#69 心の変化
ぼんやりと霞がかった意識の中、夏音が僕の正面に立っていた。
なぜか体は熱を帯び、胸の奥がじんわりと締め付けられるように苦しい。
僕たちは何かを話している――けれど、声は遠く、水の中で聞くようにくぐもっていて、言葉の意味までは届かない。
それでも口は勝手に動き、会話を続けている。
次の瞬間、夢の中の僕は夏音の腰へそっと右手を回し、静かに引き寄せた。
夏音は一瞬だけ目を見開いたが、すぐに頬を染め、柔らかく笑みを浮かべる。
――なぜ、こんなことをして喜ばれるのか。
普段の僕なら疑問に思うはずなのに、夢の中の僕は何のためらいもなく、その表情を見つめていた。
そして彼女は唇をわずかに震わせ、一言だけ呟く。
その意味を知る間もなく、僕はさらに腕に力を込め、左手で髪に触れ――そのまま彼女の――
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「って、なんて夢を見てるんだ僕はァ!?」
心臓が跳ねるように脈打ち、一気に目が覚めた。
シーツを跳ね飛ばし、勢いよく上体を起こすと、額には薄い汗が滲んでいる。
もしこの心拍数をモニターで見られていたら、間違いなく看護師さんが駆けつけてきただろう。
時計を見ると、まだ朝の5時過ぎ。
退院予定の日とはいえ、予定よりずっと早い。
「……夢の中だからって、やっていいことと悪いことがあるだろ……」
そう自分に言い聞かせつつ、ベッドにもう一度横になる。
「はあぁ……」
つい溜め息が漏れる。
――もし、本当にあんなことをしたら、夏音はどう思うだろうか。
驚いた後に、少し照れて笑ってくれた……あの表情は確かに良かった。
でも現実でやったら……良くて引かれて、悪くすれば拒絶されるかもしれない。
「……いや、夏音なら拒絶は……しないかな……いやいやいや!」
頭を振って妄想を追い出し、時計を見る。
「全然時間経ってない……暑いし、少し外でも歩くか」
そう呟き、病室のドアを静かに開ける。
「おや、随分早いね。おはよう、優斗くん」
「あ……おはようございます、先生。先生も早いですね!」
そこにいたのは、いつも僕を診てくれる担当医だった。私服姿を見るのは珍しい。
「まぁ、一応院長だからね。――ところで、今日で退院だって? 彼女さんのためとはいえ――」
「ち、違います! 夏音は彼女じゃ――むぐっ!?」
思わず声を張り上げた瞬間、先生がやんわりと僕の口を塞ぐ。
「病院では静かに……ね?」
「……す、すみません……」
「とにかく、夏音さんのためでも無理は禁物。しばらくは安静に」
そう言い直してくれたのが、妙にありがたくて、でも同時に恥ずかしかった。
「は、はい……」
「なるべく、もうここに戻ってこないようにね。それじゃ」
「今日までありがとうございました!」
僕の声に、先生は笑って人差し指を唇に当てる。
その意味を悟って顔を赤くし、ペコペコと頭を下げながら見送った。
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「ん……ふぁ……」
目を覚ますと、時計は6時を少し回ったところ。
たぶん、楽しみすぎて早く起きてしまったのだろう。
「今日も……何も、ない……かな」
最近は夢を見ていない――いや、最後に見た夢を思い出すと、途端に心臓が早くなる。
「……なんで、あんな夢……」
優斗の熱のこもった視線、その後の行動まで、妙に鮮明に覚えている。
でもあれは予知夢じゃないはず。
頭が痛かったのは……ただの怪我のせいだ。
「……やめよう、考えるの」
もし現実になったら、拒むのか、受け入れるのか。
答えが出ないまま考えても、不安になるだけだった。
「んーーー! ……ふぅ」
伸びをして気持ちを切り替え、制服を用意する。
もうヒオちゃんの制服も揃って、貸し借りしなくてよくなった。
「あの時は体操着で一日過ごしたなぁ……」
着替えを終えて鏡の前に立ち、前髪を整える。
「……男の子ってもうちょっと足見せた方が好きなのかな……?」
ふと、スカートの裾を少しだけ短くしてみる――が、すぐに元に戻した。
「やっぱり恥ずかしい……」
もうこれでいい! 大丈夫!
いや、何やってるんだろあたし……。
そんな自分に苦笑しつつ、朝から妙に疲れた気分になるのだった。




