第3話 その景色は、私の存在を認めてくれる証の一つにすぎない
気がつけば、空は茜色に染まっていた。
深く生い茂る自然の木々は、悲観に暮れる私を優しく包み込むようにそこにある。そのざわめきと香りは私の心を落ち着かせるかと思ったが、そう上手くはいかないらしい。
小さい頃に聞いた話によると、巫女に選ばれた者は定期的に人間の住む地上に降りて、その世界を観察する義務を負うんだとか。
確かに、一度人間の世界に降りてみたいとは思った。空島にはないであろう世界に憧れもした。
でも、やはり私に巫女は務まらない。
神も天啓も信じない者が、それらの代表者として立てるわけがない。何より、私自身がそれに耐えられない。
幼い頃、お母さんから何度も言われた言葉が頭をよぎる。
『カーテネラ。あんたはとても優しい子だからまだわからないかもしれないけど、エルフであれ人間であれ、世の中にはね、怖い人がたくさんいるんだよ』
ああ、お母さん……。
『本当に信じられる人だけ信頼しなさい。それに、あまり目立つようなことをするのもダメよ。あんたには、お母さんみたいな思いはして欲しくないの。
だからカーテネラ――あんたは生涯、慎ましく生きていきなさい』
「うっ……!」
昔のことを思い出して込み上げてくる吐き気を、どうにか必死に飲み込んだ。
お母さんはもう、ここにはいない。だからこそ、私が頑張らないといけないのに、このままじゃ……。
「あっ! カー姉ちゃんみつけた!」
その時、聞き慣れた少年の声が辺りに響いた。普段は可愛らしく、少し前までは忌々しく――そして今は、どこにでもいるようなただの少年の声が聞こえた、ような気がする。
「カー姉ちゃん、そろそろ戻ろうよ! もうお祭りの準備も終わってるし、みんな心配しているんだよ?」
目の前の少年が何か言っているが、私には何も聞こえない。
そう思いたいだけなんだろうけど、答える気力が全くなければ、聞こえていないのとほぼ同じだろう。
「ねぇカー姉ちゃん、さっきから何かおかしいよ。あの巫女様に選ばれたんだよ? ……なんでそんなに辛そうなの?」
……今度ははっきりと聞こえた。
自分の都合のいい言葉にだけ反応してしまうところに、相当な嫌気を感じながらも、私はゆっくりと顔を上げる。
少年のきれいな足が見えた。
けど、これ以上顔を上げることは出来なかった。彼の顔を見るのが、とても苦しかったから。
「……お姉ちゃん、ちょっと疲れちゃったんだ」
「…………」
「私、本当は神様なんて信仰していない悪い人なの。だから、その、私なんかが相応しくないし、出来るわけがないし。……そもそも、みんな私に期待なんてしていないだろうから」
「…………」
言い終えてから、私ははっと我に帰り、そして激しく後悔した。
私は彼に何てことを愚痴ってしまったのだろうか。そんなことを言っても、ただ彼を困らせてしまうだけだというのに。
でも、決して涙は見せなかった。
これ以上、彼を不安にさせないためでもあったし、何より私自身が壊れてしまいそうだったから。
「……カー姉ちゃん」
心の臓がビクッと跳ねる感覚がした。
明らかに声のトーンが先程と違う。やっぱりさっきのは不味かったのだろうか?
そう思って、恐る恐る少年の顔を伺うと、
「一緒についてきてよ。見せたいものがあるんだ」
そこには、いつにも増して真剣な表情で、だけどいつもと変わらない可愛らしい笑みを浮かべるイマトゥラが、そこにいた。
深い森の更に奥、若干上り坂になっている地面を踏みつけながら、私は彼の後をゆっくりと着いていく。
「僕ね、大人になったら地上に降りるのが夢なんだ。それでね、そこにいる人間っていう種族の人たちと、たくさんお友達になりたいんだ」
「…………」
「でも神官様から聞いた話だと、人間ってエルフよりも遥かに短命なんだって。だから、いくらお友達に慣れたとしても、たった数十年でバイバイしないといけないんだってさ」
「……それは、残念だったわね」
一体なんの話をしているんだろう?
「だから僕ね、楽しかった思い出を思い出したり、逆に辛い思い出を忘れたりしたい時には、いつもあそこに行くことにしてるんだ。そこなら、エルフも人間も、動物も虫さんも、みんなと楽しい思い出を共有できる気がして」
「あそこ?」
「ほら、見えてきたよ!」
そう言って少年が指差す方向には、木々が生えていない岬のような場所があった。
程なくして、私たちが岬の先端に辿り着くと、イマトゥラは興奮した様子で前を指差す。
「ここから見える景色が、僕はずっと好きなんだ」
彼が示す先を見て、私は思わず目を見開き、そして息を呑んだ。
そこは、コロヌの里を丸ごと視界に収めることができるほど高く、どこよりもこの里の美しい顔を最大限にまで魅せてくれる場所だった。
地平線に沈みゆく夕日をバックに、さかさまの状態で空中を浮いている灯篭や睡蓮花、そして何百もの群れであちこちを飛び交うパピリオの群れが、コロヌの里を色鮮やかなものにしている。
ちなみにここの空島は、他の空島と比べてもだいぶ小さい部類にはなるが、それでも里から島の端まで行くには、何日も歩かねばならない。
でもここからなら、この空島の端も簡単に見つけることができ、さらにその奥の緑色に覆われた部分――地上の森まで見ることができた。
「どう? きれいでしょ? ここは僕しか知らない特別な場所。里の近くで地上を見ることができるのも、ここだけなんだよ」
目の前の鮮やかな光景にも負けないくらいにきらきらとした笑顔で、彼はそう言う。
「空島と地上を一望できるここなら、エルフも人間も、みんな一つになれるんじゃないのかなって僕は思うんだ。……だから、カー姉ちゃんにお願いがあるんだけど」
そう言って少年は、どこか覚悟の決まった顔をしながら、それでも純粋な憧れを持って私を見つめる。
「先に地上へ行ったら、人間さんたちと仲良くしてきてよ! 僕もいつか、カー姉ちゃんの後を追って行くからさ。だから……その時まで、どうか頑張ってね」
「……っ!」
どこまでも優しいその瞳に、私の心がきゅって締め付けられていくのを感じる。
……何故か、とても嬉しかった。
私は一人じゃないんだって、言葉で端的にそう言い表してくれることが、今までなかったからかもしれない。
「ふふっ、ありがとう」
そっと優しく、イマトゥラを抱きしめる。綺麗な羽を傷つけないように背中をさすって、その温かい温もりを直に感じながら。
彼の方も、何も言わずに私を抱きしめてくれた。何か、ずっと私を縛り続けていた何かが、ゆっくりとほどけていくのがわかった。
「そこにいるのはテネちゃん? イマトゥラもいるの!?」
そうしてどれくらいたっただろうか。ふと声のした方を見ると、マルツィアさんが土にまみれた状態でこちらへ向かって来ていた。
「はぁ、はぁ、き、聞いたわよテネちゃん。巫女に選ばれたんだってね。本当におめでとう! でも、二人とも急にいなくなったらだめじゃない。探したのよ?」
「……ありがとうございます。お騒がせしてすみませんでした」
「ごめんなさーい」
イマトゥラと一緒に謝りつつも、私は途端に緊張してしまう。
……孤独ではなくなった。
ただ、誰でも信用できるようになったわけでは決してない。
正直私は、これから里の宴に参加するのにはいささか抵抗がある。
里の方を見ると、すでに宴の準備は出来ているらしく、里の広場には料理が乗っているであろう長テーブルがたくさん置かれていて、里のみんなはそれらをつまみながら楽しく談笑する様子がここからでも窺える。
でもあれは、あくまでもこの里から巫女が現れたことに対する祝いのはずだ。それでも本来は、主役である私は参加しなければならないのだけれど……。
怖い。
怖いのだ。
彼らと一緒に混ざって楽しむなんてとても――。
「けど良かったわぁ。テネちゃんが行っちゃう前にこのブローチを渡すことができて」
「……へっ?」
ブローチ?
「テネちゃん、後3年で成人だからさ。何かお祝いできるものないかなーって、前もって作っておいたの。まさか巫女に選ばれて三日で旅立つなんて思ってもいなかったもんだから、本当に良かったわぁ」
そうしてマルツィアさんは、懐から何やら宝石があてがわれた装飾品を私にくれる。蝶の形をした銀のブローチで、中心には緑色の綺麗な石がはめ込まれていた。
「これは……」
「テネちゃん、うちに来てからずっと暗い顔をしてるじゃない? 無理してふるまってくれてるのもお見通しなのよ? だから、テネちゃんには自信を持ってほしかったの」
「…………」
「でも私だけじゃ力不足だったみたいだから、里にいる友達と相談してみたのよ。そしたら、テネちゃんのためならって、みんな嬉しそうに協力してくれて。それでできたのがそのブローチ」
マルツィアさんは、とても優しい微笑みを私に向けてくれる。
今思えば、私はマルツィアさんを信用できていなかったけれど、マルツィアさんの微笑みだけは、何故かあんまり疑ったことがなかった。
「だからテネちゃん。あなたはもっと自信を持ちなさい。何て言ったって、あなたは私の自慢の娘だもの」
にこっと笑う彼女の笑顔を見て、何か、ずっと私を縛り続けていた何かが、粉々に砕け散っていくのがわかった。
心の奥にずっと押し殺していた物が、一気にあふれてくる。頭の中がぐちゃぐちゃになりそうだ。
「ひっぐ。マ、マルツィアさん、ごめんなさい……」
「おーよしよし大丈夫大丈夫。私もごめんねぇ。今まであんまり気の利いたこと言ってあげられなくて」
今度はマルツィアさんに背中をさすられる番だった。
イマトゥラとなにも変わらない温かい温もりを、直に肌で感じられた。
「さて、じゃあそろそろ宴の方に戻んないとね。みんなあなたのこと待ってるわよ」
ひとしきりマルツィアさんに抱きしめてもらった後、私たちは広場の方へ戻ることになった。
さっきまで茜色だった空はすっかり暗くなってしまい、対照的に広場はより一層綺麗に輝いて、里のみんなは相変わらず宴を楽しんでいる様子だった。
「とゆうわけでテネちゃん。ここから一気に飛び降りるから、私に捕まっていなさい」
「……うん?」
私、何か聞き間違えたのかな?
「ありゃ、大丈夫? 私が広場まで飛んで連れていくから、テネちゃんは私の腕に捕まっていて欲しいのだけれど」
そう言うなり、マルツィアさんはいとも簡単に、片腕で私をわきに持ち上げてしまう。
あっという間に手足が宙に浮いて、身動きが取れなくなってしまった。
「私ね、こう見えても昔は聖国軍に所属していたのよ。だから、腕力には自信があるのよぉ☆」
「そうだったんですか!?」
「あ、じゃあママ! 僕も一緒に――」
「あんた今までさんざん飛ぶ練習してきたじゃない。これぐらいならもう一人で行けるでしょ?」
「……まあ、そりゃ行けるといえばいけるけどさ。ぶつぶつ……」
そんなこんなで、私は問答無用でマルツィアさんに抱えられて、広場までショートカットする羽目になってしまった。
どうにかもがこうにも、マルツィアさんの力が強すぎて全く抜け出せない。
あれ、これってまずいんじゃ――
「ちょっと、あんまり動いちゃだめよ。危ないから」
「あ、あの、マルツィアさん。やっぱり歩いて戻りません? その方が絶対安全だと思いますし」
「いや~悪いけどねぇ、もう宴も終盤に入っちゃってるのよねぇ。今日はあなたが主役だって言うのに、ここでもたもたしていたらもう終わっちゃうし。そしたらせっかくの宴が意味をなさなくなってしまうわ」
「で、でしたらもう少し心の準備を――」
「ごちゃごちゃ言わずにさっさといくわよぉ!!」
「いやですからほんの少しでいいのでちょっと深呼吸をうわあああああああああああああぁぁぁぁ!!??」
今、私は空を飛んでいる。
羽も翼もない私が、こんな形で空を飛ぶ日が来るなんて、いったい誰が想像できただろうか。
少なくとも、私は全く想像してなかった。そのせいか、今でも心臓がバクバク鳴って止まらないし、下なんてとても見れたものじゃない。
でも、そんなの全く気にならないぐらい、私は2つの素晴らしいものを見た。
一つは、里の素晴らしい景色を上空から巡りながら、逆さの灯篭や睡蓮花、パピリオの群れを間近で見ることができたこと。
後から聞いたのだが、これらは今回の宴の催しとして、里のみんなが特別に施したものらしい。いつもの何倍も美しくて素晴らしい、私の故郷。
そして二つ目は、
「あら、あそこにいるのはテネちゃんじゃない!」
「はっはっは! ようやく主役のお出ましか。長い時間待たせやがって!」
「テネちゃーん! よければ俺と一緒に飯食おうぜ! そんで一緒に遊びに行かない? 俺いいとこ知ってんだけど――」
「巫女様相手にナンパとかよーやるわ」
「おねーちゃーん! わたしとも一緒に遊んでー!」
「ほほほっ、宴の時間はまだある。無理しない程度にたくさん食べるといいぞ」
元気いっぱいに迎えてくれる、里のみんなの様子だった。
私はここにいて良いんだ。
心からそう感じるのには、十分すぎるほどのお出迎えだった。
ふと横を見ると、イマトゥラは何も問題なく飛び回りながら、いつの間にか隠し持っていたリンゴをおいしそうに食べていた。
とても微笑ましくて、嬉しくて、思わず笑ってしまった。
お母さん。
お母さんが言っていたことは、きっとなにも間違ってないんだと思う。
だからこそ私は、本当に信頼できる人たちを、こんなにたくさん見つけることができたんだよ。
どうか、待っててね。
地上に降りたら、絶対見つけて見せるから。