#98 少しずつ
日はすっかり暮れ、時刻は19時を回っていた。
リビングの窓の外には、濃紺の夜空に瞬く星がぽつぽつと顔を覗かせている。
私たちは帰る支度を進めながら、テーブルの食器を片付けたり、床に散らばったゲームのケースをまとめたりしていた。
「そろそろ帰るね。今日は色々ありがとう、優斗、棟哉くん」
「うん、また来てね。今日は楽しかったし……それと、アロマキャンドルもありがとう」
優斗は受け取った袋の中をちらりと覗き、ふっと優しい笑みを浮かべた。
中には、ラベンダーとバニラ、柑橘系の香りのアロマキャンドルがきれいに並んでいる。
「気に入ってくれるといいな~。リラックスできるようにって選んだんだから!」
ヒオちゃんがにっこり笑いながら言うと、優斗は小さく頷いた。
「うん、使ってみるよ。本当にありがとう」
「また一緒に遊ぼうね! 次はもっと楽しいことしよう!」
「うん、またね。気をつけて帰ってね」
最後に軽く手を振り、私たちは家を後にした。
夜道を歩きながら、窓越しに見えた優斗の笑顔が少しだけ柔らかくなっていたのを思い出す。
――――――――――――――――――――――――――
「ただいま帰りました~~」
「おう、お帰り」「おかえり、詩乃ちゃん」
夏音たちが帰ったすぐ後、詩乃ちゃんがリビングへ入ってきた。
少し肩を落とし、ぼんやりとした表情を浮かべている。
「んー……疲れちゃったよ兄さん……」
「お前が疲れるなんて珍しいな……風呂入ってさっぱりして来い」
「ん~、わかった~」
ぼやけた声でそう言いながら、詩乃ちゃんはふらふらと廊下へ消えていく。
普段きびきび動く彼女しか知らない僕にとって、この無防備な姿は新鮮だった。
「……詩乃ちゃん、かなり疲れた様子だったね」
「ん? あぁ、見たことないのか。運動終わりの詩乃はいつもあんな感じだぞ」
「へ、へ~……あ! そういえばアロマキャンドルってどんなのなんだろう?」
僕は袋からバニラのキャンドルを取り出し、ラベルを眺めた。
「へ~、ラベンダーにバニラの香りなんてあるんだ! ……けどこれ、本当に落ち着けるのかな」
「お前ほんっとバニラ好きだよな……試しに使ってみるか?」
半信半疑だったけど、せっかく夏音たちが選んでくれたものだ。
試さない手はない。
「うん! 早速試してみたいかも!」
「おし、じゃあ貸してくれ、火付けてくるわ」
バニラのキャンドルを棟哉に渡すと、彼は僕の視線を避けるようにキッチンへ向かった。
やがて戻ってきたとき、小さな炎がふわりと揺れ、甘く柔らかい香りが空気に溶けていった。
「どうだ? 怖くないか?」
僕は炎を見つめたまま深呼吸した。
香りは確かに心地いいはずなのに、視界に映る炎が胸を締めつける。
心臓が速く脈打ち、呼吸が浅くなる。
「……やっぱり、怖い。怖いよ……」
震える声を聞いた棟哉は、すぐに火を吹き消した。
炎が消えると同時に、額に冷や汗が滲み、体の緊張が少しだけ解けた。
「……ま、無理するなって。慣れるまでゆっくりやればいいんだよ」
僕は悔しさを抱えつつも、「ありがとう」と小さく返した。
アロマキャンドルではまだ恐怖心は残るものの、ゲームの火なら大丈夫だ。
棟哉と並んでテレビの前に座り、昼間買ったサバイバルゲームを再開する。
画面の中で火打石を打ち合わせると、リアルな火花が散り、やがて焚き火が明るく燃え上がった。
僕は手を止めずに作業を続ける。
「おお、火打石で火をつけるところ、やっぱりリアルだな」
「だねぇ」
自然に会話が交わされるが、棟哉は横目で僕を見ながら小さく眉を寄せた。
「(……ゲームの火は平気でも、現実の火は別物、か)」
僕も同じことを心のどこかで感じていた。
――――――――――――――――――――――――――
ゲームを終えたあと、僕は一人で台所に立った。
ガスコンロの前に立ち、つまみに手をかける。
――怖い。
でも、少しでも触れなければ変わらない。
そう決意しかけた瞬間、不意に肩を掴まれた。
振り向くと、棟哉が真剣な顔で立っていた。
「おい、優斗。何やってんだよ」
「……克服しなきゃって思って……でも……」
「焦るな。無理にやろうとしたって逆効果だ。今日はもう十分だろ。少しずつでいいんだ」
僕はつまみから手を離し、深く息を吐いた。
「……ありがとう。ちょっと焦ってたかも」
棟哉は軽く僕の背中を叩き、「俺がいるんだから、心配すんな」と笑った。
その笑顔に、僕もつられて口元が緩む。
――――――――――――――――――――――――――
その夜、自室に戻った僕は、そっと机の上にバニラのキャンドルを置いた。
照明を少し落とすと、部屋は静まり返り、窓の外から虫の声が微かに届く。
火を灯す勇気はまだなかったけれど、せめて香りだけでも感じたくて、ゆっくりと蓋を開けた。
ふわりと漂ってきた甘い香りが、緊張していた肩の力を少し抜いてくれる。
鼻から吸い込み、口から静かに吐き出すたびに、胸のざわめきがほんの少し遠のいていく。
「少しずつ……だよね」
呟いた声は、自分に言い聞かせるように小さく響いた。
まだ炎は怖い。目の前で揺れるその光を受け止めるには、もう少し時間が必要だ。
けれど、こうして蓋を開け、香りを感じられたこと――それだけでも、今日は前に進めた気がした。
香りに包まれながら、僕は布団に腰を下ろし、深く息をついた。
焦らず、でも確実に。
そう心に誓いながら、遠くない未来に、きっとこのキャンドルの炎を笑って見つめられる自分を思い描いた。




