#60 夏音の事が
「やっほー! 今日も来たよ~」
あれから夏音は、ほとんど毎日のように病室へ顔を出してくれる。
「あはは……よく飽きないね」
「飽きるわけないでしょ! あたしが来たいから来てるんだもん。……それでね――」
学校での出来事や、棟哉と詩乃、天名たちの近況。
面白かったことや、ちょっと腹の立ったこと。
あの事件のことは表沙汰にならなかったせいで、変な噂も広がらなかったらしい。
岡崎はというと、事件以来まるで別人のように真面目に授業を受けているそうだ。
「まあ……後ろの席が空いてるおかげで、ぐっすり寝られるけどね」
そう冗談めかして話したときだけ、夏音は少しだけ寂しそうに笑った。
――その表情を見た瞬間、胸が締めつけられる。
火事の後遺症でも発作でもない。
ただ、彼女がそんな顔をしているのを見るのが、どうしようもなくつらかった。
寂しそうにさせてしまった罪悪感。
その顔すら可愛いと思ってしまう自分への戸惑い。
もう二度と悲しませたくないという、漠然とした決意。
理由はわからない。
でも、夏音のことを、命をかけても守りたいと本気で思っている自分が確かにいる。
「どうしたの……? さっきの、ちょっとデリカシーなかった?」
僕が黙り込んでいると、夏音は首を傾げて、下からのぞき込むように覗いてきた。
「ううん、なんでもないよ。ただの考え事」
この感情を言葉にして伝えたら、きっと引かれてしまう。
だから胸の奥に押し込めて、僕は笑ってみせた。
「そっか……じゃあ、プリント片付けちゃおっか!」
それからは、他愛もない会話を交わしながら、夏音と一緒に課題を進めた。
「あはは! なにこの字! いつも綺麗なのに!」
「うるさいな、仕方ないでしょ!?」
笑い声が交じり合って、時間はあっという間に過ぎる。
気づけば窓の外は茜色に染まり始めていた。
「あ、そろそろ帰らなきゃ……ヒオちゃん心配しちゃうし」
「ぁ…………」
――もっと一緒にいたい、帰らないで欲しい。
そんな言葉が喉まで出かかる。
「ん? どうしたの? 話し足りないなら、もうちょっといようか?」
夕陽を浴びて輝く黒髪。
優しく笑むその顔を見たら、余計に言えなくなった。
「いや、天名に悪いし。大丈夫。またね」
震える手で手を振ると、夏音はふわりとネクタイを揺らしながら立ち上がる。
「うん! また明日も来るから! またね!」
ドアが閉まる直前まで、笑顔で手を振ってくれる夏音。
そして訪れるのは、一人きりの夜。
切なく、寂しい夜。
胸がまた締めつけられる。
――もしかして、僕は夏音のことが。
そんな考えが浮かんだ瞬間、ドアがノックと共に開いた。
「よ、調子はどうだ、ヤエ」
「こんばんはです、ヤエ先輩」
水津木兄妹の顔がのぞく。
思わず身体が跳ねた。
「ふ、二人とも!? どうしたの!?」
「俺は松葉杖を返しに」
「私は付き添いです」
なぜか心臓が早鐘を打ち、謎の焦りが込み上げる。
「夏音ちゃんとすれ違ったけど、何かあったのか? お前、胸押さえてるし」
「胸……ッ!?」
言われて初めて、自分が無意識に胸のあたりを押さえていたことに気づく。
「なんでもないってば。夏音とは……その」
「……とは?」
「いいから! 僕のことは気にしないで!?」
顔が熱くなるのを感じながら、僕は苦笑いでごまかした。
「詩乃、その辺にしてやれ。ほらヤエ、これ差し入れだ」
棟哉がバッグをテーブルに置く。
「それは?」
「ふりかけとか佃煮とか、味変用の調味料だ」
「……本当に!? 助かるよ!!」
病院食の淡白さに、少し飽きがきていたところだった。
「(病院の飯って味気ないからな。好きに使え)」
「私のおすすめはこれで――」
本当に僕は、恵まれている。
今夜はきっと、温かい気持ちで眠れるだろう。




