#09 楽しい時間
風呂場から上がった湯気がまだ漂う脱衣所。
僕は夏音に「勝手にお湯張っておいたから、汗くらい流してきなよ」と言われ、左腕を庇いながらゆっくりと湯船に浸かった。
「……ふぅっ」
温かいお湯が体の芯まで染み渡る。
―――まるで今日一日の疲れがすべて溶けていくようだ。
……いや。
「それは無い、かぁ」
包帯を外した左腕を見下ろす。
赤黒くくっきり残った火傷の痕――スタンガンを押し当てられた跡だ。
ズキリとした痛みが、あの瞬間を嫌でも思い出させる。
明日は学校の前にコンビニで手袋でも買おう。
この傷を見られたら、余計な詮索をされるのは目に見えている。
「……そろそろ出るか」
頭や体を洗うのは、腕が痛みそうなのでやめておいた。
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リビングに戻ると、テーブルの上には大きなピザが一枚。
湯気を立てながら、香ばしい匂いを部屋に満たしている。
「お、ちょうど良かったね。温め直しておいたよ」
台所から顔を出した夏音が、オレンジジュースを片手に笑顔で言った。
「飲み物、冷蔵庫のやつ適当に出していい?」
「ああ、大丈夫。色々ありがとう」
夏音はコップにジュースを注ぎ、僕の向かいに腰を下ろした。
制服のまま――きっと着替えがないのだろう。
「そういえば、このあと夏音はどうするの?」
「ん? 家に帰ってシャワー浴びて寝ようかなーって。どうしたの?」
少し迷ってから、口にする。
「夏音さえ良ければなんだけど……今日はもう暗いし泊まっていく?」
「……え、もしかして誘ってるの?」
軽く目を細められ、思わず両手を振る。
「ちがっ……! そういう意味じゃないから! わかってて言ってるよね!?」
「ふふっ、ごめんごめん。冗談だよ。じゃあ、お言葉に甘えようかな」
夏音が笑ってパンと手を合わせる。
「じゃ、冷めないうちに食べよ」
「まったく……うん、そうだな」
「「いただきます!」」
ピザを一切れ手に取りながら、私は口を開いた。
胸の奥でずっと考えていたことを、勇気を出して言葉にする。
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「優斗……私ね、岡崎くんともう一度話してみようと思うの」
その瞬間、優斗の手がぴたりと止まった。
まるで意外すぎて、時間が少し止まったみたいに。
「びっくりしたよ、まさか夏音から言われると思ってなかった。でも、だったら話は早そうだね」
驚きの表情がすぐに真剣なものに変わる。
「実は物宮先生が、僕たちと岡崎の話し合いの場を作ってくれるらしい」
「そうだったんだ……でも、それだと優斗が危なくない?」
私を庇ってくれたことで、岡崎くんに恨まれているかもしれない。
そう考えると、どうしても不安が拭えなかった。
けれど、彼は少し肩をすくめて笑う。
「僕より夏音の方が危ない気がするけどな……まあ、話し合うつもりだよ」
……本当に、自分のことは二の次なんだから。
その言葉を聞いて、心の奥に温かいものが広がった。
「そっか……優斗が一緒なら安心だし、嬉しいな」
私がそう言うと、優斗は頭を抱えて恥ずかしそうに目を泳がせる。
(……夏音って、こういうとこあるんだよな)
その仕草も、私にとってはちょっとだけ嬉しい。
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「それにしても、このピザ、美味しいね」
「うん。デリバリーって、案外あなどれないな」
レシートを見ると、照り焼きチキン。
自分でも意外だけど、こういう味がけっこう好きらしい。
「そういえば先生が、明日休んでも欠席にしないって言ってたけど?」
「そうなんだ。じゃあ……病院にも行きたいし、休ませてもらおうかな」
僕がそう言うと夏音は驚いたような顔をする。
「え、うそ……あの真面目な優斗が学校を休むって……? これは明日槍が降るかなぁ」
「はぁ……腕をこのままにしておく訳にはいかないでしょ? ……大体、僕が休まないなら夏音だって休まないよね?」
夏音は小さく頷き、「まあ、優斗ならすぐ授業追いつくでしょ」と笑った。
食べ終わると、時計はちょうど20時。
僕はふと思いついて口にした。
「夏音も、お風呂入ってきたら?」
「そうだね……あ、でも覗かないでよ」
「しないって。お湯が冷めないうちに、ね」
夏音が浴室へ向かう背中を見送り、姿が見えなくなった瞬間――立ち上がった。
「……よし、黒歴史ノートの避難だ」
あれを同じ場所に置いておくと、夏音はきっとすぐ見つけてしまう。
急いで部屋へ――。
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「いやぁ、お風呂ありがとう! 久しぶりに湯船に……って、どうしたの?」
「いや……なんでもないよ」
ギリギリでリビングに戻った僕に、夏音が小首をかしげる。
「ドライヤーある?」
「去年壊れちゃって、そのままで……」
「そっか。じゃあ、寝るまでのんびりさせてもらうね」
ソファーに腰を下ろした夏音。
濡れた髪が肩にかかり、柔らかく光を反射している。
体操着のラインが、妙に目に入ってしまう――。
「ん? どうしたの? 見つめちゃって」
「い、いや……なんでもない。テレビでもつけようか」
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「はぁー面白かったね! 特に動物のコーナー……猫飼いたいなぁ」
「だねぇ、僕はハムスター飼いたいな」
時計を見るとも22時だ。
楽しいと時間の流れがとても早い。
「さて、そろそろ寝ようか。夏音はどこの部屋がいい?」
それを聞いた夏音はもじもじと恥ずかしそうにする。
「……あの、優斗と、同じ部屋じゃ……だめ、かな」
「……へ?」
間の抜けた声が、静かな部屋に響いた。