよね。何組?」
「い、一組……」
「一組かぁ、廊下の端のクラスだから行かないわ。わたし、五組」
少女はこの暑さにも関わらず、顔に汗一滴かいていない。あまりにも涼しげな表情をしているので、少年は少女に足がついていることを確認した。幽霊ではないようだ。
「ところで、あなたは自殺しようとしていたの?」
ド直球の質問をしてくる少女に、少年はこのまま話を続けるべきか否か悩んだ。しかし、少女の目力はウサギを睨むオオカミのようで、その場を動くことができない。
少年は、会話を続けるしかなかった。
「ど、どうしてそう思うんですか?」
少女は首を傾けて考えているポーズを取る。そして、ぽつりとつぶやいた。
「何となくね。あなたも、わたしと同じ『そういう人』なのかなって思ったの」
『そういう人』……?
その時、少年は少女の首元や制服から出ている肌に痣のようなものがあること、手首を覆うように包帯が巻かれていることに気がついた。
表情を読み取ったのか、少女は「分かりやすく言うとね、」 とほほえんだ。
「わたしも、あなたと同じなの。この世界からいなくなりたいの」
少年は、何も言えなかった。ただ、少女の顔を見つめていた。
きれいなその目には、一体何が映っているのだろう。
この少女の明るい言動から見るに、「いなくなりたい」なんて思っているようには見えない。
「そうね、正確に言うと『生まれ変わりたい』かな」
「生まれ変わる……」
「あなたは、最近新しい星が発見されたのを知ってる?」
突然の質問だが、少年はうなずいた。
数週間前に、そんなニュースを報道していたのを覚えていたのだ。
「わたしね、その星にすごく興味を持ったの。その星には生命なんていなくて、本当に何にも存在しない。でもね、いつかきっと美しい星になる。生命があふれる星になるって直感したの。わたしのこういうのって、当たるのよ」
そう言うと、少女は空を見上げた。
暑いはずなのに、この少女と話をしていると何も感じなかった。
「わたしは、その星に生まれ変わりたい。こんな星捨てて、新しい場所で人生を始めたいの」
きっと怖くないのだろうな、と少年は思った。
少女にしてみれば『死』はただの通過点でしかなくて、ゴールは『生まれ変わること』。
そんなことをサラッと言ってのける少女をかっこいいと思ってしまった。
また再び静かな時間が流れていたが、それを破ったのもやはり少女だった。
「さあ、わたしのことは話したわよ。あなたのこと、教えて?」
「えっ、えええ?教えるなんて、そんな約束してなかった……」
「いいから!ここに来た詳しい理由を聞かせてもらいましょうか」
少女はその場にドスンと腰を下ろし、聞く姿勢を取った。向かい合う形で座り、もう従うしか道はないと少年は悟る。
「……別に、聞いても面白い話じゃないんだけど。えっと、何て言うかな……」
こんな話を人にするとは思っていなかったので、上手く言葉を繋ぎ合わせられない。
けれど、少女は真剣な顔で何も言わずこちらを見ていた。それに助けられ、少年はゆっくりと話しだした。
爽やかな風が吹き抜けていった。
「もちろん、あの夏の日のことは覚えてるわ。初めてあなたと会った日のことだもの」
少女はまたブランコをこぎ出す。
少女の髪が風になびく様子を見て、あの頃よりも髪が伸びたな、と少年は思った。
あの夏の日をきっかけに、少年には『友達』と思える人ができた。
『友達』とは何をすればいいのか、どう接したらいいのかと思っていたのは最初だけで、いつしか心の拠り所になっていった。
軽口を叩き合ったり、一緒に笑ったりできる相手がいるというのは、少年には経験したことがなかったのだ。
何もかもが新鮮で、楽しかった。
少年は、再び腕時計に目を落とす。
針は、無慈悲に世界の終わりへ向かって時を刻む。
もう時間がない。
「あのさ、君に言っておきたいことがあるんだ」
少年は、目の前にいる『たった一人の友達』に届くように言葉を紡いだ。
「オレたちの共通点は『この世界からいなくなりたい』ってことだった。そんな変な理由で一緒にいたけど、会えて良かったと思ってる。ありがとう。何か、こんな形でお互いの夢が叶うなんて思わなかったけど、とりあえず『おめでとう』だよな」
ハハッと笑うと、少女のブランコがぴたりと止まった。
少女はうつむいたまま、少年の方を見ようとしない。
不思議に思って、少年が口を開きかけると突然少女が顔を上げた。
「えっ……」
少女の目からは、悲しみだけでなく怒りまでも溢れ出していた。次から次へとこぼれ落ちるそれは、きっとこの終わる世界で一番きれいなものに違いなかった。
「何で、そんなこと、言うの……?」
「そ、そんなことって……」
「あなたはまだ『いなくなりたい』って思う?『死にたい』って思う?わたしと永遠に会えなくなって平気なの?……わたしは、平気じゃないよ」
まくし立てるように言われ、少年は今までどうやって声を出していたのか忘れてしまった。
言葉が喉に引っかかって出てこない。口を開けているのに、その先ができないのだ。
そんな少年とは逆に、少女はまっすぐな瞳で見つめたまま続ける。
「確かにそうね。わたしたちは『この世界からいなくなりたい』っていう理由で一緒にいた。なぜって、わたしたちは一人ぼっちだったから。居場所がなくて、生きられる所を探したけど、見つからなくて。もう選択肢なんてなかった。でも、『一人ぼっち』と『一人ぼっち』は『二人ぼっち』でしょ?もう一人じゃないわ。ここは、あなたの居場所にならなかった?わたしは、あなたの『生きる理由』になれなかった?」
カチカチと嫌に大きな音で針が動く。時が迫っている。
世界の、そして少年と少女の永遠の別れが。
先程までの夕日はどこに行ったのか、空には暗雲が立ち込めて雷まで鳴り始めている。
しかし、そんなことを気にしている暇はない。
何か、何か言わなければ。消えてしまう。全てが。
少年の頭の中は、沸騰しそうなほど熱くなっていた。様々な思い出、言いたい言葉。
いっぱいあったはずなのに。
出てきたのは、少年の弱さだった。
「うっ……、く、うぅ……、うっ、ふうぅ……」
止めよう、止めようとしても、少年にはやり方が分からない。こんな気持ちになったことがないのだ。
何とか言葉にしようとして出てきたのは、とても頼りなく震えた声だった。
「うっ、う、うぅ……、そ、そう思ってるのは、じ、自分だけだと、思ってて……、君もオレを、と、友達だと思って、くれてたの……?」
少女は目を細め口角を上げる。
それはいつも通りの、少年が大好きな笑顔だった。
ふわりと優しい香りがして、少年は抱きしめられていることに気がついた。
ブランコに座ったままの少年は、いつもとは違い少女を見上げる形になった。
「……泣かないで。もう無理しないで。あなたも、本当は死にたくないって思ってるんでしょ?」
少年は、何度も何度もうなずいた。
「き、君と出会って、自分は必要とされてる、生きたいって思うようになって……、で、でも、君は生まれ変わりたいって言ってたから、だ、だから、『いなくならないで』なんて言えなくて……、うっ、くうぅ……」
少年は精一杯伝えようとするが、頭の中はぐちゃぐちゃだった。
もっと伝えたいことがある。話したいことがある。ずっと一緒にいたい、いつまでも。
しかし、それは叶わない。
少女は、少年の頭をなでて一層強く抱きしめた。
「ありがとう。あなたと過ごせて楽しかった。……あのね、あなたも、ゴールを『生まれ変わりたい』に変えたらどうかな。そしたら、『死』なんてただの通過点。もしかしたら、生まれ変わって会えるかもしれないでしょ?」
少年は少女を見つめる。
生まれ変わったら、また会えるかもしれない。
少女の言葉を胸に刻み、少年は薄く笑った。
ぼやけて見えていた少女が、段々とはっきり見えるようになってきた。
「うん、うん……!ゴールを変えるよ……、君とまた出会うために」
強い風が吹いてきた。
風の音にかき消されそうにならながら、少年は目の前の『友達』が言った言葉を聞いた。
「あなたに会えて良かったわ。……必ずわたしを見つけてね」
少年は、自分の腕時計が最後の秒針を刻む音を聞いた。
目の前が真っ暗になった。
少年の目に映るものは何もなくなった。
「星座研究会?」
校舎の窓が開いているので、セミの声がダイレクトに聞こえてくる。
自分の声は届いただろうかと新任教師らしき男性は不安になった。
今の八月とは、恐ろしい。
平気で三十五度を超え、四十度に達する日もある。外に出れば、もう体が溶けてしまいそうになり、冷静な判断なんてできなくなる。
男性教師の少し前を歩く校長らしき人物は、のんびりと振り返った。
この暑さに校長はやられてしまい、冷静な判断ができていないのだろうかと男性教師は心配になった。
「そうそう、星座研究会。望遠鏡も最新式の物を揃えているから、なかなかいいよ。星とか惑星について調べて、夜は学校に泊まって観察とかしてるね」
「いや、それ文化部ですよね。自分はずっと学生時代サッカーやってて、顧問はサッカー部でお願いしますって話したと思うんですが……」
校長は、目をまん丸に見開いて男性教師を見つめる。
そして、「ああ!」と手の平をおでこにあてた。
「そうか、そうか!そうだったね!いやあ、すっかり忘れてしまっていたよ、申し訳ない!何せ、この暑さだからね、ハハハハハ!!」
校長の高笑いは、セミの声に負けず劣らずだった。
「サッカー部は、他の先生に顧問になってもらうことに決まっちゃってねぇ。まあ、とりあえず星座研究会の部室をのぞいてみましょう!先生、星は嫌いかね?」
「いや、嫌いではないですけど……」
その時、廊下の向こうから教頭らしき人物が走ってきた。
「校長!ここにいらっしゃったんですか!保護者の方がお待ちですよ!三時には校長室にいてくださいと言ったじゃないですか!」
「おっと、それはいけない!すまない、一人で行ってくれるかな。この廊下を右に曲がった突き当たりの部室だから」
そう言い残され、二人の背中を見送るしかなかった。
男性教師は、ほこりっぽい廊下を進んで行った。掃除が行き届いてないのが明らかで、一歩踏み出すごとにほこりたちがダンスしている。
手の甲で汗を拭いながら、やっとゴール地点まで来た。
目の前にある扉を開ければ、星座研究会の部室だ。
今日は午前中までしか授業がなく、部活以外の生徒はさっさと帰宅していったはずである。友達とカラオケに行くとか、バイトだとか、彼氏とデートだとか。聞くつもりはないけれど耳に入ってきた情報によると、皆さんそれぞれ忙しいようだ。
男性教師は、そんな予定なんてものはなかったし、そもそも教師という仕事に就いてから早く帰ることができた記憶がない。
なので、こうしてここに向かうことができている。
ドアに手をかけると、鉄の部分が驚くほど冷たかった。
しかし、それは心地よい冷たさで、「ようこそ!」と歓迎されているように思われた。
なぜ自分が星座研究会の顧問なのかという疑問を抱えながら、男性教師は扉を開ける。
室内は太陽光が入るおかげで暗くはなく、想像していたほど狭くもなかった。
あちこちに黒い布をかぶった物があるが、恐らく望遠鏡だろう。
もう部活の時間は始まっているはずだが、生徒は誰もいなかった。今日は活動日ではないのだろうか。
近くの机の上にあった資料を何となく手に取る。
何やら長文が書かれているが、男性教師の目に止まった箇所があった。
『……その星は約四十六億年前に自ら地球にぶつかっていき、粉々に砕けてしまった。しかし、その破片の一部が今で言う……』
「……それ、月ですか?」
男性教師は、悲鳴をあげることは何とか我慢できたが、数センチ飛び上がった。
自分の真横から突然声が聞こえれば、無理もない。
初め、誰が発した言葉か分からなかった。ここは、ついさっきまであまりにも静かだったからだ。遠くで運動部の声が聞こえるが、ここはまるで取り残されてしまったかのように、時が止まっていた。
慌てて何者かから距離を取ると、そこにいたのは白衣を着た女性だった。服装から見るに、男性教師と同じくこの学校の教師だろう。
声の主である女性教師が、ゆっくり近づいてくる。
まっすぐにこちらを見てくる大きな瞳に、ついでに取り付けたような小さめの鼻と口。白い肌と対比するような漆黒の髪は、後ろで一つに結んでいる。
女性教師はいつの間にか男性教師の目の前まで来ており、またその口を開く。
「最近の研究で、約四十六億年前に、現代の地球に似た高度な文明があった星の存在が分かったみたいですね。その星をAとしましょう。でも、『将来地球となる星』……、Bとしましょうか。AがBに衝突して、Aの星は消滅。Aの星の一部が月となったとか。まあ、諸説あるようですけど……、あの、聞こえてますか?」
「えっ、あ、はい、き、聞こえてます……」
「あなたは、ここの教師ですか?あまり見たことありませんけど」
頭から爪先までジロジロ見られて、男性教師はどんな顔をするのが正解なのか分からなかった。
「え、えっと、今年から入ったんです。あなたも、ここの教師をされてるんですか?あっ、もしかして星座研究会の副顧問の方だったり……」
「わたしは、保健室で養護教諭をしています。顧問は特にしていません。ただ、星とか好きでよく星座研究会にお邪魔してます。実はわたしも今年から入ったんですけど……、今まで会ったことなかったですよね、どうしてでしょう」
女性教師は、目を細め口角を上げる。
それと同時に、ふわりと優しい香りがした。
男性教師は、強く胸が締め付けられるような気がした。そして、気がつけば口走っていたのだ。
「いや、『会ったこと』はあります」
「えっ?」
女性教師の声を聞き、男性教師はハッと我に返った。
「あ、い、いや、すみません。自分でも何か分からないこと口走っちゃって……」
「そうかもしれません」
「えっ?」
今度は男性教師が聞き返す番だ。
女性教師は、また一歩こちらに踏み出した。
「あの……、わたし、今あなたにすごく言いたい言葉があるんですけど……。あなたのことよく知らないはずなのに、自分でもおかしいと思ってます。……伝えてもいいですか?引きませんか?」
「は、はい、大丈夫です」
すると、女性教師はまた笑顔になった。それは、男性教師が大好きな笑顔だった。
「やっと会えたね」
小学生は公園で走り回り、老人は犬の散歩をし、ママ友であろう女性たちが大きな声で笑い合っている。部活動の声が聞こえ、鳥が何羽か空を羽ばたいていった。
どこからどう見ても、平和な日常の一場面であろう。
そんな日常を見守るように、風がそっと吹き抜けていった。
終