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季節の夢にみせられて  作者: ほたちまる
76/111

#76 気遣い

「はぁ……はぁ……ぼ、僕、は…………」


 ――火が、怖い。


 その言葉が脳裏をかすめた瞬間、全身の力が抜けて後ずさりし、何もない床に尻もちをついてしまった。


「うわっ……! いって……」


 立ち上がる気力も湧かず、床に手をついたまま息を荒げる。

 今回の件――夏音ひとりの命を救うために両腕を大怪我した。

 それだけで済んだのなら安い代償だと、ずっと思っていた。


 ……けれど、それは表に見える傷だけの話だった。


「手の震えが……動悸が……止まらない……」


 胸の奥を鷲掴みにされるような感覚と、指先のかすかな痺れ。

 視界の端には、あの赤く染まった空気と、皮膚を焦がす熱の記憶が何度も蘇る。

 ――目に見えない代償は、想像以上に深く、自分の中に刻み込まれていた。


「……っ、何とか……料理、だけでも……」


 震えを抑えるのに十分以上を費やし、ようやく立ち上がれたものの、火をつける気には到底なれなかった。

 仕方なくコンロを使う料理は諦め、用意していた野菜を皿に盛り、ドレッシングをかけるだけの簡単なサラダを作る。

 じゃがいもだけは生で食べる気になれず、ラップで包んで冷蔵庫に戻した。


「……見た目は悪いけど……まあ、食べられるか」


 椅子に腰を下ろし、もたれかかるように手を合わせる。


「いただきます……」


 口に運んだ野菜は予想以上に硬く、思った以上に噛み応えがあった。

 想像よりも腹に溜まっていく。

 いや――多分、食欲そのものが落ちているのだろう。

 結局、三分の一ほど食べたところで箸を置き、残りはタッパーに詰めて冷蔵庫へしまった。


 ――――――――――――――――――――――――――


「はぁ……」


 ……優斗、大丈夫かな。


 私は髪と体を洗い終え、浴槽に浸かりながら天井を見上げていた。

 やっぱり、病み上がりで一人にしておくのは良くなかっただろうか。


「でも……あたしが行ったら、またヒオちゃんとか棟哉くんに色々言われるし……」


 今はヒオちゃんの家で暮らしている。

 私が家を空ければすぐにバレるし、何も言わずに出れば心配をかけてしまう。

 そんなことを考えて、胸の奥がじわりと苛立つ。


 もちろん、ヒオちゃんも棟哉くんも悪くない。

 悪いのは、自分だ。

 優斗に近づくことを躊躇してしまう臆病さ。

 ヒオちゃんや棟哉くんに何か言われるのを避けたいという、自分勝手な気持ち。


「ああああぁ! もうっ!」


 浴槽の縁に肘をつき、頬杖をつきながら深く息を吐く。


 ……優斗、今何してるんだろう。


 ふと、そんなことが頭をよぎる。


『なっちゃん!? だいじょーぶ!?』


 脱衣所の外から、ドタドタと足音とともにヒオちゃんの声が飛んできた。


「ご、ごめん! 何でもない!」

『そ? じゃあゆっくりね~』

「あはは……もう、ヒオちゃんったら……」


 すっかりこの家に馴染んでいる様子に、思わず口元が緩む。

 他人の家なのに、ここまで自然体でいてくれるのは正直嬉しい。


「……優斗、大丈夫かな」


 今は考えても仕方ない。


 後で連絡してみよう――そう心に決めて、私は浴室を後にした。


 ――――――――――――――――――――――――――


「よし……あとは寝るだけだ」


 食事(と呼べるかは怪しいが)を終え、洗い物と入浴を済ませ、寝る準備を整える。

 お風呂では両腕の傷がしみたが、熱への恐怖は不思議と湧かなかった。


 布団に横になった瞬間、スマホが震える。

 画面には夏音からのメッセージ。


『やっほー優斗! もう寝ちゃったかな? 今日は久しぶりの学校だったけど体調はどう? 困ったことがあればすぐ言ってね! すぐ手伝いに行くから!』


 猫が胸を張るスタンプ付きだ。


「……なんか、過保護なお母さんみたいだな」


 微笑ましさと同時に、「生活で困ったこと」という言葉に視線が止まる。

 ――でも、生活の面倒を見てもらうわけにはいかない。


『ありがとう。特に生活面で困ってることはないよ』


 ほんの少し嘘を混ぜた返事を送ると、すぐに返信が届いた。


『そっか! 良かった! ただし! 少しでも問題があったらすぐ相談! 優斗は人の心配してる場合じゃないんだから!』


 ……まさか、気づいてる?


 少し胸がざわついたが、その気遣いに安堵しながら『わかった、ありがとう』と短く返す。


 考えるべきことはたくさんある。

 でも、それはまた明日、棟哉とも話しながら考えればいい。

 そう思った瞬間、意識はすぐに深い眠りへと落ちていった。

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