#76 気遣い
「はぁ……はぁ……ぼ、僕、は…………」
――火が、怖い。
その言葉が脳裏をかすめた瞬間、全身の力が抜けて後ずさりし、何もない床に尻もちをついてしまった。
「うわっ……! いって……」
立ち上がる気力も湧かず、床に手をついたまま息を荒げる。
今回の件――夏音ひとりの命を救うために両腕を大怪我した。
それだけで済んだのなら安い代償だと、ずっと思っていた。
……けれど、それは表に見える傷だけの話だった。
「手の震えが……動悸が……止まらない……」
胸の奥を鷲掴みにされるような感覚と、指先のかすかな痺れ。
視界の端には、あの赤く染まった空気と、皮膚を焦がす熱の記憶が何度も蘇る。
――目に見えない代償は、想像以上に深く、自分の中に刻み込まれていた。
「……っ、何とか……料理、だけでも……」
震えを抑えるのに十分以上を費やし、ようやく立ち上がれたものの、火をつける気には到底なれなかった。
仕方なくコンロを使う料理は諦め、用意していた野菜を皿に盛り、ドレッシングをかけるだけの簡単なサラダを作る。
じゃがいもだけは生で食べる気になれず、ラップで包んで冷蔵庫に戻した。
「……見た目は悪いけど……まあ、食べられるか」
椅子に腰を下ろし、もたれかかるように手を合わせる。
「いただきます……」
口に運んだ野菜は予想以上に硬く、思った以上に噛み応えがあった。
想像よりも腹に溜まっていく。
いや――多分、食欲そのものが落ちているのだろう。
結局、三分の一ほど食べたところで箸を置き、残りはタッパーに詰めて冷蔵庫へしまった。
――――――――――――――――――――――――――
「はぁ……」
……優斗、大丈夫かな。
私は髪と体を洗い終え、浴槽に浸かりながら天井を見上げていた。
やっぱり、病み上がりで一人にしておくのは良くなかっただろうか。
「でも……あたしが行ったら、またヒオちゃんとか棟哉くんに色々言われるし……」
今はヒオちゃんの家で暮らしている。
私が家を空ければすぐにバレるし、何も言わずに出れば心配をかけてしまう。
そんなことを考えて、胸の奥がじわりと苛立つ。
もちろん、ヒオちゃんも棟哉くんも悪くない。
悪いのは、自分だ。
優斗に近づくことを躊躇してしまう臆病さ。
ヒオちゃんや棟哉くんに何か言われるのを避けたいという、自分勝手な気持ち。
「ああああぁ! もうっ!」
浴槽の縁に肘をつき、頬杖をつきながら深く息を吐く。
……優斗、今何してるんだろう。
ふと、そんなことが頭をよぎる。
『なっちゃん!? だいじょーぶ!?』
脱衣所の外から、ドタドタと足音とともにヒオちゃんの声が飛んできた。
「ご、ごめん! 何でもない!」
『そ? じゃあゆっくりね~』
「あはは……もう、ヒオちゃんったら……」
すっかりこの家に馴染んでいる様子に、思わず口元が緩む。
他人の家なのに、ここまで自然体でいてくれるのは正直嬉しい。
「……優斗、大丈夫かな」
今は考えても仕方ない。
後で連絡してみよう――そう心に決めて、私は浴室を後にした。
――――――――――――――――――――――――――
「よし……あとは寝るだけだ」
食事(と呼べるかは怪しいが)を終え、洗い物と入浴を済ませ、寝る準備を整える。
お風呂では両腕の傷がしみたが、熱への恐怖は不思議と湧かなかった。
布団に横になった瞬間、スマホが震える。
画面には夏音からのメッセージ。
『やっほー優斗! もう寝ちゃったかな? 今日は久しぶりの学校だったけど体調はどう? 困ったことがあればすぐ言ってね! すぐ手伝いに行くから!』
猫が胸を張るスタンプ付きだ。
「……なんか、過保護なお母さんみたいだな」
微笑ましさと同時に、「生活で困ったこと」という言葉に視線が止まる。
――でも、生活の面倒を見てもらうわけにはいかない。
『ありがとう。特に生活面で困ってることはないよ』
ほんの少し嘘を混ぜた返事を送ると、すぐに返信が届いた。
『そっか! 良かった! ただし! 少しでも問題があったらすぐ相談! 優斗は人の心配してる場合じゃないんだから!』
……まさか、気づいてる?
少し胸がざわついたが、その気遣いに安堵しながら『わかった、ありがとう』と短く返す。
考えるべきことはたくさんある。
でも、それはまた明日、棟哉とも話しながら考えればいい。
そう思った瞬間、意識はすぐに深い眠りへと落ちていった。




