#78 スパイス
「夏音ちゃん、おまたせ~」
私が薬を飲み終えたちょうどその頃、陽子さんが部屋の奥から現れた。
手には、茶色い粉が入った小瓶を持っている。
「陽子さん! 優斗に作ってあげるわけじゃないですって!」
「あら? じゃあ誰に作ってあげるの?」
陽子さんは、まるで“何を言っているの、この子は”と言わんばかりに小首を傾げた。
「え、えっと……あ、部活の後輩に……」
「もう夏音ちゃん、部活入ってないでしょ? じゃあ私特製スパイスを使ってお弁当を作るわよ!」
あっさりと嘘を見破られた上に、陽子さんはご機嫌で小瓶を手渡してくる。
「……これは、カレースパイスですか?」
「うーん、半分正解ね。香り、嗅いでみて」
“半分”という意味がよくわからないまま、私は蓋を開けて香りを確かめた。
「……カレーっぽいけど、それだけじゃない……?」
どこかで嗅いだような、でもはっきりと思い出せない香り。
それでいて、妙に食欲をそそる匂いだった。
「とりあえず何も聞かずに、ちょっと試してみて?」
「いいんですか……? じゃあ……」
手に少しだけ粉を出し、そのまま舐めてみる。
「え!? なにこれ、すっごい美味しい!」
バジルソースにカレーの風味を加えたような、言葉にしづらい味。
でも、これは絶対喜ばれるやつだ。
「でしょ!? これなら誰の胃袋も掴めるわ!」
「ですね! よーし、久しぶりに頑張っちゃうぞー!」
そう言って腕を振り上げたところで、部屋の扉がゆっくり開いた。
「ふぁああ……おはよ~……」
「あ、ヒオちゃんおはよう! せっかくだし、ヒオちゃんのも作ってあげるね!」
「え? 今日はなっちゃんが作ってくれるの!? やった、楽しみ!」
さっきまで眠そうだったのに、目が一気に輝き出すヒオちゃん。
「りっちゃんも、せっかくだし棟哉くんに作ってあげたら? 今日も来るんでしょ?」
「え、うーん……まあ、幼馴染のよしみで、たまには作ってあげますかぁ」
少し渋い顔をしているけど、絶対内心では乗り気だな……と私はひとり微笑む。
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「よし、忘れ物はなしっと……」
棟哉から連絡があった直後、制服に着替え、昨日用意した教科書やノートをリュックに詰める。
「あの口ぶりだと、朝ご飯は棟哉が用意してそうだし……少しゆっくりしてもいいかな」
でも、あいつのことだ。
おにぎりにわさびを仕込むくらい平気でやる。
何を渡されても、まずは毒味させよう……よし。
そんなことを考えていると、タイミングよくチャイムが鳴った。
「……ほんとに来たか。二度寝しててもおかしくないのに」
独り言を呟きながら玄関へ向かおうとしたとき――
『兄さん! いくらなんでもそれはひどいって! ヤエ先輩倒れちゃう!』
『いいじゃねぇか詩乃! こういうの、久しぶりだろ!』
……玄関の前で水津木兄妹が盛大に騒いでいるらしい。
はぁ……朝からこのテンションに付き合える自信がない。
溜息をつきながら玄関の扉をそっと開けた。
「「あ」」
棟哉は後ろ手に何かを隠し、詩乃ちゃんは棟哉に抱きつく形。
二人とも、ぽかんとこちらを見て固まっている。
「「………………」」
「あ、お邪魔しました……」
ゆっくりと扉を閉める。
『ちょ、閉めないでください!』
『俺たちはそんな関係じゃ――いや、詩乃とならアリ寄りでは……?』
棟哉、それはさすがにどうなんだ。
苦笑していると、玄関先で二人の影が動いた。
『兄さん、スキあり!』
『なああぁぁぁ!! それ高かったのに……!』
詩乃ちゃんが棟哉から何かを奪い、見事なフォームで放り投げたように見える。
「あはは……ほんとに仲いいなぁ」
……正直、少しだけ羨ましい。
待たせるのも悪いし、そろそろ行くか。
もう一度扉を開く。
「あ、おっす、優斗」
「おはようございます、ヤエ先輩」
棟哉はしょんぼり、詩乃ちゃんはほっとした様子で頭を下げた。
「おはよう二人とも……さっきのは何だったの?」
「俺、この間ネットで買っためっちゃリアルな虫の模型があってな――」
「もういい! 聞きたくない!」
耳を塞ぐ僕を見て、水津木兄妹は楽しそうに笑った。




