#77 寝ぼけ
「…………お腹空いた」
目が覚めた瞬間、腹の奥からぐぅと大きな音が響いた。
昨日の夜はほとんど食べられなかったせいか、それとも病院生活で三食きっちり食べる習慣が抜けていなかったせいか。
理由はどうあれ、とにかく腹は正直だった。
昨日の残りがあるし、それで済ませてしまおう。
そう思いながらベッドから身体を起こし、大きく伸びをする。
洗面所へ向かい、いつものように手に水をため――
「いッ……!! 顔、洗えないや……」
両手で器を作る瞬間、鋭い痛みが走って指先が勝手にほどけてしまった。
……仕方ない、タオルを濡らして拭くしかない。
「思ったより、いろいろ不便だな……」
苦笑しながらも、頭の中では次の悩みが浮かび上がる。
「あ、お昼ご飯……どうしよう」
さすがに野菜だけじゃ栄養が偏る。
やっぱり棟哉に相談した方がいいかもしれない。
パジャマのポケットからスマートフォンを取り出し、フリタイを開く。
『おはよう。ちょっと相談したいことがあるんだけど大丈夫?』
送信してすぐポケットに戻そうとしたところで、画面が震えた。
「ん? 通話……? まさか棟哉、起きてるの……?」
表示された名前に目を見張る。
こんな時間に彼が起きているなんて珍しい。
『ふぁ……どうしたんだぁ……?』
出た瞬間の声は、やっぱり眠そうだった。
「あはは……もしかして起こしちゃった?」
『いや、最近はこの時間に起きるようにしてるんだ。それで、どうしたんだ?』
「それなら良かった……それがね――」
僕は、火が怖くなってしまったことを正直に話した。
『なるほど……まぁ、話してくれてサンキューな。あんなことがあったんだし、しょうがないよな』
「うん……。今をしのぐだけならコンビニ弁当でもいいんだけど……」
棟哉は、深刻な話をすると必ず「相談してくれてありがとう」と言う。
わかっていても、面と向かって言われると少し照れくさい。
『それじゃ根本的な解決にならないし……あ、そうだ! しばらくウチに泊まるか?』
「え……いいの?」
『全然平気。あとで詩乃にも確認するけど、たぶん大丈夫だろ』
独りで過ごす不安もなくなるし、正直ありがたい提案だった。
『それと、保存きかない食材があれば持ってきな。こっちでちゃんと料理する――主に詩乃が』
「……ありがとう」
詩乃ちゃんには、何かお礼を持っていこう……。
『まあ、焦らず少しずつ火の恐怖も慣らしていこうぜ』
「そうだね……。とりあえず今日は昼はおにぎりでも買って……」
お金はちょっと痛いけど仕方ない。
『……待て、いいこと思いついた。お前、朝飯は?』
「ん? まだだけど……」
『よし、じゃあ迎えに行く! 準備しとけ!』
一方的にまくし立てられ、通話は切れた。
――なんだったんだろう。
でも、迎えに来てくれるなら準備しておこう。
――――――――――――――――――――――――――
「あ、そういえばヒオちゃん、結局何買ってきたの?」
気づけば私は見慣れないキッチンに立っていて、目の前の光景をただ眺めていた。
「あぁ、それはね……」
ヒオちゃんが自分のリュックを引き寄せ、ごそごそと中を探る。
まるで、宝物でも取り出すかのように。
「お、あったあった」
ことり、とテーブルに置かれたそれを見た瞬間――私は息をのんだ。
「これは……」
優斗がそう呟いた瞬間、その顔から血の気が引いていくのがはっきりと見えた。
ほんの一瞬で、彼の体がこわばる。
「そうそう、今日使えるんじゃないかと――」
「ちょ、優斗、大丈夫!?」
私の声が震えた。
でも優斗は、怯え、呼吸が浅くなっていく。
手が小刻みに震え、目は焦点を失い、口から短い息が何度も漏れる。
――過呼吸だ。
「先輩! ヤエ先輩! だいじょ――」
ヒオちゃんが慌てて駆け寄る中、優斗の身体から力が抜け、その場に崩れ落ちる。
私は、ただその光景を動けずに見ているしかなかった。
――――――――――――――――――――――――――
『おはよう夏音ちゃん。ヤエのやつ、家の食材ぜんぶ腐らせたみたいでな。昼飯作ってやってくれないか?』
棟哉くんからのメッセージで目が覚めた。
……ああ、そういうことか――
『おはよう。おっけ! 任せて!』
反射的に返信したあと、頭痛がじわりと広がる。
「あれ……今なんて書いたっけ?」
『お、おう……あっさりOKされてビックリだわ。たい焼き奢るから、俺が頼んだってのは内緒な。よろしく』
……やってしまった。
寝起きの勢いで即承諾。
『あ、今日はヤエも連れてく。ちょっと遅れるから陽織ちゃんに伝えといてな』
「ちょ、ちょっと!? え!?」
さっきの夢――優斗が泣き出しそうになっていた場面と、いきなり一緒に料理する話が、頭の中でぐるぐる回る。
……でも承諾しちゃった以上、喜んでもらえるご飯を作るしかない。
「の、前に薬だね」
そう呟き、キッチンへ向かおうと立ち上がる。
あの夢……外から見たら、まるでヒオちゃんが優斗をいじめているみたいだった。
でも、ヒオちゃんがそんなことするはずない。
「いや、考えても仕方ない……とにかくご飯を――」
そう独り言をもらし、ドアを開けると――
「あら夏音ちゃん、おはよう。……もしかして、その“ご飯作る相手”って優斗君?」
陽子さんの笑顔に、背中が一瞬で固まった。
「お、おはようございます!? ち、違いますってば!」
「うんうん、そういうことにしておくわ~。じゃあ胃袋を掴む必殺レシピ、教えてあげる」
「え、いぶ……!? だから違――」
振り返ったときには、すでに陽子さんの姿は消えていた。
肩の力が抜け、ため息がこぼれる。
「……まあ、優斗が喜んでくれるなら……いっか」




