プロローグ② 君の涙の痕跡
エルダーが謎の男を足止めしているその頃、ルウとミネラの二人は、暗く生い茂る森の中をひたすら走っていた。
「ちょっと待ってくれルウ! エルダー様を置いていくつもりなのか!?」
「師匠がああ言っているんだ! 俺たちだけでも逃げないと、真っ先に全滅するぞ!」
「だ、だからってそんな……」
ミネラの足取りがだんだんと重くなっていく。時々嗚咽が聞こえてくるが、涙は流さまいと必死に堪えている様子だった。
そんなミネラを無理やり引っ張っていくこともできず、ルウはそこで歩幅を緩め、立ち止まる。ここまでくれば、あの二人ともだいぶ距離を取れただろうと考えての行動でもあった。
ミネラはその場で俯いていたが、やがて涙目でルウに語りかける。
「……すまない、本当に。私があんな事を言わなければ、エルダー様は――」
「何言ってるんだ! お前は何も悪くない。自分のルーツを知りたいと思うのは当然のことだろう?」
「で、でも、羽なんてなくても、私はもう充分幸せだった。これ以上を求めて知ろうとしたのが間違いだったんだ……」
そう言って、彼女は自分の背中に視線を向ける。
彼女には羽がなかった。
エルダーとルウ、そして他のエルフ達にも皆付いていた美しい四枚羽が、ミネラには生まれた時からついていなかった。
それでもルウは、自分の事を愛してくれた。彼のおかげで、里の人たちも理解を示してくれるようになった。
だから、その恩をどうにかして返したいと思った。自分の羽がない理由を知れば、何かが変わるかも知れない。そう信じてここまで来た。
それがまさか、こんな事になるなんて――
「ああ、そうだったかも知れないな」
「……っ」
「だから、もうここまでにしよう。里に帰ったらみんなに報告して、そしたらお前はもう何もしなくていい。あの子も待っている事だしな」
「…………」
「……俺が悪かった。俺は、お前がいてくれるだけで充分だったというのに……。辛い思いをさせちまったな」
そう言って、ミネラを優しく抱きしめるルウ。
その瞬間、彼女はその温もりを直に感じた。
ああ、自分は何を思い悩んでいたのだろう。別に自分から恩を返さなくても、彼への恩返しは、自分が生きているだけで既に充分だったのだ。
「さあ、もう帰ろう。今は一刻も早くここを離れたほうがいい。走れるか?」
「……うん」
ミネラが頷いたことで、彼らは再び走りはじめようとした。瞬間
ガサガサ、と
すぐそばの草むらから、葉が擦れる音が響いた。
「「……っ!?」」
ミネラはその場で両手を胸に当てて固まってしまい、ルウが片手で庇いながら草むらを睨む。
やがて、そこから一つの影が飛び出し――
「おお! ここにいたのか。探したぞい!」
エルダーが杖剣を携えながら姿を現した。
「エ、エルダー様!?」
「師匠!」
驚く二人に、エルダーは高らかに笑いながらこちらに歩み寄ってくる。
「ほっほっほ、何とか撒いてこれたのじゃ。しかし、ここにもじきに奴らが来るじゃろう」
「よかった! 生きておられたんですね! では、私たちも早くここから――」
「まあ、そう慌てるでない。ワシにはまだやり残していることがあるのじゃ」
そう言って、エルダーは二人の前に立ち、木々の生い茂る森の奥の方を指差した。
「や、やり残していることですか?」
「そうじゃ。ほれ、あそこを見てみよ。何か見えるじゃろう?」
そう促されて、二人は一緒に森の奥の方を睨む。だが、木々の向こうには暗闇が広がるだけで、他は何も見えそうにない。
「えっと、師匠。特に何も見えませんが――」
そう言ってルウが振り返ると、
ミネラの背中にナイフを突き刺しているエルダーが、そこにいた。
「見えない? そこにあるじゃろう。冥府への入口が」
「エ、エルダー、様……? どう、して……」
ナイフを引き抜かれたミネラが怯えた表情のまま、その場に倒れる。おびただしい量の血が溢れ出ていく様は、明らかな生命の終わりを予感させた。
最初、ルウには何が起こっているのか理解できなかった。
頭が真っ白になり、何も考えられなくなった時間が数秒。その後はエルダーが、あるいは二人が考えたいたずらなのかと考え、それを否定するまでに更に数秒。そして、今起きているこれが実際に起きている事だと受け入れるまでにも数秒。
常人なら動き出すだけでも十数秒はかかるだろう。それだけ、衝撃的な光景。
だが、ルウは理解するよりも前に、既に動き出していた。ミネラがナイフを引き抜かれて地面に倒れる前に、その体を優しく支えながら。
「……師匠。これはいったいどういうことですか?」
怒りと困惑が入り混じった視線の先では、ルウがいままでに見たことのない、ひきつった笑みを浮かべたエルダーの顔があった。
「ルウよ、そなたはまだ気づかんのか?」
「……?」
その問いに、ルウは顔を歪ませる。質問の意図が分からなかったのもあるが、それ以上に、彼はこのエルダーの発言に何らかの違和感を覚えていた。
その一方で、ミネラはその発言に驚き目を見開くと、口をパクパク動かしながらルウの裾を必死の思いで掴む。だが、ルウはその手を固く握り返すだけで、ミネラの異変に気付く様子はない。
エルダーは血の付いたナイフをぶら下げながら、二人の周囲を歩き回る。
「あの封印は、太古の昔にエルフたちが扱っていた強力な結界魔法の一つじゃ。つまり、その結界に封じられていた奴らは、大昔の時代から存在していたということになり、すなわちそれ相応に危険な存在なのじゃ。それをワシらは、誤って解き放ってしまった。それが故郷の皆に知られたら、わしらはどうなる?」
「……っ! ま、まさかあなたは!」
驚愕の表情を浮かべるルウに対し、エルダーは大して感情のこもっていない声で淡々と告げる。
「もう空島にはいられなくなるじゃろうな。じゃが、善良な心を持つそなたらはおそらく、このことをありのままに皆に告げてしまうじゃろうと思うて。ならば、口封じをするしかなかろう?」
「み、見損ないましたよ……! 確かに俺たちは、取り返しのつかないことをしてしまったのかもしれません。しかし、これを放っておけば、エルフも人間もとんでもない災厄に見舞われるかもしれないんですよ? それをあくまでも隠ぺいするというのですか!?」
「ああ、そうだ。出来損ないの弟子を持ってしまった不幸なワシを、少しは慰めてくれんかのう?」
「ふざけないでください!」
エルダーの挑発に激昂したルウは、右手に氷魔法で造られた剣を顕現させる。そしてエルダーの元へ飛び掛かり、そのままの勢いで氷の刃を振るうも、易々と躱されていくばかり。
「ほれどうした? お前さんの腕はその程度なのか?」
「くっ……! 待てぇえええええええええええええええ!!」
先ほどまで来た道を戻っていくエルダーを、ルウは必死に追いかけていく。
しかしこの時、彼は激昂のあまりに二つの過ちを犯していた。
一つは、彼が愛する妻を、瀕死の状態でその場に置き去りにしてしまったこと。
そしてもう一つは――彼女の必死の忠告に、最後まで気づけなかったことだった。
「待って……、ルウ」
おぼろげになっていく視界の中で、ミネラは最後の力を振り絞って、届かない声を必死に叫ぶ。
「あれ、は……、エルダ、様、じゃ――」
言葉を最後まで紡ぐことすら叶わず、
全身から力が抜け、瞳に宿していた光が消え失せる。
徐々に冷たくなり始めていた彼女の頬に、一粒の涙が零れ落ちた。