#89 大丈夫
「これは……ライ、ター?」
その瞬間、胸の奥をぎゅっと鷲掴みにされたような苦しさが走る。
嫌な汗が背中を一気に伝い、呼吸が浅くなる。
「そうそう、今日使えるんじゃないかと――」
「ちょ、優斗!? 大丈夫!?」
頭が真っ白になる。
目の前には何もないはずなのに、視界が赤く染まり、炎が迫ってくる錯覚に襲われる。
息が詰まり、胸が上下するたびに酸素が足りない。
「先輩! ヤエ先輩! 大丈夫ですか――」
声が遠のいていく。
そして、ふっと意識が闇に落ちた。
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「……ごめんなさい」
ヒオちゃんが、倒れた優斗の頭の下に自分の座布団を差し込みながら小さく呟いた。
「オイ、何があったんだ!? 優斗に何が――」
「兄さん、それが――」
詩乃ちゃんが、さっきの出来事を棟哉くんに説明する。
「本人も、ここまでとは思ってなかっただろうけど……陽織、そんなに落ち込むな」
「……うん」
「夏音、お前は大丈夫か?」
「あたし? うん、平気……」
棟哉くんは短く息を吐き、優斗の方へ視線を移した。
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「ん……僕、どれくらい……」
「寝てたというより、気を失ってたな。ほんの数分だけど……重症だぞ」
「……だいぶ酷いねぇ」
「優斗……大丈夫?」
屈んだ夏音が手を差し出してくる。
震える手でその手を握り、なんとか立ち上がった。
「あはは……情けないとこ見せたね。少しすれば震えも止まるから、そんな顔しなくて大丈夫だよ」
夏音が心配そうに僕を見ているのに気づく。
だけど――まだ握られたままの僕の手は、震えを止められなかった。
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……どう見ても、大丈夫じゃない。
「……とりあえずライターはしまっとく。ヤエがどういう状態かも分かったし……夏音ちゃん、ヤエのこと頼んだ」
棟哉くんにそう言われ、私は優斗の肩にそっと手を回し、ゆっくり歩き出す。
「わかった。あっちで休もっか、優斗」
「……うん、ごめんね、夏音」
謝る声は苦しそうで、今にも泣き出しそうだった。
「そんなに謝らないの。ほら、行くよ」
背後からは、台所で話す声がかすかに聞こえる。
私は優斗の手の熱を感じながら、部屋へと向かった。
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「……よし。カレーでも作るか。陽織ちゃん、辛いのは平気か?」
「あ、ううん! 私たち甘党だよ」
「女の子は基本甘党だしね。私は辛いのも好きだけど」
ふむ、と考えてルーのパッケージを手に取る。
「じゃあ……今日は中辛で行くか」
「兄さん、話聞いてた?」
「……おう、聞いてた」
詩乃は深いため息をつくと、ずいっと近づき、背伸びして顔を寄せる。
「辛いのが、苦手って、遠まわしに、言われてるの!! も~なんでこういう時に気を使えないかなぁ兄さんは!」
「何言ってんだ。多少辛い方が旨いだろ? 俺なりの気遣いだ」
言い合いは長引きそうだ。
「アンタら仲いいね……しーちゃんもよく喋るし」
「……ッ! もういい! 好きにして!」
詩乃はくるりと踵を返し、食材を取りに行く。
「はっはっは! この妹、案外おしゃべりなんだぜ。友達も多いしな」
「……それは身内贔屓。過大評価しないで」
そう言いつつ、背伸びして冷蔵庫の一番上から調味料を取る詩乃。
その姿に、棟哉は「な?」と言いたげな顔で陽織を見るのだった。




